Пікірлер
@user-sg4pj3wc1r
@user-sg4pj3wc1r 3 сағат бұрын
本多重次はやりすぎてしまったが、中身は良い奴だったんだろうな。 同じ本多でも忠勝は超好き! 正信は大嫌い!
@user-os4uw6jb6x
@user-os4uw6jb6x 5 сағат бұрын
長崎城?長崎の戦い? 草過ぎるやろ!
@user-sq1fo9lj9j
@user-sq1fo9lj9j 7 сағат бұрын
小少将の墓は荒れ放題w
@73moto
@73moto 7 сағат бұрын
徳川家康が今川家から独立した後に癖が有る三河武士達をまとめるのに苦労したが、徳川家康が今川家の人質の間に三河武士からの反乱や一揆を出さなかった今川義元の三河統治は凄いと思う。
@73moto
@73moto 8 сағат бұрын
鬼作左と言われた本田重次は主君の徳川家康に対してズバズバと換言をして家康を困惑させて三河武士を体現させた人だが、息子の本田成重は結城秀康の息子で有る松平忠直の家老に成ったが、本田成重は父親の様に主君に換言が余り出来なかった様で、松平忠直は乱行で北ノ庄藩改易に成った。
@user-sq1fo9lj9j
@user-sq1fo9lj9j 9 сағат бұрын
山内一豊どうしても好きになれぬ武将。
@user-re3ce9hv7h
@user-re3ce9hv7h 14 сағат бұрын
戦国時代の越後は米処ではなかったようですね。😅
@nyao1
@nyao1 14 сағат бұрын
このストーリーなら、こんなことにはならなかったのに
@takasato9018
@takasato9018 16 сағат бұрын
家康がもっとも恐れてたのは信玄でも真田でも信長でも秀吉でもなく家臣団だった説😅
@ayamasets
@ayamasets 17 сағат бұрын
鉄砲も銃弾も安いものではないのに、堺の商人から購入するための原資は何だったのだろう。
@user-gq7ph4vw5b
@user-gq7ph4vw5b 20 сағат бұрын
挿絵では、的のすぐ側に立ち会い人がいるよね。 罷り間違っても、あの間合いで弓矢が流れることはないってことなんだろうけど、 今のJ隊でこんなことしてたら、安全管理者は懲戒免職だぞこれ。
@user-ij1gi1bu7j
@user-ij1gi1bu7j 21 сағат бұрын
家康家臣団、人間臭くて逆に好きになったな
@yuuisi9962
@yuuisi9962 Күн бұрын
この中で本気で困ったのは石川数正だろうなあ 家康の外交部門におけるトップで職責としても抱えてる情報としても家臣随一だもの 有力な家臣や一門を独立させるのは秀吉のお家芸だしそれがばっちりハマった
@user-vt6wl6yi5q
@user-vt6wl6yi5q 19 сағат бұрын
戦術から何から全て作り直したようですからね
@user-gf2eb2po8d
@user-gf2eb2po8d Күн бұрын
ロックリーのファンタジー小説ですか?
@user-zu2mo3ti5h
@user-zu2mo3ti5h Күн бұрын
南部晴継(跡目争いの為に親の葬式の時に謀殺)、明智光秀(落武者狩りで死◯)
@gorilla5963
@gorilla5963 Күн бұрын
西洋人に「弥助は侍であった」を信じている人が想像以上に多い様です。 ロックリー氏の著書「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」を盲信している人も少なからずいるでしょう。 弥助に関する史料で外国人に勘違いされそうな記述を見つけたのでちょっと言っておきます。 「信長は弥助に私邸と鞘巻を与えた」の一文です。 ここで問題になるのは「鞘巻」です。 鞘巻をgoogle翻訳で英訳すると「Scabbard」これは「鞘」という意味です。 鞘を与えた? おかしいですよね。 そこで日本語で調べます。 鞘巻=つばのない短刀 この中にある「短刀」の言葉、直訳すると短い刀で「Short sword」 ヨーロッパで言うShort sword(ショートソード)は歩兵が戦闘で使用する武器で、刃渡り60〜80cmの片手剣。 歴とした兵器です。 それに対して日本で言う短刀は、主に護身用として使用する刃渡り20〜30cmの刀。 ヨーロッパ的に言えば「ダガーナイフ」あたりに相当します。 つまりヨーロッパ的に見れば「鞘巻を与えた」は、戦闘用の刀を与えられた事になりますが、実際は護身用のナイフを貰ったにすぎないのです。 このあたりが、「主君から戦闘用のサムライソードを与えられたのなら、それは侍だろう」と思わせる一因となっているのかも知れません。
@354e2
@354e2 Күн бұрын
御茶道で能阿弥・村田珠光や武野紹鴎を取り上げてくれて本当の侘茶の源流の片鱗を伝えてくれたことは感謝します  奈良茶の祖で有る村田珠光の名声を聞いた能阿弥が直接会って話し、その茶に対する精神性に感銘を受けて、時の足利将軍に村田珠光を推挙したと私は本で読みましたがどうですか  村田珠光の研究家が出した本にもそう云う話しが有りました
@user-ll7dj2dw2s
@user-ll7dj2dw2s 2 күн бұрын
武田勝頼は戦場で戦機を測り瞬時の判断を下す戦術指揮官としては父譲りの天性の才能があり、信長も家康も直接対決を恐れるほどでしたけど、戦略政略にかけては無能とまでは言わないまでも数段劣りましたね。 もう少し経験を積む時間があれば状況は変わったかも知れません。
@user-np1rj8bt8m
@user-np1rj8bt8m 2 күн бұрын
武田信虎が甲斐国主の時代は村上武田山内上杉氏が相互同盟で、北条氏綱や長尾為景、今川氏輝に対抗してた。関東甲信の勢力関係はコロコロ変わってくからね。
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p 3 күн бұрын
勝頼の失敗の大部分は信玄のやらかしですよね。そもそも信長と修復不能な諍いを起こしてあっさり亡くなったので勝頼には最初から選択肢がなかった。悲運の勇将。信玄が家中統制を確立させていたらまた違っただろうし信玄は過大、勝頼は過小とこの父子は評価が偏り過ぎてる。
@user-gi9dy6br6e
@user-gi9dy6br6e 3 күн бұрын
村上義清は村上水軍と同族だな…村上海賊の発祥地は長野県でその場をとどまった村上とその場を離れ愛媛県で村上水軍になり広島県の海を支配した源氏の村上…
@kingofmarty
@kingofmarty 3 күн бұрын
高天神城は何回も行ってますけど、 とても見所が多いですよ。 現地に行ってみると、山が鶴翼の陣を構えててすごい迫力です。 西の武田改修部分はテクニカルで見てて面白い。
@abbtk14
@abbtk14 3 күн бұрын
甲斐の国は小領主の集合体なので、信玄は確実に勝てる場面でももう一押しがなければ戦わないというくらい非常に慎重でした。でも勝頼は実益の乏しい城攻めや長篠の戦など損害お構いなしの戦い方ばかり。大きな人的損害に家中の動揺と軋轢は大変なものだったはずで、バラバラになっていったのも当然でしょうね。
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p 3 күн бұрын
川中島も偶発的な遭遇戦がコントロールを失わせて大規模合戦になった 一度以外実に慎重な姿勢を貫いていますよね。あれが戦国のリアルだと考えてます。
@user-zz9dr2ib5p
@user-zz9dr2ib5p 3 күн бұрын
徳川も高天神城の救援が遅れたことで国人に離反された。勝頼は重臣を入れていた高天神城を見捨てたことで家臣からの信用を失くした。これが後に家臣が切り崩されていくきっかけになるんだよな。
@HIDEHIDE-ol8so
@HIDEHIDE-ol8so 3 күн бұрын
武田勝頼は有能だと思っていますが、戦国の世では実直すぎたのかな。 もう少し老獪さがあれば、信長とは戦わず兵を引き上げたのではないかと思ってしまいます。
@KokonTouzai-Rekisi-Channel
@KokonTouzai-Rekisi-Channel 2 күн бұрын
十分信玄の権謀術数も受け継いではいる気がします。真田昌幸なんかもいましたし。
@user-tx5ge2nw7t
@user-tx5ge2nw7t 3 күн бұрын
ーコメです
@velotribes
@velotribes 3 күн бұрын
もう30年以上も昔になりますが、初めて上田に行ったとき、駅前にある銅像は村上義清だとばかり思っていました。それが真田幸村の像だと知った時、なんで上田なのに『村上義清』じゃないのかと心底不思議に思ったのを覚えています。その当時からもちろん真田幸村は、屈指のメジャー武将でしたが、上田といったら村上義清というイメージしかありませんでした。村上義清と長野業政は戦国無知な自分にとっても『老練の名称』という、地元が誇るべき英雄だとおもっていましたから。
@youoelboinngg
@youoelboinngg 2 күн бұрын
村上義清は自治体でいうと坂城町の豪族なので、勢力を広げたときに手に入った上田市のほうはそんなになじみがないかもですね。坂城町では郷土のヒーローとして祭り上げてますよ。上田は真田一色ですが真田が上田城に入って治めていたのは同じく短い期間なんですよね。その後一番長く治めた松平氏の存在なんかはなかったかのようです。笑
@user-fb6pl5in7b
@user-fb6pl5in7b 3 күн бұрын
実朝を殺した公暁はこの後自分がとって変わろうとしたが、結局殺されてしまった。
@user-fb6pl5in7b
@user-fb6pl5in7b 3 күн бұрын
タラレバですが頼朝が義経や範頼と対立していなければ早くに源氏は滅んでいなかった…。
@user-ry3du7we4k
@user-ry3du7we4k 4 күн бұрын
源氏たって清和源氏だけだろ
@hrushchev1984
@hrushchev1984 4 күн бұрын
戦国時代からずっと下った話になってしまうのですが・・・。 日本の有機化学の基礎を作った由良浅次郎も和歌山出身です。 なんで今まで聞いたこともないような人を紹介してるんだって話ですが、 この人がいないと日清戦争、日露戦争で日本勝利の原因になった 下瀬火薬の原料ピクリン酸も出来なかったので🤣。 めっちゃ苦しいけど鉄砲つながりって事で無理くりつなげてみました💦。
@kazumasuishikawa2733
@kazumasuishikawa2733 4 күн бұрын
足利氏による信長包囲網の一環で動いてたって説明もされてるね。
@user-gr2xs3op1e
@user-gr2xs3op1e 4 күн бұрын
和歌山、戦国時代以外では徳川幕府八代将軍徳川吉宗、明治時代の外務大臣陸奥宗光、パナソニック創業者松下幸之助とかいるんやがなあ。(あと醤油)
@user-dr8ts7fy9o
@user-dr8ts7fy9o 4 күн бұрын
秀吉の朝鮮出兵の際、連れてこられた朝鮮人の中には、職人が多かったと言われている。実際、江戸時代になって、李氏朝鮮との戦後処理がされたが、朝鮮半島へ帰っていった朝鮮人は、半数いたかどうかだと言われている。秀吉が、朝鮮半島で信長の戦場での戦陣訓を行なっていたのであれば、民衆への掠奪をやっていないはずです。日本軍が、撤退する時や戦時中に日本に戻る時に、請われて日本に連れ帰った朝鮮人がいたのかもしれません。
@user-co4uy9zu1s
@user-co4uy9zu1s 5 күн бұрын
つまり戦国自衛隊って事か
@user-vh4br7yg5q
@user-vh4br7yg5q 5 күн бұрын
備えは大事だな
@mittak006
@mittak006 6 күн бұрын
今でも、和歌山発祥の企業ですと、創業家が「雑賀」さんだったりしますね。
@user-pq3wm5db8b
@user-pq3wm5db8b 6 күн бұрын
土佐の国では山内家は身分差別作ったから山内家より長宗我部の方が人気ありますよ。板垣退助と坂本龍馬みたいなもんかな。長宗我部の方大河ドラマにして欲しかったね。それかジョン万次郎とか。
@866083
@866083 6 күн бұрын
火蓋はきるだけです。 落とすのは幕です・・・。 混ざってしまった誤用です
@user-bf4jd1mw4n
@user-bf4jd1mw4n 3 күн бұрын
細かくない?
@866083
@866083 2 күн бұрын
歴史チャンネルさんなので、そこはこだわってほしいのです
@Mimimi-kz5qu
@Mimimi-kz5qu 6 күн бұрын
やっぱり通貨って大事なんやと思う。土地と違って数量の臨機応変が効く。茶器を褒美にした信長はさすがやわ。
@KOKOS555
@KOKOS555 6 күн бұрын
日露戦争の発端も 大東亜戦争と太平洋戦争の世界情勢と 日本の関係性がなんの注釈もなく 戦争放棄と謝罪と反省と と言う「出来の悪い教科書」の丸写し
@seyheykid660
@seyheykid660 6 күн бұрын
尻くらえ孫市は、やっぱりフィクションなんですね。 😅
@user-zv1qr3wj4l
@user-zv1qr3wj4l 7 күн бұрын
コレは周回遅れの歴史
@user-tr8cj8dx5y
@user-tr8cj8dx5y 7 күн бұрын
最近の自衛官はちょっとキツくされただけで上官を訴えるしw
@prshrine
@prshrine 7 күн бұрын
歴史学的な誤りを指摘させていただくと、明治以後の政教一致体制に使われたのが国家神道であり古代日本には当てはまりません。また徳川幕府は中国・朝鮮と国交回復しており二度の朝鮮の役からの外交再生を行っています。 今回の動画は、日本の侵略と日本への侵略が混ざって分かり難いです。また侵略とは、国家が他国・他民族へ強制的統治を目指すもので、海賊等による略奪などは普通侵略とは言いません。 日本の侵略なら、大和朝廷の東北・九州平定も侵略ですし、江戸時代に琉球・蝦夷地へ侵略していると言っていいでしょう。 35分過ぎからの現代の平和憲法・平和国家についての部分は良かったので「侵略」という言葉に拘らず、日本の外交史を古代・中世・近世・近代・現代という風に分けられた方がまとまっていたのではないでしょうか。いつもはいい動画を上げてくださっているので今回はちょっと範囲が広すぎたかもしれません。
@nao2591
@nao2591 7 күн бұрын
11:20 料理人の首が飛ばないって信長はそんな短気でも残忍でもない。 信長だからってなんでも残忍だ、残虐と言えばいいものではない。 おふざけ歴史系chなら構わないけど。
@user-sp9gh4tk6q
@user-sp9gh4tk6q 7 күн бұрын
神風は戦局を左右する程の影響はなかった、ってのが今の主流じゃねーの?
@user-tp1im1py9m
@user-tp1im1py9m 7 күн бұрын
たかが北信濃の一豪族の勢力でありながら、単独で板垣信方、甘利虎泰、横田高松といった武田二十四将のうちの初期の3名の名将を討ち取る武力の高さは本物だったんだね。 ただ、守りに入ると意外と脆い点は宿敵・信玄の跡取りの勝頼と共通してたんだね。だから武田勝頼と同タイプの武将ともいえるね。
@777hydyy6
@777hydyy6 7 күн бұрын
自衛隊は嫌になったら辞めても良いしwww
@user-co4uy9zu1s
@user-co4uy9zu1s 7 күн бұрын
上杉謙信 村上義清 長野業正 この3人は信玄を苦しめた代表格ですね