国鉄時代の今では考えられないくらいカオスすぎる列車をまとめてみた【ゆっくり解説】

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ゆっくり鉄道博物館

ゆっくり鉄道博物館

Күн бұрын

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@八神はやてチャンネル
@八神はやてチャンネル 9 ай бұрын
大垣夜行は懐かしいですね。静岡からの乗車のため参戦していないけど、駅弁争奪戦のあの光景は今でも鮮明に覚えています。
@榛名2010F
@榛名2010F 8 ай бұрын
大垣行きは学生の頃に静岡のタミヤのRCサーキットに行く時に何回か利用した事がありますね。 その後高校を卒業後に就職し数年後に旅行で利用しましたが当時と変わらず165系で懐かしさを感じました。
@a2s54ghu76
@a2s54ghu76 9 ай бұрын
所要時間が長いなどといった不便な部分はあったものの、機関車交換、方向転換、編成の分割併合などのための長時間停車を利用して、気分転換にホームの売店や蕎麦屋に立ち寄るという別の楽しみが大昔にはありましたね。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
郵便🏣・荷物📦車を併結した列車ではその積み降ろしの為に長時間停車するケースも多かったですね。
@hondaberuwo
@hondaberuwo 9 ай бұрын
桜島・高千穂時代に東京駅12、13番線のホームで見ましたが 「あの客車で西鹿児島まで行くんだ」と幼心ながら驚きました 丸一日以上あの座席で過ごすのかと思うと 想像しただけでも途方に暮れるほどでした
@坂田庄司-g6n
@坂田庄司-g6n 9 ай бұрын
鉄道ジャーナルかファンの特別号かなにかで記事を見た事があります。東京を出てから浜名湖の橋にて、並行している新幹線にいとも簡単に抜かれて行く様でした。
@下谷建起
@下谷建起 9 ай бұрын
それを言えば戦後の臨時普通の東京-早岐がある。勿論快速に近いが2泊3日必要。大阪迄の急行銀河ですら9時間。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
東京〜早岐間の臨時普通は宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」でもちょこっと紹介されていました。 当時の満州や朝鮮等からの引き揚げ者の輸送目的で設定されていたとか。
@Chu2007pae
@Chu2007pae 8 ай бұрын
鉄からすれば涎が出るほど乗りたい列車。
@雅夫大場
@雅夫大場 4 ай бұрын
@@Chu2007pae さま。 もし残存していても、起点から終点まで乗ったら…ケツ痛くなりそ… 九州「高千穂」は24時間をはるかに超える、同名列車と2度すれ違い。
@МасаёсиХаяси
@МасаёсиХаяси 9 ай бұрын
第二弾もできるな。 ・岩手循環急行「そとやま」、「五葉」 ・木曽経由が近いのに飯田線を経由して、上諏訪〜名古屋間を直通した急行「伊那1.8号」 ・小倉から大分、熊本を経由した循環急行「ひまわり」 など
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
態々遠廻りした急行といえば、他には上越線経由で上野と直江津を結んだ「よねやま」や東北本線・磐越西線経由で上野と新潟を結んだ「いいで」等が思い浮かびます。 第二弾が企画されるとすれば以下の列車の採用を期待しています。😊 1.気動車列車ながら運行区間の全線が電化されていた急行「しらゆき」(金沢〜青森)及び急行「赤倉」(名古屋〜新潟) 2.電車急行では唯一?の3層建てだった急行「きそ1号+天竜3号」「天竜8号」 (長野〜上諏訪・天竜峡・中津川) 3.1973(昭和48)年〜1978(昭和53)年の間、旧型国電80系で運用された急行「天竜1号」 (上諏訪〜長野、下り1本のみ) 4.南海の難波発着編成と天王寺発着編成を和歌山で分割・併合していた急行「きのくに」 (天王寺・南海難波〜白浜・新宮) あと、長門市で分割した2本の編成が下関で再度併結して博多方面へ向かう「離婚・再婚列車」こと急行「さんべ」は絶対に外せません(笑)
@雅夫大場
@雅夫大場 3 ай бұрын
@@kiha110oykot さま。 西日本の復縁列車は、過去に十津川シリーズにもありましたよ。 ただ、当時のドラマ、列車名は「あきよし」のような…ワシの記憶違いかもしれません。
@TSUYOS185
@TSUYOS185 9 ай бұрын
日本の鉄道の歴史史上の最長長距離鈍行は戦時中の1942から1943年まで運転された鹿児島→東京の34列車かと思います。 停車駅はなんと250駅以上、41時間25分。 鉄道は兵器と言われ、ひとつのボックスに6人、肘掛けも無し。快適な旅など望めるはずは無かっただけでなく定時運転すらままならないものがあったのかもしれませんね。 ダイヤとしては後の112列車に続くものがあるものの、戦時中と戦後の復興期では車内の雰囲気に大きな違いがあったものと思います。
@柳健-t5u
@柳健-t5u 9 ай бұрын
白鳥は14両が最盛期でしたよね、青函連絡船への接続ダイヤが組まれていたし。あと、大垣夜行は知り合いから聞いた話で東京からサラリーマンが自分の向かいに座って寝てしまい、いつまでも起きないから「どこまで行くんだろう?」と思っているうちに自分もウトウトして豊橋近くで起きたらまだ乗ってて、岡崎近くで起きたその人が「え、ここ何処?」みたいな顔してたから「岡崎ですよ、ここまで来たら名古屋から始発の新幹線で帰った方がよろしいですよ、出勤時間に間に合いますよ」とアドバイスしたと言ってた。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
1965(昭和40)年に「信越白鳥」が分離・独立した際に編成が14輌に増強されましたが、同時にそれまでの水原経由から新潟経由に変更されて最長距離の昼行特急となりました。 (14輌中4輌は新潟で増・解結)
@シュウ-y2p
@シュウ-y2p 9 ай бұрын
​@@kiha110oykotいや本気の白鳥は気動車での分割列車だから しかも碓氷峠超だ
@bbaa7722
@bbaa7722 8 ай бұрын
​@@シュウ-y2p 直江津で分割併合してましたよね。ハロシハハハハの2セットの14両で。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 8 ай бұрын
@@bbaa7722 「信越白鳥」併結時代はハロシハハハの6輌がワンセットで大阪〜直江津間は2編成併結の12連でした。
@昇益田
@昇益田 9 ай бұрын
急行高千穂は,最初は鹿児島まで行ってなかったわけではなく, 鹿児島を越えて都城まで行ってたはずだと思います。 1951年には鹿児島までに短縮されました。
@東武朝霞
@東武朝霞 7 ай бұрын
高千穂は日豊線経由ですよ。
@雅夫大場
@雅夫大場 3 ай бұрын
失敬かもですが、ソレって「桜島」か「霧島」かと…
@essauouo5251
@essauouo5251 9 ай бұрын
かなり昔のことですが、就職で最初に赴任したのが都城だったんで、職場には、以前、高千穂に乗って関西や関東に行っていた人がまだまだいました。 なにか特別な列車だったみたいな感慨はなかったみたいで、とにかく疲れたという話でした
@manabuikarasi994
@manabuikarasi994 9 ай бұрын
名古屋発名古屋行きとか名古屋発大社行き(京都大阪は経由せず)とか名古屋発のキテレツ急行列車は印象深い
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
名古屋発着の急行では、運転区間こそ名古屋〜新潟(中央本線・篠ノ井線・信越本線経由)とオーソドックスだったものの、1973(昭和48)年〜1982(昭和57)年までの間に全区間電化されていながら気動車で運行された「赤倉」も印象深いですね。 この他には、長良川鉄道の前身の越美南線へ直通していた「おくみの」や、季節運行ながら「のりくら」と併結して富山地方鉄道に乗り入れていた「うなづき」(宇奈月温泉行き)と「むろどう」(立山行き)も印象深いです。
@吉澤直樹-c6m
@吉澤直樹-c6m 9 ай бұрын
千葉県民からすると4分30秒頃の色の表示が逆で残念。房総各線は色で区別することがあり(113系ローカルでは先頭の行先幕がそうだった)、内房線は青、外房線は赤、総武本線は黄色、成田線は緑。千葉駅の案内も色で区別されている。
@МасаёсиХаяси
@МасаёсиХаяси 9 ай бұрын
房総循環列車廃止は、大網駅短絡化の悪弊。 大網駅を短絡化しなければ、蘇我発車後に1回方転したので、ATC対応の車両でも支障なく循環運転できた。
@miharu3748
@miharu3748 8 ай бұрын
鉄道ユーチューバーが歓喜しそうな「乗ってみた」動画向きの列車ばっかりですねー 昭和30~40年代にタイムスリップして当時の鉄道旅行を飽きるまで楽しんでみたい衝動にかられます
@Miki_Nanase
@Miki_Nanase 8 ай бұрын
天王寺→名古屋行き紀勢本線回り「南紀」 確か22:00発
@bouzkempou
@bouzkempou 9 ай бұрын
山陰号・出雲市行きの客車列車が懐かしいです。 そういえば山陰ホームでも荷物の積み込みも盛んにやっていたのを思い出す。二条駅にも貨物ヤードがあった。今は影も形もない。
@minakatamanabu7413
@minakatamanabu7413 9 ай бұрын
故・松本零士氏が小倉から上京する際に乗ったのが112列車。ちなみのその車内で見かけた物凄く綺麗なお姉さんをモデルにしたのが999のメーテル。
@爺ステフ
@爺ステフ 9 ай бұрын
案外『天王寺~和歌山~白浜~新宮~亀山~奈良~天王寺』なんてのがあっても面白いかも。
@雅夫大場
@雅夫大場 3 ай бұрын
現実には、名古屋「くろしお」がありましたけどね。
@matsukaze1001
@matsukaze1001 9 ай бұрын
名鉄としては東海北陸自動車道が延伸されたことに伴い、名古屋ー高山の輸送を高速バスに切り替えたかったのでしょう。 なのでJRに乗り入れる北アルプスを廃止したのでしょう。
@МасаёсиХаяси
@МасаёсиХаяси 9 ай бұрын
あと、4年待てば中部国際空港が開港し、14年後には北陸新幹線開通で富山早朝発の「しらさぎ」がカットされて、「北アルプス」の儲けの源泉ができたのにと思う。
@FujiwharaMitsuhiko
@FujiwharaMitsuhiko 8 ай бұрын
寝台列車は本当に使い勝手が良かったです。大阪朝一の時は、銀河。広島朝一はあさかぜ。前泊は前日の残業が出来ず、バスもなく、唯一の選択肢だったな。24時間戦わなくなったってことだろうけど、やっぱ現地朝一の寝台はきちょうでした。あと、札幌で遅くまで飲んでも、寝台急行で青森に行き、はやぶさ一番電車に乗ると、飛行機より早く帰ってこれました。こう言う時間の有効活用ができなくなったのが寂しいです
@arishin683
@arishin683 8 ай бұрын
飛行機や新幹線の方が時間を有効活用できてる人の方が圧倒的に多いだろうからな 寝台が無くなったいってしまったのは仕方ないと思う
@spock_0118
@spock_0118 8 ай бұрын
奥羽本線の514列車は、時刻表で初めて見たときにインパクトがあった。青森を23:50に出て大阪に6:21(翌々日)、本州内の移動なのに翌々日かと思ってびっくりしました。循環列車は、大阪発大阪行きの臨時急行が71年に走ってましたね。
@shingoyamamoto7057
@shingoyamamoto7057 8 ай бұрын
サラリーマンをして東海道線で平塚まで通勤してました。銀座で飲んで新橋から東海道線のホームにいると何本か夜行列車、ブルートレインが九州に向けて走っていました。飲みすぎた最後の砦が大垣夜行。これで寝すぎると浜松で対向列車で翌日には都心に戻れるとの都市伝説?懐かしいなぁ。。
@プー子-q1p
@プー子-q1p 7 ай бұрын
面白かったー、またお願いします
@榛名2010F
@榛名2010F 8 ай бұрын
私鉄では相鉄と東武を結ぶ海老名~小川町が最長ですが国鉄やJRはスケールが違いますね。
@藤原鎌足の子孫
@藤原鎌足の子孫 9 ай бұрын
「くろしお」は名古屋にも発着していたとは…
@まるかつ鉄道
@まるかつ鉄道 9 ай бұрын
確か「くろしお」の相方だった急行「きのくに」にも紀勢本線経由の名古屋行きがあったはずですよ。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 8 ай бұрын
新宮までB寝台車を連結していた夜行普通列車「南紀」→「はやたま」(924レ・921レ)も昭和57年までは天王寺〜名古屋間を直通していました。
@藤原鎌足の子孫
@藤原鎌足の子孫 8 ай бұрын
@@kiha110oykot 釣り客が多かったあの列車ね
@maironef
@maironef 8 ай бұрын
かつての大阪―直江津―上野間を結んだ❝信越白鳥❞が、今日の北陸新幹線構想のモデルと言えるだろうか。因みに1961年の運航開始当初、横川ー軽井沢間はアプト式で、そこを登る時は現在の駅伝選手並みの鈍足であったらしい。その代わり、軽井沢―長野間は無停車、上田も小諸も止まらなかった。
@トシくん-q7h
@トシくん-q7h 8 ай бұрын
時刻表が愛読書だった小4の夏休み、「みさき」 で電化されたばかりの房総半島を回ってきましたよ〜。ただ丸々一周はしないで、館山からはこれもデビューしたばかりの 183 系 「さざなみ」 で帰ってきました。まだ “乗り鉄” なんて言葉も無かった頃です。
@katochan250
@katochan250 9 ай бұрын
臨時でも循環運転をJRさん、是非とも復活させて下さい!
@下谷建起
@下谷建起 9 ай бұрын
いや、それはATSが問題になる。循環させると車両が逆向きになりATSが誤作動する。
@katochan250
@katochan250 9 ай бұрын
確かに 今はそうなりますね
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
循環ルート上で一度スイッチバックすれば編成は同じ向きのままで始発駅に戻れますね。😀 (「すわ」「のべやま」「信州循環列車」は小淵沢で、「五葉」「そとやま」は釜石で、「いぶり」は倶知安でスイッチバックしていた。) 「こがね」「しろがね」も米原・富山・岐阜と3回スイッチバックするので同じ編成の向きのまま名古屋に戻れます。 でもそうなると「なぎさ」「みさき」が蘇我〜両国間で逆向き編成のままで戻れた理由は何だったのだろう?🤔 蘇我〜両国間が複線だったから? ATSの仕組みに詳しい人の解説を待つかな…。 まさかとは思うけど誤作動のリスクが発生するのはATSではなくてATCだったというオチじゃないですよね!?😅 (フィクションだけど西村京太郎の作品に「わかしお」用のATC付き183系0番代が逆向き編成で東京駅の総武快速線地下ホームに戻って来る描写がある)
@たつ-e5g
@たつ-e5g 8 ай бұрын
山手線をご利用ください
@SGPlo
@SGPlo 8 ай бұрын
今は事実上観光列車がやってるな数日かけて始発駅にまで戻ってくる
@shingo19660720
@shingo19660720 9 ай бұрын
ほぼ半世紀前に帰省するときに京都から出雲まで鈍行で叔父に連れて帰ってもらったことがあったけど十何時間かかって違う世界にいくかと思ったんですが、あれはただの鈍行だったのか。ガキだったんで詳しいことは分からず乗ってた。直角イスでどう寝るんだと思ってたら、周りはイスの下や床で寝てた。自分はイスで横になって寝かしてもらった。
@user-lv4yd5lo7g
@user-lv4yd5lo7g 8 ай бұрын
京都人はしゃしゃり出るの好きですね
@pastelpureakgjze5791
@pastelpureakgjze5791 8 ай бұрын
労働基準法の改正による交通業界の時間外・休日労働の規制の強化によって、貨客混載とか荷物列車の復活、貨物列車の運転の復活・拡大が求められていることを忘れてはならない。
@淡白直樹
@淡白直樹 9 ай бұрын
ないぼう、がいぼうて読み間違えだと思った
@稲妻雷之進
@稲妻雷之進 9 ай бұрын
東京発大垣行の夜行は大阪万博への往復に使った。同じ目的の人が多かったのか終点まで混んでいた。
@SILPH9
@SILPH9 9 ай бұрын
学生の時大阪・大分間をムーンライト九州で行ったことあるけどダイヤモンドフェリーを利用したらザコ寝だと途中の電車賃合わせても安くて快適だったので1往復しか使わなかった。 寝台特急富士を使うことも考えたけど、新幹線(のぞみデビューしたてで乗りたかったのもある)+ハイパーにちりん使っても料金変わらないしフェリーの寝台料金払った方が遥かに安くて快適なので使わなかった。 でも一度くらい使えばよかったと後悔してます。同じくグランドひかりも使えばよかった。どちらもなくなってから悔やんでます。
@淡白直樹
@淡白直樹 9 ай бұрын
渚と岬なんていうのがあったんだね
@康治齊藤
@康治齊藤 9 ай бұрын
出雲市で分断する神をも恐れぬ
@Yukkuri_n-gauge
@Yukkuri_n-gauge 9 ай бұрын
間違ったこと書かないでくれ。 急行「霧島」と寝台特急「きりしま」のあいだには何の関連もない(ただ名前が移っただけ)。 「きりしま」の名前が新設特急に移されたから、従来の急行「霧島」が「桜島」に改称された、というだけのことだ。 それに寝台特急「きりしま」も、廃止されたのではなく「明星」に愛称統一されただけだ。
@bbmlukastudio
@bbmlukastudio 7 ай бұрын
房総半島を激走する暴走列車か🤣
@shimekawa-daishi
@shimekawa-daishi 9 ай бұрын
カオスすぎ ゆっくり鉄道博物館最高
@ToroInoue-c5y
@ToroInoue-c5y 9 ай бұрын
大垣夜行は165系時代、急行「東海」と共通運用だったので、グリーン車は簡易リクライニングだったよ。つまり固定せず、自分の体重で動かないようにするもの。少しでも寝返りしようものなら、ガタンと元に戻ってしまったものでしたw でも、大垣夜行という普通列車だったから許せたもの。同じ車両で急行「東海」になると、今度は急行グリーン券が必要になるので、急行「東海」だとグリーン車はガラガラでした。
@TSUYOS185
@TSUYOS185 9 ай бұрын
急行電車の間合い運用だったので簡単に戻る簡易リクライニングではありませんでした。フルリクライニングでしたよ。 東海道線の朝2番の下り電車も他の電車のグリーン車と違い乗り得グリーン車でした。
@aya19720603
@aya19720603 9 ай бұрын
165系のグリーン車は簡易リクライニングシートではないです。フルリクライニングシート(簡易リクライニングシートとはリクライニングする角度も違います)で座席モケットが異なるだけで特急形グリーン車と同じ座席です。 もし乗車時にリクライニングが戻ったのなら、単にその座席が壊れていただけですね。 大垣夜行、当初は東京〜大阪間の客車夜行時代の143レ、144レの列車番号を引き継ぎ、143M、144Mでした。 ちなみに私が初めて乗った大垣夜行は144Mのグリーン車で、その時に車内で購入したグリーン券を今でも持っています。
@klti29
@klti29 8 ай бұрын
簡易リクライニングは、14系客車のハザの初期バージョンだろが
@spy007ex4
@spy007ex4 6 ай бұрын
リクライニングで全然違う話を思い出しました。上野~秋田を結ぶ定期ディーゼル特急「つばさ」、多客期になると客車の臨時列車が出るのですが、時刻表に「この列車の特急料金は100円引きです」との記載。何故だろ、と思ってみたら、リクライニング座席のないボックスシートの12系でした。
@GIANT-u1q
@GIANT-u1q 9 ай бұрын
寝台なしでも寝れる寝れる。野営の経験があると屋内ってだけで天国に思える。
@坂田庄司-g6n
@坂田庄司-g6n 9 ай бұрын
かつての国鉄で非電化区間を循環運転するディーゼル急行が各地にたくさんあったのは驚き😊。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
本編中で紹介された列車の他には、札幌から千歳線・室蘭本線・胆振線・函館本線を経由して札幌に戻っていた「いぶり」、盛岡から花巻・釜石・宮古を経由して盛岡に戻っていた「そとやま」「五葉」、名古屋から米原・金沢・富山・高山を経由して名古屋に戻っていた「こがね」「しろがね」等がありました。
@山形祐介-e5l
@山形祐介-e5l 9 ай бұрын
@@kiha110oykot 「いぶり」と「こがね」「しろがね」はこのチャンネルの過去の動画ですでに紹介されています。
@坂田庄司-g6n
@坂田庄司-g6n 9 ай бұрын
@@kiha110oykot 「五葉」の逆回りが「そとやま」という名称だと聞きました。
@稲妻雷之進
@稲妻雷之進 9 ай бұрын
山形県の日本海側の小都市の小学校にいたが初めて特急列車が来るというので校内全員と鼓笛隊で歓迎した。
@MARIOATUSHI
@MARIOATUSHI 9 ай бұрын
今の時代の乗り鉄の人もギブアップしそう。
@USER-kk8ok
@USER-kk8ok 4 ай бұрын
いやいやそんなことはないでしょう 本当に好きなものは人を容易く動かしますから 鉄じゃない昔の人はそれでも移動できてたんですからね
@まるかつ鉄道
@まるかつ鉄道 9 ай бұрын
特急「北アルプス」は、名鉄が専用車両を用意して、国鉄、JRの路線に取り入れた点で異色の列車ですが、ハイシーズンには、更にその先の富山地方鉄道にも取り入れて、富山地方鉄道線内の特急運用に用いられたことも異色。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 8 ай бұрын
夏季には富山地方鉄道の立山まで乗り入れた上に立山〜宇奈月温泉間の「アルペン特急」にも運用されていました。
@雅夫大場
@雅夫大場 3 ай бұрын
今ぢゃ、新幹線建設で富山地鉄への連絡線が撤去されて、物理的に直通不能になったらしい… ソレについては、鵜沼駅構内も然り。
@МасаёсиХаяси
@МасаёсиХаяси 9 ай бұрын
大垣夜行は、飯田線豊橋発初発に接続する列車も兼ねていました。 大垣夜行廃止後は、同じ静岡県内なのに、浜松駅から最早で水窪や小和田に着くのが10時過ぎ(現在は11時過ぎ)になった。 ちなみに、東海道本線二川駅(豊橋の東隣)の下り大垣(米原)行の初発は6:28で、前にもう一本あっても不自然でない時間です。
@LUNA-lg4pf
@LUNA-lg4pf 8 ай бұрын
キハ8000懐かしい。気動車が名古屋駅の地下ホームに入ってくる光景はカオスだった。発進の時は排ガスモクモクで駅構内はさらにカオスになるけど、あの匂いが大好きだった。
@岡村充康-h9z
@岡村充康-h9z 9 ай бұрын
大阪~上野間の信越白鳥は独立して上野~金沢間上越線経由のはくたか(初代)となりました。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
信越白鳥が分離・独立した初代「はくたか」は当初はそのまま信越本線を経由していました。 1969(昭和44)年の北陸本線全線電化の際に上越線経由に変更されて485系12連に編成変更。 余談ですが、その後の1972(昭和47)年には信越本線経由で上野〜金沢間を結んでいた昼行の客車急行「白山」が489系12連の特急に格上げされました。
@sinicitakado
@sinicitakado 8 ай бұрын
内房は「うちぼう」である。 ないぼうとは言わない‼
@康治齊藤
@康治齊藤 9 ай бұрын
新快速はまさに私鉄の急行特急に討ち入りしている!
@坂田庄司-g6n
@坂田庄司-g6n 9 ай бұрын
「白鳥」が青森、上野行きの2階建ての時、それぞれに食堂車連結、運営会社が違ったので、財布と腹に余裕がある場合は「食べ比べ」も出来たというエピソードを聞いた。同様の例が近畿圏発着でキハ82になった際の「かもめ」こちらも両方向に食堂車連結、運営会社も異なるので同じ事が味わえたとの事。
@雅夫大場
@雅夫大場 4 ай бұрын
「さくら」も「はやぶさ」と併結前は長崎発着、佐世保発着共に食堂車があったらしい。 但し…非営業で、売店扱い。
@もりわききくお
@もりわききくお 9 ай бұрын
魔理沙さん、霊夢さんこんばんは!臨時列車ではあるけれど、大阪発大阪行きの循環急行アルベンという列車がありました。この列車は12系客車列車で、大阪を出ると東海道本線・中央西線篠ノ井線信越本線北陸本線東海道本線を経由して大阪に戻ってきていました。また定期では急行しろがねとこがねがありました。名古屋から東海道本線・高山本線北陸本線東海道本線と周り、名古屋に戻っていました。それと敦賀から播州赤穂行きは、敦賀からの車両は姫路止まりで、播州赤穂行きは米原からの車両て、厳密には米原から姫路までに車両を乗り換えなければなりません。また144レは大垣始発の昼行列車に代わっており、大垣を午前3時過ぎに発車していました。夜行の344Mはそれまでの豊橋始発を、大垣へ延長された列車です。この列車は元々姫路発東京行きだった列車です。
@りゅう-p8v
@りゅう-p8v 9 ай бұрын
大垣夜行でやらかした事あります。 当時、上野で飲んで、横浜駅に近い我が家に帰るのに、東京駅から東海道線に乗り換えたんだけど、たまたま大垣夜行に乗って、たまたま窓側の席に座れて、品川を出発したあたりでウトウトして、そのまま爆睡。 目が覚めた時に、車内放送で「まもなく名古屋駅に到着します。」ってアナウンスで、頭の中が「!?」ってなり、名古屋駅で下車。 そのまま改札口に向かい、乗り越し精算(横浜〜名古屋)して、新幹線こだま号で帰ってきました。
@まるかつ鉄道
@まるかつ鉄道 9 ай бұрын
大垣夜行(のちの「ムーンライトながら」)の完全自由席時代ならではのアクシデントですね。関東エリアから寝過ごしていきなり中京エリア連れて来られたら、そりゃ頭真っ白なりますわ😱。
@pin5861
@pin5861 9 ай бұрын
普通列車の過去最高記録は鹿児島発東京行34レでした。 鹿児島10時発東京には翌々日14時25着でした。
@やまさききまぐれ
@やまさききまぐれ 9 ай бұрын
十和田、八甲田はゆうづる、はくつる、あけぼのと重複して走ってたような。長距離普通だと、上野→長岡、上野→いわき、新宿→松本は子供の頃に見た記憶が。福知山線→山陰線だったか阪和線→紀勢線で普通列車に寝台車が付いてたのもあったような。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
上野⇔青森間を結んでいた特急・急行は経由路線毎に以下の様に分けられますね。😊 ゆうづる⇔十和田(常磐線経由) はくつる⇔八甲田(東北本線経由) あけぼの⇔津軽(奥羽本線経由) 上野→長岡間の普通列車のうち下りの夜行便は長岡から列車番号を変えて車輌自体は新潟まで直通していました。 新宿発着の中央東線の長距離普通列車は1985(昭和60)年までは長野発着の列車もありました。 夜行便も1往復設定されていましたが、このうちの下り列車が後の「山岳夜行」につながりました。 B寝台車を連結した夜行普通列車は山陰本線では「山陰」(京都〜出雲市)、紀勢本線では「南紀」→「はやたま」(天王寺・和歌山市〜新宮〜亀山〜名古屋)の愛称が付いていました。 (愛称が付いていたのはB寝台車を連結していた天王寺〜新宮間のみ) B寝台車付きの普通列車に愛称が付いていた理由は、座席・寝台予約システム「MARS(マルス)」に情報を収容する為です。
@もりわききくお
@もりわききくお 8 ай бұрын
魔理沙さん、霊夢さんこんにちは!急行きりしまと高千穂は、ヨンゴウトウダイヤ改正までグリーン車を含めて、全車自由席でしたね。ヨンゴウトウダイヤ改正できりしまは、桜島に改称されると同時に、グリーン車は高千穂も含めて全車指定席になりました。食堂車は、桜島に連結されていてヨンナナサンダイヤ改正で外され同時に郵便荷物車も外され桜島と高千穂は、同一編成になりました。それまでの桜島はグリーン車と食堂車を含めて7,両編成で、高千穂はグリーン車を含めて6両編成でどちらも鹿児島運転所だっので桜島編成も高千穂編成も3本必要だったことになります。また末期を除いて基本的には軽量客車ナハ10やナハ11などで、グリーン車は冷房改造されたオロ11が使用されていました。オロ11は、ゴウマルサンダイヤ改正で、全て廃車されました。やはり軽量客車が、わざわいしたようです。
@雅夫大場
@雅夫大場 9 ай бұрын
13:20 北アルプスは鉄道史に「爪痕」⁉ 「足跡」と表記した方が適切かと…
@雅夫大場
@雅夫大場 4 ай бұрын
@@Arakaky さま。 「戦争の…」とか「攻撃の…」とかの、「負」の印象が個人的に思われたので… 決して、悪意とか人格否定は皆無です。 気を悪くされたようでしたら、お詫びいたします。
@もりわききくお
@もりわききくお 9 ай бұрын
魔理沙さん、霊夢さん!こんにちは!北アルプスのキハ8000系には最初当時の1等車が連結されていました。またこのキハ8000系は、車体幅が狹くまた台車がコイルバネであまり乗り心地は良くなかったです。当時の国鉄特急型は、エアサスだったので北アルプスが特急格上げされたときには、唯一のコイルバネ台車でした。
@47秒31
@47秒31 2 ай бұрын
「西村京太郎トラベルミステリー」のネタにもなった名車ばかりですね。特に"北アルプス"が手掛かりになった事件ではTV📺の前の鉄ちゃんは皆ガッツポーズでしたに違いありません。 「かめさん!!…」
@vilolet666
@vilolet666 6 ай бұрын
単なる夜行列車でも、今から思えばカオスですね。
@大坂孝幸
@大坂孝幸 9 ай бұрын
とんでもない循環列車があった。
@生涯いち平社員
@生涯いち平社員 9 ай бұрын
超長距離の過酷さは伝わったけど、そもそも始発から終点まで全区間乗り続ける人ってそんなにいたんですか?
@piccarinyo
@piccarinyo 9 ай бұрын
列車名、「うちぼう」と「そとぼう」ね。 音声と字幕が違ってた。
@敏彰三浦
@敏彰三浦 9 ай бұрын
難波から成田空港に行く列車あったような……
@A1234-q3p
@A1234-q3p 9 ай бұрын
😂ないぼう❗ がいぼう❗じゃあないど‼️😠 うちぼう❗そとぼう❗じや‼️
@pin5861
@pin5861 9 ай бұрын
昭和41年3月5日の急行格上げ直後は、「がいぼう」でした。 「ないぼう」の方は私はわかりません。 尚、その頃の沿線の古くからの住民は、 「がいぼう廻り」・「ないぼう廻り」という言い方が当たり前でした。
@superhitachi651
@superhitachi651 8 ай бұрын
北アルプス最後の2001年夏に新名古屋〜下呂まで乗車しました。名鉄の乗務員さんが、JR高山線の美濃太田までそのまま乗務したのも特徴的でした(そう言えば上りの北アルプスが来るまでは数時間あったはず。単純に折り返しさせるには待機時間がありすぎるので、名鉄の乗務員さんはどうやって帰っていたのだろう…同様に上り列車の名鉄の乗務員さんを送り込むのはどうしていたのだろう)。
@松本政行-c3s
@松本政行-c3s 8 ай бұрын
名鉄乗務員(要は運転士や車掌)が国鉄(→後のJR東海)美濃太田駅まで乗務していた理由ですが、それは、通過となる新鵜沼・鵜沼両駅構内の非電化「短絡線」が関係していたからなんです(←ここが重要ポイント)。今では宅地開発により、線路(と言うか、廃線)跡は僅かにしか残ってませんけどね。その為、帰りの「北アルプス」が戻らない事には、名鉄乗務員は何も出来なかったでしょうね…。
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古代ローマが面白い
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Alan Chikin Chow
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Alan Chikin Chow
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