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凄惨な沖縄戦を経て、戦後はアメリカの統治下に。そして基地と隣り合わせの生活。復帰後も苦難と葛藤の50年を生きてきた沖縄の人々は今、何を思うのでしょうか。そして私たち日本人はその思いを受け止めて、どう考えるべきなのでしょうか。
“世界で最も危険な基地”と言われる普天間基地のすぐそばで少年時代を過ごしたryuchellさんが、桝太一キャスターとともに沖縄の今を取材しました。
■ryuchellが育った街・普天間 米軍ヘリ墜落を目撃したことも…
2人が訪れたのは基地の街、沖縄・宜野湾市。ここはryuchellさんが生まれ育った街です。
長く続く基地のフェンス。取材中も、米軍の機体が上空を飛行していました。市のおよそ3割を占める米軍基地。市街地にある普天間基地は“世界で最も危険な基地”と言われています。
18年前、普天間基地のすぐ横にある沖縄国際大学に、米軍のヘリが墜落した事故。当時小学生だったryuchellさんは、この事故の瞬間を目撃していたといいます。
ryuchellさん
「(上空でヘリが)ぐるぐるしていて、そしたら急にパッと止まったんですよ。そのままバーッと落ちた。あの時の悲鳴とか音とか怖さ、小学生の時に見て今でも焼き付いているというか…」
■アメリカ統治下…抑圧された生活と人権「アメリカでもなく、日本でもない」
戦後27年もの間、アメリカに統治された沖縄。アメリカ主導のもと琉球政府が設立されると、沖縄の人々の土地は強制的に接収され、次々と基地がつくられました。
通貨は円からドルへ、そして道路はアメリカ式の右側通行に。本土にも自由に渡ることはできず、パスポートのような身分証明書が必要でした。そこには「本土と沖縄との間を旅行する日本人であることを証明する」という文字が。沖縄から本土へ渡ることは“出国”、沖縄へ戻ることは“帰国”と記されました。
ryuchellさんは沖縄を「アメリカだった過去もありながら、日本になった。だけど“アメリカでもなく、日本でもない”」と表現します。
■凄惨な沖縄戦体験者の苦悩 “基地で働かなければ生活できない”
統治下を生きた人たちは、復帰50年をどう感じているのでしょうか。
ryuchellさんと桝キャスターが向かったのは、沖縄・南城市。南部に位置するこの地域は、戦時中、凄惨な地上戦が繰り広げられました。
そこで会ったのは、勢理客徳助(せりきゃく・とくすけ)さん(87)。10歳の時に沖縄戦を体験し、祖父を亡くしました。
そんな勢理客さんがアメリカ統治下で就いたのは、米軍基地での仕事でした。勢理客さんが働いていたのは、知念補給地区という米軍基地。今はゴルフ場になっています。
勢理客さん曰く、当時の給料は民間の仕事の2倍から3倍。基地では兵器を整備する仕事に就いていました。
桝キャスター
「整備したものはどこに運ばれていくんですか?」
勢理客さん
「これが、ベトナムなんですよ。僕は知らなかったんですよ」
ryuchellさん
「戦争を体験して基地で兵器を整備することに葛藤はなかったですか?」
勢理客さん
「最初は感じなかったね。後からだんだん。特にベトナムに送って、ベトナムで戦争やっている時は『戦争に加担しているな、僕はこれでいいのかな』って。ただ生活があるでしょ。生活があるから仕方なくて」
桝キャスター
「働く迷いもあったけども、でも働かなければならないくらい、みんな生活が苦しかったってことですか?」
勢理客さん
「そうですよね。でもこの仕事でベトナムの人がたくさん殺されているなって感じがしましたよ」
■米兵相手にドラム演奏 “家族の生活”と“反米感情”の間で抱える葛藤
戦後、沖縄ジャズ界を支えてきた上原昌栄(うえはら・しょうえい)さん(86)は、統治時代からドラマーとして活動していました。基地の中で米兵相手に演奏し、生計を立てていました。
上原さんは、「やっぱり賑やかでしたね。米軍がどんどん増えていって、飲んだり食べたりする場所をどんどんつくっていくんですよ。そこで音楽を奏でるバンドが必要になって」と当時を振り返ります。
基地の中には位の高い人が通う「将校クラブ」や下士官用の「NCOクラブ」など多くのクラブがあり、上原さんは毎晩のように演奏していました。当時、上原さんは琉球政府の高官よりも給料が高かったといいます。
しかし、このころ相次いだ米兵による交通事故や殺傷事件。日本の法律で裁けないといった不当な扱いから、沖縄の人々の反米感情が高まっていきました。
上原さんは、「その頃のミュージシャンは、複雑な気持ちでいたと思います。米軍の中で働いている時は音楽もできるし給料ももらえる。だけど社会の中に帰っていくと米軍反対とか。その中に挟まれて複雑な気持ちになる場合がある」と当時の葛藤を明かしました。
■未来を託した“本土並みの復帰” 直面したのは仕事がない現実
1972年5月15日、日本復帰を果たした沖縄。“本土並み”という言葉のもと、基地のない平和な沖縄、人権の保障や生活の向上など、当時の人々は沖縄の未来を復帰に託しました。
しかし、復帰に伴い米軍クラブは次々と閉鎖され、ミュージシャンは仕事の場を失いました。上原さんは家族を守るために、タクシーの運転手など職を転々とすることに。音楽をやめた仲間も多かったといいます。
それでも上原さんは「日本に復帰した時はとても嬉しかったですよ。やっぱり日本人なんですよ」と笑顔で語ります。
知念補給地区で働いていた勢理客徳助さんも、基地閉鎖に伴い職を失うことに。別の仕事に就いたものの、給料は約半分になり、8人家族で生活するのは厳しかったと振り返ります。
■50年たっても変わらない“基地の問題”
沖縄の人たちが復帰に託した「本土並み」の生活。しかし、50年たっても基地の問題は変わらないままです。
勢理客さん
「本土並み復帰と唱えてやったんですが、結局復帰しても基地はそんなに減っていないんです。基地はあるんですが、(統治時代ほどは)人は働けない。『早く返せ』とはするけど、軍用地を持っている人はそれ(賃料)で生活をしている。だから『返せ』とは言えない。まだ現代も続いているんですよね」
ryuchellさん
「僕も宜野湾市で育ってきたからこそ、本当に基地の問題っていろんな角度から見ないといけなくて、基地があるから生活している人、そこに土地を貸しているからお金が入ってくる人、そして基地で働いている人、本当に怖い思いをしている人、いろんな人がいる。だけど大きい決断をする時はアメリカが先導したり、そういうのをずっと見てきた。それは50年の中で変わってないことがあるからこそ、僕みたいな若い世代でも知っていることがある。変わっていない部分もすごくあるなと思います」
■沖縄に押し付けず、日本全体で考えていくべき“基地の問題”
桝キャスター
「私も取材に同行して、『基地はもちろんなくなってほしい。でも基地とともに生活をつくってきた』という事実があって、はたから見ると矛盾しているようにも思えるような2つの感情が、どちらが正しい、正しくないではなくて同居していると感じました」
ryuchellさん
「僕も同じ沖縄県民として、勢理客さんの言葉、そして当時の葛藤は、すごくリアルだなと思いました。基地がなくなった方が安全ではあると思うんですよね。ただ僕の友達でも基地で働いてる人がいっぱいいます。親が基地で働いている友達もたくさんいます。その中で生活していかないといけない。だけど僕自身もヘリ墜落を見ています。『出ていけ出ていけ』ってよくいわれている言葉、それは“自分たちの身の安全を守りたい”、そういう言葉なんです。暴行事件、ヘリ墜落が起きたり、怖い思いをしたりしている人もたくさんいるんですよね。そういう気持ちも本当にすごくわかる。沖縄の人たちが何もしていないのかというとそうではなくて、昔から裁判やデモなど、できる行動はしていると思う。沖縄の人が行動していないわけではないってこともわかってほしいと、すごく思いました」
桝キャスター
「この話をすると、どうしても主語が“沖縄のみなさんが”となってしまいがちなんですが、誰のために背負い込んでいるかと考えると、沖縄で抱えている矛盾は、日本が抱えている矛盾でもありますよね」
ryuchellさん
「沖縄の基地の状況を変えていくには、日本全体がしっかり見つめていかないといけないですし、世の中全体も『核を持たない』とか、そうやって大きく変わっていかないといけないなとすごく思います」
桝キャスター
「ryuchellさんは次の50年、どうなっていってほしいですか?」
ryuchellさん
「僕の友達にも、国際結婚したり、米兵を親に持つ人もいっぱいいるんですね。そんな中でいろんな人たちを“個人”としてしっかり見る、柔らかい色々な角度で見つめていく。そして、武力を使わず自然を愛するという、首里城の時からずっと大切にしてきた琉球の心を、こうして伝えてくれたおじい、おばあがいるわけだから、若い世代、僕たちの世代が次に継いでいきたいと思います」
(2022年5月15日放送「真相報道バンキシャ! 」より)
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