Пікірлер
@user-sc6xk3sw2p
@user-sc6xk3sw2p Сағат бұрын
継体天皇大変興味深くききました。 ありがとうございました。
@masamasaict7312
@masamasaict7312 4 күн бұрын
水行は海を行かない。海を水行する時はそう言っている。国の名前を日本語で読むから訳が分からなくなる。
@user-jm6rr2dn1b
@user-jm6rr2dn1b 6 күн бұрын
崇仏争いの詳細を探していてこの動画にたどり着きました!とてもよくわかりました!
@righttocancelbirth
@righttocancelbirth 9 күн бұрын
中華思想は単なる自民族中心主義ではありません。中国史上多くの異民族王朝が生まれましたが、これらが正統な王朝と見なされているのは、その異民族が儒教を中心とする教えを受け入れたからです。つまり、少なくとも理念上は民族主義や血統主義ではなかったというわけです。
@righttocancelbirth
@righttocancelbirth 9 күн бұрын
ここは、ウケ狙いで変な自説を唱えたりせず、ちゃんと歴史学者の間での通説・定説を丁寧に解説してくれる良心的なチャンネルです。 水田稲作の伝来について批判的なコメントが多数ついていますが、古代日本においてはさまざまな文明が朝鮮半島からやってきたのに(もっともこの点を全否定したい方が多いようですが)、稲作だけそうでないと主張する意味が分かりません。 とはいえ、朝鮮半島を経由しないルート“も”あった、というのが実際でしょう。実際、日本にある稲の遺伝子は2つしかないそうですが、そのうち1つは朝鮮半島で見つからないようです。したがって中国の江南地方から渡ってきたという説にも信憑性があります。
@masatonamiki1978
@masatonamiki1978 12 күн бұрын
「倭国にはショウガやみょうがはあるが・・・」とゆう実際に文から、大陸から実際に倭国に行った人じゃないとわからない内容な気がする
@user-ho9rf2tq6t
@user-ho9rf2tq6t 14 күн бұрын
神武東征と稲作の広がりがあっている。
@user-um8zv3wb4t
@user-um8zv3wb4t 15 күн бұрын
残念ながら日本人は文字を発明出来なかったので記録ない。だから中国の文字を使った。
@hayek218
@hayek218 20 күн бұрын
DNA的にも、考古学的にも、食文化的にも、植物学的にも、稲作が朝鮮半島から入ってきたとはどうしても思えない。
@user-ob9us5fz7j
@user-ob9us5fz7j 24 күн бұрын
任那日本部説は日韓共同研究で2010年無しになりました。
@user-ob9us5fz7j
@user-ob9us5fz7j 24 күн бұрын
歴史知らない?
@MedakaNoBoo
@MedakaNoBoo 24 күн бұрын
6世紀に入り皇統(皇位継承のしかた)が変わった、直系にこだわると国は乱れる、それがよくわかる時代です。 物部と蘇我の対立は民族紛争であり経済闘争の側面もある。丁未の乱のあと、経済の中心は難波(摂津国)へ移ってゆき、ここを「聖徳太子」という謎の人物が治めている。厩戸皇子とも馬子本人ともいわれるが確証が出ないのは、そこに下剋上の時代に似た逆転人生のロマンを追い求めているからだろうね ちなみに、わたしは聖徳太子が「無職転生」のルディだったと思っているのだけど💦
@isk2931
@isk2931 27 күн бұрын
丁寧に解説してくれているのにコメント荒れてしまっていて残念です。 イデオロギーで過去を見るのはもったいないことです。 南西諸島には先史時代の稲作遺跡が全くないこと、東シナ海横断の難しさ、山東半島から朝鮮半島南部へのアクセスや対馬海峡を挟んだ人的往来を考えれば、朝鮮半島経由で伝来した蓋然性は高いはず。 3年前の動画にコメントしていてなんですが、この後も丁寧な動画を作り続けてくれてありがとうございます。
@user-ob1jq8ni5g
@user-ob1jq8ni5g Ай бұрын
なかなか面白かったです! 今の大河ドラマにあるように越前国は海流による中国との玄関口という考え方はないのでしょうか。 洛陽からの距離は、正しかったとするなら、関東は当てはまらないのでしょうか。 2000年前海面は!浸食は! 関東以南の伊豆諸島は今より島々があったのではないでしょうか。倭寇に観るように海洋民族ではなかったのでしょうか。 教えてください。
@user-ho9rf2tq6t
@user-ho9rf2tq6t Ай бұрын
900年代の主張を信じるのはおかしい。任那は任那全体である。
@user-ho9rf2tq6t
@user-ho9rf2tq6t Ай бұрын
石碑がフィクション?
@onnetotaki
@onnetotaki Ай бұрын
崇神3年、磯城の瑞籬宮に都を移した。 それまでどこにいたのか? 崇神6年、瑞籬宮に奉祀していた天照大神を笠縫邑に遷座。                     瑞籬宮は大神神社の南隣に位置しています。                    笠縫邑は北側にあったらしい。 神武天皇陵は明治時代製で極めて胡散臭いですが、それでは綏靖天皇から開化天皇まで闕史八代の天皇陵は誰の古墳なんでしょうね。 つまるところ闕史八代は、大和の祭神が三輪の蛇神から、日向出身の太陽神へと移り代わっていく過程の時代ではなかったかと想像するのですが。
@user-ho9rf2tq6t
@user-ho9rf2tq6t Ай бұрын
めっちゃ面白い
@onnetotaki
@onnetotaki Ай бұрын
陳寿はん、倭国に行ったこともないのに、よう旅程を明記できるものですな。感心しますわ😆  これは、マルコポーロの東方見聞録と同類ですな。 九州にあるいろんな国の倭人が、いろんな時代に中国へ渡って話したものを一つに纏めてしまったため、支離滅裂な話になっている。 邪馬台国の時代も、奈良時代も、奈良の山猿が初めて海を渡って中国までやって来るのは、そりゃあ命がけ😆💦 あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも 北九州の荒くれ倭寇なら 荒波の玄界灘を越えたところでこんな想いにはならないでしょう。中国で散々楽しんだところで、「里心がついたから、ちょっと帰ってまた来るわ」って感じじゃないですか。
@sayurishinano2370
@sayurishinano2370 Ай бұрын
わかりやすい。込み入った事情を地図と資料とイラストを駆使して、実に簡明に解説している。お見事。 戦後10年生まれですが、私たちの世代は馬韓・弁韓・辰韓、百済・任那・新羅・高句麗という地名・国名を小学校で学びました。先生が全紙大の紙に地図を描き、地名・国名を書き入れて教室の壁に貼ってくれたので、よく覚えています。この知識は中学、高校の歴史の授業で上書きされることなく今に至りました。 このころの日本は本当に大変だったんですね。まだ統一できていない。国家という体制が整っておらず、まさに戦国時代。そのうえ海を隔てた朝鮮半島の国々とも権益を争わなければならない。権益というより、中国の文化を吸収する窓口として朝鮮半島は大切だった。そしてアカホヤ噴火で縄文人が開墾し、少なからぬ日系移民が居住し本土との深い交流がある。こちらでも争いがあり、あちらでも争いがある。しかもみつどもえ、よつどもえの。 それでもこのような争いと混乱の中で、百済の王様が伝え贈ってくれた仏教の文物が、しっかり宝物として今に伝えられていることは、日本人としてうれしい。受け入れるか否かで大騒動が起きてはいるものの、仏教は上級貴族から庶民に普及していく中で、日本風にアレンジされ人々の心の支えとなっていく。お葬式でお経が唱えられても、その意味は全く分からない。聖書のようなわかりやすい物語ではない。それでもスペインやポルトガルの宣教師の布教に疑問・反論していくだけの理解の深まりがあったことに驚く。その始まりがこの混乱の時代にあったとは。 稲作もどこからかやってきた。発祥は中国らしい。しかし稲の名前はジャポニカ米でチャイニーズ米とは呼ばれない。統一後の大和朝廷が税収の基盤としたのも米で戸籍制度と口分田を始める。日本人のコメに注ぐ情熱は発祥地の中国や経由地とされる朝鮮半島の熱量の比ではない。官民挙げて増産・改良に邁進し、他民族を奴隷化することなく自前で調達してきた。 私自身は下戸でそれは弥生系の遺伝子らしいが、渡来人の子孫とは思いたくない。渡来人の知識を受け入れつつ進化してきた生粋の縄文人と思いたい。渡来人はほとんどが僧や技術者や高位高官で優秀な人たちだったとしても、平凡な縄文人でいい。みんなでレベルアップしてきた中流の縄文人でいい。今日のこの番組を見ていろいろ思いを馳せてしまった。壮大なドラマだった。
@clematiskakotti9050
@clematiskakotti9050 Ай бұрын
最近!歴史倶楽部を知り毎日楽しく勉強しています。 日本史33の後が出るのをとても楽しみにお待ちしています。
@Eii73489
@Eii73489 Ай бұрын
伏見の宮の立派な男子を家族を皇族復帰にすれば善いんだよ?大伴も右翼であり天皇の代官にも成り得る巻(纏)向もダウン(リフト?)アップだけれどなぁ?、モノノフの北から南へと下がって来てゐる、天皇系はなぜ物部は大連(おほむらじ)とか連(むらじ)とかって云うか解かるぞぇ!?連合王国、天皇にはそんなに実力が無いのかねぇ?アマテラスの時代って卑弥呼と合致するって、ヤマトって云えば善いじゃんとかと云う奏上があったからか?何時までも俺らの系は変わらないぞぇ?ただし俺がヱホ証だったから失意してヱホバが助けて呉れなかったから、失意して俺の代で辞めてゐるんだけれどもねぇ。俺は別に天皇の種(胤)をも奪取しないから別に卑弥呼とはも結婚はもし無かったんだが?卑弥呼さまは独身を保ってをられて!?とか帥升王家の計略で男系を望んでゐたんだよ!?そんなことぐらいは解かるわな!?だから箸墓古墳などとある訳だがな?九州で亡くなった(お隠れ?・皆既の太陽日食が2年続けてあったらしい?)のだが?九州で熊(クマ)族のキクチヒコと戦ってゐる間になぁ?突然死ぬ、倭人の条に書いてある通りに?伊勢志摩って鬼道を用いる卑弥呼の霊が降りたんじゃないのかって云うことで!?最初はよそ者と云って、穴穂部とも親しかったものをも殺させるんだが?害の無い者が俺の心の者が残るんだが?俺は何が何でも王に成ろうともし無いので皇統で生き残って代わりに代官によって即位するのだが?京都御所には堀割が無いのはも誰も天皇を害する者がゐ無かったらしいよ?明治維新の時は蘭学の時は知らないが?蘇民将来も蘇(曾?)我が議会政治を天皇が御遣(おや)りに成るって仰有(おっしゃ)れば!?と云うことであり「天皇陛下は倒れません!?」と。仏教をも受容して天皇の現人神から離れる時にも蘇我が無政府無天皇主義では無くして率先してゐます。西側の啓蒙君主議会政治へも近代日本へも蘇(曾?)我の或る一部(いちべ)が昔から変わらずに貢献してゐると思われますが?石川さんも蘇我でしたっけか?加賀の加藤さんも伊勢の伊藤さんもウチは伊賀のイトウらしいのですが?最初の受け入れて呉れた女性を忘れない!?明治の苗字を赦される時に大磯の系図保管者か権力者の所へ行けば可(よ)いとカッコよい伊藤に耳打ちした?若い時の妻を離婚しなかった一人がゐる?(マラキ書、2・15?)
@user-ho9rf2tq6t
@user-ho9rf2tq6t Ай бұрын
解説しているひとは、韓国よりでは?
@pappakappappappar
@pappakappappappar Ай бұрын
先生 この時代に対馬海峡って どうやって渡っていたんですっか? 沢山の返礼品を貰ったり何十人もの生口を贈ったりしていますが どんな船だったんでしょうか?
@nobu27772
@nobu27772 Ай бұрын
応援しています!!🎉
@user-xs2iw4gj3n
@user-xs2iw4gj3n Ай бұрын
素晴らしい動画ありがとうございます。
@yasigoya740
@yasigoya740 Ай бұрын
戦争をすることは暦法の改変が目的です、ただの支配者交代では長続きしないからです。蘇我氏はこの中央集権制の根幹がわかっている渡来系族なので、物部の神道暦法を腐食させ、仏法暦法に改変したのです。古墳造成利権屋の物部族は人民の反感を買っていたのでしょう😂
@user-fi9tn1qc3f
@user-fi9tn1qc3f Ай бұрын
300年代に於いて 貴方は、近畿にヤマト政権を置いている時点でアウト!! レッドカードです🟥 何故、疑いもせず ヤマトの発祥は近畿ですか? 貴方の知性を疑います #KZbin真説日本古代史福永晋三
@user-bw9in1ik9b
@user-bw9in1ik9b Ай бұрын
『三国史記』は完成が1145年なので、継体天皇崩御前後は600年以上前のことになる。いわば、令和の時代に室町時代の記録を残しているようなものなので内容は・・・?
@wingsail7755
@wingsail7755 Ай бұрын
畿内や他地域が倭人伝の対象なら、もっと違う記述、表現になると思いました。また、エリアを畿内まで含むとなると、必然的に韓国から畿内の道程のほとんどの国が女王国の支配下にあったことになり、既に大和王権・朝廷が成立しており、その後の中華史も全て畿内王権を指し示すことになりますよね。また、皇帝の権威の称賛のため、距離は盛っても、華人は方位磁針携帯してたので、大きく方角を間違えることはあり得ないと思いました。
@user-tl5jh2vz5x
@user-tl5jh2vz5x Ай бұрын
放射線炭素年代測定法という名称は聞いていましたが今回初めて理解でき信頼できるものだということをしりました。
@user-fr6gn6yu3p
@user-fr6gn6yu3p 2 ай бұрын
なかなか、面白い、です。 切らないで話した方が良いと思います。 岸田総理みたいですよ。
@user-fr6gn6yu3p
@user-fr6gn6yu3p 2 ай бұрын
まるで岸田総理の様に「切って」話されるのですね
@user-pc9qb4vw7i
@user-pc9qb4vw7i 2 ай бұрын
此処まで丁寧に全文口語訳をしているもの、なかなか見当たらず先ずは御礼を…有難う御座います。 その上で、私見を幾つか… ・邪馬台国は北部九州であると思われる。 其の理由は二つ 先ずは引き算。 全行程12000里で不弥迄で10700里。残り1300里では九州以外では無理。 関係する国は30余国。 三世紀の遺跡が多数出土している地は、今の処では九州以外無い。 ・邪馬台国は金印収受に値する。 其の理由は二つ ご指摘の通り、敵対する呉への遠交近攻策が一つで、もう一つは倭国は案外と「大国」なこと。 其れは気候が温暖で稲の栽培に適してたこと。 コメは単位当たりの人口扶養力が麦より高く、 更には海産物も多く、大陸や半島諸国より食糧事情が良く人口が多かった。 人口 ≒ 国力 です。
@user-pc9qb4vw7i
@user-pc9qb4vw7i 2 ай бұрын
七支刀を保有する石上神宮は物部氏の氏神ですよね。 七支刀を貰ったのは物部氏ではないですかね?! 其れも未だ畿内を拠点としてはいない物部氏に! 其の後四世紀後半か五世紀前半に、畿内に拠点を移し、 ヤマト王権の中枢勢力になっていったのではないかとも思いますがね。
@user-pc9qb4vw7i
@user-pc9qb4vw7i 2 ай бұрын
此の26,27 で初めて歴史倶楽部の動画視聴。 大変面白い!文献資料主体でも此処までの考察が出来る。 いったい、歴史を職としている学者・専門家の方々は何をしているのでしょうか? 処で私、縄文時代大好き爺ィですが、此の時代について次の様に思っています。 ・朝鮮半島南部には3世紀の段階では倭人が多数居住しており、現地での混血化も進んでいた。 ・日本と朝鮮半島南部地域の言葉は強い方言程度の違いで、会話にはさほどの苦労はしなかった。 ・4世紀後半から5世紀前半にかけて、地球全体での寒冷化が進み、此の時期、朝鮮半島の食糧事情はひっ迫。 一方、半島より南で海洋の影響も強い日本は寒冷化の影響も少なく、食糧事情もさほど悪くは無い。 此れが為、日本の人口は朝鮮半島より多く、人口 ≒ 国力  ゆえに半島への出兵が可能であった。 ・半島への渡航路については、瀬戸内経由ではなく日本海沿岸経由が主体だと思っています。 春から秋にかけての日本海沿岸はとても穏やか。瀬戸内は干満の潮流が激しく4~5世紀前半の船では厳しいかと。 ・北部九州地域は完全なヤマト政権下ではなく、高度の自治組織でしょう。 「筑紫磐井の乱」を経てヤマト政権下に組み入れられ、瀬戸内航路が整備されるのも、此の乱の後辺りから。 マァ、此の時期についてはこのくらい ♪  此れからも歴史倶楽部、期待いたします👍
@risakiti911
@risakiti911 2 ай бұрын
時代とともに濃淡はあるが、任邦は大和王権の直轄地だったと言って良いのでは? 解釈が韓国と日本の主張を足して二で割るような、現代歴史界のわからなさを踏襲したような番組に見えます。
@risakiti911
@risakiti911 2 ай бұрын
みなま
@KeCN
@KeCN 2 ай бұрын
日本書紀は大和政権の正統性を記すものであるので壬申の乱以前の歴史は全く信頼できないように思いますね。
@renkon2018
@renkon2018 2 ай бұрын
古墳時代❌ やまと時代◯
@nekodamashi2700
@nekodamashi2700 2 ай бұрын
ニ朝並立説が有力と言うのはいかがなものか?
@susumusugimura1771
@susumusugimura1771 2 ай бұрын
Bgmがうるさいです。
@susumusugimura1771
@susumusugimura1771 2 ай бұрын
いい話です。登録してきいています。 バックの音楽はいらないですね、耳障りです、、
@kazumiyamanoi
@kazumiyamanoi 2 ай бұрын
稲作は朝鮮から伝わっていません
@user-kb3hp2qu8k
@user-kb3hp2qu8k 2 ай бұрын
天皇でも、邪魔な存在になると、暗殺されるのですね。 これでは、893さんと、本質的に変わりませんね。 西暦645年に、豪族の蘇我入鹿が、騙し討ちで、謀殺されたのが、納得させられます。 まさしく、離れ小島の、にっぽん人らしい文化です。
@toyonzawan
@toyonzawan 2 ай бұрын
崇峻天皇殺害の要因推察が鋭い。 納得感ありありです。 次回を楽しみにしています。
@平唱尊
@平唱尊 2 ай бұрын
丁未革命に依って物部王朝から蘇我王朝となり、 乙巳革命に依って蘇我王朝から後物部王朝となり、 壬申革命に依って後物部王朝から後蘇我王朝となり、 後物部王族亜流藤原家が後蘇我王朝を換骨奪胎し、 現在に至る。
@Gekitakubaibai
@Gekitakubaibai 2 ай бұрын
次は西暦600年頃かな 第一回遣隋使や裴世清の来訪 アマタラシヒコの正体を
@toshifumisatoea5617
@toshifumisatoea5617 2 ай бұрын
話し方がいい。聞きやすい。
@user-zj7qn9zh4j
@user-zj7qn9zh4j 2 ай бұрын
面白かったです😊