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太田うしいち
歴史学の先生達が研究して下さった研究を軸にして
歴史解説動画を作っていきます
信憑性の乏しい面白おかしい逸話、かっこいい講談は基本的に話しません
こちらはサブチャンネルです
生声で歴史をはじめとした内容の雑談をする時があります
kzbin.info/door/jPC-6X7l8zjQxs2Hrv3opQ
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Пікірлер
@user-wx1ec5wc2i
2 сағат бұрын
義康の次の代から足利氏が義兼義氏泰氏と通称に“三郎”を使用してきた中で、泰氏の長子斯波家氏の通称が名越流の関係で“三郎”から“太郎”になったのを見ると、義国流として“三郎(足利)”が嫡流で“太郎(新田)”が庶流なのかと勘ぐってしまう
@ヒロアンB
2 сағат бұрын
清和源氏は本当に仲悪いなあ。
@user-ry2fi7lj6h
3 сағат бұрын
足利連合若頭兼、直系細川組組長細川頼之
@user-ry2fi7lj6h
4 сағат бұрын
動画である通り細川頼之は足利義満にとって本人は烏帽子親、また妻は義満の乳母でしたのでプライベートなことを含め幼少期から義満の事を知ってたと考えるのが普通です。 細川頼之に子供はいませんが、妻が乳母をできたことから、頼之と妻の間の子供は死産か出産直後に死んだのではないでしょうか? ですので義満にとっては主君であると同時に実子代わりだったのでは思います。 あと、義満はわがまま、派手好き、能力は非常に高い、お気に入りの家臣には甘く、あまり気に入ってないものには冷たいのを見ると ルイ14世のような人物をイメージしてしまいます。実直で能力のある家来が好きな所まで一緒です(笑)
@user-do4yq2zz8n
17 сағат бұрын
軍役、部隊編成は謙信より始まるという乃至氏の説にある程度賛同する。 謙信の関連本で軍役に書かれているのを見た事あり。兵農分離はまだまだ先の話し。信長は生まれた環境が良かった為、交易による利益、 濃尾平野による農産物の豊かさこの事によって兵農分離が可能になる。
@user-hirotaka0123
Күн бұрын
新田が嫡流を争うライバルで敵なら問題無いけど、新田が足利一門で本家に逆らって敵についていたら武家の棟梁としては立場ないからそれを隠せるのが足利の1番のメリットやない?南北が始まったころはまだ足利内での内ゲバも始まってないし。
@1929xz
2 күн бұрын
うざ
@user-sz1or6un2g
2 күн бұрын
この頃の北条と足利の蜜月を考えると、戦国時代の後北条氏が関東公方足利家を滅ぼすのもなんか因縁めいているな。
@user-zb4mt3gq9w
2 күн бұрын
鎌倉初期の足利義兼の母は熱田神宮の宮司家の人(頼朝の従姉、祖父の養女になったので義理の叔母)その点だけでも頼朝に大切に扱われる理由となる。だからこそ、時政の娘が嫁いだのだ。そして、北条の血が入っている源氏として鎌倉時代を通して大切に扱われた。家系図は自分の家以外の物を見ることは難しいので、大切に扱われた足利氏の源氏嫡流の主張を誰も疑わなかったと思われる。
@Q-Finch
2 күн бұрын
万人893だから万人恐怖でないと政治自体できんかったんでしょうね。。
@Q-Finch
3 күн бұрын
足利によってブランディングされた「源氏嫡流」を利用して、徳川家康は源氏長者になったということか!
@SitePal92
4 күн бұрын
投資信託で言えば、信長はインデックスファンドだな。 こつこつ地道に積み上げるのが、結果強い。
@user-lc4dw8vy9z
4 күн бұрын
北条政子については、良くも悪くも、吾妻鏡の影響力は大きいということです。足利義教か足利義政あたりで幕府公式の歴史書の編纂事業を始めていれば、渋川幸子も、もう少しメジャーになっただろうけど。応仁の乱やら明応の政変やらで、どのみち編纂は続けられなかったか。江戸時代や戦国時代の歴史についても、なんだかんだで「徳川実紀」や「寛政重修諸家譜」の影響は大きい。
@user-ks2nn5fb3e
4 күн бұрын
北条時宗は、将軍権威の高揚によって、それに仕える北条得宗の権力も増大するようにしたかったのかもね。 確かに仕えてる立場の人間が強くなるためには、それが一番だと思う。
@user-ve4kd9cx8i
4 күн бұрын
信長の野望・保守
@user-vn5kb8by5d
4 күн бұрын
天才ゆえの無駄を省く性質と人見知りゆえの親しい相手には馴れ馴れしくなる性質が合体し、悪影響として出ちゃったパターンがまぁまぁ外交面であるんだよなぁ、ノッブ・・・
@daikon_yakusha
4 күн бұрын
確か…義満の使節到着タイミングが、永楽帝が内戦に勝った頃で、登極直後してすぐに 家臣「陛下。日本から永楽帝宛に使節が来ました(嘘やろ」 永楽帝「マジで!親父をガチギレさせた日本から俺宛てに?…まじで俺に臣従したいの⁉マジ天佑(自身の正当性確保に使える)でワロスwww」 って、ことだったから通ったのかな?
@user-fp4pt7ql3y
4 күн бұрын
スペースの都合で義親を省いただけでしょ😅
@k1mr17
4 күн бұрын
信長が権大納言右近衛大将に任官した1575年が足利ブランドの決定的な崩壊ポイントと言えるのかも
@user-fj5gz6ps3p
5 күн бұрын
現代は悪党という言葉が悪い奴全体をさす言葉になってるから当時とニュアンスが違うのは確かなんだよね ただ良い意味では無かったと
@user-ld6gq9kw9w
5 күн бұрын
自由民主党は、誰のための政党か。
@qzp01467
5 күн бұрын
北条得宗家を仕切っていた内管領長崎氏は実は平清盛の長男重盛の血統だと噂があるから、それが真実なら滅ぼしたはずの平家によって内側から鎌倉幕府を乗っ取られ、滅亡の原因作ったともいえますね。
@user-zb4mt3gq9w
5 күн бұрын
宗方には姉妹がいて、赤橋久時に嫁いでいる。守時と登子は彼女の子である。
@aki_4sas131
6 күн бұрын
まさか…計算が面倒くさくなって参考資料にした戦闘で出た火縄の数足しただけとかないよ……いや、プロパガンダありきならやってそうだな。
@user-ry2fi7lj6h
6 күн бұрын
楠木氏は江戸時代ですと大商人の食野氏として存続してますので 楠木氏の江戸時代の資料は精度は高いかと思います。
@user-ry2fi7lj6h
6 күн бұрын
最近こちらのチャンネルを知りました。歴史好きとしては大変楽しんでいます。 「逃げ若」にまつわる太田うしいちさんの動画を見てみたいです。 例えば、北条時行の動画や小笠原貞宗にまつわる動画。何故足利尊氏は鎌倉幕府を裏切ったのか辺りを取り上げていただきたいです。
@user-sh9ds6ql2u
6 күн бұрын
【信長の野望 全国版】しか歴史知識が無い人なら今川治部の上洛説を熱く推すのでは?
@user-sh9ds6ql2u
6 күн бұрын
自分も里中満智子先生の漫画で【女帝の手記】で道鏡の印象が180度変わりました。歴史って面白い。
@another3598
6 күн бұрын
10時間前だ!!!と思ったら10ヶ月前だった… 楽しみにしてます!
@user-fb3fk4dp7g
6 күн бұрын
鎌倉幕府以降、日本式の封建制度は改良が続けられ、江戸幕府がその集大成だったのでしょうね。
@emperor0001
6 күн бұрын
でも、僕の家は霜月騒動で、北条貞時軍勢に攻め入れられ、敗走した方だよ?
@toshitoshi2994
6 күн бұрын
西ヨーロッパ中心史観に日本は毒されているのでアレだけど、ローマの東西分離は成功といっていいしね。
@emperor0001
6 күн бұрын
でも、足利以外は皆滅亡なのか?・・・源も、新田も、後嗣は居無いのかな? だから、3番手で足利が、源氏の頭首嫡流なの?…でも、小笠原も、佐竹も、島津も、源氏は沢山いると思うけどね?ま、何が嫡流なのかは知らないけれどね?・・・でも、関東は源氏は多いだろう?
@yhira2010
7 күн бұрын
聖徳太子時代の蘇我政治(事実かどうかはわかりませんが…)、平安朝の藤原北家一族、明治朝の薩長土肥巨頭政治、二・二六事件以後の陸軍統制派軍国主義……これらも同じようにミカドの名を振り回した寄生体制だったんじゃないの? 歴史は繰り返される。
@user-hw3gb7oh7c
7 күн бұрын
平安時代後期では悪=強いの意味がありましたのでそれを鎌倉時代を通して変化を無視した結果ではないでしょうか?鎌倉時代以降は今と同じ意味に変化したと思います。
@user-ry2fi7lj6h
7 күн бұрын
鶴太郎さんが大河ドラマ太平記で北条高時の怪演を見事に見せてくださいましたが、 この説によれば鶴太郎さんが演じたのは晩年の貞時像に近いのですね。
@user-ry2fi7lj6h
7 күн бұрын
これを北条時宗像だと言い出したのは誰なんだろう?(笑)
@user-sh9ds6ql2u
7 күн бұрын
足利義昭への見方が随分変わった。それこそ『義昭に憑依して幕府滅亡回避RTAに挑みますとかのなろう小説では?』と思ってしまう程に。
@kumosukeponsuke
7 күн бұрын
時宗が存命だったとしても成功しそうになさそう… その時はどういう反応があったんだろ
@user-hirotaka0123
7 күн бұрын
令和の天ちゃんは嫌いだから熊沢天皇でもよかったなー
@user-ts5fd6mt4d
8 күн бұрын
デスマスク的な感じで没後の法要で飾る用に描かれた可能性はないでしょうか?でも出所は確かに怪しいですね
@user-sh9ds6ql2u
8 күн бұрын
なろう小説の【羽林、乱世を翔る】でも主人公や三好家中は、探題職を即物的な考えで大友や伊達に与えた公方(義輝)を蔑んでいたな。
@user-cg5ot3fv7m
8 күн бұрын
徳川家康も今川家含めた足利一門を厚遇して、徳川家の統治の正当化の一つとして利用していた訳で、 足利家は特別(武家の棟梁の血筋)という権威は徳川時代でも重要だった。
@user-sh9ds6ql2u
8 күн бұрын
23:28執権職の募集要項が切なすぎて涙を隠せない。哀れ赤橋守時・・・
@user-wj9ve1fs9y
8 күн бұрын
結局有力武家は大体自分達は源氏の流れを汲む名家を名乗ってる武田氏、徳川氏が良い例だ
@veryvery525
8 күн бұрын
遅い
@user-lc4dw8vy9z
9 күн бұрын
これ、あながち間違ってないんだよね。実際は、家康と家臣団のまとめて誅殺計画の実行部隊を光秀が指揮する予定だったのだから(本城惣右衛門覚書)。すべては家康を謀殺するためのスキームだったのに、家康と光秀が通じていたため、結果として本能寺の変になってしまった。事前に知っていた家康は準備万端で、「神君伊賀越え」を驚異の2泊3日で踏破(家忠日記)。ちなみに誅殺の理由は、もちろん武田征伐が終わる前からの(依田信蕃の登用をはじめとする)甲斐・信濃への調略活動(実質謀反)である。
@O-mega51
9 күн бұрын
頼朝を河内源氏の棟梁としたのはどう考えても後付け 当時は義仲を始め武田や新田など沢山ライバルがいたからね 特に範頼や義経等兄弟衆がもっと強い野心持ってたら平家潰せなかったかも
@O-mega51
9 күн бұрын
仁木と細川は愛知県岡崎市北部、矢作川沿いに地名が残っています 足利氏が承久の乱の褒賞で三河に土着して仁木、細川、一色、吉良などの足利分家が出て室町幕府の創成期を支えてます 三河といえば徳川家臣団の結束が有名ですが天下人を輩出する下地が鎌倉中世から出来上がっていたのかもですね😊
@user-pk2yx5jv7j
9 күн бұрын
ちょうど最後の動画から再開宣言までの期間と同じ日数が経ちました記念コメ😀🎉