【#67】巨大貧民窟と鮫川の記憶!?四ツ谷エリアの歴史を深掘る

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東京歴史散歩

東京歴史散歩

Жыл бұрын

《歴史研究で修士号を取得!幕末〜明治を愛する本気の歴女が徹底解説&ご案内》
久しぶりに、街をテーマに歴史散歩いたします。
今回の主人公は「四ツ谷」。
迎賓館赤坂離宮や上智大学のある、お洒落なイメージで語られがちな場所ですが、実はけっこう興味深い歴史があること、ご存知でしょうか。
かつては鮫川が流れ、鮫河橋なる橋が架けられていました。そしていつしか、東京三大貧民窟(スラム)に数えられた、四谷鮫ヶ橋が広がっていきます。
高低差のある、水辺の記憶をとどめた地形と、一帯の歴史を紐解きながら、歩いてみたいと思います。
==========================
<この動画で歴史散歩した場所>
◆円通寺坂(かつての鮫川の流れに続く)
 tokyo-trip.org/spot/visiting/...
◆須賀神社(アニメ映画「君の名は」の舞台)
 sugajinjya.or.jp/
◆勝興寺(山田浅右衛門の墓)
 www.shoukouji.biz/
◆西應寺(剣客・榊原鍵吉の墓)
 東京都新宿区須賀町11-4
◆戒行寺坂
 tokyo-trip.org/spot/visiting/...
◆観音坂
 新宿区若葉2丁目付近
◆真成院(潮踏観音)
 www.shinjoin.jp/
◆西念寺(服部半蔵の墓)
 www.yotsuya-sainenji.or.jp/in...
◆鮫ヶ橋通ガード・せきとめ神
 東京都新宿区南元町9丁目付近
◆二葉保育園
 www.futaba-yuka.or.jp/
==========================
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#東京歴史散歩 #大人の教養 #日本史 #プロが解説 #史跡めぐり #鮫河橋
#鮫ケ橋 #東京のスラム

Пікірлер: 73
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk Жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます❤ 久しぶりに、街をテーマに歩いてみました♪ とっても興味深い歴史と、高低差のある地形がおもしろい、四ツ谷エリア★ いかがでしたか? 高評価👍と、まだの方はチャンネル登録もぜひ、よろしくお願いします🥰 ご質問・感想はコメント欄にご記入ください🌸 (※コメント、全部にお返事できなくて申し訳ないですが、いつもとっても楽しく読ませていただいています!)
@user-eq1iq5bv5j
@user-eq1iq5bv5j Жыл бұрын
四谷の南側の低地に、かつてスラム(貧民窟)がありました。明治の初めから、昭和の初期頃のことです。富国強兵を目指して発展する帝都の中心部に、貧民が寄り集まって最底辺の暮らしを送っていた。今ではまったく面影がなく、その過去は忌まわしいものとして語り継がれていない。地名の鮫河橋は、忘れられようとしています。四谷駅から赤坂に向かう外堀通り。迎賓館の前は広大なオープンスペースになっていて、広々とした景観が広がり、正面に迎賓館、左手は空になった外堀を隔てて、ホテルニューオータニや赤坂プリンスホテル、更に遠くには赤坂から溜池にかけての新しいビル群が望まれました。迎賓館の右手を行くと、学習院初等科の敷地にそって急に降る坂です。左手は迎賓館、その先が東宮御所。坂の途中から右手には南元町公園と呼ばれる公園が見えます。なだらかに傾斜した植え込みや石組みの先には、整地された広々とした野球場や遊園地がある。休みともなると近くの親子がキャッチボールに興じていたりするが、週日は人影もまばらです。公園の北側には、御所トンネルを出たばかりの中央線の電車が通り、その手前の首都高の高架には、轟音を建てて車が行き交う。この南元町公園が、かつて貧民がたむろして住まった地域の東端に辺りです。スラムは、この公園の北西の角にある中央線ガードをくぐって北に向かう、細い道の両側に広がっていたらしい。旧地名鮫河橋谷町である。その名の通り、四谷の台地と赤坂の台地の間の谷であります。明治32年(1899)に、毎日新聞記者だった横山源之助が、『日本の下層社会』(教文館)という本を出版している。これは、当時の貧民の実態を記述し、今でいう社会学的フィールド・リサ-チを先取りしたともいえるもので、復刻版が岩波文庫で出ている。その中で、横山は、東京の3大貧民窟として、四谷鮫河橋、芝新網町そして下谷万年町をあげている。東京市として急激に発展しつつあった東京市は、大量の安い労働力を必要でした。変動期にありがちの食いはぐれた人々、職を失い、土地を失い、住いを失った貧民たちが、職を求めて全国から東京市を目指して集まってきました。まともな住まいはない、自分と家族の衣食住を確保できるほどの労賃を得られない。今でいうホームレスに近い。そんな人々が、吹き溜まる場所が貧民窟でした。スラムの様子を、松原岩五郎氏が『最暗黒の東京』(明治26年、1893年)に書いています。新聞記者志願の若者が、自ら貧民の一人となって、スラムに入り込み、その経験をルポルタージュとして、徳富蘇峰の主宰する「国民新聞」に連載したものである(これも同じく岩波文庫に収録されている)。この貧民窟に残飯屋という職業でした。そこに岩五郎は下男として雇われた。市ヶ谷台にあった士官学校(現在の防衛庁)へ大八車を牽いて行き、寄宿生の残飯を安い値段で引き取ったのです。それを貧民に売るのです。米や菜を買う金のない貧民は、この残飯に群がって買い求めたらしい。『貧民の群れがいかに残飯を喜びしよ、しかして、これを運搬する予がいかに彼らに歓迎されしよ。予は常にこの歓迎にむくゆべく、あらゆる手段をめぐらして庖厨(くりや=厨房のこと)を捜し、なるべく多くの残飯を運びて彼らに分配せんことを努めたりき』と書いています。残飯の量は日によってまちまちで、まったくない日もあります。とぼとぼと空の車を牽いて帰ると、貧民たちは今日は「飢饉」と呼んで、飢えに耐えます。そんな日は岩五郎もつらくて、哀しい。たくさんの残飯を持ち帰れた日は「豊年」と呼んで、喜びをともにした、と書いていたそうです。そんな時代と暮らしぶりが、ここにあったのです。岩五郎が書いているのは、日清戦争がはじまる前の明治25,6(1892,3)頃のことである。このスラムはいつまであったのです。横山氏が3大貧民窟と名指したのは、明治32年(1899)のことである。冒頭の図絵は「新撰東京名所図絵・四谷区之部(上)」から再掲載したものですが、これは明治36年(1903)の発行。そこには、全町ことごとくこれ貧民窟。「谷町を中心としておよそ卑湿の地、いたる所、軒低く、壁壊れ、数千の貧民、蠢々如としてひそかに雨露をしのぐのさま、哀れなり」とあります。永井荷風は、街歩きが好きで、下駄を履き、こうもり傘を片手に、東京市の町を歩き回った。その見聞を『日和下駄』に書き記してます。鮫河橋は、彼が住んだ大久保余丁町と、四谷の台地を挟んで反対側ですが、ここにもよく来たのです。『閑地』の中で、この場所をしばしば訪れて、南元町公園となっている場所が、当時すでに火避け地として空き地になっていた、そこにたたずんで、この貧民窟を眺めた印象を書いています。鮫河橋に関する内容は、少し長いので、その終わりあたりで、代々木の原(今の代々木の森公園)で万国博を開くとの計画があり、その際やってくる外国人に、電車の窓からこの貧民窟を眺められるのは恥だと、東京市が、貧民窟撤去を図ったこと、万博開催が取りやめになり、そのままになっていることなどを記し、貧民の生活を外国人に見られたからといって恥ずかしがることはあるまいと、荷風らしい意見を付記してます。大正初期にはまだスラムでした。戦時色が強まるとともに、この町にも変化が出てきたのです。鮫河橋イコール貧民窟というイメージを脱したいと、住民が町名変更を求め、鮫河橋が若葉町という希望に満ちた地名は、昭和18年(1943)のことです。このころには、スラムの光景はなくなってました。貧民たちがいなくなったのです。どこか東京市の町はずれに追いやられただけなのではないか不明です。今もなお貧民街の存在を思い出させる施設は、擦痕が残っている程度です。貧民救済に民間の様々な団体が取り組んだ。この鮫河橋に貧民幼児教育施設として二葉保育園が野口幽香らによって開かれたのが明治39年(1906)のことです。この保育園を実質的に育て上げたのが徳永(1887-1973)です。女学校に通う途上でこのスラムの様子を見て、心を痛め、貧民救済を一生の仕事としようと決意して、女学校卒業と同時期に開園したこの保育園に入り、中心となって働いた。彼女は小学部や「母の家」などを創設し、更に同じような貧民街であった内藤新宿のスラム街に「二葉保育園新宿分園」を設けるなど貧民救済した。この二葉保育園は、第2次大戦の戦中・戦後の厳しい状況の中で、孤児、捨て子、戦災母子などの収容に当たったのです。恕は、自分の家は持たず、園児と生活をともにする生涯を全うした。1954年女性最初の「名誉市民」に選ばれています。この徳永恕の働いた二葉保育園、二葉乳児院は、今では、立派なコンクリート2階建ての大きな建物に建て替えられ、中央線ガードの北西角地にあります。今は昔を知らない住民層も変わっていて、働く女性の乳児・幼児を預かる普通の保育園になっています。鮫河橋という名前は、元々ここに川があり、橋が架かっていたからでした。川筋は見学しても道です。新宿通りの四谷3丁目の2丁目の間、東京三菱銀行の前を南に入る細い道は、法蔵寺横丁と呼ばれ、そこから下がる坂は円通寺坂より、その坂を下りきったあたりから、途中若葉町2丁目商店街となり、大きくカーブしたり、くねくねと曲がっている道は、櫻川と呼ばれる川筋です。江戸時代の切り絵図には川が描かれています。この道は二葉保育園の前に出て、中央線をガードでくぐり、赤坂御用地に突き当たりる。そこに立派な門があります。鮫河橋門と呼ばれ、そのわきの派出所には「皇宮警察本部・赤坂護衛署・鮫河橋門警護派出所」との表示があり、住民に忌み嫌われた鮫河橋の名が皇宮警察の派出所に残されており、人情味の無さに呆れた。この門の前あたりに、江戸切り絵図に、橋の記号と鮫河橋の名が記されています。江戸名所図絵「鮫ヶ橋」に見られる橋です。なぜ鮫河橋なのかは、この川は赤坂御用地(元、紀州徳川のお屋敷)を通り、赤坂見附、山王下から溜池を通り、汐留川となって東京湾に注いでいます。その川を辿り鮫がいた、というおもしろい地名の由来ですが、諸説があります。本所亀沢町7代末孫
@dddnekoneko8649
@dddnekoneko8649 Ай бұрын
スゲー😮 教養あるお方😊
@tktktktk1913
@tktktktk1913 4 сағат бұрын
1999年生まれ地元民です。合羽坂の近くにはという小さな池がありますが、我々はそれを「かっぱ池」と呼んでいました。子どもの頃は池の周りでおにごっこなどをしていました。家康公の時代から「策(むち)の池」という名がついているそうですが、私は「かっぱ池」で覚えていました。 池には大きなスッポンが一匹住んでいました(今もいるのかな?)。なんとなく池のヌシっぽいので、この方がカッパなのかなと妙に納得しています。
@kunihikokun
@kunihikokun 10 ай бұрын
四谷、古の貧民窟、鮫川に当たる若葉町出身です😂😂😂 祖母は明治時代から四谷住まいで、四谷で関東大震災、東京大空襲(5月)経験してます。 祖母の葬儀は円通寺でした。ご紹介ありがとうございます。とても嬉しいです!
@akirakaneda1754
@akirakaneda1754 Ай бұрын
めちゃくちゃちかいですね。わたしは四ツ谷3丁目駅の近くの錦松梅よく買いに行きますね
@kikukokawa5363
@kikukokawa5363 Ай бұрын
半世紀前に幼稚園に通った道が見られて懐かしかったです!灰色だった ブロック塀が白くペンキが塗られてました!昭和一桁生まれだった父が近くの高台に住んでいた幼少時に、若葉町の方で遊んでいじめられたとき、貧民街のドンに、坊っちゃんは こっちに来ては行けないよ、といいきかされたそうです。でも、時代は代わって私は若葉町の幼稚園に通いましたが。確かに辺りの家は長屋のようなごちゃごちゃした密集した家並みだなぁと 子供ながらに感じていました。神社も小学生まではよく 行っていたので 懐かしく、他の場所の も見たいと思います!👍
@mijetkun
@mijetkun 2 күн бұрын
須賀神社男坂から甲州街道方面に上って行くと 昔 文化放送があったんですよねぇ 懐かしい
@user-yv1mc8bi3p
@user-yv1mc8bi3p 3 ай бұрын
神回ですね!すごい調査力と優しい目線の解説にジーンときます。
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk 2 ай бұрын
お返事めちゃくちゃ遅くてごめんなさい🙏 神回!!ありがたいお言葉です🥹これからもよろしくお願いします♡
@user-nx4cz5im7k
@user-nx4cz5im7k Жыл бұрын
50年ほど昔、四谷に住んでいました。が、同じ四谷でも、私は市ヶ谷に近い方でしたので馴染みは薄いのですが、この鮫が橋あたりも散歩で歩いたことがあるので大変懐かしかったです。
@user-ds8cz2om6m
@user-ds8cz2om6m 2 ай бұрын
10年前に曙橋駅からほど近い新宿3丁目辺りに私の会社がありまして、良く遠回りに市ヶ谷駅迄徒歩で歩いておりました。この辺りは動画でご紹介されていたようにお寺が多く、また地形が複雑で崖も多く散見されていましたね。やはり四ツ谷というぐらい谷があり湧水や小川があったと推察されました。この事務所から新しく四ツ谷駅近くの雪印へ移動し、仕事をさせていただいておりました。 今は遠く岡山に移り住んでおりますが、10年も四谷や市ヶ谷や曙橋あたりの風景を貴方様の動画を視聴して懐かしく思っております。
@yoshishimizu4056
@yoshishimizu4056 2 ай бұрын
たまたまこのサイトに出会いました。当方、今NYCに居住している者(76歳)です。四ツ谷若葉町・学習院初等科の直ぐ脇に、40年以上住んでいました。大学も上智ですから、四谷は自分の故郷ですね。 フランス・レストラン、ミクニさんは自分がNYCに来る数年前に開店しました。この30年以上のNYC生活で、東京には一度しか戻っていません、それも12年前。楽しく拝見させて頂きました。
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk 2 ай бұрын
ニューヨークからありがとうございます!ミクニさんのお店、とっても素敵でしたよね〜✨跡地も通ってみたのですが、撮影当時はまだ手付かずの状態でした…四ツ谷エリアは私も大好きです! またお戻りの際はぜひ、お出かけになられてみてください♡
@bincohkmzw
@bincohkmzw Жыл бұрын
ああ四谷ね、なんて軽い気持ちで視聴していましたが、四谷はディープな街でした。四谷と言えば番町皿屋敷と番町小学校でしょうか。アルマさんの歴史散歩は修士課程を修められた貴方の知識がふんだんに濃縮され、私の歴史散歩に役立っています。ありがとうございます🎉
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk Жыл бұрын
こちらこそ、ありがとうございます!四谷エリアは本当に歴史の宝庫ですね〜〜✨鮫川エリアもしかり、ですが番町や紀尾井町など、歴史を思わせる地名がそのまま残っているのも素敵ですよね🌸
@user-lp5qf9nj1g
@user-lp5qf9nj1g 2 ай бұрын
四ッ谷には、女子学院、麹町女学院、スーパー丸正、ふりかけ 錦松梅本店、韓国料理店 妻家房本店もあります。
@steels-nm2il
@steels-nm2il Жыл бұрын
こういう動画をずっと探してました。関西の人間だから、東京の事詳しくないから、ありがたいです。
@SHIMAMORIKAMOME
@SHIMAMORIKAMOME Ай бұрын
鮫ヶ橋の貧民窟は気になっていたので勉強になりました。時々自転車で通り過ぎる場所がそうだったとは認識しておらず、この動画が観れてよかったです。
@kazuki3577
@kazuki3577 Жыл бұрын
こちらは陸軍にへばり付いた貧民窟で、め組の縄張り芝新網町は海軍にへばり付いた貧民窟ですね。
@user-ff8lt2hy9c
@user-ff8lt2hy9c Ай бұрын
めっちゃ地元で嬉しいw
@user-te8gx7hd5i
@user-te8gx7hd5i Жыл бұрын
アルマさんこんにちは😃 四谷の知られざる深い歴史、面白かったです。いわゆる断髪令から20年以上、亡くなるまで髷を落とさなかったラスト・サムライの話、信康の介錯の任務を果たせず仏門に入った服部半蔵…。今回も濃い内容に繰り返し見ています。それと坂道や階段の多い場所、 本当にお疲れ様でした。また楽しみにしています😊
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk Жыл бұрын
こんにちは☺️いつもありがとうございます! なかなか濃い面々のお墓が集まっていて、とても良いお散歩になりました❤️適度なアップダウンがあり、今の時期なら、ウォーキングに最適なコースかも!?です✨ また暑い夏が近づきつつありますね…熱中症と蚊の対策をしつつ、今年はどこへ行こうかと頭を悩ませております🤔
@imokoasukano6316
@imokoasukano6316 Жыл бұрын
今回も面白かったです。とくに最後の二葉保育園の設立のエピソードには感動してしまいました。 川や谷の痕跡をたどり、街の形成の謎解きをするのはブラタモリみたいで面白かったし、河童(カワウソ?)が出た場所を、漫画家の水木しげるさんに歩いてもらえば「昔は本当に河童がいたんだよ」なんて話が飛び出し てきそうでした。 東京は関東大震災、東京大空襲、東京オリンピックでの再開発で、地形も変わっていて、昔の様子を調べるのが難しい街になっていると思いますが、歴史の知識があると、昔の痕跡が今も残っていることが、よく分かるんですね。 特に今回のテーマの一つの「谷」ですが、土地の高低差に注意して歩いていると、東京では、かつては谷であったと思われる土地に、たくさん出くわします。中学の時、歴史の先生から「東京は”坂の町”と言われるくらい坂の多い街なんだよ」と教えてもらったことを、今でも憶えています。 溜池山王のあたりは、周囲の土地から見て、くぼんだ土地になっていて、かつては「ため池」があったんだろうなあ、などと想像しながら街歩きをしていました。(古地図を見ると、確かに「ため池」が描かれていました。) それに、昔の地図って見ていると面白いですよね。現在の街との様子の違いが とても興味深いです。
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk 11 ай бұрын
ずーっと返信できていなかったようでごめんなさい🙏二葉保育園の逸話、素敵ですよね…華族女学校に勤める女性たちの志の高さに、しみじみ感動しました。 溜池や六本木の周辺も、某大手デベロッパーさんがさかんに開発して、すっかり大都会の様相ですが…我善坊谷とか、なかなかすごい谷底地形がありましたよね。 歴史を知った上で街を眺めると、全然違って見えて本当に興味深いです。 いつかAIで、今の街並みと過去の街並みを交錯させるような動画ができたらいいな〜〜なんて思っております😆
@marikotLalpha
@marikotLalpha 2 ай бұрын
私は何度か四谷近隣を歩いていますが、すり鉢地形ですよね。大森とは地域は違いますが、高台と水辺が明確になっていますね。
@user-uw6zm3zu5q
@user-uw6zm3zu5q Жыл бұрын
四谷エリア面白かったです👍 カルマちゃんが紹介してくれた場所にたくさん行きましたよ。 いつも楽しみにしてます😊
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk Жыл бұрын
ありがとうございます! 実はカルマじゃなくてアルマなのですが(笑) カルマ(=業)なんだか気に入ってしまいました☺️前世の行いが現世に返ってくる…そして歴史が紡がれる…いいですね👍 今後ともよろしくお願いします🙏
@user-uw6zm3zu5q
@user-uw6zm3zu5q Жыл бұрын
カルマ=業がすごくアルマちゃんの雰囲気に合ってるなと思います。ただの間違いじゃないですよ笑 歴史ってほんとに面白いですね。 これからも楽しみにしてます😊
@user-uv4di7wn2u
@user-uv4di7wn2u 11 ай бұрын
東京歴史散歩すばらしいですね。 函館から上京し今や半世紀近い、都民です。 灯台もと暗しで知らないこと、意外なことばかりで たいへん勉強になります。感謝です。 これからもこのチャンネルを楽しみに観させていただきます。
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk 11 ай бұрын
嬉しいコメントをありがとうございます!だいぶマニアックな場所も訪れておりますが、お付き合いいただけると嬉しいです✨よろしくお願いします🙏
@user-pj6cz9bq9p
@user-pj6cz9bq9p Жыл бұрын
今回もお疲れ様でした。東京は昔は川やった上を道路にした所が多いそうですね。せきとめ神とか祈ったら治るとか東京にも、あるですね。他にも祈ったら治るようなの色々とあるんですかね?
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk Жыл бұрын
川を埋め立てたり、暗渠にしたりして、その上を道路にするのは、あるあるですね! 祈ったら治る…と聞いて思い出したのは、文京区の「こんにゃく閻魔」でした。そのうち、病気治癒のご利益のある場所を歴史散歩…してみたくなりました(笑)
@santomoko84
@santomoko84 Жыл бұрын
昔住んでいた懐かしい街が目の前に現れてビックリです。 神社庁の下辺りに古い谷の跡が有りましたが、今はどうなっていることでしょう。神社庁の先には憲政会館を転用した明治記念館が有ったりする、歴史舞台として重要な地域の動画をありがとうございました。
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk Жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます!神社庁の周辺は今もところどころに、(明確に谷といえるほどかは分かりませんが)谷の気配を感じる場所が残っています。 明治記念館は、伊藤博文の動画でもご紹介させていただいていますが、趣があって素敵ですよね❤︎
@kumosukeponsuke
@kumosukeponsuke Ай бұрын
以前に勤めてた会社の営業の合間にこの辺りを散策しました。駅で言うと四谷三丁目から信濃町あたりかな? 服部半蔵の墓は知らなかった… 田宮稲荷や陽運寺、長谷川平蔵慰霊碑もありますね。また行ってみたいです。
@maxbarrage
@maxbarrage 3 ай бұрын
興味があったのでストリートビューを見ましたが、街道沿いから街並みに入ると徒歩や自転車でしか入れない路地も多く(住所的には若葉)、都心の一等地に近いとは思えない古い庶民的な住宅の多い場所ですね。
@user-qv7lm7vo9z
@user-qv7lm7vo9z Жыл бұрын
初めて拝見致しました。私は新宿区 旧名 花園町(現 新宿一丁目)の出身です。四谷大木戸辺りには今でも幼なじみが住んでいます。昔は湿地帯だったのでしょうか。言われてみれば、苗字に「谷」「水」「柳」の文字がある人が多かったですね。 神社、寺も多く、四谷の人は須賀神社、花園町から三光町方面の人は花園神社と氏子も別れていた様です。 登録させて頂きましたのどまた拝見させて頂きます。
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk Жыл бұрын
ありがとうございます🙏 なるほど、付近に古くから住んでいる人の姓からも、かつての地形をうかがい知ることができますね!! 耳より情報、感謝です✨ これからもよろしくお願いします❣️
@honda10102004
@honda10102004 11 ай бұрын
四谷は東京のスラムとして有名ですね、年寄りに言われました 東京の谷が付く場所はあまりいい歴史がありません 私の祖母から東西南北、茅場町四谷新橋神田駅の外側には住むな と口うるさく言われました その4箇所の外側には貧民窟や色街があったので江戸っ子は避けていたんです
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk 10 ай бұрын
先祖代々東京に住んでいる人から、同じような話を聞いたことがあります!川向こうは行ってはいけないとか、今はすっかり高級住宅地になっている場所でも、江戸っ子は絶対に住まないとか…地名の歴史も、興味深いですよねぇ🤔
@user-kl9ie2xb8h
@user-kl9ie2xb8h Жыл бұрын
鮫川行かれたんですね。私も須賀神社とセットで行きました。二葉幼稚園と四谷雙葉は何か関係があるのかと思っていました。 因みに四ツ谷のたい焼きわかばは美味しいです。
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk Жыл бұрын
たい焼きわかばさん、好きです(笑) 鮫川と須賀神社と一帯のお寺めぐり、歴史マニアにはたまらないお散歩コースですね! ちなみに二葉保育園と雙葉学園、簡単に調べてみたのですが、二葉保育園は動画でもご紹介させていただいたように、華族幼稚園に勤める2人の女性に始まった施設です。一方の雙葉学園はフランスの修道会に起源があるとのことで、直接の関係はなさそうです。ただ、雙葉学園もその昔は孤児院の運営なども行っていて、教育を通して社会に貢献するというスタンスは、互いに共通したものがあるように感じました!
@user-kl9ie2xb8h
@user-kl9ie2xb8h Жыл бұрын
@@tokyo_historical_walk 詳しい解説ありがとうございます😭これから益々熱くなるので散歩は注意ですね!
@user-lp5qf9nj1g
@user-lp5qf9nj1g 2 ай бұрын
NHK72時?でたいやきわかばやってた。
@user-dl7sz7ns5l
@user-dl7sz7ns5l Жыл бұрын
今回も深いですね。四谷の近辺にそのような歴史があったこと、勉強になりました。 四谷、渋谷、世田谷、祖師谷などの「や」は、もともと「やと・やつ・やち」と呼ばれていた地形(浸食された谷状の地形)、一方、西日本の「たに(谷)」は東日本では「沢」に対応するという話もあります。茗荷谷の「谷」だけは、いわゆる「谷」なのかも。よくわかりません。(「や」は「谷」の方言的な訓読みとされています) 例によって、迎賓館が北向きなのが気になります。元々大正天皇の東宮御所としての造営ですが、新宿通りをはさんで市ヶ谷の防衛省(昔も陸軍の施設あり)と向き合っており、「いざという時は軍事的に利用できるように」という発想があったのでしょうか。 あるいは、風水では、皇居は、富士山からの「龍脈」を東京湾から「渦巻き型のお堀」で取り込んでいるとされますが、そうなるとお堀に沿って左周りの龍脈が流れていることになります。皇居の西側では龍脈は北から流れてくるので北向き、ということでしょうか(靖国神社の東向きも符合します)。たぶん違うと思いますが、不思議です。
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk Жыл бұрын
ありがとうございます🙏谷はまさしく、浸食された谷状の地形ですよね!縄文時代の地図に照らし合わせると、四谷も渋谷もまさに「谷」であることが分かります。 方角の問題は、本当に素人なもので、興味深く拝読しております。現在の防衛省の位置にあった、かつての陸軍の施設がどっちを向いていたのか気になりますね。 皇居(かつての江戸城)に取り入れられた風水の思想が、その後の例えば靖国神社の創建当初に生きていたのか、あるいは逆に徳川の霊脈的なものを断ち切ろうとする思いがあったりしたのか…時代ごとに切り分けて、施設をマッピング→それぞれの向きから都市の成り立ちを考察する…なんてできたら楽しそうだなと思ってしまいました。学生時代にやりたかった…(マニアックすぎて興味を持ってもらえなさそうですが😂😂😂)
@user-yg9uy6wi7r
@user-yg9uy6wi7r Жыл бұрын
こんにちは!前回はお岩さんでしたっけ?四谷は大阪の四橋と同じ意味合いと思いましたが。須賀神社の下、若葉町は鮫川の畔でその意味でカッパなのです。その川にかかってた橋が鮫が橋。
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk Жыл бұрын
四谷周辺はお岩さんに四谷荒木町、そして迎賓館、紀尾井町と、何度も取り上げてきたお気に入りのエリアです☺️歴史がびっしり詰まっている感がたまりません(笑) かっぱ=河岸、なるほどです…東京の河童伝説を追究したくなってきました。ありがとうございます!
@black-bg1fc-Diana
@black-bg1fc-Diana 2 ай бұрын
四ッ谷界隈は若い時分よく訪れていた。四ッ谷駅から信濃町駅😊。信心が濃い町😊
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk 2 ай бұрын
信心…そう言われてみると、たしかにですね!! お寺も神社も教会も、そして既存のカテゴリに入らない教えに関する施設もたくさん…
@black-bg1fc-Diana
@black-bg1fc-Diana 2 ай бұрын
@@tokyo_historical_walk チガウチガウ。3色旗。創価学会の本部施設が建っているの☺️最近お亡くなりに成った池田大作名誉会長の自宅・聖教新聞社本社が有ります☺️
@akirakaneda1754
@akirakaneda1754 Ай бұрын
@@black-bg1fc-Diana 信心がたりーんw
@user-rz1qd7rt9n
@user-rz1qd7rt9n 24 күн бұрын
鮫川 おそらく千駄ヶ谷方面から千日谷方面から南元町の流れでしょう。 ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AB%E6%B2%B3%E6%A9%8B 若葉の道の流れ初めに水源地はありません。井戸はあります。 若葉については、もともとかなり深い入り江であったといわれています。 鮫が橋の場所は赤坂御用地の前です。 鮫が橋の貧民窟は二葉保育園や南元町公園あたりです。 周辺の低地一帯だったのでしょうが、戦後は都心部であり、開発が進んでいます。 「君の名は」の主人公の「滝」の自宅のマンションの場所でもあります。
@vincero8924
@vincero8924 Жыл бұрын
南元町交差点あたりで ビートたけしさんがバイクの転倒事故起こされて 大変なことになってましたね 知らずに通りかかって血のりがベッタリ残っていて ここもしかしてと思っていたらやはりそうでした その近くにせきとめ稲荷があったので無事回復されたのでしょうか 映画「御法度」で土方歳三役を演じておられたビートたけしさん 大京町も近いので沖田総司に護られたのでしょうか 狭い狭い路地裏にある 須賀神社があんなに外国の方で賑わっていたとはw この一帯パワースポットなのかも知れませんね
@vincero8924
@vincero8924 Жыл бұрын
映画「御法度」って1999年制作でしたね 脳内で時空が歪んでしまいました! コメント欄汚してしまってすみませんでした! 以後気をつけます本当に本当にすみません!
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk Жыл бұрын
お気になさらず…!!沖田総司に守られたからこそ、たけしさんが映画に出演できるまでに回復されたのかも!? しかしコメントいただくまで、たけしさんの事故現場と、あの場所が頭の中で結びついていませんでした💦緩やかなカーブと、夜間はかなり薄暗い道。運転気をつけなければ、ですね。
@kg6156
@kg6156 2 ай бұрын
若葉町の谷の商店街通りの食堂に通っていました。ああ、貧民窟の食堂だったのか。なんか病的雰囲気あった。
@yuki-sv8oo
@yuki-sv8oo 2 ай бұрын
面白いなあ。 つい、登録てしまった!
@tokyo_historical_walk
@tokyo_historical_walk 2 ай бұрын
ありがとうございます!!!
@narihira572
@narihira572 10 ай бұрын
私の祖父母と叔父の墓が四谷にあるので面白く拝見しました。しかしこの動画では、あの貧民窟の跡は全く紹介していないのは残念です。細い道が多少曲がりながら続く場所です。左右の路地に入るとすぐに行き止まりになります。つまり両側を石垣に囲まれた谷のような場所です。中央線の四谷から信濃町に向けトンネルを抜けるとすぐに右手に盆地状の地形が見えます。それがあの東京最大の貧民窟があった場所です。信濃町の高台には慶応大学付属の病院、さらに創価学会の建物や施設が集積しています。坂を四谷方向に下ると鮫ヶ橋地区になります。皮肉なことに四谷側の高台には学習院の初等科もあり、まるで「天国と地獄」が同居していたような不思議な場所です。
@misaki4848
@misaki4848 Ай бұрын
おぉ東京deep案内のつべ版でsky
@user-mx8dv1co8i
@user-mx8dv1co8i Ай бұрын
渋谷赤坂四谷全部崖地、えた、ひにんが😅暮らしてた、江戸時代のはなし
@Badchinkoman
@Badchinkoman Жыл бұрын
今日は特に色っぽくて好きですは❤
@AlternateUniverseNORI
@AlternateUniverseNORI Жыл бұрын
美人過ぎる😖
@user-kk1cc9yz4z
@user-kk1cc9yz4z 2 ай бұрын
なぜ学習院初等科のことが語られないんでしょうね。
@akio8494
@akio8494 28 күн бұрын
東京は高低の激しい地形です。なので、低地にはその名がつけられました。四ツ谷、市ヶ谷、千駄ヶ谷、渋谷等です。昔の富裕層は高台に住み、貧困層は低地に住みました。なので、谷のついた地名には必ず貧困層が住む地域があったはずです。こうした事実をちちんと動画で報道してください。
@skyupend
@skyupend Ай бұрын
誰かに似てるなと思ったら大沢逸美さんに似てません?
@ohtayukiho6444
@ohtayukiho6444 2 ай бұрын
1960年代の東京オリンピックで貧民窟が整備されたとは大きな時代錯誤ですね。あなたの言う貧民窟とはいつ頃のことでしょうか?江戸時代は服部半蔵(皇居半蔵門)の忍者や鉄砲隊の居住地だった地域です。貧民窟とか残飯屋とは大正中期、昭和初期頃、地方から移り住んだ人間が市ヶ谷の陸軍省(現在の防衛省)の食堂の食材を(兵隊は腹ペコですべて平らげるので残飯は出ない)を陸軍省の人間が横流しして売っていたようです。これを作家の永井荷風が日本一の「貧民窟」「陸軍省の残飯をあさる」として記したことで有名になったようですが、大正末期ごろは都内にはこうした貧しい地方出身者が寄り集まった地域がたくさんありました。高級住宅地といわれる港区麻布や上野、谷根千といわれる鶯谷、谷中、根津、千駄木、浅草、等々にも貧しい人が寄り集まって住む地域がありました。足立区には大きなバタヤ部落と呼ばれる地域がありました。皆さん真面目に生業に従事して生計を立てていた地域です。それを「貧民窟」という言葉で貶めてはいけません。世界的に有名な繁華街の新宿歌舞伎町は戦後米軍の残飯を売る露店が活況を呈し、浮浪者や生活困窮者の集まるヤクザの巣窟でした。これを平定して現在の歌舞伎町を作ったのが台湾華僑、極東総連合の新宿大飯店の李氏です。歌舞伎町は戦後、戦地から引き揚げた人や地方出身者が溢れかえり、こうした人々の胃袋を満たすために、ドラム缶に入ったが米兵のたばこの吸い殻入りの残飯が飛ぶように売れ、この残飯が日本の復興の原動力になったということを忘れてはいけません。今更このような時代錯誤の「街」を時代考証も経ずに取り上げることは現在この地に住む住民の財産権や生活権を奪うことになることを肝に銘じ恥じることです。このSNSの発信者は地方出身者のようですね。現在の若葉町一帯は億万長者の資産家の住む地域に変貌しています。過疎化の進む地方の寒村とは次元が異なる地域ということが分かります。「時代を経て億万長者の街に変貌した、若葉町」と表記してはいかがでしょうか?
@user-lp5qf9nj1g
@user-lp5qf9nj1g 2 ай бұрын
まあまあそんな怒ることではないでしょう。歴史的事実ですから。ちょっとでも批判されると怒る自己愛が強いタイプですか?
@ohtayukiho6444
@ohtayukiho6444 2 ай бұрын
時代考証の間違いを指摘されて怒っているのは貴方ではないですか?自己愛が強いとはあなた自身のような気がします。不可解な返信ですね。訂正文を記載されてはいかがでしょうか。
@black-bg1fc-Diana
@black-bg1fc-Diana 2 ай бұрын
解説有り難う御座います🧕歴史は繰り返す😢。今後は元の貧しい町に成るのでしょう😢。下町😢
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