強力なる室町幕府 武士の意識を支配せよ

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太田うしいち

太田うしいち

Күн бұрын

前回⇒ • 足利は源氏の嫡流?「鎌倉時代の足利一族」後編
脆弱脆弱と言われる室町幕府ですが
であればなぜ、脆弱な組織が250年も続いたのでしょうか?
今回はそんな話をします
動画内で紹介した政元さんの配信は⇒ • 【論文を読もう!】山田康弘「細川幽斎の養父に...
主要参考文献
主要参考文献
呉座勇一編『南朝研究の最前線』洋泉社
関口崇史編『征夷大将軍研究の最前線』洋泉社
田中大喜『新田一族の中世』吉川弘文館
田中大喜『足利氏と新田氏』吉川弘文館
谷口雄太『<武家の王>足利氏』吉川弘文館
山田康弘『戦国時代の足利将軍』吉川弘文館
音源
/ baron1_3
dova-s.jp/
ucchii0artist....
peritune.com/
soundeffect-la...
vsq.co.jp/spec...

Пікірлер: 117
@matukawatositane
@matukawatositane 2 жыл бұрын
室町幕府は脆弱だったという話は良く聞くけど、なぜ大名たちは足利氏に従ったのか…という話はなかなか無いので助かります
@dateiburinokami
@dateiburinokami 2 жыл бұрын
伊達家が大崎家に代わって奥州探題に就任したは、まさに革命的な出来事だったわけですね。
@じゅくちょ
@じゅくちょ 2 жыл бұрын
結城氏の話しはおもしろいです。 足利にタメ口使えなくなったタイミングがわかります。義詮と義満の時代は改めてすごい。
@TSUDATOSIYKI
@TSUDATOSIYKI 2 жыл бұрын
徳川がすんなり支配できたのも足利の「意識の支配」を利用したからか。 そして、入苗字を聞いて「これって豊臣や徳川が諸大名に「豊臣」や「松平」の姓を与えていたケースそのものだなぁ~」と思いました。
@マヤ平
@マヤ平 Жыл бұрын
徳川政権は、強力な法度武家諸法度があったからかな、あと、諸大名を監視する大目付があったかな
@hiroakiokamura3285
@hiroakiokamura3285 2 жыл бұрын
毎回、秀逸な動画の配信、ありがとうございます。 今まで認識していなかった「室町幕府の強さ」、たしかに浮かび上がってきますし、その説明の方が前後の時代の状況とも符合するところ腹落ちいたします。 これからも楽しみに拝見させて頂きますので、引き続きよろしくお願いいたします!
@obunowagaseha
@obunowagaseha 2 жыл бұрын
脆弱だったからこそ日本における権威の源泉である朝廷と強く結びつき権威になる事が出来たんだとも言えます ただ天皇や朝廷と異なり力が有ってこその武家のトップなので時代が下り更に力が失われるにつれ自己矛盾を起こし徐々に崩壊せざるを得なかったんだと思いました
@kazuhitoguitar2941
@kazuhitoguitar2941 2 жыл бұрын
谷口氏の武家の王足利氏、少し前に読み途中だったので思い出しながら楽しく聞けました。 改めて日本史の天皇という存在の大きさをまた感じますね。
@sepa3435
@sepa3435 2 жыл бұрын
おもしろい!!! 通り一遍の話を語るゆっくりが多い中、ここはホンモノだ!
@fujieda_w
@fujieda_w 2 жыл бұрын
源頼朝が平将門や源頼義に自分をかさねたり、源実朝が官位を求めたのも、自分達が周りの武士たちにとって絶対の存在になる根拠を求めたからなんでしょうねぇ。
@新妻洋司
@新妻洋司 2 жыл бұрын
毎回、見ていて楽しいです。 これを見ると徳川家は、支配体制を築いていくのに当たり、そうとう足利将軍家の良い部分も悪い部分も研究したんだろうなぁ。
@yamatonokuni-rekishi
@yamatonokuni-rekishi 2 жыл бұрын
反乱を起こしても「目には目を、足利には足利を」の精神。足利を担ぐことで得られる正当性はデカいですよね
@三上智紀
@三上智紀 3 ай бұрын
義元もわざわざ輿に乗ったの〜。
@memomumemo5443
@memomumemo5443 2 жыл бұрын
凄いためになる動画感謝です
@kenichihilobe8756
@kenichihilobe8756 2 жыл бұрын
面白いお話をありがとうございました。足利家の「権威」の衰微プロセスは興味深いですね。あれほど将軍家を大事にしていた信長も、義昭追放後に代わりの足利氏を担がなかったんですよね。平島から呼べそうにも見えたのに。今後の研究に期待しています。
@user-tq4qo4kl4p
@user-tq4qo4kl4p 2 жыл бұрын
ですよね~! 足利義昭追放後、朝廷に、皇統に直切繋がろうと、努力されますよね~!
@ku8687
@ku8687 Жыл бұрын
倒幕する側の薩摩が権現様と言って家康を神として敬っている当たり教育の力は絶大であり、それは現代でも同じです
@user-bp5nx6lb4t
@user-bp5nx6lb4t 2 жыл бұрын
足利氏の代わりは居ないという認識を武家に刷り込んだのは大きいな。 まさに第二の皇室。
@corjioono7463
@corjioono7463 2 жыл бұрын
少なくとも頼朝よりは尊氏は実戦経験もあるし性格はマシだった
@john_andaman3498
@john_andaman3498 2 жыл бұрын
ジャンプ漫画では妖怪になっちまったけど、今でも尊氏といえば真田広之のカッコイイ八方美人だと思ってる
@papapandoki3862
@papapandoki3862 2 жыл бұрын
桓武平氏や北条氏、徳川氏と比べてさえも、 日本全国の要職をこれほど一門だけで長期間独占した家は、天皇家や藤原氏を除くと他にないかもしれませんね。 権力の安定性とかは脇において、生物として日本列島でどれほど繁栄したか、という視点なら 足利氏は確かに武家の王たる存在だと実感しました。
@21121293dora
@21121293dora 2 жыл бұрын
単に比較対象が江戸幕府なだけ あれに勝てる安定政権は世界中探してもそうはおらん
@greeenakt3699
@greeenakt3699 2 жыл бұрын
足利氏は武家版天皇みたいな位置を作ったのかなと思う 強力な軍隊や経済基盤も持たなかったけど権威の象徴にはなった 徳川幕府も守護在京を参勤交代にしたりアレンジしながら権威を作って どちらも15代将軍までなのが面白いですね 徳川家康が若いころから何を見て未来を思ったかを来年の大河で見れるといいけど そこまで期待はできないかな…
@corjioono7463
@corjioono7463 2 жыл бұрын
松平家は清和河内源氏の血筋じゃないのがハンデだからな。 織田家も平氏出身じゃないが室町幕府守護斯波氏に朝倉家同様に越前出身の家臣から 尾張守護代になった織田家の弾正忠の傍系出身だし
@naoki080808
@naoki080808 2 жыл бұрын
家康は読書家で勉強好きだから、若い頃よりも歳をとるごとにビジョンを明確化していった印象です。  一国一城制とか、春秋の影響もあったんじゃないかなと感じます。室町の前例と、学問の知識をうまく擦り合わせていったのかなー?そこら辺どう描くか楽しみですね
@user-dv2vd6wk4x
@user-dv2vd6wk4x 2 жыл бұрын
@@naoki080808 吾妻鏡を愛読していたらしいですし、過去から色々学んで形成していったのかなと。 それだけでなく同時代の織田・豊臣政権からどの様に学びを得ていたかも気になりますね。
@beowulf05201
@beowulf05201 2 жыл бұрын
そしてどちらも15代将軍がその幕府の中で一番長命だったという
@マヤ平
@マヤ平 Жыл бұрын
今川の和尚が教育係だったからな。それで人間形成が出来上がってきたかなと、運が良かったと思います。
@備後国府
@備後国府 2 жыл бұрын
非常に分かりやすい動画で勉強になります。
@user-kr2ye1dl2s
@user-kr2ye1dl2s 2 жыл бұрын
天皇の外戚にはならないけど、メインスポンサー+ボディガードとしての存在は譲らない・・・ 本当に絶妙な距離の取り方
@user-cr3hr8sj1e
@user-cr3hr8sj1e 2 жыл бұрын
なるほど足利氏が武家の中でトップであることを認識付けることには成功したけど、将軍じゃなくて足利氏ならなんでもいいという風潮が将軍と鎌倉公方をしばしば対立せしめたのかも知れないですね。🧐
@reboot85
@reboot85 2 жыл бұрын
江戸幕府はそこを考えて、将軍になれる家格を御三家(厳密には宗家、紀伊、尾張のみで水戸は除外)に限定したのですね。
@ワタナベぶん回し堂
@ワタナベぶん回し堂 2 жыл бұрын
光秀の謀反が室町気質の延長であったという説に信憑性が増しました
@beowulf05201
@beowulf05201 2 жыл бұрын
伊勢貞興など、旧幕府の執事の家系のものや幕臣が山崎の戦いで光秀側に付いて戦っていたのも因縁がありそうですね。
@user-Usokusai
@user-Usokusai 2 жыл бұрын
きちんと義満解説に繋がるところが素晴らしい!最後のコメントには「ごもっとも」と言うほかない。
@user-gp1rw7te5y
@user-gp1rw7te5y 2 жыл бұрын
自分も探題職を一門以外に与えたことは足利の権威が衰退することの決定的なものだと思います。将軍や幕府が下克上を認めているようなものと考えるからです。
@kota1825
@kota1825 2 жыл бұрын
権力より権威。 他の方にも言われましたが、最後は権威が強い。 この国の定番。勉強になります。
@jodasow
@jodasow 2 жыл бұрын
尊氏の時代に、探題のような地方司令官は実効的な恩賞や安堵が出せるかどうかという信用が問題であり、その点において一門は中央に顔が利くということで一門が地方指導者となる慣行が生じたとされてますね。この時点では専ら保障能力が問われているので上杉氏や高一族などでも良かったのですが、足利一門を特別視する慣行の嚆矢はこの辺りだったとも思います。もちろん義満時代に儀礼秩序の頂点となったことが決定打となったことには異論はありません。
@777hydyy6
@777hydyy6 2 жыл бұрын
下剋上の張本人は足利氏だったというのは、闇が晴れた気がする。
@as_of
@as_of 2 жыл бұрын
面白かったです。 サンプル3つなんで何とも言えないですが、 他の2つの幕府と比べて幕府打倒を明示した存在が室町幕府の時にはいなかったのも、 長く足利将軍家が続いた遠因なのかなぁと思ったりしました。 他の2つの幕府におけるその存在は主に朝廷ともいえると思いますが、 室町幕府においては土地的距離も併せて公武合体がより上手くいっていたとも言えるのでしょうか? 次回の足利将軍総選挙では、私も義満に投票しようと思います。(悪口引換券w?)
@as_of
@as_of 2 жыл бұрын
6:35 にしても、足利義尊って凄い名前ですよね。 なりふり構わず名付けた感がw
@チハ-l6d
@チハ-l6d 2 жыл бұрын
足利一門が特別だったからこそ、松平から徳川になったんですね。足利一門がたくさんいる三河で 松平?どこの馬の骨?とか言われてたのかなあ。
@gateunder422
@gateunder422 2 жыл бұрын
ある意味で「呪い」であり「共同幻想」だったのかもしれませんね。 室町時代を通じての【足利】の名前というものは。
@user-nt8iz6yx2e
@user-nt8iz6yx2e 2 жыл бұрын
権威担当は天皇がいるし、権威も権力も中途半端になってしまった足利が、生き延びることは難しかったんでしょうね
@user-ht1bb4jp3v
@user-ht1bb4jp3v 2 жыл бұрын
徳川の苗字は御三家御三卿以外に許されず、家康直系子孫以外の松平はあくまで譜代で直系子孫のみが親藩という扱いにしたのも徳川家康、徳川家の権威を固定化するのに役立ったのでしょうね。
@yh6146
@yh6146 2 жыл бұрын
でも家光の代に松平だった水戸を徳川にして御三家にしたのは失敗。気違いの水戸が勘違いして幕末にヤラカシタあ
@takagi_4745
@takagi_4745 2 жыл бұрын
@@yh6146 尾張藩なんていの一番に新政府軍に寝返ってるし尾張も終わってる()
@yh6146
@yh6146 2 жыл бұрын
尾張は10代から13代まで紀州出身の将軍家からの押し付け養子が酷かった。だから、幕府への反感が強く朝廷についた。まあ、幕末は将軍も尾張も血筋は水戸になっていたけど。
@三上智紀
@三上智紀 3 ай бұрын
水戸だの〜、水戸から尊皇が始まったの〜。
@user-zo5ly9wu8n
@user-zo5ly9wu8n 2 жыл бұрын
徳川も最終的には「プレミアム」感の喪失で滅びた側面は否めません。 家斉の子供達の養子&嫁ぎ先で約1/3の大名が徳川ないし、松平になっちゃいましたから。
@yh6146
@yh6146 2 жыл бұрын
そういえば家斉の息子の養子先は全て徳川か松平だった。外様でも江戸時代初期に松平になった大名ばかり。
@yudaya99
@yudaya99 2 жыл бұрын
こういうしみると江戸幕府は相当研究したな。
@beowulf05201
@beowulf05201 2 жыл бұрын
義輝の父、義晴もなかなか思い切ってたな。 偏諱も多いし、それまで稀な政略結婚も娘にさせた。 その背中を見たことのあっての義輝なんだろうな。
@user-fc6tr4lr6y
@user-fc6tr4lr6y 2 жыл бұрын
「周」の天下が破れ…洛水+伊水域に領域が縮小した頃でも、鼎の輕重を問われても…「その時期に非ず」と突っぱねた氣概が…足利の將軍に感じられないのは、殘念至極
@naoki080808
@naoki080808 2 жыл бұрын
義輝なんて荘王が後ろ盾みたいなもんだし・・・
@kumosukeponsuke
@kumosukeponsuke Жыл бұрын
江戸時代の喜連川藩の家格はこの意識を何とか利用しようという意図があったのかなと感じました。
@user-pm3ps8io6x
@user-pm3ps8io6x 2 жыл бұрын
これって、江戸時代になっても、 足利一門とされる吉良家や今川家なんかが高家として重きに置かれたのと同じ理由か?
@toshis3972
@toshis3972 2 жыл бұрын
私は初めて皇帝の尊さを知ったぞ ってやつだな。戦乱をまとめるものと安定をまとめるものは武器が違うが、義満はどちらをどのように使うか理解して効果的に使っていたんだな
@user-mk6yu1tx9t
@user-mk6yu1tx9t 2 жыл бұрын
軍事力や経済力は無かったけど権威は有ったって事かな。
@essauouo5251
@essauouo5251 2 жыл бұрын
足利さんは義詮や義満の計略によって天皇家や藤原氏になったのに、現実に合わせすぎて失墜してしまった感じなのかも知れませんねえ ものすごく考えさせられたお話でした
@福也
@福也 2 жыл бұрын
こう言われるとあっさり滅んだ北条氏とは本当に対照的だな
@kuritayouichi2993
@kuritayouichi2993 2 жыл бұрын
慧眼!
@r91RwKeQ
@r91RwKeQ 2 жыл бұрын
面白く、為になる考え方でした。 ただ、将軍・徳川家の成功に関しては織田・豊臣の二つの政権を挟む必要があった気がします。 地方の武家としてはそれなりの経歴があった筈の織田家が苦闘し 出自が農民の可能性が高い豊臣は天皇家から早期に取り込むことで 小牧・長久手の戦いより後は丁寧に積み木を積むような手順で全国統一を成し遂げました。 歴史的な手順を見習う元としては足利家を参考にしたのでしょうが 天皇家・将軍家を言う地位を積極的に利用することにしたのは秀吉の影響が 強いのではと思えます。
@weakoctopus9419
@weakoctopus9419 2 жыл бұрын
足利に対する為に足利を立てる、かぁ。 南朝に対する為に北朝を立てた尊氏さん。子孫がそんな扱いになって嬉しかっただろうな。(笑)
@user-cu6qu7bu1i
@user-cu6qu7bu1i 2 жыл бұрын
素直に見て鎌倉幕府なんて幕府と呼べるほど全国政権として確立してたようには見えないから室町幕府が脆弱だったとは思えないなあ。北条氏なんて朝廷での権威なんてほぼ無視して官位の上昇なんてほとんど活動してないわけだし
@user-cu6qu7bu1i
@user-cu6qu7bu1i 2 жыл бұрын
@「無色見せて」といったら白出す人嫌い そうなんですよね。相対的にしか評価できないのが歴史の限界のところなんですよね。歴史学という学問は現代との比較の中で過去と現在の特殊性を見出すことが主で共通性を見つけることが難しいんですよね。偶発的出来事の連続である歴史に絶対はないからこそifを考えることが無意味であるように
@Selerdia_AC
@Selerdia_AC Жыл бұрын
江戸時代における喜連川藩の知見を得た時、この動画の考察は足利家は武家の頂点という意識支配が明治時代まで続いていたと云うのが解って完璧な考察だな と唸ってしまったのでした
@user-cx4zg9qn6x
@user-cx4zg9qn6x 2 жыл бұрын
少なくとも北条一門の妻を持ち建武の新政時点での武門の中では尊氏は”長”でしょう。
@user-wj9ve1fs9y
@user-wj9ve1fs9y 26 күн бұрын
結局有力武家は大体自分達は源氏の流れを汲む名家を名乗ってる武田氏、徳川氏が良い例だ
@りゅうたん-o6e
@りゅうたん-o6e 2 жыл бұрын
中国の春秋時代と似てますね。2,000年くらい離れてるけど💦 春秋→戦国の流れは中国も日本も同じか・・・足利のブランド≒周王朝ですね。 戦をするのに大義名分として足利のブランド、周王朝のブランドを担ぎ上げてますね。 自分の正当性を主張するためうまく利用してますね!(^^)!
@user-cg5ot3fv7m
@user-cg5ot3fv7m 26 күн бұрын
徳川家康も今川家含めた足利一門を厚遇して、徳川家の統治の正当化の一つとして利用していた訳で、 足利家は特別(武家の棟梁の血筋)という権威は徳川時代でも重要だった。
@flyback_2091
@flyback_2091 2 жыл бұрын
これに限らず、「権威」、「本流」みたいなものは、割と言ったもの勝ちだよね。一定期間言い続ける根気(と言うか、執念)が大事だけど。
@user-qn5tz9qe2t
@user-qn5tz9qe2t 2 жыл бұрын
原作そのものは大した事なかったけど、二次創作する人たちの熱量で天下を取ってしまった東方と似ている気がする
@naoki080808
@naoki080808 2 жыл бұрын
ゆっくり幕府w
@john_andaman3498
@john_andaman3498 2 жыл бұрын
茜と葵の方が愛嬌あるし、ズン子の方が落ち着くのだけれど 霊夢と魔理沙の絶対性には勝てる気がしない...
@schimitch3277
@schimitch3277 Жыл бұрын
衰退した朝廷を資金その他でバックアップして「武家版公家」的なポジションになったわけですね。京都に幕府を開くとそうなるのでしょうが………朝廷の権威は必要最小限にしか利用しなかった関東の両幕府との、最大の違いですよね。まあ歴代徳川将軍は「一応」内大臣、あるいは太政大臣でしたが。
@user-hirotaka0123
@user-hirotaka0123 Жыл бұрын
ようは水戸黄門の印籠と同じだよね、あれも徳川に権威があるから通用するわけですから
@user-ub7tt4gl8y
@user-ub7tt4gl8y 2 жыл бұрын
信長の管領辞退も当時の室町将軍家の存在感感じてきた。そりゃ断るよね…→一門でもなんでもないのに神格化されてる一門の役職に付いたら幕府存続という観点でデメリットがちらつく 秀吉も家格リセットっていう面である意味江戸幕府開府の助けにもなったし家康・秀忠親子も室町を参考にしたんだろうなぁ→親藩譜代外様や高家等の大名の家格や武家官位の上限やら
@user-cp2qf2tw2i
@user-cp2qf2tw2i Жыл бұрын
ちなみに〇〇公方も室町時代後期から出てきましたがそれはどうなのかな
@yomomo5184
@yomomo5184 Ай бұрын
足利一門が武家の棟梁と広く認識でウンヌンってよりも、一行動を起こす際足利一門を担いでる俺って「なんて忠義者なんだ」とアピ出来るからでは?神輿は軽い方が良いが、軽いと周りからは思われたくはない。でも世の中のの認識が“足利一門が武家の棟梁と広く認識”ってことにしとけば→足利一門を担いでる俺ってなんて忠義者なんだとアピ出来る。 つまり卵が先か鶏が先かの話。 ある程度の実力を持つと、名~名誉を欲しがるようになる。。実力よりも大きな事を起こそうとするならばより有利になるように見せかけるため“大義名分”が必要になる。
@k1mr17
@k1mr17 22 күн бұрын
信長が権大納言右近衛大将に任官した1575年が足利ブランドの決定的な崩壊ポイントと言えるのかも
@SuperFour-ng6im
@SuperFour-ng6im 6 ай бұрын
建武式目の署名に鎌倉権大納言名義にしていたのも、足利尊氏が源頼朝と同じ官職の後継者である事を周りにも意識付の一環だったのでしょう。 そのブランディングは徳川家康の時代まで活きていて、家康が新田一族として源氏を名乗ります。 新田氏と本物の同族で尊氏の子孫の喜連川氏に気を遣う必要が出てきます。 5000石ながら四品国主の格式と御所号の使用を認めたのも、ブランド力と後ろめたさからのものだった事でしょう。
@tiberius1st
@tiberius1st 2 жыл бұрын
足利には足利をぶつけるしかねぇ!
@Q-Finch
@Q-Finch Жыл бұрын
羽柴秀吉が関白になったのも、征夷大将軍では足利氏に家格に及ばなかったからかなと思いました。
@stone3944
@stone3944 Ай бұрын
勢力や権力、軍事力で言えば室町幕府は確かに弱かったかもしれないが、権威性や正当性、それに象徴性で言えば鎌倉幕府より遥かに上で、戦織豊時代と江戸幕府をつなぐ存在であったのは間違いない
@ak4tamau
@ak4tamau 2 жыл бұрын
足利幕府の強さ(しぶとさ)確かにそうですね。 朝廷の官位を使った権威を上げたり武家の官位を将軍がまとめて得る形にするなど名族など周囲の意識に足利家の特別さを植え付けるなど徳川幕府などが取り入れた原型が多いと思いました。 代を重ね無意識レベルで武家の棟梁という意識が周知されたから応仁の乱あたりからどんどん中央集権の勢力としての武力が落ちても中央の特別な家として残れたというのも納得です。 そして、その終焉となったのも義輝や義昭に代表される将軍自身の劣化、もちろん側近衆もそれに含まれるのでしょうが幕府という体制そのものが劣化した結果というのもそのやらかし具合が研究されるのを知るとさもありなんという感じです。 旧来の権威が滅びていくのも時代の流れという以上にその中にいる人間自身が権威の裏付けとなる約束事を破って自滅していったからという風に思います。戦後からこの令和にかけても自爆気味に消えてたり消えようとしている名族に結構あるように思いました。
@yass313
@yass313 Жыл бұрын
足利家が存続した理由ってむしろ君臨すれど支配せず、という立場だったから、武家にとって都合のいい権威として延命できたというだけで、「支配」とは違うような 足利義輝あたりが足利家の権威を切り売りしたのも、武家に特別感を与えて歓心を買ってどうにか足利家の実質的な支配体制を再構築しようとして奮闘した結果なのでは、と思う
@Aetius25
@Aetius25 2 жыл бұрын
なるほど、江戸幕府が高家を置き、吉良家が江戸初期から高家を務めたのも、その流れということですね。
@akaichi8765
@akaichi8765 Ай бұрын
現代風に言えば足利家は認知戦をうまくやったということだろうか?
@jafgranade166
@jafgranade166 2 жыл бұрын
河内源氏義国流が頼朝になる物語、で結局足利氏に実朝は現れなかったと
@user-hirotaka0123
@user-hirotaka0123 3 ай бұрын
よくよく考えたら、信長は義昭将軍を追放したけど幕府機構をなくしたわけではないのでは?現に追放後も幕府役職たる関東管領に滝川を任命したりしてるし。やはり信長は室町幕府を立て直してたのでは?息子の信忠も美濃尾張の大名としかしてないし
@user-pp3ov5bs6r
@user-pp3ov5bs6r 2 жыл бұрын
それでも秀吉を養子にはしなかったのね
@マヤ平
@マヤ平 Жыл бұрын
鎌倉殿、室町殿、じゃ江戸徳川政権は、?公儀、公方さま、お上
@netdm21
@netdm21 Жыл бұрын
最終的に足利絶対体制を崩したのは豊臣秀吉だと思うけど
@user-uo3kc4nt8t
@user-uo3kc4nt8t 2 жыл бұрын
ヴェルダースオリジナル
@user-mh7hi2gm6g
@user-mh7hi2gm6g Жыл бұрын
私は、軍事力的には、鎌倉>室町>江戸幕府の順だと思います。 鎌倉幕府は治承寿永の乱,承久の乱に元寇にと大きな戦さに勝ち続けました。最強だったと思います。 最弱は江戸幕府... 関ヶ原の戦いは幕府成立前だし、大阪冬の陣・夏の陣は圧倒的な大軍でたったひとつの城を落としたのみ。 勝ったといえるのは島原の乱くらいですが、これは非戦闘員主体の百姓の反乱とも言いうるもの。 最後は戊辰戦争で負け続きでした。 一方、室町幕府は、奉公衆という将軍直属部隊が義満の時代に創設され、結構強かったなと。 山名氏が蜂起した明徳の乱や大内義弘が蜂起した応永の乱を収束させたのはこの存在のおかげ。 室町時代を通じて守護大名の謀反は多発しましたが、創設以後、この存在を意識して将軍家側についた守護大名も多かったのでは? 江戸幕府もこの制度を参考にして旗本という制度をもうけたと思われます。
@stone3944
@stone3944 Ай бұрын
なるほど。江戸幕府の大名や旗本ってのは言ったらすっかりサラリーマン化して武で功績を上げるような時代でもなければそんな野心もない人が多かっただろうし、既に主戦力も刀や槍ではなく弓や銃だっただろうからね。鎌倉武士の肉弾戦の強さは世界史レベルでも衝撃だからなあ、純粋にドンパチやったら小火器程度はリアルに勝てると思う
@takeout9198
@takeout9198 2 жыл бұрын
南北朝の面白さが分かるには天智天皇からの流れで見るのが良い気がする。 天智天皇の時代から一気に血生臭い戦乱の香りがする。
@bv222
@bv222 2 жыл бұрын
また聞き鶏肉・・・
@user-pp1qx4nk5d
@user-pp1qx4nk5d 2 жыл бұрын
ウホー
@penmodel
@penmodel 9 ай бұрын
足利氏の権威のため、源氏直系とつながりのある源義家が必要以上に神格化されたんじゃないかと思う
@user-gy3hj5bc5t
@user-gy3hj5bc5t 7 күн бұрын
いや…それは時代が合わない…平安末期、鎌倉時代には武家によって神格化はとっくにされてたから、 室町時代に必要以上にってする必要がないぐらいすでになってたよ。
@user-yakisoban
@user-yakisoban 2 жыл бұрын
これこのまま天皇家の問題にも当て嵌まるなぁ・・
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x 2 жыл бұрын
そも御三家の着想は足利家の「足利滅べば吉良が継ぎ吉良が滅べば今川が継ぐ」が原点だろうし(家康着想の御三家は将軍家も混じってるのがポイント) 大名達に莫大な所領と発言権をセットで与えないというのも明らかに室町幕府からの反省があっただろうしね。
@user-uu5kc7ur9b
@user-uu5kc7ur9b 2 жыл бұрын
しくじり足利将軍家。
@user-sh9ds6ql2u
@user-sh9ds6ql2u 25 күн бұрын
なろう小説の【羽林、乱世を翔る】でも主人公や三好家中は、探題職を即物的な考えで大友や伊達に与えた公方(義輝)を蔑んでいたな。
@髙木美濃守ニトロプラスエドガー
@髙木美濃守ニトロプラスエドガー 2 жыл бұрын
脆弱理論で言えば朝廷こそ…………(それ以上はいけない)
Секрет фокусника! #shorts
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