奴国は二つあったのか?〈古代史論争の分かれ道①〉【邪馬台国の界隈047】

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古代史新説チャンネル

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Күн бұрын

卑弥呼の都=邪馬台国への行程記事に登場する「奴国」。
旁国という詳細不明な21国の最後に登場する「奴国」。
古代史系チャンネル合同企画<古代史論考の分かれ道!>の
初回テーマは「奴国は二つ存在したのか?」です。
魏志倭人伝が記すこの2つの奴国が同じ国なのか?別の国なのか?について考えます。
ぜひ4つのチャンネルを観比べて(他チャンネルのリンクは下記)、ご自分なりの奴国の真実に迫ってみてください!
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#邪馬台国 #魏志倭人伝 #古代史新説チャンネル #古代史論争の分かれ道 #奴国

Пікірлер: 129
@kojikasan6505
@kojikasan6505 Жыл бұрын
すばらしい!かっこいい!
@J-history
@J-history Жыл бұрын
「Super Thanks」ありがとうございます! 励みになります。 コラボ企画「古代史論争の分かれ道」も続いていきますので、今後ともよろしくお願いします。
@岡上佑の古代史研究室
@岡上佑の古代史研究室 Жыл бұрын
アップ有り難う御座います!いよいよ始まりましたね! 武田さん動画と二つ拝見しました! いやー、自分の動画も含めて、かなり近辺の話題を考えているのですが、見事に復元される古代史像は違いますね! ちょっと何周かしてみたくなって来ました! 古荘さん、まだかなー。文化の日に相応しい素敵なイベントになったんじゃ無いでしょうか? 本当にこれだけの動画を作って頂いて感謝しか御座いません。さすがに鮮明な印象を残す世界観でした!
@J-history
@J-history Жыл бұрын
岡上さんも6時のアップだったのですね。 武田さんの動画と2つ拝見しました。 古荘さんの動画も待ち遠しいですね。 今回の企画にお誘いいただきありがとうございました。自身の考えをまとめるよい機会になりました。 明日(?)古荘さんライブがあるようなので、それも楽しみですね。
@ハチ公-c9c
@ハチ公-c9c 2 ай бұрын
邪馬台国の全解決に書いてある解釈ですね、非常にスマートだと思います
@J-history
@J-history 2 ай бұрын
不勉強で『邪馬台国の全解決』は読んでおりません。 どこの部分が共通しているのでしょうか? ・57年当時の奴国は倭国の一番南(福岡平野)にあった ・旁国の奴国は〇奴国であり、〇が脱落した ・奴国が不彌国を挟んで東西に存在した(奴国東西分断説)可能性
@ハチ公-c9c
@ハチ公-c9c 2 ай бұрын
@@J-history倭国の一番南ってところですね
@J-history
@J-history 2 ай бұрын
@@ハチ公-c9c ご返信ありがとうございます。 『後漢書』の「倭国之極南界」を倭人伝解釈に用いる方がおられますが、『後漢書』は建武中元2年(57年)の倭奴国の朝貢記事の中で「倭国之極南界」と記していますから、57年当時の認識であることは明らかです。 倭人伝を読めば、魏の時代には奴国(福岡平野)の南に投馬国や邪馬台国があることもまた明らかだと思います。
@ハチ公-c9c
@ハチ公-c9c 2 ай бұрын
@@J-history魏志倭人伝を元に書いたのが後漢書倭伝なので范嘩が魏志倭人伝をどう解釈したのかが後漢書に表れてるのだと思います。
@J-history
@J-history 2 ай бұрын
@@ハチ公-c9c ご返信ありがとうございます。 「倭国之極南界」については、『後漢書』倭伝を読む限り、後漢の記録(使いに対する聴取記録か、当時の認識かは別として)にあったものと思われます。范曄(または倭伝担当者)がその記録から引用した文章だと読み取れます。
@pomepome6744
@pomepome6744 Жыл бұрын
初コメさせて頂きます。動画で話された最後の説、自分では思いつきませんでした。説得力もありますし、勉強になりました。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 何か少しでもお役に立てれば、今回のコラボ企画をやった意味があります。 今後ともよろしくお願いします。
@ch-ub3cp
@ch-ub3cp Жыл бұрын
今回のテーマもとても興味深く拝聴いたしました。そういえば漢委奴國王印が見つかった志賀島は最後に登場する奴国に近いですね。動画配信ありがとうございました。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 金印は、見つかった場所といい、埋められた状況といい、本当に謎ですね。 贋作説もありますが、私は今のところ本物だろうと思っています。 古くから「奴国」(行程記事に登場するほう)が福岡平野にあったことは間違いないと思います。 引き続きよろしくお願いします。
@隆一西
@隆一西 Жыл бұрын
@@J-history 最後の奴國は無とか欠落し、ムナ國(宗像)とかの可能性もありそうですね(笑)宗像地方には奴山古墳群もありますので( ・ิω・ิ)
@J-history
@J-history Жыл бұрын
@@隆一西 ご返信ありがとうございます。 たしかに、「次有無奴国」だと、「無」は間違って挿入された文字みたいですから、削除される可能性もありそうですね。
@tucker_skebevich
@tucker_skebevich Жыл бұрын
魏志倭人伝以外にも、同じ国名を二回使う例がありますよね。 この辺りの国を紹介するにあたり、何かしらのルールを設けているようにみえます。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 同じ国名を二回使う例というのは、弁辰の馬延国とか、韓伝に登場する不彌国とかのことでしょうか。馬延国は単なる誤写に見えますが。 引き続きよろしくお願いします。
@takedaharuki
@takedaharuki Жыл бұрын
極南界についての逆転の発想。興味深いです。歴史書にはそういうことが確かにあるので、極南界にもそういう視点があったのかと考え方が広がりました。古代史新説チャンネルさんの倭国観も地図で見られて良かったです。しかし、みんな、動画のクオリティが高くて恐縮です。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
ついに始まりましたね。 武田さんの動画と岡上さんの動画を拝見しました。 古荘さんの動画が待ち遠しいです。 私の『後漢書』倭伝に対する見方は、杜撰でいい加減な記述だというのが基本スタンスです。けっこう多くの方々からご批判はいただきますが。 (ただし、『後漢書』全体がそうだというのではなく、あくまでも「倭伝」の部分です。これを追記しないと誤解を招きますので) 明日(?)の古荘さんのライブも楽しみですね。
@takedaharuki
@takedaharuki Жыл бұрын
@@J-history 後漢書の倭伝に誤りが多いというのは、私も同じ理解です。
@junucchi
@junucchi Жыл бұрын
結論に納得です。私も傍国の奴国はその前の文字の欠落ではないかと考えます。その復元は困難ですが、一つの可能性としてタマキナ(→タマイナ→玉名)かなとも思います。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 どのような文字が入っていたのか考えるのも楽しいですね。 私は「有奴国」のような「有」と字面の紛らわしい国だった可能性もあるのかなと思っています。 次有「有」奴国とかだと脱落する可能性が高いかと。 引き続きよろしくお願いします。
@kyupytarou
@kyupytarou Жыл бұрын
読み解く解説ありがとうございます。 奴国とは分断された二つの国。 さらに○奴国だったかもと言う解釈。 これは他の記述を読み解く上でも重要な考え方だと思います。 薄ぼんやりしていた邪馬台国とその周辺の様子がにわかに明るくなった感があります。 コラボ企画楽しみにしてましたが期待以上の感想です。 他のチャンネルも見て妄想掻き立てまくりの一日になりそうです。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 少しでもお役に立てるとうれしいです。 このコラボ企画は、私自身の言いっ放しの説をまとめるのにもよい機会になりました。 他の3名の方のチャンネルもご覧いただき、ご自身の説を構築してください。 引き続きよろしくお願いします。
@s-yo
@s-yo Жыл бұрын
納得いくし面白かったです。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 ご納得いただけるとうれしいです。 引き続きよろしくお願いします。
@ancientJapanesehistorywithMAP
@ancientJapanesehistorywithMAP Жыл бұрын
ロジックの構築に隙がない!古代史新説チャンネルさんワールドに入ると、引き込まれ、納得します!
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 ご納得いただけてうれしいです。 引き続きよろしくお願いします。
@ウッディー-i8j
@ウッディー-i8j Жыл бұрын
極南界と一文字脱落のお話は凄く説得力を感じます。 自分は、以前、奴国が東遷して邪馬台国、大和朝廷になったと考えているとコメントした者ですが。 正確には”奴”が移動したと考えています。 当時の倭人たちは王のいる国を単に奴=クニと呼んでいて、その王が動いて行ったのだろうと。 それで、魏志倭人伝の時代、依然、北部九州の超大国である奴国にはなぜか王がいません。 当然、滅ぼされたということも考えられますが、自分は王がどこかに移ったのだろうと考えます。 すると新たに移った場所が奴になるわけで、奴が複数出て来ることもあり得ると思います。 ただ、一文字脱落説は凄く魅力を感じます 笑。 企画の続編、楽しみにしています。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 奴国東遷説ですか。斬新な説だと思います。 邪馬台国の時代に、奴国や伊都国などに王がいないのは、卑弥呼を王として共立した時点で、各国の王(王の概念を規定しているのは魏の役人ですが)は王ではなくなったからだと思います。「官」になった可能性もあります。 今後ともよろしくお願いします。
@高橋邦雄-z2u
@高橋邦雄-z2u 10 ай бұрын
久留米の奴国と女王国の北限の糸島の奴国の2万戸の領域国家の奴国全体を考えると分かる 極南界は邪馬台国薩摩仙台で平壌から908キロで万二千里としており会稽東治の東にあります ふみ国は筑紫川を東に長里100里43.4キロの日田につきます南に陸行一月228キロでつきます
@J-history
@J-history 10 ай бұрын
ちょっと前提条件を理解できておりませんので、内容についてはご返事できませんが、コメントありがとうございます。
@YO-high
@YO-high Жыл бұрын
コラボ動画全部拝見いたしました。 まったく素晴らしいですね。 動画のクオリティは一番高いと存じます。 「倭国」は倭国王帥升まで存在しないってのはわかります。魏志倭人伝ですら「倭人」ですからね。「倭国伝」じゃない。 あと、「〇奴国」ってのは、、〇は「委」または「倭」だったんじゃないかなぁ。もし欠落してるとしたらね。 非常に面白かったです。色々な考え方があるんだなぁって思った次第です。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 みなさんの動画のご視聴もありがとうございます。それが、今回のコラボ企画の目的でもありましたので。私も拝見しました。「奴国」だけでも本当にいろいろな考え方ができますね。 「〇奴国」の〇は「倭」だったのでは、というのは他のご視聴者の方からもご意見をいただきました。倭奴国とか委奴国だと『後漢書』と整合してくるということでしょうか? 私は、直前の文字「有」(次有の有)と字面の似た文字だった可能性もあるのではと思っています。「布」とか「右」とか「石」とか。。 引き続きよろしくお願いします。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
@@やまびこ-l3l 基奴国もありそうですね。
@mishimaensis2109
@mishimaensis2109 Жыл бұрын
領域が陸で繋がっている必要はないので奴国は一つの国でも問題ないと思う。 戸数が2万もあるので大きな邑を複数持っていると考えられる。 魏と行き来きしている国は女王国系の国だけじゃないと考えられるので無理に 30カ国にする必要はない。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 30国が女王国以外の国も含んでいると考えると、そうなりますね。 引き続きよろしくお願いします。
@hogehoge361
@hogehoge361 Жыл бұрын
この分野のことを考えたこともない素人です。考察は面白く聞かせていただいたのですが、一つ疑問を持ちました。専門家の皆さんは史書に書かれた各々の記述を相当に正しいものと思って解釈を頑張っておられるのですか?自分は距離も方位も周辺国情報も最初からものすごく大雑把なものと思っていたので、ある1箇所だけの記述について「これはどのような意味か」と論じられるということ自体に驚いています。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 もちろんおっしゃるように大雑把なものと考えられる方もいらっしゃいます。 ですが、このチャンネルは魏志倭人伝の行程記事などは240年に来倭した梯儁たちの復命報告書が原史料であろうと考えています。すると、その記述はかなり正確で詳細なものであったと思われます。 それは、238年に公孫氏滅亡と同時に朝貢してきたとはいえ、卑弥呼の女王国は未知の国であり、将来反旗を翻すかもしれない国です。梯儁たちには皇帝から女王国の詳細な調査・報告が命じられたはずだからです。 引き続きよろしくお願いします。
@隆一西
@隆一西 Жыл бұрын
動画UPお疲れ様でした!お変わりない理路整然とした鋭いご考察ですね。特に東西の奴國説は今まで他の方々でも考えつかなかったような説で新鮮な気持ちで拝見させて頂きました( ・ิω・ิ)なお待ちわびたコラボ企画始まりとても充実した1日でした。皆様のUPされた動画何回見返しても飽きませんね〜ヽ(´エ`)ノ
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 一応チャンネル名を古代史「新説」チャンネルとしましたので、妄想も含めてできるだけ新説を入れられるように日々頭をひねっております。 コラボ企画、楽しんでいただけたのでしたらうれしいです。 第2回目も企画中ですので、今後ともよろしくお願いします。
@hchuan-sl7iv
@hchuan-sl7iv Жыл бұрын
いつも興味深く拝見しております。 全くの素人の想像ですが。。。元々、後漢書の頃には、倭国と言うのは朝鮮半島の南端から南に広がる国と認識されていたと考えられませんか? だから当時は九州北岸の奴国は倭国の南端地域だと! 魏志倭人伝の時代でも(半島南岸から?)対馬が既に領域内なんですから。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 もちろん倭国王帥升の時代(遣使は107年)には倭国の領域がそのように認識されていた可能性もあります。その方が通説と言ってよいと思います。 ただ、『後漢書』はまだ倭国というものが誕生していない(と思われる)57年の記事に奴国が「倭国の極南界」と記しています。それで、『後漢書』(430年代成立)が、『三国志』魏志倭人伝(280年代成立)もしくは『魏略』(260年代成立)の記事を元に記述したのではないかと考えたわけです。 その直前の「使いが自ら大夫と称した」という一文も魏志倭人伝(魏略)からの引用だと思われます。 引き続きよろしくお願いします。
@fujidido27
@fujidido27 Жыл бұрын
奴国は2つあったと思います。 邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分になりますが? 理由は下記です。 道案内の基本は、距離と方角を言い、そのあと、そこまでの行程でかかる時間を言います。 よって不彌國到着で終わりであり、何日かかるは帯方郡からの行程です。 また、魏志は中国の書物であり、国名を日本語漢字読みではなく中国語発音で読むはずです。 末盧國をマツラなどと絶対読みません。ムリュに近い音になります。 詳細を記述したホームページは「5チャンネル 大分に邪馬台国があったらしいけど」の7番に乗せてあります。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 おっしゃることは理解できますが、不彌国までの日数は記述されていないのではないでしょうか。 国名の読みについては、事あるごとに記していますが、当時の中国人がどのように発音していたかはわかりませんが、動画中でしゃべらなければなりませんので、一般的に認識されている(と思われる)「まつらこく」を採用しています。 「ムリュこく」と言っても誰もわからないと思いますし、誤解を招くだけかと・・・。 引き続きよろしくお願いします。
@toshirouhorino
@toshirouhorino Жыл бұрын
そうだよね。倭奴国(博多奴国)が倭国の極く南限にあったなら、 当時有ったという「旧百余国」も楽浪郡から博多奴国の間にあったことになる。 そして「今30国」も、帯方郡から博多奴国の間にあったことになり、 それらの国々から推戴されて、卑弥呼は共立女王の地位についたという、まことに奇想天外の事態が出現する。、
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメント&ご同意いただきありがとうございます。 基本的に「倭国」というものがない時代の記録に「倭国」が記されていることがおかしいのではと思います。 引き続きよろしくお願いします。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
@@やまびこ-l3l コメントありがとうございます。 帥升が倭国をまとめ上げてすぐに遣使したとすれば、武力によって周辺諸国を平定したわけですから、多くの戦争捕虜がいたのだと思います。 対馬海峡を160人も渡らせるのは大変だったと思いますが。
@maron9648
@maron9648 Жыл бұрын
倭人伝の国の名前は今は無くなったものも含めて九州内の郡名と対応させて楽しんでますが、その場合だと奴国は那珂郡であり伊都国である怡土郡の隣の奴国は福岡県那珂郡だと思います。 そしてもう一つの奴国は宮崎県の那珂郡だと思います。つまり那珂郡という郡名を並べるだけで二つの奴国が肯定されます。 斯馬國は志摩郡ではないでしょうか? 伊都国=糸島とされる方が多いですが「怡土郡+志摩郡=糸島」なので伊都国の段階で糸島といって「志摩」部分まで取り込んでしまうから斯馬國が行方不明になるんだと、いつも悲しく思っております。 対馬国、壱岐国、末盧国(松浦郡)、伊都国(怡土郡)であるならサイズを揃えて、烏奴国が宇土郡だったり、呼邑國が児湯郡だったり、中国語で好はハオだから好古都国が博多なら都はタなんだし壱岐の支はキなんだから都支国が高城郡(たきぐん)みたいに国は市町村やら郡サイズで考えるのが妥当だと思うんですよ。 上は動画の途中で書きましたが続きを視聴しまして、福岡県と宮崎県の二つの那珂郡が東西の奴国ではないでしょうか?
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 旁国の位置を考えるのも楽しいものです。私も最初の著書の時にいろいろ妄想しながら考えました。ただ、どうしても強力な根拠というものは見つかりませんでした。律令制下の郡名はやはり後世のものですし・・・。 斯馬国については、おっしゃるように志摩郡ではと考えたこともありましたが、伊都国に来た人が志摩郡を「遠絶」とは言わないのではないかと考えて、採用しませんでした。 引き続きよろしくお願いします。
@maron9648
@maron9648 Жыл бұрын
@@J-history コメントありがとうございます。普段は武田さんとこに居座ってますが時々よらしてもらいそうです。 遠絶って難しいですよね。現代人の感覚と違って、基本が徒歩移動だと隣の町村どころかそれよりも大きな単位の 隣の市や郡を跨いだ先の交遊がない自治体のことは分からないと思うんですよ。 内燃機関の乗り物や公共交通機関やインターネットがある現代に生きる自分自身も隣の市町村はともかく、間に隣接する市町村を挟んだ先の今まで興味がなかった交際がない街のことなんて何1つ知らなかったりしますから、まして徒歩の世界なら思うより簡単に遠絶しちゃうと思うんですよ
@maron9648
@maron9648 Жыл бұрын
@@やまびこ-l3l 志摩ってかろうじで陸続きな、ほぼ島みたいな状態だったみたいですし、可也山なんて名前の山があるように半島の伽耶とか山陰とかと交流を持った北部九州の連合国からしたら化外の地に成り易かったかもですね
@maron9648
@maron9648 Жыл бұрын
@@J-history 以下はコピペですが、伊都国と斯馬國が隣接していたとする記録も在るにはあるようですね。あと正倉院に残る西暦702年の戸籍にも筑紫國嶋郡川邊村なんて記述もあるそうで当時からシマ郡は在ったようです。 「翰苑」は唐の時代に編纂され、現在は中国にも存在せず第30巻のみ太宰府天満宮にて国宝として保管されている歴史書で、倭国に関する記載があり、その中に「邪届伊都傍連斯馬」という文があります。この文の意味は「ななめに伊都にいたり、かたわら斯馬につらなる」と読むということで、伊都国と斯馬国は近接した位置関係であったことが分かります。
@maron9648
@maron9648 Жыл бұрын
@@やまびこ-l3l そんな中でさらに元となった史料を発掘して教えてくれる武田さんのチャンネルが好きですね😃
@平善之-b4o
@平善之-b4o Жыл бұрын
確かに通説では「倭國之極南界也」を「倭國の極南界なり」と読みますが、これは先生達が自分に都合よく読んでいるだけではないでしょうか?「之」を「の」と読むのは訓読みつまり日本での読み方です。中国では「の」とは読みません。「之」を日本語の助詞である「の」と言う意味で使うこともあるにはありますが、多くは「これ」の意味で使います。現に後漢書の中のこの部分の直前を見ると次のように書かれています。「如病疾遭害以為持衰不謹便共殺之建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫」この中の「持衰不謹便共殺之建武中元二年」では「之」は「これ」と読んでいます。「持衰が謹まずと為すを以って、さらに共にこれを殺す。」です。この「之」を「の」と読むと意味不明になってしまいます。では先生方は何で「倭國之極南界也」の場合だけ「の」と読むのでしょう?自分の説に都合が良いからです。恐らく本当は「倭國これ南界を極めるなり」と読むのが正しいのだと思います。そうするとこの後漢書の一文の意味する所が理解しやすくなります。つまり倭の奴国の使者は「私は倭の奴国の使者である。倭国は周囲の国を全て征服し(極め)南の端まで自分の領土とした。だから倭国の王として認めて欲しい」と主張したのです。後世「倭の五王」が「安東大将軍」と認めて欲しいと主張したのと同じです。倭国王「珍」は周辺の国である朝鮮半島の国々をまだ征服していなかったので「安東将軍」の称号しかもらえませんでした。同様に倭国王として認めてもらうには周辺の国を征服していなければならなかったのです。光武帝は説明を聞いて「なるほど」と認めて金印を授けました。それが「漢委奴国王」の金印です。だから金印には使者の主張通りに「倭の奴國の王」と書かれているのです。委は倭の略字です。後漢書のこの部分は光武帝が何故金印を授けたのかを説明しているのです。金印はタダでもらえるものではありません。その時に根拠として使者は自分の征服した国々を説明しました。それが記録として残っており、陳寿は「女王国の北側の国々」の説明にこれを根拠として使ったのです。帯方郡から不彌國までは北側から順序良く説明しているのに、女王国の北側の国々と逆に南から説明しているのはこれが原因です。帯方郡から不彌國までは中国の使者が実際に歩いた道筋を書いたものであり、女王国から奴国までは後漢の時代の記録を元に書いているので、不彌國までと投馬國・邪馬台国の行程の記述方法が全く違うものになり、現代人を混乱させているのだと思います。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 「之」について、そのような読み方は当然あったと思います。 ただ、倭人伝冒頭の「倭人在帯方東南大海之中」や入れ墨説話部分の「夏后少康之子」、「会稽東治之東」、「賜遺之物」、「海中洲島之上」などもありますので、「倭国の極南界にある」でよいように思います。ですが、この文章は動画内でも触れていますが、『後漢書』倭伝担当者が誤認して作った文章の可能性が高いと思います。 引き続きよろしくお願いします。
@樋口道郎
@樋口道郎 8 ай бұрын
最初は阿波国の南の長國が奴国であって、事代主が木の国に、紀伊の国、今の紀州を奴国だった。同じ国だが、阿波が最初で、紀伊の国が那賀国奴国だった。奴国をハイ乗り背乗りなりすまし乗っ取りしたのが、倭ヤマト國で、奈良へオオヤマト大倭=大和オオヤマト読めばいいでしょう。当時はそう呼んでいた。
@J-history
@J-history 8 ай бұрын
ちょっと理解できておりませんが、コメントありがとうございます。
@laozionoff
@laozionoff Жыл бұрын
『魏志』で21国の最後にあるから、『後漢書』を書いた范曄が極南界と考えた。考えたことなかったです。4チャンネル見比べましたが、一番矛盾がないかと。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 『後漢書』倭伝については、このチャンネルで何度も「魏志倭人伝(あるいは魏略)から杜撰な引用・要約をしている」と述べていて、『後漢書』を信用する方々からはけっこう批判をいただいたりしています。 ただ、これだけは付記しておかなければなりませんが、あくまでも『後漢書』の「倭伝」の話であって、『後漢書』全体の話ではありません。『後漢書』が非常に評価の高い史書だというのは認めています。 おそらく「倭伝」の担当者(范曄ではないと思います)のレベルが低く、范曄の校閲もなされなかっただと思っています。 今回のコラボ企画をお楽しみいただけたのであればうれしいです。 今後ともよろしくお願いします。
@laozionoff
@laozionoff Жыл бұрын
@@J-history 范曄は官僚として優秀な人だったそうです。優秀な人は要点を要約しがちなので、「倭伝」の記述はああなっているのかと。当時、倭という隔絶の地はまだ、山海経のような神話の世界から抜けきれていなかったと思われます。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
@@laozionoff 『後漢書』および范曄が高い評価を受けていることに反論はありません。 ですが、倭伝についてはあまりにもひどいのでは、と思ってしまいます。 担当者のレベルが低かったのか、范曄の校閲もなされなかったのか、と。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
@@やまびこ-l3l コメントありがとうございます。 陳寿の晩年は不遇だったとされていますから、逆に陳寿の歴史家としての素質の高さが評価されてよいのではと思います。
@腰抜け武士
@腰抜け武士 Жыл бұрын
「奴」という字の付く国名が多くありますが、そもそも ”ナ” と発音される地域はどんな地形・地質をもった地域なのでしょうか?
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 そのあたりのことは古荘さんの動画で触れられてましたね。「な」は海であり魚であり稲であり土地でありクニであり、、というような感じだったでしょうか。 従来から海、港と関連付ける説が有力視されていますが、必ずしもそれだけではないような気はしています。私のなかで答えは出ていませんが、古荘さんの説のなかでは「クニ」というのがいちばんしっくりくるかなと思います。 引き続きよろしくお願いします。
@ytbupwest
@ytbupwest Жыл бұрын
いつも楽しく視聴させて頂いております。奴国「奴」は 後に外港として認識されていますので、単に港町と言う意味でしょう。従って 脱字説が有力かと思います。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 奴国の「奴」とのちの「儺県」の「儺」の関連性は間違いないと思います。 ただ、その場所は、このチャンネルで想定する不彌国と重なるので、不彌国の「不彌」に何か意味があるのか、以前にけっこう悩んだことがあります。まだ結論は出ていません。 引き続きよろしくお願いします。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
@@やまびこ-l3l ご視聴&コメントありがとうございます。 今回の企画は、やっている本人も楽しめる企画でした。 次回企画も進んでいますので、よろしくお願いします。
@永井準-n1c
@永井準-n1c Жыл бұрын
中国文献内の日本地名、日本氏名、日本役名等々は、当時、中国人が聴いたままの日本人発音を、近いと思われる当時の中国漢字として表現したものでしょう。これらを現代日本語発音やら現代日本漢字にあてはめて「こうではないか」と推測するのは誤りなのではないでしょうか。「当時の発音がどのようなものであったか」から考えなおすべきで、近年ではそのような論もいくつか出てきています。これをテーマのひとつにあげていただきたいと思います。よろしくお願いします。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 おっしゃっていることは非常によくわかります。 ただ、当時の日本語、中国語、その発音などについては、専門性が高すぎて手出しができません・・・、というのが正直なところです。 ですから考察時には、できるだけそのような分野の勝手な解釈は用いないように気を付けてはいますが。 倭人伝に登場する国や人名については、何らかの発音をしないと動画でしゃべれませんから、一般的に知られていると思われる読みを用いています。 引き続きよろしくお願いします。
@潤也藤原
@潤也藤原 Жыл бұрын
それほど現地人の発音を記録する事に中国人が拘るかどうかが分からないと思います。現地人に意味を聞いて漢字の意味で記録する事が普通なのかもしれません。音に拘ると漢字の読めなくても分かるという利点が失われてしまうと思います。どうしてもそれ意味する言葉がないか、音を記録したい特別な理由があれば似た音を当てる。漢字と自言語の音で苦労する事になったのは高句麗以来の東夷の人々 です。
@永井準-n1c
@永井準-n1c Жыл бұрын
@@J-history  あやしげですか、こんなのもありました。kzbin.info/www/bejne/rZTWiIKMgtB8n6M 「中国人が発音と漢字にどれくらい拘るかどうか分からない」や「音に拘ると漢字の読めなくても分かるという利点が失われてしまう」などといったそもそもをぶち壊す素人意見には惑わされずにお願いします。なお、私も熊本説を支持します。あるいは魏志倭人伝はほとんどデタラメであるかでしょう。創作説も捨てきれないと思います。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
@@永井準-n1c 熊本説をご支持いただきありがとうございます。 漢字と発音については今から専門の勉強をする時間はないと思いますので、専門家の方に期待します。
@toshirouhorino
@toshirouhorino Жыл бұрын
2:58 a:「宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帯方朝見」 b:「倭国之極南界也 光武賜以印綬 」 aとbは同じ構文で、宣帝之の之は=が、であり、その次動詞となる。 倭国之の之も=が、であり、その次の極も動詞で「極むる」と読む。( 倭奴国が南界を極むるや、光武 以って 印綬を賜う)
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 >宣帝之の之は=が、であり 「之は」の後ろが「=」(イコール)に、「が」の後ろが「、」(ウケテン)になっていて(文字化け?)よくわかりませんが、「倭奴国が南界を極むるや」がどのような状況を述べているのかがわかりにくいと思います。
@toshirouhorino
@toshirouhorino Жыл бұрын
@@J-history 幾人かの識者が「南の界を極むる」と読んでいます。 つまり、漢へ朝貢にきた九州弥生の覇者の倭奴国(博多那の津王国=金印の倭奴国)の使者が、「我々は九州島の南の界まで極めた(制覇した)」と述べたので、光武帝が納得して印綬を与えたという意味ではないでしょうか。 なお ・・之・・する、という之の次に動詞を取る用法は、私の故郷では日常的です。(これはアクセントで区別されます。通常の「の」は、⤴と高アクセントですが、之の次に動詞をとる場合は 、→平アクセントになります)。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
@@toshirouhorino ご返信ありがとうございます。 「南の界を極むる」と読む方がいらっしゃるとしても、かなり少数派だと思います。まずは多くの先学が認めた読みを検討するのが大事かと思います。 57年時点で九州島全体を統べた王がいたとすると、その後の倭国誕生(107年の帥升)とか、その後の倭国乱との整合性をとるのが難しくなるのではと思います。倭国乱が九州山地南側まで及ぶようには思えません。(もちろん可能性を否定するものではありませんが) 引き続きよろしくお願いします。
@toshirouhorino
@toshirouhorino Жыл бұрын
@@J-history ご返信ありがとうございます。 その先学の読みに疑問を持ったわけです。で、先学に倣えば、下の文はどのように読むのでしょうか?? a:「宣帝之平公孫氏也」
@J-history
@J-history Жыл бұрын
@@toshirouhorino ご返信ありがとうございます。 定説に疑問を持つのは非常によいことだと思います。このチャンネルも基本スタンスは近いものがあります。 「宣帝之平公孫氏也」は、「宣帝が公孫氏を平らげると」でよいと思います。 ですが、動画の中で触れた新説は、もともとの後漢の記録は「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀 光武賜以印綬」のみであり、「使人自称大夫 倭国之極南界也」は『後漢書』倭伝の撰述担当者が魏志倭人伝の記事を独自に解釈して挿入した文章ではないかというものです。旁国の奴国を女王国(倭国)のもっとも南の境界にあった国だと読み取ったのだという説です。 そのひとつの論拠は、57年当時、「倭国」は存在しないのに「倭国」と書いていることです。 (当時の漢字「之」について専門知識があるわけはないので正しくないかもしれませんが)この挿入文の主体は「倭奴国(倭の奴国)」ですから、「倭奴国の使いは自らを大夫という」「倭奴国は倭国の南の境界を極めている(最も南の境界にある)」という意味で挿入していると考えてよいのではないでしょうか。 それと「倭国之極南界也」をおっしゃるように考えるのであれば、「南の界を極むる」のは「倭奴国」ではなく「倭国」なのではと思います。 引き続きよろしくお願いします。
@TAJIRI-123
@TAJIRI-123 Жыл бұрын
動画の前半部まで拝見した時点では、文献に対する解釈が岡上氏やハルキー氏とほぼ同じに見えて、「まさかお三方とも同じ結論か?」と思ったら、後半まさかの展開でした。 結局「すぐ近くに有る同じ名前(か似た名前)の別の国」という考察は、失礼ながら「なんでわざわざ?納得感よりカオス感で不安になって来た」という印象でした。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 今回のテーマは、「旁国」をどのように考えるか、どこに位置づけるかによって答えが大きく変わってくると思います。 普通に考えれば、行程記事中に登場する国々と、旁国として列挙される国々は明らかに別物です。たまたま(?)旁国の最後の国が「奴国」になってしまったのがこの論争の原因だと思います。『後漢書』の誤認もそれに輪をかけています。 旁国の最後の国が例えば「不奴国」とかでしたら、何の疑問も生じない記事になります。 引き続きよろしくお願いします。
@高橋邦雄-z2u
@高橋邦雄-z2u 10 ай бұрын
奴国は3つあったかもしれない 行程の奴国 久留米 北限の奴国 糸島 極南界の委奴国 薩摩仙台です 傍国21国は南から北にたどるのが正しいとする説です
@J-history
@J-history 10 ай бұрын
コメントありがとうございます。 旁国を南から北へたどる説は初めて聞きました。
@Camposterity
@Camposterity Жыл бұрын
BGMがうるさくて解説が聞けないです
@kenn8438
@kenn8438 Жыл бұрын
動画作成お疲れ様です。 動画の出来はいつも感心します。 ただ内容は伊藤ワールド全開で、真実に迫っているかといえばそうではない感じです。 邪馬台国後世改ざん説のように肯んずることができないですね。 奴国は一つですね。 二万余戸なので福岡だけでなく、筑後平野も範囲だった可能性も高いです。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 筑後平野まで奴国説なのですね。 「行程記事の奴国と旁国の奴国は別の国である。行程記事の奴国は戸数・道里を記せた国であり、旁国の奴国は詳細のわからない国だからである」というのは、私が唱えた説でもなく、かなり有力説となっていますよ。 引き続きよろしくお願いします。
@kenn8438
@kenn8438 Жыл бұрын
@@J-history ご回答ありがとうございます。 有力な説が実は真実ではないというのは倭人伝についてはよくあること。 二つの奴国は別の報告書からの引用が混ざったとの認識が一番真実をついていると思います。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
@@kenn8438 ご返信ありがとうございます。 もちろん史料が複数あったのは間違いありません。 ここから先は陳寿が著述に向かう姿勢とか作法とかをどのように判断するかによって、答えが変わってくると思います。 このチャンネルの基本スタンスは、「陳寿は自身の中で整合性のとれない文章は書かないだろう」というものです。歴史家としての陳寿を高く評価する立場だと思っています。
@821marcello
@821marcello Жыл бұрын
机上の空論。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 古代史の論考はほぼほぼすべて仮説に過ぎませんから、机上の空論を楽しみましょう。
@masamasaict7312
@masamasaict7312 Жыл бұрын
文字多すぎ!分かりにくい
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 文字多すぎですか。。。文献解釈のチャンネルなのでどうしても引用などがおおくなってしまします。ご容赦のほどを。 引き続きよろしくお願いします。
@masamasaict7312
@masamasaict7312 Жыл бұрын
@@J-history いや、せっかく作ったのに見にくいから勿体無い。茨城県説も面白い。
@yoshitome6648
@yoshitome6648 Жыл бұрын
魏志倭人伝は「素直に」読めば良いんです。つまり奴国は一つです。陳寿は間違え無いように「丁寧に」二度書いたのです。私には何の矛盾も生じません。 もちろん、私は北部九州説です。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 その場合の奴国は、福岡平野でしょうか?
@yoshitome6648
@yoshitome6648 Жыл бұрын
@@J-history さん もちのろんで、通説通りです。笑
@yoshitome6648
@yoshitome6648 Жыл бұрын
そうです。 皇帝のためでは無いでしょうが…。 正直、「一つでも二つでも伊藤さん説」と大きな差異はありません。笑 もち、伊藤さんは熊本説ですが。😂
@TAJIRI-123
@TAJIRI-123 Жыл бұрын
最近のマイブームは、「陳寿は見つけた資料を全部書いた。」というものです。 銀英伝で云うところの「判断は後世の歴史家に委ねる」、日本書紀で云うところの「一書に曰」ですね。 なので「奴国」の場合は①魏の使いの報告書と②後漢書の記載が、同一国かどうか不明の為両方書いた、と。で、②は陳寿の自説に近いので買いとくか、と。 また、「邪馬台国」に至っては三度書いており、①郡の倭人証言情報「郡より女王の都まで水行十日、陸行一月」「投馬国までは水行二十日」、 ②里程を知る渡来系通訳の証言情報「郡より女王国へ至るには万二千里」、 ③実際に訪問した魏の使いの報告書「郡より沿岸を南下し東に進み七千里で半島南端の狗邪韓国に至り、海を渡り計三千里で九州島の末蘆国に至る。陸行し計七百里で不彌国に至る。」⇒「女王国の以北は里程・詳細を記載できたが共立する傍国は訪問できないので国名のみ挙げる」という陳寿のコメントと「傍国名と敵対国の狗奴国の情報」。 ずさんな編集で分かりにくいですが、邪馬台国は「不弥国のすぐ南」にあると考えます。 ちなみに水行の目安はざっくりと一日千里で、水行十日=一万里。陸行の目安は一日百里(単里75m)で、陸行一月は二千八百里と見ます。
@toshirouhorino
@toshirouhorino Жыл бұрын
中華も、倭も、漢字文化の国。発音より先に、その漢字の一字一字の意味が基本中の基本。
@J-history
@J-history Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 おっしゃるように、表意文字の側面から考えることも非常に大事なことだと思います。
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