全運行区間が電化されているのに気動車で運行されている急行列車をまとめてみた【ゆっくり解説】

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ゆっくり鉄道博物館

ゆっくり鉄道博物館

Күн бұрын

訂正
急行しらゆきの運行区間はたぶん全区間架線下気動車列車としては最長と説明しておりましたが、さらに長い列車がございました。
大阪と西鹿児島の約900kmを結ぶ特急「なは」で、1970年9月の電化完成後も、1973年10月に電車化されるまでの3年間だけ、全区間架線下気動車列車として運転されたそうです。
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鉄道唱歌-First Train Arrange-【DL】
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#鉄道 #ゆっくり解説

Пікірлер: 217
@Boke新人おっさん
@Boke新人おっさん 9 ай бұрын
JRの急行を見なくなる時代になるとは思わなかった。
@ToroInoue-c5y
@ToroInoue-c5y 9 ай бұрын
わずかに、JR東海が臨時観光列車を急行で走らせますよね。飯田線秘境駅号、ぬくもり飛騨路号、伊勢号…。急行券を見られる貴重な機会です。 ただ、名古屋~尾張一宮の臨時「モーニングトレイン」は全車座席指定の快速でしたね。距離が短すぎて急行に出来なかったからw それでも40分かけてたけどw ※この「モーニング」は、喫茶店のモーニングを意味します。
@鉄道のファン-v8y
@鉄道のファン-v8y 9 ай бұрын
宗谷本線に急行復活なかった?
@yh6146
@yh6146 9 ай бұрын
名前だけの急行なら私鉄ではある。
@徳之広瀬
@徳之広瀬 9 ай бұрын
かっては東北本線急行仙台行Γまつしま」、常磐線経由急行Γもりおか」、上越・信越本線急行新潟行Γ佐渡」等特急列車を補完する列車が多数ありましたね。今となりますは懐かしい出来事です。
@psychedelicraspberry517
@psychedelicraspberry517 9 ай бұрын
​@@ToroInoue-c5y喫茶店も「朝」も同じ意味だがや😉
@勝人佐藤-b3b
@勝人佐藤-b3b 9 ай бұрын
常磐線にも気動車急行が走っていました、その列車の名前は現在特急で運転されているときわ号です。水郡線直通急行奥久慈号を上野ー水戸間併結運転されていました、上野ー水戸間の常磐線内の途中停車駅は我孫子、土浦、石岡、友部の4駅に停車していました。水戸ー平(現いわき)間の途中停車駅🚉は勝田、東海、大甕、常陸多賀、日立、高萩、磯原、勿来、植田、泉、湯本、終点平現いわき駅🚉の順に停車していました。
@中野義明-u1b
@中野義明-u1b 9 ай бұрын
この列車は勝田(現ひたちなか)に自分が勤めていた会社があったので良く利用していました。
@原田寛-e3u
@原田寛-e3u 2 ай бұрын
DC「ときわ」は夏期臨時として、勝田―阿字ヶ浦間の茨城交通湊線(現:ひたちなか海浜鉄道)に乗り入れる「あじがうら」が有りましたね。
@hisakounosuke2474
@hisakounosuke2474 9 ай бұрын
これら架線下急行の詳細は鉄道ジャーナル78年10月号にまとめられている。 多くの理由が東北・上越新幹線時に余剰となる特急用車両をこれらの急行に投入、運転区間を見直しして特急に格上げするつもりが新幹線の開業の遅れによって架線下急行のまま暫定的に残されたとの事。 78年10月の国鉄ダイヤ改正は東北・上越新幹線の開業の遅れによる後ろ向きな施策もあったので、こういう合理化しない合理化も指摘されていた。
@権三郎平衛
@権三郎平衛 9 ай бұрын
58系気動車で運転される定期急行「いいで」「ざおう」「出羽」「おが」などが残っており、昭和57(1982)年11月のダイヤ改正まで上野駅に顔を出していました。この年の6月に、東北新幹線の大宮⇔盛岡間が暫定開業したからです。 昭和60(1985)年3月は東北新幹線の上野延伸の年で、この時に無くなったのが、主としてキハ28編成の、常磐線の定期急行「奥久慈」「ときわ」併結列車の上野乗り入れです。 これで、東京23区内乗り入れの定期の気動車列車は完全に0になりました。 同年同月、関西では、昭和53(1978)年3月紀勢線電化後も走っていた気動車定期急行「きのくに」が南海電鉄乗り入れごと廃止になりました。 定期急行「アルプス」のキハ58、キハ65₅₀₀等による新宿乗り入れ定期気動車急行編成は、昭和50(1975)年3月で廃止になりました。 この急行「アルプス」は、大糸線経由で「糸魚川まで直通していた」関係で、気動車編成となっていました。 いずれも当初からの電化開業である、富士急行直通の「かわぐち」や、飯田線の「こまがね」もこれに合わせて気動車になっていました。 ついでに、小海線直通の「八ヶ岳」も付いていました。多層建て列車だったからです。 ちなみに私は、上記のすべての列車に実際に乗ったことがあります。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
「ときわ+奥久慈」に充当されていた車輌は1985(昭和60)年の「ひたち」への格上げ後は同年に現在のつくば市で開催された科学万博「EXPO'85」へのアクセス列車「エキスポライナー」に充当されていました。 自分が乗車した「エキスポライナー」は415系だったけど、出来れば気動車の「エキスポライナー」に乗車したかった…(苦笑)
@権三郎平衛
@権三郎平衛 9 ай бұрын
@@kiha110oykot さん エキスポライナーは、当時余っていた、ありとあらゆる車両を総動員させて、走らせていました。 「ときわ」+「奥久慈」用の気動車が、そんなところで使われていたのは知りませんでした。 貴重な情報をありがとうございます!
@mandshurica575
@mandshurica575 9 ай бұрын
びわこエクスプレス(2024ダイ改よりらくラクびわこ)の一部は全区間架線下ディーゼル特急ですな
@00Tohkichiro00
@00Tohkichiro00 9 ай бұрын
特急はまかぜ運用を大阪で終えた気動車を少しの時間を置いてそのままびわこエクスプレス運用に回し、野洲の車庫で一晩過ごした後また特急はまかぜ運用のために大阪まで回送される……という流れだった記憶。
@AKIRA-nn
@AKIRA-nn 9 ай бұрын
特急まいづるの一部列車もですね。丹鉄の丹後の海車両を使用。丹鉄の車両でありながら乗り入れ先のJR区間のみで完結するオマケつき。
@将棋仮面
@将棋仮面 9 ай бұрын
「赤倉」は今でも印象に残っている。
@勝人佐藤-b3b
@勝人佐藤-b3b 8 ай бұрын
急行しらゆき号の付属編成は途中秋田駅🚉で切り離し及び連結作業が行なわれていました、新潟ー青森間は逆編成で運転されていました。
@mad1186
@mad1186 9 ай бұрын
1971.4.2赤倉号に名古屋から長野まで乗りました。 中津川-塩尻と松本-篠ノ井とが非電化で塩尻からは逆編成になりました。 架線下急行といえば、仙山号にもDCで運転されたのがあったような。
@鷂よめないとり
@鷂よめないとり 9 ай бұрын
出島だけかい、と思ったら、相棒弓張もフォローしていて一安心。 かもめ・出島とみどり・弓張はどうせ全部格上げする気だろうと丸わかりの連番でした。 全部特急格上げ後も、食パン715系が入るまでは、長崎・佐世保線鈍行はキハ40かキハ58ばっかりでしたけどね。
@TSUYOS185
@TSUYOS185 9 ай бұрын
昼間のおが号は板谷峠を登るのに機関車の力を借りず自力で福島~米沢間を走っていたとのこと。大半が2つエンジン車だから出来たことと思います。なので最後まで大半が冷房のない車両でした。キハ181のつばさ号ですらこの区間を電気機関車が牽引していたことを考えると凄いことです。 この急行が1982年まで気動車だったのは上野から陸羽西線を通って酒田まで走っていた出羽号と共通運用をしていたこともあるかと思います。
@mad1186
@mad1186 9 ай бұрын
鉄道ジャーナル誌の列車追跡で下りの「おが」が取り上げられ、種村直樹さんが担当されてました。グリーン車以外全車非冷房で、カレチさんへのインタビューはグリーン車の空席で行われてました。急行型電車もEF71も不足で、仕方なくDCのままとのことでした。
@psychedelicraspberry517
@psychedelicraspberry517 9 ай бұрын
「おが」と「出羽」は別運用だがや。「出羽」は「いいで」と共通運用だがや😉
@qzp01467
@qzp01467 9 ай бұрын
急行は遅くても走れば急行料金を徴収できたが、特急は早く走らないと特急料金を徴収できないからキハ181系は機関車を補機として連結したが、キハ58系は峠越えで時速が10km/h代まで落ち込んでも許された。
@Chu2007pae
@Chu2007pae 9 ай бұрын
普通車まで冷房を付けるとパワー不足で急勾配を越えられなくなるからな。キハ65登場までは不可能な芸だった。
@けん-o4y
@けん-o4y 9 ай бұрын
​@@Chu2007pae中央線の「アルプス」に至ってはグリーン車も2エンジンのキロ58を投入してたな
@ゆっくりフラン姉より優れた妹
@ゆっくりフラン姉より優れた妹 9 ай бұрын
富士急行で走っていた両運転台のキハ58形は写真にあった通り、気動車急行廃止後和歌山の有田鉄道に譲渡され、レールバス導入時まで使用されていた。有田鉄道は既に廃止されています。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
有田鉄道譲渡後のキハ58は片運転台の58001・58002、両運転台の58003 の全車が片方のエンジンを下ろして1エンジン化されていました。 起点の藤並駅から優等列車が停車する湯浅駅まで乗り入れていた時期もありましたね。
@Chu2007pae
@Chu2007pae 9 ай бұрын
車体は今も有田鉄道の鉄道公園にあるんじゃあないのかな?
@第四軍道
@第四軍道 9 ай бұрын
小学校時代の修学旅行で「赤倉」に名古屋~松本でお世話になった 電車化されるわずか数ヶ月前の夏だったが 全区間架線下を走る気動車だったのにはそんな情けない背景があったとはw
@dodemoyokunai
@dodemoyokunai 9 ай бұрын
国鉄は1970年頃から急行型電車を製造しなかった。 そして東北・上越新幹線開業で、485系電車に余剰がでるので、それまで架線下気動車急行を残した。 そして特急格上げと共に電車化した。
@もりわききくお
@もりわききくお 9 ай бұрын
急行越後とゆのくに下りの2号と上りの3号はたしか1971年4月改正までは、ちくまとは、違った編成でした。またちくまには、キハ57型が連結されていたよつな気がします。この車両は元碓氷峠用としてエアサスでした。話は変わりますが、昔急行紀州にキハ57型とキハ65型が連結されていてグリーン車はコイルばのキロ28という編成があり、グリーン車以外はエアサスという不思議な編成がありました。グリーン車という対価を支払っていながらリクライニングシート以外は乗り心地は、悪いという最悪の編成でした。
@はーいしげっち
@はーいしげっち 9 ай бұрын
小学5年生の時、臨海学校で乗車した急行『深浦』が、五能線(非電化)・奥羽本線(電化)・東北本線(電化)・八戸線(非電化)にわたり運行してましたね。
@thunderbird1691
@thunderbird1691 9 ай бұрын
初👂~ぃ。急行越後・ゆのくには、大阪万博や輪島に行く時など、何度となく乗る機会があったんだけど、あれが急行「ちくま」の変わり身だったなんて凄い話。「しらゆき」にも載っていますが、冷房も効かない暑い車両で不満たらたらだったんですが、今となっては貴重な体験でした。ユートピア和倉なんて変体特急のひとつです。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
「しらゆき」のオマケ(笑)で紹介された「越後」は一足早く「53.10」改正で特急に格上げされ、同じ大阪〜新潟間を運転していた「北越」2往復と共に新潟発着の「雷鳥」に編入されました。
@権三郎平衛
@権三郎平衛 9 ай бұрын
架線下の気動車急行が生まれた主な理由には、165系や457系などの急行形電車の製造中止がある。 高速道路網ができつつあり、そこを走る長距離バスや観光バスなどは、すべてリクライニングシートが標準装備されているのが普通になってきた時代、急行形電車のボックスシートは陳腐化したものととらえられたからだ。 だから、急行形電車には限りがあり、電化してからも、すぐに電車の急行列車を仕立てるわけにはゆかなかった。
@mako9574
@mako9574 9 ай бұрын
大阪発新潟行の急行越後と特急北越は新潟行雷鳥に統合されたんだよな。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
「53.10」ダイヤ改正で「北越」2往復と「越後」1往復が統合されましたね。 この改正までは後に主流となる金沢発着の「北越」はイレギュラーな存在でした。 余談ですが、この「越後」は「36.10」ダイヤ改正で金沢〜新潟間に新設された気動車急行「きたぐに」をルーツとしていて、その後「38.10」改正で大阪〜新潟間に延長、「43.10」改正で大阪〜青森間に新設された寝台特急の愛称が「日本海」になった事に伴い、同区間で運転されていた夜行客車急行を「日本海」→「きたぐに」、従前の「きたぐに」を「越後」と改称したという経緯があります。
@asokuma1854
@asokuma1854 9 ай бұрын
架線の下を走る気動車優等列車といわれると、弓張と同じ運行区間を走ったオランダ村特急を思い出す。 イベント列車の意味合いが強かったが、電車と気動車の協調運転という頭おかしい(誉め言葉)列車だった。 その後継(ハウステンボス)もまた3階建て電車特急という頭おかしい(略)列車になったが。
@齋藤真一-g5i
@齋藤真一-g5i 9 ай бұрын
急行『しらゆき』の使用していた車輌は、東北地方の車輌を利用していたからなんだ。 それと、急行『白馬』は、大糸線の糸魚川駅から南小谷駅までが非電化だったからだよ。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 8 ай бұрын
ググってみたところ、「しらゆき」は基本編成、付属編成とも秋田運転区(現:秋田車両センター、秋アキ)の受け持ちだった様ですね。 秋田で増解結していた付属編成はそのまま出入庫していたのだろうけど、青森まで運用されていた基本編成はどうやって出入庫していたのだろう?🤔 秋田〜青森間の「むつ」で出入庫していたのかな?🤔 「白馬」は松本運転所(現:松本車両センター、長モト)が担当していました。
@けん-o4y
@けん-o4y 8 ай бұрын
​@@kiha110oykotということは70年代後半の七尾線は地元の金沢局(金ナナ・金サワ?)以外に大鉄局(大ミハ)、名鉄局(名ミオ)、秋田局、長野局のキハ58系が共演してた、と。
@日本語教師の端くれ
@日本語教師の端くれ 9 ай бұрын
キハ58系かっこいいな!
@ひるのいこい
@ひるのいこい 9 ай бұрын
おがの場合、急行用電車作る予算もなく、気動車は余っていたというのが大きいかと。キハ181系つばさですら板谷峠EF71補機併結だったのに、補機運用がなくキハ65も廻されず キロ以外全部キハ58(当然非冷房)で最後まで走っていました。
@のぞみ500ジャパン
@のぞみ500ジャパン 8 ай бұрын
キハ181は特急として時間稼ぎしたら、オーバーヒートしましたからね。58なら急行としてそこまで急がなくてよく、老体に鞭打つ使い方ですね。本来は急行だから春が帰って来たともいえますが。65は181同様にハイギヤードだから板谷峠に来なかったかな。変速1段で走るには最高速85キロ。勾配だから50キロ出せないかも。だからといって2段目では登れないよ、58は変速1段は45キロ強。181は屋根上ラジエーターも災いした。58でゆっくり行くのがベストなのかも。2エンジンもあってます。
@TotaniMasayoshi2
@TotaniMasayoshi2 9 ай бұрын
「おが」は秋田駅到着後に間合い運用で男鹿線で使われたと聞いたことがあります。それが架線下ディーゼルである必要があったかどうかは不明ですが。
@クモハ165
@クモハ165 6 ай бұрын
「なは」や「佐渡」みたいに愛称の土地まで行けないわけでもないのだから、男鹿行きでも良かったと思いますな。ダイヤの都合とかもあるんでしょうが。(´Д`|||)
@けん-o4y
@けん-o4y 9 ай бұрын
「しらゆき」「赤倉」のついでに紹介されてた「ちくま」のついでの運用だったw能登半島直通「ゆのくに」は母方の田舎が廃線になった能登線沿線だったので、1978年の廃止まで、年に一回のペースで乗ってたな。 そういや今の和倉温泉行サンダバの大阪発車時間て、当時「ゆのくに」とあまり変わらなかったな(和倉温泉到着時点で2時間くらい差はついてたが)。
@徳之広瀬
@徳之広瀬 9 ай бұрын
仙山線・奥羽本線・米坂線・羽越本線・白新線経由仙台~新潟間の急行Γべにばな」もキハ58系気動車だったなぁ~、5時間半近く狭い4人掛ボックスシートに乗っているのはまさに苦痛だったなぁ~。
@ぶたさんプヒー
@ぶたさんプヒー 9 ай бұрын
急行『べにばな』懐かしいですね。 上越新幹線開業前迄は、同じ区間、同じ車両で急行『あさひ』と名乗っていました。
@05M07K2
@05M07K2 9 ай бұрын
優等列車用のディーゼルカー登場は、地方都市にとって大変画期的な出来事であったものの、国鉄は予算不足に悩まされていたため、各自治体に債権を購入してもらう事で、車両を増備していったそうです。 この動画だと「出島」がそれで、本来は鹿児島本線より後に投入されるはずだったのを、当時の長崎県知事が債券購入を決断した結果、早期の導入に漕ぎつけたそうです。 島原鉄道もそれを聞きつけた事で同じ機種を急遽導入し、国鉄に併結を申し入れたそうです。
@usa5565
@usa5565 8 ай бұрын
なるほど!3電源電車のコスト 併結列車!おもしろいです!!
@a2s54ghu76
@a2s54ghu76 8 ай бұрын
気動車急行は電車急行に比べて冷房化率が低くて騒音も大きいのが嫌でしたね。また客車急行が普通車の12系(新製時から冷房付き)置き換えで一気にサービスレベルを向上させたのに、気動車急行は寒冷地では普通車の冷房化が進まないばかりか末期はグリーン車非連結(ただし四国のようにシートはグリーン車そのままで普通車指定席に格下げして逆にサービスレベルを向上させたところもあった)のものが増えるなど、国鉄のお荷物のような扱いでした。
@佐藤孝一-h2z
@佐藤孝一-h2z 9 ай бұрын
私は岐阜県在住で、親の田舎が新潟県なので、お盆に田舎に行くと きにいつも急行赤倉を使っていまし た。途中の路線が全て電化されたあとも、ずっと キハ58系のままだったので、不思議に思っていました。
@den_ken3
@den_ken3 9 күн бұрын
それ車庫の問題もありまっせ。大垣や神領より名古屋や美濃太田のほうが急行型車両留置スペースが広かった…実際今の美濃太田はガラガラ(爆)急行型気動車が百両近くあった当時が嘘みたいですがな。
@浩樹山本-x7f
@浩樹山本-x7f 9 ай бұрын
気動車なら異なる電源方式でも運用出来ましたし。ガス欠にならないように注意する必要はありますが。
@けん-o4y
@けん-o4y 9 ай бұрын
岩手県の急行「陸中」でガス欠でストップした、てニュースがあったなw。
@浩樹山本-x7f
@浩樹山本-x7f 9 ай бұрын
@@けん-o4y うわさ話で聞いたことがあります。始業前点検で燃料の残量がチェック出来なかったようですね。😅
@もりわききくお
@もりわききくお 9 ай бұрын
一番の問題は急行型電車の製造が昭和46年4月ダイヤ改正での457系が最後でした。それも北陸地区の快速増発のためで、クモハ457とモハ456を4ユニットとサバ455を8両だけです。これでは急行しらゆきや越後の発音は電車化は無理です。また急行ではないですが、特急なはや、特急しなののためで一部は架線下ディーゼル特急でした。なはは、ヨウゴウトウダイヤ改正からヨンハチトウダイヤ改正までの間キハ82系で運転され特急日向と併結されていました。しなのは、大阪発着とその折返し運用で名古屋から長野までの間ゴウマルサンダイヤ改正まで架線下ディーゼル特急でした。381系とは名古屋から長野まで約30分時間がかかりました。急行型ディゼルカーは、たしか昭和47年にもキハ65型製造されたのが最後だったとは名古屋記憶しています。またこのキハ65型は、東北地区には配属されなかったのではなかったかと思います。そのために急行おがは、キロ28以外、キハ58ばかりで非冷房でした。キロ2/8の2000番台を組み込んでせめて指定席だけでも冷房化してほしかったところです。やぜなら2000番台は自車も含め3両まで冷房可能だからです。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
同じグリーン車🍀以外全車キハ58で組成された急行でも「赤倉」は3号車のキロ28が3輌分の給電が可能な2000番代を充当していたので指定席車の1号車・2号車は冷房改造車が入っていました。 キハ65には寒冷地仕様の500番代がありましたが、配置されたのが松本・長野だったので運用の北限が新潟までだったんですよねぇ…。
@手前ひたち野
@手前ひたち野 9 ай бұрын
今の時点で特急「奥久慈」号があれば、おそらく結構利用されただろう。水郡線沿線には常陸太田以外、並行高速・高規格道路がない。
@金澤華
@金澤華 9 ай бұрын
幹線の電化が進捗して架線下DC急行が生まれるのは新幹線延伸と在来線特急車輌転属を考慮した結果 急行用電車投入に慎重になり収益を上げ為にも実態としては急行準急であっても特急格上げを実施した 運賃値上げの時期にも重なったので更なる利用者離れを招いただけだった 国鉄本社上層部の発想が貧困過ぎた
@Chu2007pae
@Chu2007pae 9 ай бұрын
国鉄のぼったくり商法ですね。
@hmm-ec7ed
@hmm-ec7ed 9 ай бұрын
1960年代、国鉄にはユニークなルートの急行がたくさん運転されていました。しかし70年代以降、急行を減らす方針となったため急行は減少します。電車化されない急行が数本あったのはキハ58の有効活用という点でやむを得なかったのでしょうね。
@けん-o4y
@けん-o4y 9 ай бұрын
南海や島原鉄道のようにキハ55ベースの自前車両を用意したのはいくつかあったが、キハ58ベースの自前車両を用意したのは富士急だけだな。
@Chu2007pae
@Chu2007pae 9 ай бұрын
自作はないが58をもらい受けて両運転台に改造した鉄道がある。すでに鉄道(有田鉄道)は消滅したが車体は残っているらしい。現在会社は有田鉄道バスになっている。鉄道がないのに鉄道と入れているのはほかに有田交通というのがあって混同されるからだそうだ。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
富士急→有田鉄道の両運転台車キハ58003は新製当時から両運転台でした。 (片運転台の58001・58002の予備車として製造された。そのためトイレ🚻・洗面所も省略。) キハ58・28には北近畿タンゴ鉄道に譲渡された車輌もありました。 (「レインボー・リゾート」) 先頭部分はタネ車と同じ貫通構造と「エーデル◯◯」シリーズの様な前面展望構造の2種類。 もっとも、老朽化が進んでいたせいもあって早期に引退しましたが…。💦
@hc-ir2dr
@hc-ir2dr 9 ай бұрын
鉄道が廃止されてバス会社になった後も、会社名は「◯◯鉄道」「◯◯電鉄」「◯◯軌道」等のままのところは結構あります。 (岡山の下津井電鉄、北海道の旭川電気軌道など)
@クモハ165
@クモハ165 9 ай бұрын
​@@hc-ir2dr さん 善光寺白馬電鉄は今では運送会社ですな。(ヽ´ω`)
@けん-o4y
@けん-o4y 8 ай бұрын
​@@hc-ir2drジブリ絡みで有名になった瀬戸内の鞆(とも)地区を走る鞆鉄バスも元々は鞆鉄道だったな。
@ytbnh7738
@ytbnh7738 9 ай бұрын
これはもう鉄道だけの問題だけじゃないんだけど、、50Hzと60Hzの違いをどちらかに統一する何てことはもう不可能なんだろうな
@ぬるぽフナ件氏
@ぬるぽフナ件氏 9 ай бұрын
インバーターだと50Hz60Hz関係無くなるけど😅
@By-Gaeshi
@By-Gaeshi 9 ай бұрын
今の家電は殆ど50Hz/60Hz両用ですね。
@yh6146
@yh6146 9 ай бұрын
同じ県なのに何故か新潟県は50ヘルツだけど一部は60ヘルツ。長野県は60ヘルツで一部50ヘルツ。
@ぶたさんプヒー
@ぶたさんプヒー 9 ай бұрын
中部電力と北陸電力が60Hz、そのエリアに東京電力、東北電力の50Hzが食い込んできていますからね。(てか混在?) 昔は片方しか使えない電子レンジも存在した。
@Chu2007pae
@Chu2007pae 9 ай бұрын
電力会社が統廃合されたら可能になるかもです。
@minakatamanabu7413
@minakatamanabu7413 9 ай бұрын
赤倉の場合は新潟地区(越後線・磐越西線)の通勤列車の運用も絡んでいたから電車化できなかったという話も。考えてみれば美濃太田区所属の気動車で新潟の通勤列車を運行するのは国鉄だからできたものです。あと、昼行特急時代の「なは」が抜けていますよ・・・大阪―西鹿児島間約1000kmを走った「架線下DCの帝王」を。
@けん-o4y
@けん-o4y 9 ай бұрын
しらゆき・白馬の編成が朝方の七尾線普通に使われてたとか。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
気動車時代の「赤倉」用キハ58系は新潟運転所(新ニイ)が受け持っていました。 根拠: 1.「キハ58系 赤倉」で画像検索すると先頭車が貫通幌を装備している写真が幾つかヒットしますが、貫通幌の枠が赤く塗装されています。 (赤い幌枠は新潟地区のキハ58系の特徴だった) 2.気動車時代当時の各所属基地のキハ58系の配置表を検索してみると昭和57年4月当時の配置表がヒットしますが、新潟運転所の項目の急行運用に「赤倉」と記されています。 3.同じ配置表の美濃太田区(名ミオ)の項目を見ると、非冷房のキハ58は4輌しか配属されていませんでした。 (「赤倉」はグリーン車🍀のキロ28以外全てキハ58で編成していたけど、基本編成の10輌中6輌の自由席車は非冷房車だった。 「赤倉」は篠ノ井線内で上下列車がすれ違うダイヤを組んでいたので、最低12輌の非冷房車が必要になる) 「赤倉」は名古屋側では太多線経由で美濃太田区に出入庫していた様ですが、理由としては運用間合の有効活用の他に、名古屋駅の中央本線ホームから当時の名古屋第一機関区(名ナコ一)へのダイレクトでの出入庫が困難だったか、「ひだ」「南紀」「紀州」など他の列車の運用車輌で満杯だったのかな?と個人的に推測しています。
@西村明宏-q5k
@西村明宏-q5k 8 ай бұрын
赤倉は電車化してからも新潟持ちだった 間合いで越後線の運用があった あと電車化後は中央西線で間合いがあった
@kiha110oykot
@kiha110oykot 8 ай бұрын
@@西村明宏-q5k さん 165系置換え後の「赤倉」は「佐渡」「よねやま」と共通のグリーン車🍀1輌入り10連が運用されていましたね。 1983(昭和58)年にJTB(日本交通公社)から刊行されていた月刊誌「旅」でこの新ニイ165系10連の運用が記事として掲載されていましたが、この頃は「よねやま」と運用をリンクさせて直江津〜長岡〜新潟間に運用間合いで普通列車に充当されていた記憶があります。 電車化後の越後線での間合い運用は1984(昭和59)年の同線電化後に新潟〜内野間で設定されたものと推測されますが、この区間の各駅の構内の有効長が足りていたのか気になるところです。😅 ホームの短い駅ではドアカットを実施していたのかな…?🤔
@けん-o4y
@けん-o4y 8 ай бұрын
​@@kiha110oykot昭和59年3月に赤谷・日中・魚沼線乗りつぶしに新潟・福島あたりを回ったときに魚沼線から乗り換えた直江津行普通がよねやま絡みの165系で、しかもグリーン車開放してたから、あっさり乗り込んで満喫したなw。
@kenichiro_uesugi
@kenichiro_uesugi 3 ай бұрын
気動車急行が電化されても残っていたのは併結相手もあったかも知れないけど、当時の赤字国鉄ではこれがコストがかかりにくい運営方法だったんだろうな。 現在はJRに急行は走ってないのに時刻表の営業案内に『急行料金』の項目が未だに削除されてないのが不思議。
@den_ken3
@den_ken3 9 күн бұрын
JR東海など臨時列車を急行として設定する会社はまだあるで…飯田線秘境駅号が好例でひょ!?
@hakomarumaru3827
@hakomarumaru3827 9 ай бұрын
戦前の東急東横線の急行も変電所設備ケチってディーゼルカーによる急行運転だった。
@satowxy
@satowxy 9 ай бұрын
道南いさりび鉄道もそんな感じだよね。 羽越線の一部も
@もりわききくお
@もりわききくお 9 ай бұрын
急行赤倉が昭和48年7月改正で電車化されなかったけどそれよりも短い急行きそや、きそつがいけはきぞの一部にはをのぞき電車化されていました。その一部のきそもまた架線下急行でした。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 8 ай бұрын
「きそ」のうち夜行の1往復はB寝台車を連結した客車列車でした。 夜行「きそ」の下りは長野到着後にB寝台車を切り離した後、普通列車として直江津まで足を伸ばしていました。 (「57.11」改正で12系化された後は全車輌が直江津まで直通していた) 余談ですが、「きそ」には中津川始発の列車もあり、塩尻以北では上諏訪・天竜峡発着の「天竜」と併結していました。 この中津川始発の「きそ」、何故か反対方向の中津川行きの愛称は「天竜」…。😅 中央西線は天竜川にかすりもしていないのに(笑)
@den_ken3
@den_ken3 9 күн бұрын
神領の165系は各地からの寄せ集めで両数も少なく、名古屋や美濃太田のキハ58系で代用してたんかな?
@シュウ-y2p
@シュウ-y2p 9 ай бұрын
しらゆきよりも、京都の北部がもっと面倒なの 小浜線電化されても気動車運用されてた 山陰線が電化されるまではよくわからん状態
@オコゼアマダイ
@オコゼアマダイ 8 ай бұрын
子どもの頃、大阪から新潟まで一人で急行越後を利用しましたが、途中雪で架線が切れて、電車が止まりましたが、子ども心にこの列車は気動車だから行ける!と思ったのですが、結局電車が詰まって前に行けず、電車同様遅れてしまったことを思い出しました。下手に鉄道の知識があったので、越後線を使って来るんじゃないかとか、新潟で待ってくれていたおじに迷惑掛けてしまいました。
@hitoth2000
@hitoth2000 9 ай бұрын
そういえば山陽線広島-新山口(小郡)間で山口送り込みと広島戻りの普通列車仕業がありましたね。今は回送みたいだけど。
@NozomuAi-w2h
@NozomuAi-w2h 8 ай бұрын
日豊本線が南宮崎まで電化されたにも関わらず、西鹿児島→博多→宮崎と宮崎→博多の急行フェニックスはヂーゼルカーだった😊
@愛と言う名のもとに
@愛と言う名のもとに 9 ай бұрын
現在の新宿ー河口湖は外国人観光客には人気あるかと 河口湖駅前は大混雑してますね
@俊之-p2r
@俊之-p2r 8 ай бұрын
大阪出身、松本在住だったので帰省する時は「大阪しなの」、松本に戻る時は客車時代の「急行ちくま」にお世話になったなぁ…🤔
@DxM.C-M_Japan
@DxM.C-M_Japan 9 ай бұрын
26:01 名古屋が2つに増殖して長野を占領していますね。
@貞一植木
@貞一植木 9 ай бұрын
2801D 2802D 赤倉 名古屋ー新潟間  新潟地区 白新線 新潟ー新発田 越後線 10-12連朝ラッシュ時間合い運行 美濃太田ー名古屋間合い運行 太多線ホームのないところから乗車 非電化区間間合い運行がありましたね。  165系置き換え後廃止された。
@den_ken3
@den_ken3 9 күн бұрын
名古屋~美濃太田間合い運用、地元民視点でも奇異でしたが美濃太田で給油点検整備してたと考えれば納得ですー。当時は美濃太田も相当数の急行型気動車があり構内も広いから…それが急行激減ですっかり寂しぅなったでホンマ。
@rafaelfuwabo7407
@rafaelfuwabo7407 9 ай бұрын
急行羽越等,キハ55系(キハ26形含む)で編成されて居て,幼少時に家族旅行で乗車しました.自由席車を中心にキハ55系もかなり混ざって居て,キハ58系も冷房改造をして居ない車輌が多い地域では,キハ55系中心の編成に当たる時も有り,盛岡から花輪線に行く急行列車には,キハ17系の2機関車キハ51形が先頭に立って居る急行列車も存在して居ました.勿論急行塗装.北海道にも寒地向け改造が施されたキハ55系が各タイプ1両以上苗穂に配置されて,グリーン車以外キハ55系で編成されて居て,併結のキハ58系(北海道向けキハ56形キハ27形)と長編成で札幌を中心に道内各地に走行して居ました.架線下急行でしたら,札幌~旭川の急行かむいの一部は気動車でした.殆んど電化後は,711系電車でしたが.今回の話題のきのくには1978年迄椿行きの11号に天王寺からキハユニ16形と云うキハ17系の試作車が連結されて有名でした.使われて居た写真に天王寺からの椿行きは置き換え後のキユニ28形の写真が使われて居ましたね.
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
過去にこのチャンネルで「多層建て列車」「遜色急行」の一員として紹介された「いなわしろ+いわき」の会津線・只見線発着系統にはキハ20系の2機関車キハ52型がそれぞれ単行で充当されていましたね。 確か共通運用の「あがの」(新潟〜仙台、磐越西線経由、福島〜仙台間は普通)にも充当されていた筈。 気動車急行に郵便🏣・荷物📦車が連結される場合、「きのくに」の項目にも登場したキロ28改造車のキユニ28の他に1世代前のキハ55系改造車や2世代前のキハ17系改造車が充当されるケースもありましたね。 小学館刊行の「コロタン文庫」の一巻に掲載されていたものの記憶では、高松〜中村間の夜行普通列車(キハ58・キハ65・キハ28-5000番台で組成)にキハ55系の1機関車キハ26改造のキユニ26とキハ17改造のキニ17が連結されていました。 (キニ17は途中の窪川で切り離し) 中村到着後は急行「あしずり」で折り返していたものと思われます。
@asimo7typR
@asimo7typR 9 ай бұрын
架線下走行の気動車急行は数あれど非電化区間走行する電車特急は有明(豊肥本線熊本〜水前寺間)だけかな?
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
電車特急で非電化区間へ乗り入れたのは「有明」のみですね。 なお、交直両用の481系が開発される1年前には151系の「つばめ」「はと」が下関以西をEF30・ED73に牽引されて交流電化区間の博多まで乗り入れていました。 (電源車はサヤ420を新製。481系登場後は近郊型421系のモハ420に改造) 国鉄が準急列車を設定していた時代には、80系や153系を用いて非電化区間に乗り入れる準急が設定されていました。 DD13の重連が牽引して房総西線(現:内房線)に乗り入れた「汐風」やSL牽引で長野原線(現:吾妻線)に乗り入れた「草津」がそれに当たります。 JR化後にも、169系や167系を用いてDD16に牽引されながら小海線に乗り入れた快速「葉っピーきよさと」が運転されました。
@けん-o4y
@けん-o4y 9 ай бұрын
一時期、水戸行のひたちが臨時で大洗に延長する予定があったが、信楽の事故が原因で企画倒れになったな。
@N--jv3go
@N--jv3go 9 ай бұрын
しらゆき&おが、特別料金頂いてるのに真夏に非冷房車が入ってました。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
急行料金が課金されながら真夏に非冷房車を充当したケースでは只見線を走破した「奥只見」もそうでした。 (1984年8月の夏休みに会津若松〜浦佐間で乗車) この「奥只見」、冬季間は運休する珍しい存在でした。 また、小出到着後に上越線ホームに転線し、小出〜浦佐間は普通列車として上越新幹線へのアクセスを図っていました。 (途中の八色駅は通過)
@おしげ-b6k
@おしげ-b6k 9 ай бұрын
当時は窓を開けていれば割と涼しかったんですよ。明け方では寒いくらいで窓が開かない特急型ならともかく、窓が開くなら扇風機と合わせて我慢出来ない程暑くはなかったんですよ。昨今の猛暑からは信じられないでしょうね。
@けん-o4y
@けん-o4y 9 ай бұрын
九州の架線下気動車急行、というと山陽新幹線博多開業前に西鹿児島〜宮崎間(熊本・博多・大分経由)の「フェニックス」なるとんでも急行wがあったな。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
>フェニックス もう少し頑張って運転区間を延長すれば九州を一周する壮大な「循環急行列車」になっていましたね(笑)
@けん-o4y
@けん-o4y 9 ай бұрын
@@kiha110oykot 九州ゆかりの漫画家みたく「大九州環状急行」ですなw。
@勝宣足立
@勝宣足立 9 ай бұрын
戦前の、東急キハ1の急行は駄目ですかね?
@hazy3441
@hazy3441 9 ай бұрын
赤倉って言うとユーロライナー赤倉の印象があるなぁ。ユーロライナーのテールサインに赤倉って文字も入ってた。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
本編中でもちょこっと紹介された二代目の「赤倉」を想像される方も多いでしょうね。 (初代「赤倉」の末裔になる松本〜新潟間の「南越後」と小諸・長野〜新潟間の「とがくし」を統合し、妙高高原以南を快速・普通列車化して二代目「赤倉」となった。) 「ムーンライトえちご」と同様にリクライニングシートに改装された165系が投入されたり、はたまた当時の上沼垂運転区(現:新潟車両センター)の名物だった「K1」編成(3輌ともトップナンバーで揃っている)が充当されたり…。 前身の「とがくし」時代から乗車回数も多かっただけに今でも記憶に残る急行列車です。😊
@クモハ165
@クモハ165 6 ай бұрын
南越後という愛称は子ども心にも無理矢理だなと思いましたな。(´Д`|||)
@秀敏柚木-u8q
@秀敏柚木-u8q 4 ай бұрын
昔の時間表がだだいま発売中です!ほしい人は本屋さんへGO
@三丁目分隊員
@三丁目分隊員 6 ай бұрын
DC時代の白鳥といい、こんな長距離でガス欠しなかったのかとちょっと不思議なところ。 途中で給油なんてできないよねえ。
@den_ken3
@den_ken3 9 күн бұрын
たぶん給油できる駅が途中にあったんやない!?
@三丁目分隊員
@三丁目分隊員 9 күн бұрын
@@den_ken3さん 給水ホースなら上野駅をはじめホーム間にありましたが、燃料すなわち危険物ですから乗客に面する場所では取り扱い厳禁でしょう。 ましてやアイドリングしながらの給油は昔も今もご法度かと。
@den_ken3
@den_ken3 9 күн бұрын
@@三丁目分隊員 なるほど…途中給油不可でタンク容量と燃費を考えると最低800L・1.5km/L要るでひょ。最近ロングラン気動車列車が少ないんも判りますー。
@川上誠-i4p
@川上誠-i4p 8 ай бұрын
気動車だって立派な電車。 活躍の範囲がスゴい🚈✌️
@ToroInoue-c5y
@ToroInoue-c5y 9 ай бұрын
気動車急行の画像、いつも急行「あしずり」なのが密かな喜びだったりする。あのヘッドマーク好きなのだw 急行「赤倉」、廃止されてから「乗ってみたかったなぁ」と思うよ。名古屋から長野方面へは、国鉄時代は今よりかなり時間がかかっていたので、昼間なら特急「しなの」・夜行なら急行「ちくま」だった。「ちくま」は夏になると臨時も出て、大糸線からの臨時急行「くろよん」と併結し、名古屋~岐阜で稲沢貨物線を通るのがレアだったね。 そういえば新潟大学に進学した同級生が喜んで利用してたけど、新津あたりから快速に種別変更していなかったか。料金と所要時間のバランスを考えると、正直、名古屋空港から飛行機か、米原経由で急行「きたぐに」を選ばざるを得なかった面があった記憶。昼間にあれだけのダラは、ちょっとキツそうだったからね。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
昭和50年代の国鉄急行では、電車急行だと「外房」「内房」等の房総方面急行や「立山」「くずりゅう」等の北陸急行にHMが付いていたのが良かったですね。 気動車急行では四国各線の列車の他に七尾線・能登線の「能登路」もHMがありました。
@けん-o4y
@けん-o4y 8 ай бұрын
​@@kiha110oykot「能登路」のマークは元旦の地震で崩壊した見附島(通称・軍艦島)が描かれてたな。
@あほたん-y2p
@あほたん-y2p 9 ай бұрын
まだ動画見てないけど、非鉄素人の発想では、交直両用が足りなかった。とかでは?
@玄琉くろる
@玄琉くろる 8 ай бұрын
26:00 長野は名古屋だった…?
@den_ken3
@den_ken3 9 күн бұрын
同じ「な」で始ま目から予測変換の選択ミスやったかもww
@利-y8w
@利-y8w 8 ай бұрын
豊しまから派生の「豊はる」 隣の海鮮丼屋さんで直ぐに場所を推測出来ました(笑) 軟骨トロトロのパイカとは!直ぐ喰らいに行きます!パイカ&肉も良し、パイカダブルも良し、月見が加われば失神しそう(笑)
@kakuda0482
@kakuda0482 9 ай бұрын
急行「しらゆき」「おが」「越後」「ざおう」「いいで」「赤倉」・・どれも特色があって面白味で情緒のある列車だったけど、それらを一挙に葬り去ったのが東北・上越新幹線の開業と上野延伸・・。面白味や情緒を奪っていった新幹線の存在はいまいち好きになれません・・。
@Oh-iy5bw
@Oh-iy5bw 9 ай бұрын
東北・上越新幹線開業に際しては、並行在来線なんて概念が無かったけれど、北陸新幹線長野行開業で信越本線が切断された、それを期に、私は乗り鉄辞めました。
@psychedelicraspberry517
@psychedelicraspberry517 9 ай бұрын
新幹線🚅もビュッフェ☕はいいぞ!😋
@クモハ165
@クモハ165 9 ай бұрын
上越新幹線には他では見られない聚楽が営業するビュッフェがありましたな。(*´・∀・)
@Hidekazu-h2q
@Hidekazu-h2q 16 күн бұрын
1992年頃名古屋から四日市まで快速みえ号に乗った事あったかな桑名寄りはキハ65型と名古屋寄りキハ58型編成で運行していたかな今は懐かしいかな😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
@Hidekazu-h2q
@Hidekazu-h2q 16 күн бұрын
あと名古屋駅で快速みえ号で紀伊勝浦行き列車を撮影をした事もあったよ快速みえ号紀伊勝浦行きの編成で国鉄色と東海色オレンジ色とホワイト色の混色編成運行していたよもちろん撮影をしたかな今は懐かしいかな😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
@ststkg14
@ststkg14 9 ай бұрын
ディーゼル車は軽油と線路さえあればどこでも走れるところが良いですね。停電しても走らせられる。ATCに類するものは必要ですけど。 それにしても昔は、いろんな名前の急行がいろんな経路で走っていて楽しかったでしょうね。切符売り場の係員が感心しながら時刻表を調べている姿が目に浮かびます。車両運用も考えられていた。
@Chu2007pae
@Chu2007pae 9 ай бұрын
中にはスジ屋の遊びとしか思えない気動車急行もあった。一関発秋田行き、山田線経由。
@けん-o4y
@けん-o4y 8 ай бұрын
​@@Chu2007pae西鹿児島発、宮崎行・熊本・博多・大分経由とか>スジ屋の遊び
@宮井信成
@宮井信成 9 ай бұрын
子供の頃、(旧国鉄)和歌山駅近くの病院へ、親戚の叔父さんの見舞いに行った際、気分転換でよく金網フェンス越しに(旧国鉄)きのくにと(南海)きのくにとの併結作業を眺めており、いま思えばとても贅沢なひとときでしたわ(笑)
@AOUINO
@AOUINO 9 ай бұрын
これらとは逆に、783系はまだ非電化だった豊肥本線に機関車牽引で入線していました
@大坂孝幸
@大坂孝幸 9 ай бұрын
ありました。水前寺行特急有明。 783系にDE10形特急色に特急色のヨ7000形車掌車。電源車であった。
@Boke新人おっさん
@Boke新人おっさん 9 ай бұрын
これまた懐かしい。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
水前寺発着の「有明」には最初は485系も充当されました。 当時非電化だった豊肥本線の熊本〜水前寺間はDE10+スハフ12(電源車代用)+485系の編成。
@By-Gaeshi
@By-Gaeshi 9 ай бұрын
​@@大坂孝幸さん "ヨ8000形"ですね。
@Chu2007pae
@Chu2007pae 9 ай бұрын
その昔、長野原線では80系湘南電車がC-11牽引で入線していたことがある。
@exp.m.k.2300
@exp.m.k.2300 9 ай бұрын
一番の理由は交直流電車の製造費が高かったからなのでしょう...
@homarejumo2134
@homarejumo2134 9 ай бұрын
晩年の急行「ちとせ」も全区間電化エリアだったのに、キハ400で頑張っていましたね
@勝人佐藤-b3b
@勝人佐藤-b3b 3 ай бұрын
急行そうま号は現在の品川ー仙台間1日3往復が直通して運転されているJR東日本常磐線特急ひたち号と同じ経路で運転されていました。品川ー仙台駅🚉間・常磐線経由で運転している特急ひたち号はJR東日本勝田車両センター所属のE657系交直流両用特急型電車🚃10両編成全車指定席です。
@Oh-iy5bw
@Oh-iy5bw 9 ай бұрын
気動車時代の『赤倉』、名古屋から新潟まで完乗しました。 暑さの残る晩夏、非冷房なので、塩尻あたりまで窓フルオープンにして。 長野過ぎると、少しだけ開けると、ひんやりした空気が入ってきて、心地良かったのを、今でもハッキリ覚えています。 あと、客車ですが、夜行の『ちくま』も、名古屋から長野まで。
@勝人佐藤-b3b
@勝人佐藤-b3b 8 ай бұрын
常磐線の急行ときわ号と水郡線直通急行奥久慈号は水戸駅で分割・併合作業が行なわれていました。急行列車廃止されたあと1985年3月から半年間上野ー万博中央・土浦駅🚉間の科学万博臨時快速列車エキスポライナー号で波動輸送に使われていました、科学万博つくば85のマスコットキャラクターコスモ星丸のヘッドマークが貫通扉に取り付けていました。
@00Tohkichiro00
@00Tohkichiro00 9 ай бұрын
現代に残る全区間架線下気動車運行(臨時列車含む) えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン、肥薩おれんじ鉄道 →全区間電化されているが交流であり、前者には交直セクションもある為、コスト削減の為に旅客列車は気動車運用を選択した(但し前者は後に臨時列車用で電車を導入)。どちらも貨物列車が運行されている都合上、電化設備はJR貨物に譲渡した形で現存。 花嫁のれん →IRいしかわ鉄道、JR七尾線(金沢〜和倉温泉)を走る観光列車で、全区間電化だが気動車が充当されている。IRいしかわ鉄道が交流だが、七尾線は宝達駅付近の天井川の為に電圧が低くできる直流を採用しているので、交直セクションがあり電車ではコストが高くなるので気動車にした可能性が高い。又、非電化であるのと鉄道と交渉して穴水まで運行する可能性を残したとも考えられる。 etSETOla(旧瀬戸内マリンビュー) →呉線が全線電化であるにもかかわらず気動車で運行されている。交流だとコスト面の都合と思えるが呉線は直流であり、交直セクションもないのでコスト削減が理由とは考え難い。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
羽越本線の村上〜酒田間にも全区間架線下気動車の運用がありますね。 (村上〜間島間に交直セクションがある。) 同区間で運用されるキハ110系及びGV-E400系は新津所属なのでもしかしたら送り込み運用で新津〜村上間も含まれるかも…。
@exfo3777
@exfo3777 9 ай бұрын
びわこエクスプレス2号も全区間電化されていますが気動車ですね
@00Tohkichiro00
@00Tohkichiro00 9 ай бұрын
@@exfo3777 これは非電化区間(播但線寺前〜和田山間)を走る特急はまかぜの野洲車庫への回送をびわこエクスプレスに転用した形なのでそうなっていると聞きます。(営業運転は草津まで)
@mako9574
@mako9574 9 ай бұрын
急行出島があるなら弓張もそうだよな。
@アゴナシ運送
@アゴナシ運送 8 ай бұрын
南海の「きのくに」号が近代的な難波駅にディーゼルエンジンの音を響かせている光景は異彩な雰囲気を放っていたなぁ~
@原田寛-e3u
@原田寛-e3u 2 ай бұрын
しかも、南海「きのくに」は、キハ55ベースのキハ5500という一世代前の車両を使っていました。
@TASHICHIEI
@TASHICHIEI 9 ай бұрын
国鉄時代の特急は昼行、夜行で列車名を別にしていましたが、急行は基本同一名称だったですね。
@岡村充康-h9z
@岡村充康-h9z 9 ай бұрын
交流または交直流車両の高いコストの為に全区間架線下を走行する気動車列車は現在でも見られますね。急行しらゆきは1982年11月改正から1985年3月改正までの間運転されていた福井白鳥の前身ですね。
@勝人佐藤-b3b
@勝人佐藤-b3b 4 ай бұрын
常磐線急行ときわ号の12往復の内10往復が451系交直流両用急行型電車🚃で2往復が水郡線直通急行奥久慈号を上野ー水戸間で併結運転をする為キハ58系急行型気動車で運転されていました。
@大坂孝幸
@大坂孝幸 9 ай бұрын
南海電鉄にモハ2000形に牽引されてキハ5000系が難波から和歌山市まで特急きのくにとして運転されていた。 昭和36年に単独運行になり、和歌山駅で天王寺発急行きのくにに併結されて、白浜・新宮に向かった。
@まるかつ鉄道
@まるかつ鉄道 9 ай бұрын
子供の頃に、南海本線を爆走する「きのくに」を何度か見たことがあります。2両編成で、南海本線内は「特急」扱いだったので、ディーゼルエンジンの爆音を轟かせながら、途中駅を颯爽と通過していた印象が強いですね。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
社線内で特急扱いとなる急行といえば、上野から「妙高」「信州」と併結し、屋代から長野電鉄に乗り入れて湯田中へ向かう「志賀」(「57.11」改正まで運転)もそうだった記憶があります。 (信州中野〜須坂間を乗車した際に片道¥100の特急券を購入した記憶あり)
@拓也高野-c2t
@拓也高野-c2t 9 ай бұрын
しらゆきは多層立て急行だった
@東洋鬼子
@東洋鬼子 9 ай бұрын
走行する全区間電化されているのに気動車で運行されているといえば、羽越本線の新津〜酒田間を走る普通列車がそうですな。
@坂田庄司-g6n
@坂田庄司-g6n 9 ай бұрын
東北上越新幹線開業により、東北方面の特急に使用されていた485系が大量に余剰となった事が、動画の中の例の一部に影響が出たと言う事。交流区間を走っていた列車は格上げの上電車化。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
その後の「60.3」ダイヤ改正では全国的な特急列車の短編成化の流れで捻出された485系が本編中に登場した「きのくに」の特急「くろしお」への格上げに用いられた。 しかし、カーブの多い紀勢本線では速度差は如何ともし難く、国鉄時代最後のダイヤ改正となった翌年の「61.11」では「やくも」の編成見直しで捻出された381系が出雲から日根野に転属してこの485系「くろしお」を置き換え、捻出された485系は福知山に転属して福知山線・山陰本線電化で登場した「北近畿」(現在の「こうのとり」の前身)に充当された。
@剛浅井
@剛浅井 8 ай бұрын
東北上越新幹線開業で余剰となった485系をキハ5501置き換えに南海電鉄に売却案もあったが頓挫した。
@yh6146
@yh6146 9 ай бұрын
26:02 長野県に名古屋市がある。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
ホントだ。 長野市民としてはこれはいただけませんなぁ(苦笑)
@den_ken3
@den_ken3 9 күн бұрын
ゆっくり動画は凡ミス起きやすいですな…場所設定のほか地名発音もたまに間違うし。まだ肉声案内したほうがマシやと思うこともしばしば(作者の負荷高い)
@名無しの権兵衛坂46
@名無しの権兵衛坂46 9 ай бұрын
電車急行も気動車急行も座席などの内装も大差ないですから、お客さんもあまり気にしなかったんでしょうかね。
@a2s54ghu76
@a2s54ghu76 9 ай бұрын
気動車急行は電車急行に比べて冷房化率が低く車内騒音が大きいのが大きな問題でしたね。
@金澤華
@金澤華 9 ай бұрын
一見同じだがコストダウンが顕著だった 空気バネ台車を使用していた電車は乗り心地で雲泥の差 室内に侵入する煤煙と煤に床下からの振動と騒音
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
気動車急行でもアプト式時代の碓氷峠通過用に設計されたキハ57とキロ27、勾配線区の気動車急行の冷房化促進用に開発されたキハ65は空気バネ台車を装備していました。
@椿裕貴弘
@椿裕貴弘 9 ай бұрын
一時期、特急も博多〜西鹿児島の「にちりん」1往復が全区間架線下を走ってました。
@もりわききくお
@もりわききくお 8 ай бұрын
これとは逆に電化されていないのに電車だったのは、水前寺有明以外ではその昔草津線が非電化時代に、渋川からC11型にけん引されていた80系電車の準急草津や、房総地区も非電化時代にSLけん引列車の電車があったようです。臨時でもハッピーきよさとが小海線内をDD16型ディーゼル機関車でけん引されていたアコモ改造車の165系もありましたね。また電化方式が異なる下関・博多間に直流特急型151系電車が1964年10月ダイヤ改正から1年間特急つばめとはとが電気機関車にけん引され電源車としてサヤ420を用いられました。
@takayukitanaka4123
@takayukitanaka4123 9 ай бұрын
ときわ、よく乗りました。富岡、双葉まで通いました。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
以前より気になっていた「全区間架線下DC」の急行を特集して頂き有り難うございます。m(_ _)m 一つ前のまとめ動画のコメ欄で第2弾向けとしてリクエストした「しらゆき」「赤倉」「きのくに」も採用されたので満足度120%、いや200%といったところですね。😊 個人的には共に乗車経験のある「しらゆき」とその併結相手でもある「白馬」を紹介してもらえたのも👍です。(笑) 僭越ながらいくつか補足を…。 1.「しらゆき」は基本編成が5輌(グリーン車🍀1輌を含む)に秋田止まりの付属編成が4輌の計9輌編成で、糸魚川以西では「白馬」の3輌を金沢方に併結した12輌、秋田以北では「きたかみ」の5輌を併結した10輌編成でした。 2.南海の南紀方面直通列車の歴史は古く、キハ5501・5551型の登場以前には 見た目がまんま客車のサハ4801型を用いて南海線内は電車牽引、国鉄線内は客車列車に併結されて運転されました。 3.島原鉄道の国鉄急行併結用の気動車には、本編で紹介された2エンジンのキハ5500型の他に1エンジン・冷房改造済みのキハ2600型もありました。 4.中央西線・篠ノ井線・信越本線(山線)の連続急勾配対応の為、気動車時代の「赤倉」はグリーン車🍀以外は全て2エンジンのキハ58で組成されていました。 「赤倉」の165系電車化についてですが、1982/11/15のダイヤ改正では房総地区の急行の全面特急格上げに伴い、幕張から新潟に165系が転入して所要輌数が足りる様になったのが大きな理由の一つです。 (同改正での新潟地区の電車急行の削減は夜行の「佐渡」1往復のみ。気動車時代の「赤倉」も新潟持ちでした。) 長文失礼しました。🙇 リクエストですが、今後も多層建ての急行や「遜色急行」等を過去に紹介済みの列車以外にも採り上げて頂ければ嬉しいです。😊
@user-rightgoro
@user-rightgoro 9 ай бұрын
小さい時に急行弓張に乗ったことあるので懐かしかったです😊
@埠頭半田
@埠頭半田 2 ай бұрын
昼行「おが」のルーツは客車急行「鳥海」(後のたざわ)で、食堂車も連結していた。 昭和43年10月改正でキハ28・58系を使った上下「おが1号(53,10改正で下り1号、上り2号)」になった。
@tetsu0804
@tetsu0804 9 ай бұрын
国鉄時代は青森で九州配置の車両を見ることができたりして、日本全国一元管理の凄さを知ることができた。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
九州の早岐に所属していた14系14型が「あかつき」で来阪した後に「日本海」の運用で青森まで足跡を残していましたね。 この時代には本編中で紹介された長野所属のキハ58系が「ちくま」⇔「越後・ゆのくに」で北陸・新潟方面に運用されていましたし、向日町所属の485系も「雷鳥」⇔「はくたか」の運用で上野駅に姿を見せていました。 (いずれも53.10ダイヤ改正まで)
@By-Gaeshi
@By-Gaeshi 9 ай бұрын
小田急にあった御殿場線乗り入れ用の気動車列車はダメですか?
@den_ken3
@den_ken3 9 күн бұрын
小田急キハ5000系は御殿場線電化と共に廃止され関東鉄道へ移ったで!?今回の事例からは除外。
@tablet4309
@tablet4309 9 ай бұрын
急行いなわしろ喜多方発仙台行と仙台発喜多方行 仙台-喜多方間は全線電化だが会津線や只見線に乗り入れていた編成を連結しさらに福島-仙台間をいわき発着磐越東線経由の編成も連結したためキハ58系で運用していた。
@kiha110oykot
@kiha110oykot 9 ай бұрын
「いなわしろ」の会津線・只見線発着系統はキハ52の単行運転だった為、「遜色急行」の一員に数えられていた。
@けん-o4y
@けん-o4y 6 ай бұрын
こないだ藤井八冠がタイトル戦の移動で新潟に行ったときに「赤倉」のことコメントしてたなw。
@もりわききくお
@もりわききくお 8 ай бұрын
気動車とは違いますが、夜行の急行さんべ5号と6号は、門司から博多の間、電気機関車ではなくて、DD51型がたしかけん引していた記憶があります。
@けん-o4y
@けん-o4y 8 ай бұрын
同時期の長崎行「みずほ」も鳥栖から先はDD51けん引だったような。
@プラ鉄M
@プラ鉄M 9 ай бұрын
因みに運行区間が全線電化されてるのに気動車で運行されてる普通列車がある。例として信越本線新津~新潟間、羽越本線新津~新発田間、旧鹿児島本線(現肥薩おれんじ鉄道)新八代~川内間等。
@シュウ-y2p
@シュウ-y2p 9 ай бұрын
上野白鳥時代はキハだったな
@hc-ir2dr
@hc-ir2dr 9 ай бұрын
運行開始当時は信越本線が碓氷峠区間を除いて非電化でした。 碓氷峠はアプト式の時代でした。
@クモハ165
@クモハ165 6 ай бұрын
北陸本線も現在の長大トンネルが連なるルートとは異なる旧線でしたな。(*´ω`*)
@Chu2007pae
@Chu2007pae 9 ай бұрын
特急つばめが客車(いわゆる青大将編成)で運用されていた末期に、EF58+C-62+つばめ編成という全区間架線の下を走ったSL特急が存在した。
@tetsudo_channel
@tetsudo_channel 9 ай бұрын
00:00オープニング 00:31「しらゆき」金沢 - 青森 06:19「おが」上野 - 秋田(奥羽本線経由) 09:24「きのくに」新宮-天王寺 13:39「かわぐち」新宿 - 河口湖 16:11「そうま」仙台 - 上野(常磐線経由) 19:48「出島」小倉・博多 - 長崎 23:00「赤倉」名古屋 - 新潟 26:27エンディング
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