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安土城の「伝羽柴秀吉邸跡」への疑問

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戦国・小和田チャンネル

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2 жыл бұрын

安土城に行かれた方は、城内至るところに「伝○○邸跡」といった標柱があるのを目にしているのではと思います。大手道を登りはじめて、すぐ右側に「伝 前田利家邸跡」、少し行くと左に広大な「伝 羽柴秀吉邸跡」、さらに少し登ると右に「伝 徳川家康邸跡」があります。
前田利家、羽柴秀吉は織田信長の家臣ですので、安土城内にあっても不思議ではないのですが、家臣でもない同盟者の徳川家康邸があるのには、以前から違和感をもっていました。
また、羽柴秀吉邸跡があるなら、柴田勝家邸、明智光秀邸などもあるべきなのに、それはないわけですので、この「伝○○邸跡」というのは本当なのかと、疑問をもちはじめました。
「伝」という字がつくのは「と伝えられている」、あるいは「といわれている」ということです。では、その根拠となったのは何だったのでしょうか?
#安土城
#羽柴秀吉
#前田利家

Пікірлер: 12
@toshikun-maron
@toshikun-maron 2 жыл бұрын
先生の言われる通り、伝羽柴邸などには、ほんとかな?と思っていました。まさに柴田邸や、明智邸はないのか。とみなさんも思っていたと思います。
@33n83
@33n83 2 жыл бұрын
先生、有り難うございます。私は初めて安土城に行ってからもうすぐ50年も経ってしまいます。内藤先生の天守復元案に感銘を受けて内藤先生のおられた大学に進学もしました(残念ながら学部は違ってしまったのですが)。大手道の発掘など大きなニュースが有りましたが、せめて生きうちにうちにバチカンに奉納された絵図などが発見されて欲しいな、と切に願っております。 直近では約5年前に安土を訪れたのですが、未だ北方の通称八角平(伝菅屋邸)から搦手方面には立ち入り禁止で訪れる事は出来ませんでした。その代りかねてより興味のあった安土山の東方の通称神様平、馬場平と呼ばれている辺りを散策することが出来ました。あまり脚光を浴びることのないエリアですが、城郭ファンとしてはもの凄く興味をそそられるエリアでした。いつの日か詳しい発掘調査が行われる事を願っています。総見寺さんが協力してくれさえすれば... 安土城、本当に城郭好きの心をとらえて離さない最高の城だと思っています。
@kumosukeponsuke
@kumosukeponsuke 2 жыл бұрын
私も小学生の頃に内藤昌先生の小学館の城なんでも入門で安土城を知り、1997年に社会人になって初めての夏休みに行きました。伝羽柴秀吉邸、伝徳川家康邸、、ホントかよって思ったのが正直な感想です。そんなにすぐに羽柴秀吉の屋敷?直臣でもない徳川家康がここに?丹羽は?柴田は?明智は抹殺?滝川、森、河尻、、、お前さんたちどこ行っちゃったの?って感じました。やはり小和田先生も違和感を感じられてたんですね。城郭と城下町シリーズや歴史群像や名城を行くシリーズもすべて持ってますが、研究がどんどん進んでるのがうれしいですね、、研究の進捗が好奇心を満たしてくれますように。
@dodomelon
@dodomelon 2 жыл бұрын
有難うございました。私も現地へ行った時に秀吉邸跡に感動しながらも、やや違和感を持ちました。先生のご指摘にはやはりそうかという感じと、先生が感じる疑問を自分も持ったという事で誇らしい気持ちですw
@kenenomoto3735
@kenenomoto3735 2 жыл бұрын
いつも興味深く拝見しております。昨今の「歴史や史跡の観光資源化での町おこしの加速」といった感のある史跡整備の中には「伝○○」ですらない「歴史上の人物○○が何々したであろうと推測される何々」といったどういった資料や学術研究がその内容を担保したのかわからない代物もあり、歴史のロマンの追体験の思いから史跡へ行く側からすればあまりにも容易な「史実としての認定」に「騙されているのではないか?」という思いを抱く事もあります。今回のお話の様に「伝○○」といった論拠のある事柄にも根拠を丁寧にひも解いてあたってくださるのは本当にありがたい事だと感じました。
@mikaguragonzo1
@mikaguragonzo1 2 жыл бұрын
今の安土城跡全域は摠見寺さんの持ち物とか。3年前に伺った時、立派に整備された大手門周辺の石垣や大手道を見て、規模の大きさに驚いた記憶があります。天守跡まで登りはかなりきつくて、こんなとこに住むのは無理だと思いました。  天守下に天皇の御座所を作ろうとしたという説も、その点どうなんでしょうか。近くの観音寺城や佐和山城も険しい山の上のようなので、その頃の人には平気だったのでしょうか。  伝〇〇屋敷は、先生のおっしゃる通り眉唾かなと思っていました。秀吉さんや家康さんの屋敷がここにある意味がピンときませんでした。信長本人や家臣たちの屋敷も、多くはもっと麓にあったのでしょうね。
@user-bf2rj4fy3y
@user-bf2rj4fy3y 4 ай бұрын
加藤理文さんが出てきて、うれしい。
@hymn13
@hymn13 Жыл бұрын
戦地に常在している織田軍の武将が城内に居館を構えているのは非効率だと思うんです。 ただし、 遠く離れた戦地から本拠地へは頻繁に行き来してた可能性があるので、江戸期の本陣のような宿泊施設があったんじゃないかなあと思います、しかも序列にしたがった格付けされた居館が。 そのうち秀吉等(配下)が逗留したところや家康が停泊したたところが各々邸と混同されたんではないでしょうか? それなら家康と秀吉の邸が近い配置も無理はない。 実際の織田配下の屋敷は、これも江戸期のように安土城外にあった方が合理的だと思います。
@user-nh3hn5io9e
@user-nh3hn5io9e 8 ай бұрын
屋敷跡もそうだけど大手道もあやしい もし信長が天守に行く時に家臣と陪臣が 信長の頭の上そんな事本当にあるの? 搦め手の方が自然 降りる時には大手道かもしれないけど
@shishi6189
@shishi6189 2 жыл бұрын
何時も興味深く拝見しております。ありがとうございます。 私は絵図に反って信憑性を持つのですが・・というのは、 滋賀県教委の安土城発掘映像シリーズ(1~5)↓ kzbin.info/www/bejne/fZrYm4CtZt1kfLM で、安土城が最初から天皇を迎える城として築かれたと考えるからです。つまり、羽柴や徳川は天皇の行幸の通り道でのお役目であれば、邸宅というより、役目配置となるのではないでしょうか? 因みに、明智はそのテストとしての徳川(天皇に見立てる)饗応を豪華にし過ぎて、信長より天皇が上になるのを嫌った信長によって饗応役を解任されたと推測致します。 今後の研究が楽しみに思います。
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