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【知って得する平安豆知識】平安時代の葬送儀礼について
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かしまし歴史チャンネル
Күн бұрын
Пікірлер: 148
@秋山秀充
7 ай бұрын
凄いインパクトあるネーミングですね、「遺棄葬」。始めて聞いた言葉です。要するに庶民は死んだら「生ゴミ」扱いで墓もなかったんですね。藤原氏の墓所すら木の卒塔婆のみだったとわ…。「焼き」が坊主の腕の見せどころと云うのも面白いw 「行障」、これも始めて聞いた言葉です。このチャンネルは勉強になるわ😊
@kokemomo_kokechannel
7 ай бұрын
チベットに行った時に鳥葬の場所をみました。 向こうでは鳥葬されると、自分の魂を高いところまで連れて行ってくれるので、最も尊い埋葬方法だそうです。
@saya-rc2rl
7 ай бұрын
雅な時代の表裏として、面白いトピックですね。ありがとうございます!前回の放送で、貴子さんが亡くなった時に、定子や道長が、グレーの喪服のような装いでした。通過儀礼の装束が見れたのも、興味深かったです😌
@人間まひろ
7 ай бұрын
そう言えば鈍色って今言わないですねぇ 日本の色の言い方って素敵なんか素敵なのに勿体ないなぁ
@moe25nama
7 ай бұрын
@@人間まひろ 鈍色(にびいろ)と言うのですね!平成生まれなもので、、初めて聞きました💦 きっと他にも知らない色の言い方があるのでしょうね。日本人なのに恥ずかしいです
@まこと藤村
7 ай бұрын
「あさきゆめみし」では藤衣、藤袴と表現されていました。ふじごろも ふじばかま
@yngkz23
7 ай бұрын
今制作中のアニメ映画「つるばみ色のなぎこ」でいうとこの「つるばみ色」かと思っていました。
@tarutaruriril2582
7 ай бұрын
きりゅうさんの博識には毎回驚かされますが、うっかり回もあるなんて‼️ 見ないという選択肢はないですね。 早速探してみます☺️
@kazshige-uz1vr
7 ай бұрын
短時間で盛り沢山の情報をありがとうございました。鎌倉殿の13人で頼朝さまの葬儀準備をわちゃわちゃしていたシーンを思い出しました。都と地方で、また身分により葬儀も様々だったのですね。次回の投稿も楽しみにしています。
@user-ie3hi2bp4iak
7 ай бұрын
今の常識にある意味囚われている自分を発見!時代を知る事で大切な意味を改めて考えさせられました。ドラマを飛び出しての衝撃でした。より深いものを感じました。
@カルダモン-e9c
7 ай бұрын
喪服って黒か白だと思ってたのですが、調べたら習俗的には鈍色だったと。今週の大河も興味深い回でした。 余談ですが、初代ポケモンの街名は日本の伝統色です。ニビシティとか。かなり渋いですよね😂
@9522miko
7 ай бұрын
平安時代の葬送儀礼を取り上げて、分かりやすく解説して下さるきりゅうさんの知識量は素晴らしいです👏👏👏 いつもお勉強になります🎵
@エルちゃん-f2c
7 ай бұрын
今回もわかりやすい解説ありがとうございました🙏❣️ 葬儀やお墓についてなど、当時の人の気持ちや考えが見えて来ますね。 ラットちゃんと同じく、鳥葬のやり方に少々ショックでした。そのような弔い方があるのは知ってはいたものの‥なかなかですね😮💦
@mark-pf8yz
7 ай бұрын
観光客で賑わう京都清水寺の参道から外れた辺りが鳥辺野の地で民衆の死体置き場だったんですよね。 その名残からか今でもお墓がたくさんありますが。
@syan5844
7 ай бұрын
鳥葬と遺棄葬の違い よく分かりました 鳥葬って鳥が多い所に放置して終わりだと思っていたら違うんですね😅 深いわ〜 そして今回もきりゅうさんの平安時代の葬儀まで知識があるなんて感心させられました👏 また次回も楽しみにしております❤
@namo-xw5hb
7 ай бұрын
リアルまひろの母です。 今回のお話、とっても興味深く面白かったです。 きりゅうさんの溢れる知識に、もう釘付けでした。 そうだったんですね、上流貴族も火葬して埋めて今の墓石みたいのはなかったから、歴史上有名人であっても埋められた所が特定できずに現代に至ったんですね。 なぜ道長とか貴族のお墓が、ないのか疑問に思っていたのですが、納得しました❤ 大学生の頃、日本史特講で菩提寺で一番古い墓石の年代を調べる宿題がありました。 その時、長野県某市真田幸村縁のお寺では、織田信長の時代の物が一番古かったです。 平安京の中にお墓作ってはいけないということも知りませんでした。 鳥葬の方法も全く知らなかったし、専門職の方もいるなんて〜 その時代にまるで生きていたかのようなきりゅうさんのお話は、とても面白くて、3回は見直しして感心してます🎉 これからも面白いお話をお願いします❤
@madame_yon
7 ай бұрын
最後のコメントのくだり、やっぱ、くーさんオモロイわぁ😂。毎回、楽しみにしてます‼️
@小坂部菊江
7 ай бұрын
😮葬儀は、私は、知らなかったです。もちろんのことわかりやすくて良かったー。ためになりますし、勉強になった。😊
@森野さなぎ
7 ай бұрын
平安時代にどんどん簡素な葬儀になるあたり、「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」という歌詞を思い出しました。祖母が数年前亡くなり、納骨したのですが、我が家の墓は、骨を箱から出して直接土の上に撒く形式だったためビックリしました。骨は一人ずつ分けることもなく、ご先祖様とミックスされるので、「(仲の悪い夫や姑と)一緒のお墓に入りたくないってこういうことか!」と妙に納得しました。いつか土に還るだろうから、山に撒くのと大差ないのかもしれません。
@野村香織-y7c
7 ай бұрын
鎌倉殿の13人、懐かしいですね❤ きりゅうさん私も覚えているよ😂
@uedasimoda
7 ай бұрын
死生観を具体的に感じられてすごく面白かったです!なるほどなぁと何か清々しい気持ちにさえなりました。
@やまがラ
7 ай бұрын
とても興味深かったです 弔いの形も意識も、現代まで多くの変遷があったのですね😮 平安時代の亡骸に対する意識が今と程遠く、びっくりです、すごく避けていたのですね 古墳時代の墓碑が出土したらワクワクものですが、平安時代では望めないとは…
@kk-uc4wt
7 ай бұрын
時代が違うと死生観も違いますね🤔 うっかり火葬エピソードが 描かれるのか気になります笑
@savagebear2610
7 ай бұрын
しばらく気になっていた平安時代の葬送儀礼。解説ありがとうございます!
@kashimashi_rekishi_ch
7 ай бұрын
いつもありがとうございます。
@デレ爺
7 ай бұрын
歴史にあまり関心の無かった私が、『どうする家康』を見始めた頃からのチャンネル初心者で、改めて知る歴史に自身の無知と面白さに楽しく拝見しております。 今回の平安時代の葬送儀礼について気になった点が有り、コメントさせていただきます。 当時の儀礼としては現代の様に何度も法事はせず、四十九日と一回忌程度との事でしたが、現代では一周忌の翌年が三回忌なので、逆算すると一回忌は葬儀だと思っていますが、当時が年忌が一回という事なのか、私の認識違いなのかモヤモヤしてますのでスッキリさせていただけると幸いです。 今後も『光る君へ』の雅なだけの世界ではない歴史解説を楽しみにしております。
@きちぽん-t1e
7 ай бұрын
まひろと道長の思い出の廃屋にも死体がたくさん転がっているのかと想像してしまいました。 10年経過しても床も抜けてないので、こっそり道長が手入れしてるのかもしれませんね。
@水月狂華
7 ай бұрын
今回も解説ありがとうございます。 お弔いのお作法の変遷の歴史、なかなか興味深いですね。 鳥葬、私も野生の鳥に食われるものだと思ってました、その方が捨身の考えから「らしい」気がして。 鎌倉殿での「燃え残っては困るのだが」に当時様々に憶測が有りましたが、貴重な薪と火葬職人の事を考えると、含みの無い当然の心配だったんだなぁと。
@鳥井広子
7 ай бұрын
ラットさんが言うように、法要は常日頃個人で供養しているから、一周忌とかせいぜい三回忌くらいまで区切りをつけてもいいような気がしました。 いつも勉強になります。
@giantszero6962
7 ай бұрын
栄華を極めた平安貴族といえども大きな墓は作らなかったことが意外だ。 死者を弔うのではなく死を忌避するという発想だよな。
@Lily-cr4pp
7 ай бұрын
オドロオドロ恐ろしいお話から始まり怖かったぁ衝撃😵💫😵💫😵💫ラットさんくぅ〜さんの、仰け反り表情に同感。
@kein4804
7 ай бұрын
明治以降の皇室は土葬ですが、上皇上皇后両陛下は火葬を御希望らしいですね。 天皇の墓所は仏塔や御陵、火葬と土葬、仏式と神道式が入り乱れてて非常に興味深いです。
@馬の骨塞翁
7 ай бұрын
勉強になりました。 自治会の墓地管理や墓じまいで悩み中。平安貴族と違って人手も金もない私は、(衛生面では疫病とか増えそうだが)風葬・遺棄葬文化の方が楽だし、文化復活してくれないかなと思ってしまうw
@はな-j5g8d
7 ай бұрын
謎だらけの平安時代のお話、いつも勉強になります😊
@anachos
7 ай бұрын
埋葬方法でちょいちょいラットさんと、く〜さんがのけぞってる様子が面白かった。鳥葬はぞっとしますね😮
@rough-o9d
7 ай бұрын
くーさんが話していたきりゅうさんおポンチエピソード早速見ました❤
@yossy78
7 ай бұрын
いろいろ初耳でびっくりです😰
@こま-h5u
7 ай бұрын
きりゅうさん、卒塔婆の話をされてましたが、現代では卒塔婆を印刷するプリンターがあるんですよね😅
@人間まひろ
7 ай бұрын
見たことあります なかなかのシュールさ
@izuka2959
7 ай бұрын
義時のお墓、私も同じ間違いをし(行ったのは20年くらい前ですが)例の動画で間違いだったと知りました😂
@ももももも-b5x
7 ай бұрын
以前きりゅうさんが義時の墓を探しに法華堂へ行って間違えて大江広元の墓参りをした動画を思い出しました😅 直秀達が鳥辺野で遺棄された時に 身分の低い人だから遺体を放置されてしまうのだと思っていましたが、 一般貴族も火葬された後に埋められるだけで、墓石はなかったのですね いつ頃から庶民も墓石を作り墓参りの習慣になるのでしょうか?
@さかな-c4x
7 ай бұрын
春日大社にも、平等院にも行きましたが、道長の墓所って行ってないと、気づきました。談山神社は鎌足公の墓所ですよね。 ドラマの中で、喪の鈍色はこんな色なのだと、私も興味深かったです。今回もお話面白かったです。次は中国史、宋や女真との関わりについて、解説して頂けませんでしょうか
@まこと藤村
7 ай бұрын
深い内容です😮。大陸は土地が広いから土葬、日本は狭いから骨だけにして……かと思ってました
@とらねこ-v3h
7 ай бұрын
言われてみれば、火葬は生ゴミを焼くようなものなので、結構パワーがいるんだよね。
@sS000
7 ай бұрын
鳥辺野はそのあたりに鳥がたくさん飛んでたから名付けられたらしいですね。もちろんカナリヤや十姉妹ではなく、捨てられた遺体の肉をつつくカラスやトンビが飛んでたんですけど。
@3kei575
7 ай бұрын
木幡、六地蔵エリアって明るいイメージはなかったけど、そういうエリアだったんですね。 最近の木幡といえば、京アニ事件
@竹下代志子
7 ай бұрын
鳥葬ではコンドルとかが食べる、とバックパッカーだった知人が言ってるのを思い出しました😮
@meko5413
7 ай бұрын
平安時代では貴族の御仁も、貴族の子供も、一般市民も、鳥辺野に捨て置くとは意外でした! 死に場所が公平なのは一般市民の溜飲を下げる要因にはなるでしょうね・・・
@masa-ox5gi
7 ай бұрын
ラットちゃんも、クーさんもスーッと引いているのにきりゅう先生は楽しそう(見えた)に鳥葬の話しをしているのがなんか怖かった。知識があるからどこかの教授やドクターみたいにデータの解析をラットちゃんやクーさんに分かる様に喋っているのは分かるけど!
@ayosikawa9999
7 ай бұрын
藤原家はふんわりした、合祀墓、合同墓みたいな感じだったのですね。 藤原氏であれば、どんな末端であっても小幡に葬ってもらえたのでしょうか。 この頃、藤原の一族、というのはどの辺りまで認知されていたのでしょう。基準になるものは何かあったのでしょうか。 家系図を作っていたりしたのでしょうか。
@tianon9692
7 ай бұрын
チベットの鳥葬、大きな石でご遺体を打ち砕いて鳥が食べやすくするんですよね。 モザイク入りだったけど、昔はこういう風景もテレビで放送されていました。
@みかみかみかの-e9t
7 ай бұрын
きりゅうさんの穏やかな口調と、ラットちゃんの可愛い口調とクーさんの緩やかな口調を聞くと、心が落ち着きます。 日々の癒しです…。 例え、葬送の話でも…😆
@くぬぎさんか
7 ай бұрын
きりゅうさんさすがですね博識でいらっしゃる!!たくさん勉強になりました!紫式部やとなりになる小野篁のお墓は後からできたってことになるのですかね?どこかでお話ししていたらごめんなさい!!
@laughingswordfish3665
7 ай бұрын
KZbinの焼く係の方についての解説動画によりますと、男女(女性の方が生物的に脂肪が多め。)や体格・年齢などを考慮して のぞき窓から中を見ながら職人芸で火力を調節して綺麗にお骨が残るようにしているそうです。 平安時代のお弔い事情を考えると今の時代に生まれて良かったと思います。さすがに屋外に放置は悲しすぎます…
@einheldenleben
7 ай бұрын
近代的な火葬場の裏に回ってコンピューター制御しているらしい装置を見たことがあります。タッチ式の操作パネルに「人体」という項目があるのが目に入って衝撃的でした! そこで業務を行っている方も当然いらっしゃるわけで、毎日物凄いプレッシャーだろうと想像していたのですが、お見受けするところ淡々とお仕事をされていました。
@izumigonoi1755
7 ай бұрын
野辺での火葬を父方の祖父で経験しました。と言っても子供は同行を許されず、火葬の様子は父から聞きました。 火葬の時間は半日ほど、だいたいが夕方から明け方まで。薪を組み上げ台座にし、その上に棺、さらに大量の藁を被せて火を点けたそうです。 きりゅうさんがおっしゃっていた「時々遺体をひっくり返す」ですが、これあったんですって。ただ「ひっくり返す」のは深夜に一度だけ、やるのは故人と一番近い血縁の男子。 父曰く「どこも皆嫌がってた」そうで、「火の中で上半身を起こしてゆらゆら揺れてる」身内を、太い松の枝を使ってひっくり返すなんて、二度とやりたくない、と言っていました。 因みに、この時の父は麻の裃に本身の脇差を帯び、足下は裸足に草鞋。額紙(ヒタイガミ)と言う三角の紙に卍を書いた物を額に付けていました。 頃は昭和40年代、場所は福島県会津地方。昔々のお話です。
@kashimashi_rekishi_ch
7 ай бұрын
貴重なお話ありがとうございます!
@kenhisayosi
7 ай бұрын
今日も分かり易い解説ありがとうございます🤗昔からの弔い方の変遷を詳しく解説してくれてよくわかりました😁 私もこの5月に母が亡くなってドタバタしてたのを思い出し道長さんのついうっかりというのがよくわかります。
@清水寛美
7 ай бұрын
うっかりも含めて学びありがとうございました🙇
@三月-d7p
7 ай бұрын
なかなかこのような事 聞くことないのでありがとうございました。 いったいいつから白衣装から黒に変わったのかしら?
@なゆた-u7k
7 ай бұрын
映画『つるばみ色のなぎ子たち』楽しみですね。 平安京における貴人の死と民草の死を書いた名作になると思います。 化野、船岡山、鳥辺野の流行の変遷を知りたいですね。
@gone5018
7 ай бұрын
鳥葬🦜の食べやすい様に整えるが、衝撃でした😅 首都圏の山奥ですが、数十年前に祖父が亡くなった時は土葬でしたが、その数年後の祖母は火葬でした。父曰く法律?条例?が、変わったから、土葬ができなくなったと言ってたのを思い出しました
@ポムポム-c5y
7 ай бұрын
きりゅうさん、大河ドラマ化されなさそうな、ヒミコの時代の『魏志倭人伝』の中国語での読み聞かせ動画を作って欲しいです。
@人間まひろ
7 ай бұрын
定子中宮が亡くなった時の一条天皇の詠を是非紹介して頂きたいなぁ まだ21歳位ですよね一条天皇 清少納言はお墓の側で暮らしたと聞きました その辺のお話も聞けると良いなぁ
@reonanatk
7 ай бұрын
子どもの埋葬の話で… 山口県の岩国城の近くにある岩国藩主吉川家の墓所では、大人よりも子どものお墓の数が多いです。年齢も6歳ぐらいでで、中でも一番多いのが3歳ぐらい… ボコスカ死んでたって平安時代も同じだったんですねぇ😮
@peony48G
7 ай бұрын
49日で区切りはありがたいです
@Orangepeel-v1o
7 ай бұрын
鳥葬は鳥が食べやすいように、火葬は焼き加減の技術が… 葬式って…大変すぎる…。
@norawm
7 ай бұрын
なんか『卒塔婆小町』を思い出しながら聴いちゃいました。ずっと後になって作られたフィクションだけど、お墓を舞台にしているお話だから。庶民なら卒塔婆もあるだけまだましだったのかしら。
@user-number_929
7 ай бұрын
平安時代の寿命について、天皇、貴族、庶民.. もっと詳しく知りたいです。お願いします🤲✨
@ケンケン-g8g
7 ай бұрын
古墳全盛の時代から⇒古墳が廃れていくと、やがて「この古墳ってどなたが埋葬されているんだっけ❓」となったと聞きましたが、(火葬+山稜形式)の場合も荒れるにまかせた場合もあり!とのことですが~「どの天皇のお墓」の識別・認識はあったのでしょうか❓伊周が父道隆の墓所の位置が分からなかった?お話からすると、天皇家とはいえ若干心配ですね💦 庶民が放置葬から土葬形式に移行した時期はいつ頃のことなんだろうか❓現代(此処百年くらい?)はお墓に特別の思い入れを込めて祀りますが、維持管理も大変+諸事情から⇒「墓じまい」の傾向が出てきていますね・・・昔は「お墓」そのものにはあまり執着しない感覚だったのですね❗【石の卒塔婆が一基だけ】~まさに今の「〇〇家先祖累代之墓」みたいですね😅そして「石の卒塔婆=墓石の元」&「貴族でも七歳以下の子供は火葬をしない・葬儀もしない」~勉強になりました❗
@米田稔-b7c
7 ай бұрын
千本通ことが、浮かんできました。
@りんどう-i7u
7 ай бұрын
古事記を編纂した太安万侶の墓が見つかった時は、銅板製の墓誌が見つかってその墓誌に名前、位階や住所亡くなった日付が刻まれていたとか。こういう金属製の墓誌を皆さんお墓に入れといてくださると特定できてありがいたんですけどねぇ!
@hachihachi5805
7 ай бұрын
今ある歴代の陵墓は、誰が作ったんですかね? 本物もあれば供養塔の様な役割をしてるのもあるって事ですよね? まとめられてる陵墓もありますよね あれは、後から宮内庁が作ったんですかね? いつか、歴代の天皇の陵墓を全部訪れたいと思ってます。
@ka-ro5ip
7 ай бұрын
「土壁の横線が多いほど位が高いんだよ」と京都旅行に行ったときにタクシーの運転手さんから説明されました。 それで壁の線はいつ頃始まって、何パターンあるんでしょうか? 鳥葬のお話、興味深かったです😅
@kashimashi_rekishi_ch
7 ай бұрын
筋塀といって、5本が最高位、下は3本まであります。
@ka-ro5ip
7 ай бұрын
@@kashimashi_rekishi_ch ご回答ありがとうございます
@pori-corr
7 ай бұрын
7歳までは神の内って当時から言われてたんかな
@takajoe_._.1991
7 ай бұрын
木幡の宇治陵、大小の御陵が点在している住宅地に住んでいます。 藤原氏から入内した女性たちも埋葬されていることから宇治陵は宮内庁の管轄です。どなたが何処にとはわからないので、もしかして大河ドラマに出てくる方々が自宅裏に埋葬されているかもしれないという(笑 話は変わりますが、50年程前の滋賀の田舎で土葬に立ち会ったことがあります。時代劇で観た棺桶でした。それを白い裃を着た親族の男性が担いでお墓まで行列して田んぼの畦道を歩いて行きました。50年前とはいえ火葬が当たり前だったので驚きました。
@須藤凜々花が好き
7 ай бұрын
チベットでの鳥葬(天葬)の動画をみると これは宗教的な意味より遺体処理なんでしょうね ハゲワシが徹底的に食べてくれるので仕事がスムーズにすすむという感じか
@michiko4309
7 ай бұрын
ちょうど平安時代の風葬、気になってました😳 梅田のグラングリーン大阪の建設が始まった当初 1500体以上の人の骨が出てきたとか😱江戸時代の庶民の人の達なのでしょう😭土葬だから156年以上経っても遺骨が残ってるんでしょうか?
@yumi.k415
7 ай бұрын
故人の霊が戻ってこないようにわざわざ壁を壊して直すとは、よっぽど戻ってきて欲しくなかったんですね。 毎年お盆にお迎えしている現代とは正反対に思いますが、いつからどうして変わったのでしょうか?
@寺本哲あきら
7 ай бұрын
自分の祖父は墓地の片隅の穴の中で火葬しました。 火葬するところは覚えてないですがお花を散らして横たえられる祖父の姿は覚えてます。その後のお葬式では公営の火葬場で行ってたので最後の風習の景色だったようです。 昭和50年に入るかどうかくらいの時でした。三重県のいなかでしたので 塩辛いお吸い物と大きな葬式饅頭が出ます。
@user-さわ
7 ай бұрын
同じく三重県の田舎出身です。 祖父の遺体は山の中にある火葬場で焼きました。 釜が小さいので、寝る棺ではなく、座棺です。 大柄な人の場合、フタが閉まらないから、首をバキッとやるそうです。 燃やすのは薪で、火は遺族がつけます。 係員などはいません。 子どもの頃は近所で葬儀があると、「今日は火葬だから、外で遊ぶな」と言われました(焼いている灰が飛んでくるから)。 翌日、また山の火葬場に向かい、御骨拾いをしました。 昭和50年代か60年代です。 まさか似た経験をされている方がいらっしゃるとは😲 しかも同じ県で😅
@あるるるる-s2m
7 ай бұрын
土塀を壊して柩を出してすぐ直す! …身内の霊が戻って来るのもダメなんだ。 今だと「幽霊でもいいから帰っておいで〜」と思ったりするのにね。身内(友達やペットも)の霊なら、怖くないし。
@氷llの姿
7 ай бұрын
ハイパーハードボイルドグルメリポートという番組でネパールの火葬師の仕事が出てくるんですが、燃えてきた遺体をバッキバキ折って灰にしていたのは衝撃でした… 普通の炎で御骨や灰にするのは大変だろうなぁ
@クロネ子-w3r
7 ай бұрын
高階ママが亡くなって、定子や清少納言、道長が着ていた喪服の色はなんという色ですか?黒じゃないし、グレーでもないし。。。
@カラーセラピスト野川明美
7 ай бұрын
鈍色ですね。
@カラーセラピスト野川明美
7 ай бұрын
読み方は、にびいろ
@クロネ子-w3r
7 ай бұрын
ありがとうございます。奥ゆかしい、趣のある色だと思いました。@@カラーセラピスト野川明美
@とらねこ-v3h
7 ай бұрын
遺体と3年・・・一週間でもきついのに。しかも腐るよねぇ。😣
@jupiter-xf2lj
7 ай бұрын
そんなモンハンのこんがり肉みたいな…
@savagebear2610
7 ай бұрын
木幡に道長や紫式部の骨が埋められたのですね?今は住宅や畑になっちゃったのかな?
@user-さわ
7 ай бұрын
紫式部のお墓は、小野篁のお墓の隣ですよね
@すなこ-h1e
7 ай бұрын
@@user-さわアレは後世の人が作ったお墓では?小野篁の墓の隣りに。
@user-さわ
7 ай бұрын
@@すなこ-h1e はい、そうです。 小説を書いた、つまり嘘をたくさんついたことで地獄に堕ちてしまっては気の毒だということで、閻魔様に顔が利く小野篁のお墓と並べたそうですね。 それでも「雨月物語」では地獄に堕ちたと書かれている紫式部。 当時は真実でないことを記すことが忌避すべきことだったのでしょうね。 そう言いながら、きっと正史とされている史書の数々は勝者に都合よく書かれていたはずだけど💦
@kanna9830
7 ай бұрын
今はセレモニーホールで葬儀をすることが多くなり家で葬儀を行うことがなくなってきましたが、私が住んでるあたりでは家で葬儀をした場合、玄関ではなく縁側とかから棺を運び出していました。(←これは日本どこへ行っても同じですか?)貴族が家の門を通さずに塀を壊して棺を通したお話を聞いて、昔からしていたことなんだなと思いました。
@yngkz23
7 ай бұрын
そういえばうちの田舎でも縁側から出していました。単純に座敷からすぐに出すためかと思っていたのですが。
@たんたんちゃん
7 ай бұрын
義時は、頼朝が亡くなった時火葬に必要なだけの木材が用意できるかどうかと心配してましたね。
@イルちゃん-o6j
7 ай бұрын
定子さん土葬なんですか! 源氏物語でみんな和歌で煙になってるので、貴族は火葬なんだと思ってました!
@きよみ-o1y
7 ай бұрын
以前に、きりゅうさんが平安の埋葬についてお話されていたこともあり、ご遺体を放置する時代ということは知っていましたが、生きている時は雅ですが亡くなってしまったらそんな扱いかと思うと悲しくなります。お墓参りの風習はなかったとの事なので、「お盆」の風習もなかったのでしょうか?「お盆やお彼岸亅等の風習はいつ頃から始まったのでしょう?
@sS000
7 ай бұрын
高階貴子が亡くなって道長が弔問に行ったとき、定子も清少納言も左前ではなかったですね。そういう習慣はまだこのころは無かった?
@奥西知子-i2d
7 ай бұрын
沖縄のガマに入ったことがあり、風葬された人骨を見たことがあります この頃は一般人はガマに入れないので、今思うと貴重な経験をしました つい昨年ハイキングで鳥辺野周辺を歩きました 今もお寺や墓地の多いエリアです 火葬って僧侶自身が行なってたんですね ちょっとびっくりです 死穢に触れてはいけないタブーは天皇自身には今もありますよね?昭和天皇が亡くなったとき、天皇は身内の葬儀に出られないと知って非常に驚きましたが、そういうことだったんですね 木幡の浄妙寺は母の実家の近所ですが、藤原家の菩提寺てホンマ?と思うほど地味な寺です それと道長が建立した法成寺跡にある京都府立〇〇高校に勤めてたので、毎日のように石碑を見てました 隠してもきりゅうさんにはバレるでしょうが(笑)ジュリー、山本富士子、田宮二郎、上村淳史などを輩出した名門校です 大河ドラマ「八重の桜」とゆかりが深くあの一年は紀行のロケが来たり大騒動でした 廬山寺も近いけど新島襄旧邸も近いところです ちなみに巨大な明治天皇陵の中にある桃山小学校の卒業生、校歌の始まりが「明治の帝とこしえにしずまりたもうみささぎの〜」でした
@甲斐恵-b5f
7 ай бұрын
色んな考えの天皇がいらっしゃったんですね😅
@佐々木憲世-h1v
7 ай бұрын
ふと思ったのですが、死=穢れ の場合臨終を迎える場はどうなるんでしょう・・ 今わの際には、自宅から出てそこで死ぬことになる、、のかそれとも「家の主」はそこで死んでから 外に出されるのか・・・??? 特に帝の場合は、内裏の中で亡くなると内裏が死穢に汚れるということはないんでしょうか。 そして、喪についても詳しく知りたいです! 今でも忌引きは近しさによってもらえる日にちが決まっていたりしますが・・ 帝が死んだ場合、后が死んだ場合は喪に服する義務があるのはどこまでなのか? 使える主人が死んだ場合と、その逆の場合とはやはり 違うんでしょうね~。 色々気になります!
@のらくらパパ3
7 ай бұрын
毎回すごく楽しみに見させていただいてます。一つ教えていただきたいのですが、まひろが越前に向かうとき、首から両端が結ばれた袋のようなものを下げてますがあれは何なのでしょうか?ご教授の程よろしくお願いします。
@kashimashi_rekishi_ch
7 ай бұрын
懸け守りです。
@つっちん猫次郎
7 ай бұрын
天皇の名前が道の通りの名前はおもろい、😂
@mihokomori6501
7 ай бұрын
覚えてます!!本当は大江殿のお墓でしたっけ?!
@kashimashi_rekishi_ch
7 ай бұрын
そうですw でも、大江殿のお墓も江戸時代に立てたものなんですよねw
@パン大好き-s4i
7 ай бұрын
平安では病気自体が穢れだったんですね。 今回まひろが羊肉を食べてたけど、不味そう、というか慣れてなさそうでした。鶏肉豚肉は一般に食べてたのでしょうか?
@chobi_tora
7 ай бұрын
きりゅうさんが間違ったお墓行っちゃったの、覚えてるよー🤣
@kashimashi_rekishi_ch
7 ай бұрын
忘れて~~w
@しんがりんぐ
7 ай бұрын
平安時代に棺桶や骨壺はありましたか?
@setsut742
7 ай бұрын
まさに墓騒動真っ只中の私の身内。ご先祖様に失礼が無いようにとか考えてる令和の人間の考え方がバカバカしく感じました🤭
@二重丸-p1e
7 ай бұрын
檀林皇后は風葬だったのですか?天皇家は神道式の葬儀だったのでしょうか。
@コウキュウ
3 ай бұрын
わたしの兄の母親とおばあちゃんが、亡くなられた時の写真が、昭和初期の事だそうですが、、ご遺体を運ぶのに、牛車を使っているのをみました。😅孝久と言う名字でした.兄は、私の、父親の、前妻の子です、、😅
@杉山光-e4o
7 ай бұрын
一周期ではなく一周忌では と思います
@kashimashi_rekishi_ch
7 ай бұрын
ご指摘ありがとうございます。
@とらねこ-v3h
7 ай бұрын
土装の貞子🤣🤣🤣
@suzu-br4lf
7 ай бұрын
お墓も都には無かったんですね😮 死に触れる事を極端に(現代人からすれば)嫌う平安時代はお盆はなかったのですか?
@すなこ-h1e
7 ай бұрын
道長さん、一条帝の遺言、「うっかり忘れて」のフリだと思う。定子様は我が娘のライバルだった人、「死後は隣りに⁈そうはさせるか」ブラック道長君
@阿手琉衣
7 ай бұрын
火葬はどこでしたのでしょうか。寺でしょうか。鳥辺野でしょうか。
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