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3月11日で「東日本大震災」から12年。被災地はいま、どんな状況なのか。東北地方を訪ね、過酷な体験をした語り部に話を伺いました。
<滝澤悠希キャスター>
「岩手県宮古市田老地区には、“万里の長城”とも呼ばれた高さ10mの防潮堤を超える津波が押し寄せました。震災後には、高台に新たな住宅街も作られています」
2011年3月、震災直後の田老地区です。私が歩いていた防潮堤の近くには住宅地が広がっていました。この街を襲った津波の高さは17.3m。昭和と明治時代の三陸津波を大きく超えるものでした。防潮堤沿いの低い土地には、いまは人が住んでおらず、4階まで浸水したホテルの建物が保存され、津波の恐ろしさを伝えています。
<岩崎大輔記者(2011年)>
「この辺りが陸前高田市の中心部です。右側に見えるのがショッピングセンターでしょうか。3階まで津波が入ってきています。この辺りは鉄筋の建物以外は全く残っていません」
<岩崎大輔記者(2023年)>
「2023年の陸前高田市内です。およそ15mまでかさ上げされ、新しい街ができています」
岩手県陸前高田市の海岸沿いには、全長およそ2kmの巨大な防潮堤が新たに整備されました。復興の象徴「奇跡の一本松」も街を見つめています。
<震災直後のリポート>
「現在、画面中央、気仙沼の状況となっています。かなり大規模な火災の状況が画面中央に確認できます」
宮城県北部の気仙沼市では、タンクから重油が流れ出し火災が発生。およそ10日間、延焼を続けました。被害が甚大だった地区では、地盤がかさ上げされ、災害公営住宅が津波避難ビルになっています。
岩手県釜石市。この街では1146人が犠牲になりました。(関連死を含む。2023年1月現在/岩手県調べ)
<釜石市の語り部 菊池のどかさん>
「私のふるさとは、やさしい人がたくさんいて、高齢者がすごく多くて、隣にはいつも寄り添ってくれる人がいて、海風はすごく冷たい所なんですけれども、それが暖かく感じられるような街が私の故郷でした。海のにおいが何となく、いつも学校の校舎に漂うそんな街でした。その街が私自身こんな風になるとは思いませんでした」
釜石市の語り部・菊池のどかさん(27)です。津波の教訓を多くの人に伝えたいと、2023年3月5日、浜松市内で講演しました。当時、中学生だった菊池さんが経験したのは、子どもたちが率先して高台を目指し、津波から逃れた当初「釜石の奇跡」とも呼ばれた避難行動です。
<釜石市の語り部 菊池のどかさん>
「友だちと話をしていたのは、こんな揺れで3mの津波なわけないよね。もっと高い津波が来るんじゃない、たぶん堤防を越えるよね、という様な話をしながら、一所懸命走って避難しました」
12年前、菊池さんが通っていた中学校は津波の被害を受けました。激しい揺れが収まった後、菊池さんたちは、隣の小学校の児童とともに、約570人で必死に避難しました。
<滝澤悠希キャスター>
「当時は、どういう心境でここを駆け上がっていった訳ですか?」
<菊池のどかさん>
「当時、ここを歩いていた時は、確か防災無線でサイレンが鳴って大津波警報のサイレンが鳴り響く中だったので、叫ばないと会話が聞こえづらかったというのは覚えていて、いろいろ考えながら歩いていた道ですね。いま見えている白い2階建ての建物の駐車場に1度避難しました。そこが学校指定の避難場所だった所ですね。余震でくずれた崖があそこにあるんですけど、下に岩がたまっている。あれが崩れてきた跡ですね。横を見たら岩が落ちていたという状況で、その中で泣き叫ぶ子たちもいましたし、副校長先生が当時、小学校・中学校どちらの指示も出してくれて、やっぱりここじゃだめだから、上に避難しようということになった」
この場所には、その後、津波が襲来しました。近くにある看板は津波の力で傾き、いまは震災の記憶を後世に伝える遺構として保存されています。
<菊池のどかさん>
「よく写真でうつっているのが、このあたりなんですよね。ここに昔、白い家があって、向こうの方から撮っている写真になります」
菊池さんたちは、さらに高い場所を目指します。
<菊池のどかさん>
「2回目に逃げたところはここで、ここから後ろを見てもらうと高くなっているのが分かると思うんですけれど、ここが海抜15mの地点ですね」
Q.ここで津波を見た?
「そうですね、この場所で点呼をとろうとしていたら、もう津波が来ていたという感じでした。一人が『やべー』と騒いだ瞬間にみんなすぐにまた走り始めたので、ここからさらに上に避難するまでの短い時間だけ見ていたという感じでした」
最終的に避難したのは、海抜44mの場所でした。
<菊池のどかさん>
「最終的には私は道路を挟んだこの山に避難しました」
Q.大体どれくらい距離がありますかね?
「学校があった場所からだと1.6kmぐらいだと思います」
より高い所を目指し、津波を逃れたこどもたち。釜石市内の小中学生の生存率は99.8%。当初「釜石の奇跡」とも呼ばれた理由です。(※現在は『釜石の出来事』と呼ばれている)
<菊池のどかさん>
「偶然の要素もすごく多かったと思いますけど、その中でも防災教育の中で知ることができた部分も多いので、その部分に関しては必然だったのかなっていう部分もあって、すごく複雑です」
避難行動を支えたのは、震災前から中学校でたびたび行われていた「防災教育」です。身に付けた知識を地域の大人たちに発信する活動も実施し、菊池さんは委員長を務めていました。それでも、釜石市内では1000人を超える死者・行方不明者がでています。防災を呼びかける自分の声は、地域の人に届いていたのか。菊池さんは2019年の取材で震災当時の悔しさと悲しさを語っていました。
<菊池のどかさん>
「(地域の大人などに)自分たちの本気度が伝わるくらいじゃなかったのかな。中学生という域を越えられなかったのだと思う」
自らを責め、「生きるのがつらい」と感じることもあったといいます。それでも、12年が経ち、心境に変化がありました。
<菊池のどかさん>
「そもそも生き残ったことに申し訳ないって思い続けた日もあったし、自分がどう動いていくのが正解なのか、正解があるのか分からないけれど、それ自体も悩み続けた日々がありましたけれど、いまは迷うのは当たり前だと思っている」
「ボランティースト(震災前の防災活動)をやっている時の写真があって、使えれば使った方がいい」
<菊池さんの中学校の後輩 紺野堅太さん>
「使いたい」
最近は、同じ経験をした後輩の語り部の相談にのるなどしています。後輩も頼りにしています。
<菊池さんの中学校の後輩 紺野堅太さん(25)>
「(語り部をする時)最初に声をかけて頼ったのが菊池さん。今後の語り部活動の中でもすごく(存在が)大きく、助かっている」
「奇跡」と呼ばれた避難行動を経験した菊池さん。いまは、12年間の思いを伝えたいと考えています。
<菊池のどかさん>
「今までは『私たちはこうだった』っていうお話しかできなかったけど、(震災後)考えたことがある10年間のお話をこれからできたらと思うし、(防災の観点から)自分の街を見る、そういった機会をもう1回持とうと思ってもらえるようなお話ができたらいいなと思う」
#LIVEしずおか 3月10日放送