【ゆっくり解説】織田信長に関する一考察(清須同盟編)

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浸透襲撃

浸透襲撃

Күн бұрын

Пікірлер: 185
@まあちゃんまあちゃん
@まあちゃんまあちゃん 5 ай бұрын
自分は清洲同盟について「信長は美濃攻略に全力を挙げるために東の国境を守る為に結んだんだろう」と思っていたのですが、 「三河統治のコストが高く東国勢と接触するリスクを減らす為」とは思ってもいませんでした。 面白い考察です!
@syogekinofuryokawasaki
@syogekinofuryokawasaki 5 ай бұрын
実際に一向一揆で家臣まで離反されますからね家康。
@マスター刑事
@マスター刑事 5 ай бұрын
確かに当時の信長からすれば化け物3人を相手にしたくねえ…でしょうからね。しかも主に信玄のせいでこの後東国の外交関係目まぐるしく変わるという問題点が…。
@ssoejima1301
@ssoejima1301 5 ай бұрын
まあ、三河遠江までは取れても、その後が武田と全面衝突に成りそうですしね 一度今川が滅亡してから介入なら、同盟破りせずとも済むかもですし そうなると、領地は取れても武田と全面衝突と言う事になり身動き取れないかも
@take4591
@take4591 6 ай бұрын
金曜の夜に、このチャンネルが更新されているのはうれしい。じっくり見ます!
@abbtk14
@abbtk14 6 ай бұрын
信長が東へ向かわなかったのは畿内を優先したからだろうとおぼろげに思っていましたが、まさに解説に納得です。地球儀を理解した信長だから当然全国を視野に…とは言うものの、信長の言う天下とは畿内でしかなかったでしょうね。
@gionsyouji5831
@gionsyouji5831 5 ай бұрын
そもそも天下とは機内を指すものだから
@マスター刑事
@マスター刑事 5 ай бұрын
個人的には畿内ではなく美濃と伊勢だと思う。 まだその頃の信長ってまだ畿内方面進出まで考えていなかったでしょうし、あとあまり知られていませんがこの頃の伊勢国は大湊という一大商業都市があったのでこの時の信長の優先度は美濃国>伊勢国>>>(越えられない壁)>>>三河国だったのではないかと。
@おぐら-q9u
@おぐら-q9u 5 ай бұрын
​@@マスター刑事 完全同意です。 明らかに浅井との同盟や伊勢干渉、朝廷への働き掛けなどから見ても優先順位は東より西にあった。
@rKK-p1f
@rKK-p1f 5 ай бұрын
信長の言う、と言うかそれ以前から天下は畿内ですよ。三好長慶然り大内義興然り。 さらに言えば平清盛以前からずっと。 畿内以外を抑えても天下人にはなれない。
@babatakada1391
@babatakada1391 5 ай бұрын
国、政、この動画シリーズ、実に面白いです! 信長さん、争わざるところは大体把握していて流石ですなぁ 家康さん、若い頃はプライドが高くて、武田軍に煽られ三方ヶ原で敗北。 5歳頃の人質時代、煽られて屋敷の庭に放尿。以来、戦で危機になるたび 失禁。最晩年の大阪の陣でも、真田信繁軍の特攻で失禁。 天下人家康の生涯は、戦と失禁がついてまわった。「三つ子の魂百まで」 とはよく言ったものだと思います。
@うみねこ-u4b
@うみねこ-u4b 5 ай бұрын
当時の信長がうぷ主=結果を知った未来人の視点ほどの精度で地勢を読んでいたとは思わないが、それ故に三河を元康に預けるという判断をしたことは抜群なのよね。その機会を活かした元康もすごい。
@kamirubidan2681
@kamirubidan2681 5 ай бұрын
本当に面白い考察やったわ。確かに何故信長が三河に侵攻しなかったのかとか考えたことも無かったしさ
@sumiyama2212
@sumiyama2212 6 ай бұрын
待ってました!!!!!
@foolau8079
@foolau8079 5 ай бұрын
いつもながら考察が面白い。 確かにと頷きなるほどと唸り、言い回しも分かりやすく見事です。 いつも楽しみにしております。
@umakara55
@umakara55 5 ай бұрын
調べれば誰でもわかる事件・戦乱の時系列動画じゃなくて、こういう戦略とか方法論を分析したものは少ないから参考になる
@みっちー-u1f7j
@みっちー-u1f7j 5 ай бұрын
後に越前を攻略した時も当初は朝倉旧臣にそのまま統治させてたし東側は壁に西側に注力していたでしょうね。 越前は一向一揆でほぼ更地になってから柴田勝家らが入ったから もし家康が三河統治に失敗したら消耗した三河を直接統治したかもしれないな。
@だーてーはりー
@だーてーはりー 5 ай бұрын
動画おつですー なにより配下(という名の地元の有力者たち)が 勝ち戦はさらに追撃させろよ武勲よこせ ってなるからホント本人の自制心だけでなく 国内の統制が効かないと結果勝手に手を出して炎上ってなりますからねー ホント、ノッブすごいわ
@ユーザーちびエリミ
@ユーザーちびエリミ 5 ай бұрын
勝頼さんの滅亡原因がまんまそれですね(3方面敵+謀反)、そして勝頼にとっての高天神がまさに、信長さんにとっての三河(捨てるべき)になりました。最後は撤退させないという信長の命令で後詰をさせず穴山、木曽寝返りで滅亡…。家康さんも2方面絶対しない人(狸親父)になったのを考えると凄い同盟なんですよね
@koubun8992
@koubun8992 5 ай бұрын
信長が積極的に東に向かわなかったのは、信秀が三河情勢に深入りしても目立った成果を得られなかったのを教訓にしたと思ってた 信長が家督継いだ時の状況見ればわかるけど全方向敵だらけだったし
@うそねこ-e4f
@うそねこ-e4f 5 ай бұрын
けっこうお父さんの影響受けてますよね 三河美濃と手当たり次第に手を出してフルボッコになったこととか、尾張守護になったわけでもないのに外征して失敗して離反が続出したこととか 戦略に沿って本拠地をコロコロ変えることとか、朝廷を重視してたこととか良いことも悪いこともお父さんの体験を自身の体験にして取捨選択してる感じがします
@ttwitt8527
@ttwitt8527 3 ай бұрын
⁠@@うそねこ-e4f 信長が信忠に家督を相続した年齢が丁度信秀の没年だし信長が超パパっ子な可能性もあるんですよね
@cookdoodledoo8142
@cookdoodledoo8142 5 ай бұрын
主オススメのセンゴクシリーズはホントに面白いので未読の方はぜひ 個人的に一番好きなのは、長篠の戦いの独自解釈3段撃ち
@山田カイチ
@山田カイチ 5 ай бұрын
織田信長28歳、松平元康19歳の同盟で以後の天下取り柄のスタートのように言われるこの同盟。浸透さんの言うように同時代資料には存在しなかったりする。が、織田と松平で何らかの同意があったのは事実で家康のオジサンの水野や信長の股肱の臣下の滝川が取り持ったとか言われてる。1560年初夏の桶狭間から一年後の1561年秋に結ばれたと言われるがこの間に松平元康は18歳から19歳の大学一年生くらいの年齢で三河の今川方の領主や織田家の領土を攻めまくるバーサーカーとなって暴れまわってる。信長も尾張の今川方の城を落としたりした以外に三河方面にちょっかい出したり家臣が松平元康と合戦してる。信長が三河に大規模に攻め込まなかったのは侵略の名分がない以上は大規模に攻め込めない当時の常識に沿ってるし、なにより松平元康が厄介だったから。
@喪目吉
@喪目吉 5 ай бұрын
この動画を見てたら次の日「戦国時代の話が出来る知人」と清須同盟の話をしたくなるのう…
@HasegawaNobutame
@HasegawaNobutame 3 ай бұрын
「小部隊を率いる下士官、戦場単位での指揮官レベルで最高の能力を持ちながら、それに依存することなく政治家レベルの判断も並行して行える」 たしかにすごい。自分の知識では、信長のほかはカエサルぐらいしか思い浮かばない。
@takuhash1925
@takuhash1925 5 ай бұрын
動画ありがとうございます!楽しみにしてました!
@hagijanaindana50
@hagijanaindana50 5 ай бұрын
三河以東に侵攻して今川から武田や北条相手に勝利したとしても支配する大義名分作るのが大変過ぎる、 たとえ室町幕府の、足利政権の権威がほとんど形骸化していたとしても消失した訳じゃ無いし。 だからこそ畿内と将軍家を抑えてその権威で問題を丸ごと解決するのが信長の戦略方針であり、その為の清須同盟か。うーん凄い
@あきのふ
@あきのふ 5 ай бұрын
すごいな信長、このあえて攻めないが出来るの凄い
@あぼぼです
@あぼぼです 5 ай бұрын
再開まってました!!過去の父信秀が苦戦してたわけだし、三河武士を率いる家康を倒すよりも 東は家康に任せて、自分は西に進出した方がよいとの判断だと思いますね。 ※強兵と戦うときはなんだかんだと、家康に応援頼んでますし
@reto-m9c
@reto-m9c 6 ай бұрын
upありがとうございます🙇 体調がお悪いのかと心配しておりました 通知を見て「えっ」と思い、急いで開けて今とても嬉しいです❤
@yw4437
@yw4437 5 ай бұрын
信長の野望やっててこれは信長賢いと思った 桶狭間の戦いと清洲同盟後は当然今川家は強い恨みを持っているんだけど、そこと直接接していないのやり口が上手いなって
@da70092
@da70092 5 ай бұрын
三河は今川が居なくなった事で大国2つ相手しなきゃならない地勢ですからね。いざとなったら松平が必死に領地を護る為に戦うしメリット大ありです。 ただ、そんな信長公も最終的に元康公が天下統一を果たすとは想像出来なかったと思います。
@ryuryu0928
@ryuryu0928 5 ай бұрын
なるほど、戦前の日本も満州までで関特演で北進しなかったのもこれか! イケイケドンドンはいけない 勉強になる
@user-kt6lh9nm1j
@user-kt6lh9nm1j 5 ай бұрын
長慶の「身の丈に合わない拡張」って長慶の能力的なことよりも阿波守護代の家系っていう身分が問題になってる気がするなあ 信長みたいなガチのよそ者じゃなくてつい最近まで同格だった三好の出世に不満持たれて反乱とかされてるし
@ssoejima1301
@ssoejima1301 5 ай бұрын
三好氏って元々阿波守護代でしかなく、阿波細川家から細川京兆家「本家」に養子が入った時に付いて行っただけなんですよね 細川本家のお家騒動で主君守って奮戦してたら、いつの間にか細川本家の家老全部倒してしまい細川本家の勢力圏の覇者になってしまった つまり、将軍から見ると直臣ですらなく家老の家の家老に過ぎない 三好氏は細川家臣から見れば同僚だし、六角氏とか畠山氏みたいな守護の家なら同僚の家老の家柄に過ぎない訳でね まあ不安定になるよな
@フォード-i1w
@フォード-i1w 5 ай бұрын
相伴衆就任、桐紋拝領、修理大夫任官と出世&出世!改元も三好が代わりにやる!と存在感デカいかったけど、朽木谷に追いやってた将軍家も復帰したからね 波多野稙通(父の元長が兄弟の仇)・遊佐長教・細川晴元・足利義輝と受け入れることでメリットがあるなら感情を抑えて和解できるのも三好の強いところだけども 三好義継への後継も母親の家格(九条家)が関わったし松永の弾正小弼任官とかも遥か関東の太田資正(扇谷上杉家臣)ですら総スカンと、この時代は家格がモノを言う
@user-nz9nv4pz8h-大福モチモチ
@user-nz9nv4pz8h-大福モチモチ 5 ай бұрын
@@フォード-i1wこの辺りの時代で本来の家格を超えてしばらくまともに存在出来たのって 確か朝倉氏と尼子氏くらいですよね? どちらも本来なら守護代の家格
@ぬるぽ大帝
@ぬるぽ大帝 5 ай бұрын
桶狭間の戦いは1560年6月 清州同盟は1562年 2年近く空いてる事が意外と把握されてないと思う。 さらに言うと斎藤義龍死後に美濃侵攻開始したけど国力的にはほぼ互角の相手で5年かかってるから流石に岐阜とるまでは天下統一とか考えてなさそう。
@terurini
@terurini 6 ай бұрын
civやってるとわざと弱小国家を作って国境を固めたりするからこの流れはわかる
@みるなー
@みるなー 6 ай бұрын
登録5万人おめ
@みねらるむぎ茶
@みねらるむぎ茶 5 ай бұрын
信長さんのすごい所は、これだけの計算をひとりで立てた事もだけど、誰もできなかったその計算を家中の皆さんに飲ませたところ。 「今こそ三河に攻め込んで併合しましょう(そして私達に加増してください)」 って人は重役の中にいなかったのかしら。
@aaaaaa-nl2vg
@aaaaaa-nl2vg 5 ай бұрын
織田方も三河にちょっかい出していたみたいですけどね。そこで家康に実力見せつけられた信長が対決ではなく同盟の方向にかじを切ったわけでして。三河は、家康の三河統一戦の重税に耐えかねて一向一揆という流れ。
@ちっちゃいちゃん-g6s
@ちっちゃいちゃん-g6s 5 ай бұрын
ここでは触れてないけど(板書には出てたが)、現在の豊田市西北部は同盟以後ずっと織田領だったんだよな、割と最近知った。
@heinyamu6992
@heinyamu6992 5 ай бұрын
駿遠三合わせても尾張とほとんど変わらん石高で、その上三河遠江は国人が大量にいて睨み合ってる そういう状況考えれば、肥沃な濃尾平野を完全支配して近畿へと言うのは当然ではある が、あの時代にそこまで考えれると言うのが信長の凄まじいところなんだよなあ
@ベルガ水戸
@ベルガ水戸 5 ай бұрын
領土拡大しすぎて没落した大名は多いですよね!武田勝頼や尼子晴久…近年武田勝頼が再評価されてるらしいですが非常に違和感を感じます…
@matukawatositane
@matukawatositane 5 ай бұрын
勝頼は変に貶されてたとこが排除されきたのは良いことかな
@harigane4773
@harigane4773 5 ай бұрын
上杉謙信の略奪ツアー説懐かしいな〜。 当時は自分も乗っかってたけど、今は「なるほど違うな!」って立場。 まさに当時の関東諸勢力みたいなスタンスw
@w_blue
@w_blue 5 ай бұрын
実際この後徳川が今川氏真追い出して三河・遠江領有するけどそこで駿河領有した武田と国境問題で紛争になるからねえ それが最終的に織田武田の関係破綻につながって甲州征伐に至るわけだけど、信長が無理に三河まで領有してたら先じて武田と揉めてたかもしれないし、その時点じゃ勝ち目はないだろうから英断だった
@yamakawa-chu-sho
@yamakawa-chu-sho 5 ай бұрын
時々steamで懐かしの「信長の野望全国版」やってるけど最高レベルでプレイすると隣国の兵力10とかでも絶対に攻め込んだり暗殺したりしちゃ駄目な状況が普通にありすぎて困る
@KT-xo7hx
@KT-xo7hx 5 ай бұрын
村木砦の時から、未来の第一防衛線を想定して水野信元を全力で助けに行ったのだとしたら、 天才過ぎですね。
@echogaran8689
@echogaran8689 5 ай бұрын
うぽつです! 緩衝地帯は大事、古事記にも書いてある
@佐倉ハル
@佐倉ハル 5 ай бұрын
反乱してこない程度に力をつけて畿内にも援軍送れるくらいには領国も安定させてくれた家康はノッブからしたらほんとに都合の良い子分って感じだったんだろうな ただ対武田に対してはハッスルしすぎて織田武田の同盟をぶち壊しちゃってるけど😂
@Seaza_Sr1
@Seaza_Sr1 5 ай бұрын
もし信玄や信長や政宗が上杉謙信の立ち位置 (戦闘力込みで) だったら、高速フル回転で手の平返しを繰り返す関東や近隣の国人衆や豪族、山賊達を懲らしめた後で罰金を取って釈放なんてぬるい対応はしなかっただろうね
@難訓傲狠
@難訓傲狠 5 ай бұрын
三河は家康の安城松平以外にも同格の松平いたけどよくまとまったのよなあ ノブさんも尾張の同格織田を併合しまくったんだけど
@うそねこ-e4f
@うそねこ-e4f 5 ай бұрын
信長も家康も生涯で獲得した全領土を考えると尾張・三河の同族ひしめく一国を統一するのにかかった時間は凄まじいものがありますよね それだけ同格やそれ以上の同族を屈服させるのは大変なんでしょうね
@t.nagahama5342
@t.nagahama5342 5 ай бұрын
いやー 兵力不足はあると思いますよ。 三河国は尾張国の2倍ほど面積があり、岡崎を一次防衛ラインとしても清州からの距離が2倍ほどになります。下手に遠征すると空き巣を狙われます。 また、今川もいつかはスタンから立ち直ります。下手に今川勢と接すると将来泥沼になるでしょう。 ですから、今風に言えば「子飼いの民兵組織」的に松平を使ったのでしょう。(主の言う掃除機能付きエアバッグ)
@宮下弘明
@宮下弘明 5 ай бұрын
相変わらずちょくちょく入る明日のジョーネタに愛を感じますねえ
@pop-p4x
@pop-p4x 5 ай бұрын
兄が幹候に行く決め手になったチャンネルだ
@パインアップル-s7g
@パインアップル-s7g 5 ай бұрын
18:23 難しい言葉でいうと「Find the chief」ってやつですね。 だれが当該の小集団をまとめられる統領なのかを見定めて交渉する(多くは強い側目線で)。そして見定められた統領側もたいていは自分の存在価値を認識し利用して、強き相手に従属しながらも自信の集団内での地位を確立する。「我こそが交渉相手足るにふさわしい人物である!」と。 冊封体制下の朝貢国や清国の西太后が成功例で、調子乗ったのがバルバリア海賊の首長やザンジバル王国など、訳あって滅ぼされたのがリビアのカダフィやワグネルのプリゴジンなどなど。
@Tnohito
@Tnohito 5 ай бұрын
三河と美濃と尾張しかないと 信玄が生きてるぐらいの時期じゃ野戦で喧嘩できる程度の戦力も集められませんし 小田原落とせる戦力には1/5も届かない程度しか集められないので東に行ってたら信長でも無理では。 勝ったとしてもさらにおかしいのとか西が襲ってきますし 本当に都合の良い盾ですね徳川。
@山田カイチ
@山田カイチ 5 ай бұрын
三河の主に松平家がついたのは松平元康が諸勢力をなで斬りにして力ずくで制圧した時が初めてでそれ以前の三河は数年間の今川義元の領国化以前は名目上の守護大名は居るが様々な領主や代官の勢力が入り乱れるパッチワークのような土地だった。一色や細川が守護大名だったが室町幕府の名門伊勢氏などの奉公衆の領地も多かったそうだ。室町期の国は一国を大名が完全掌握する例はほとんどなく室町後期から戦国時代にようやく大名が領国化するが織田家などの一部を除くと国人連合のような状態が秀吉の統一まで続く。 浸透さんの織田信長の関する一考察に詳しいように信長以前の尾張全土が織田弾正家の支配下にあったわけではなく尾張一国を掌握したのは信長の功績。
@勇拗侃
@勇拗侃 5 ай бұрын
三河方面に勢力伸ばしたら武田と北条とやり合うことになるからな。 あの時点だとメリットよりデメリットのほうが多すぎる 地政学って大事だよな って最後まで見たらそういう結論になってたな💧 信長って戦略でほぼミスなかったよな。 戦術ミスや部下の扱いや同盟相手の裏切りとかはあるけど、それは信長の戦略に周りがついていけてなかっただけだし。 この時代の武将としては破格の頭脳を持ってる。 異世界から転生しててチート頭脳貰っててもおかしくないほどだわ。 ほんま殺されてしまったのが惜しい
@サザビーB2
@サザビーB2 6 ай бұрын
実際はもっとシンプルで単に「徳川家康が強かったから」なんですけどね なんか今川の大将倒したのに今川の一武将が異様に強くて一進一退の攻防続けてたらその武将が急に独立したんで 「もしかしてこいつと同盟すれば戦いを避けれて壁にもなってもらえて便利なんじゃね?」みたいな
@user-nz9nv4pz8h-大福モチモチ
@user-nz9nv4pz8h-大福モチモチ 5 ай бұрын
実際、すんなり同盟に至ったなら桶狭間から一年以上の間隔を置く必要もないですしね 徳川の立場からすれば織田の侵攻を何とか防ぎ続けていたのにいくら待とうが今川からの後詰めがない、だから最終的に同盟を結ばざるを得なかった 織田の立場からすれば三河全土とまでは行かなくても、西三河くらいまでは取れる筈だったのに予想外に善戦されて領地も取れなかった上に北の斎藤とも対立したままですしね…
@せるじい
@せるじい 5 ай бұрын
初陣がこの桶狭間でまだ兵糧運んで城数個落としただけだから 実力としては全く不明だったけどな この時点で見抜けてたなら天才というほかない
@toshis3972
@toshis3972 5 ай бұрын
岡崎城に戻ってからの家康凄まじいですからね。三河の親織田勢力を次々と屈服滅亡させ捲って織田の援軍すら撃破。戦って居ない日あるの?ってくらい岡崎城に居ない 信長が出張って来たときだけは岡崎城に逼塞するが、信長が美濃方面へ出撃すると離反した勢力をあっという間に屈服させる
@キンペー猫
@キンペー猫 5 ай бұрын
家康があたかも対等な同盟を組む独立大名みたいに扱われがちだけどそれは後世の徳川家の史書改竄によるものじゃないんだっけ?
@IhaveD-n5e
@IhaveD-n5e 5 ай бұрын
さすが天下人だけあって若い頃からしたたか。こんなめんどくさい相手同盟したくもなるよ
@Andy-fi9wt
@Andy-fi9wt 5 ай бұрын
当時の三河は水の便が悪く豊かな土地ではないからねえ
@toshnoton1180
@toshnoton1180 5 ай бұрын
例えば今川義元、武田信玄、北条氏康の三国同盟は甲相駿同盟と、一応は三国の文字が入っているのに、この信長と家康の同盟は尾河同盟とかじゃなくて清須同盟ってなっているところに、両者の力関係とか悲哀を感じるなー(笑)
@ビビり上原
@ビビり上原 6 ай бұрын
お久しぶりです‼️
@user-stafugx
@user-stafugx 5 ай бұрын
獲れるだけ領土獲って最大版図築いた挙句 滅びの道に繋がったのが武田勝頼か
@イム8-x8w
@イム8-x8w 5 ай бұрын
どっちかというと信玄の方が場当たり的に領土拡張した結果あっちこっち敵対して最悪の外交関係を築いてしまい、そのツケが勝頼に回ったイメージ 勝頼自身は織田北条上杉と必死に和睦しようとしてたし(織田とは信玄のせいで絶縁状態、上杉北条は両者が仲が悪すぎて上杉としか結べなかった)
@フォード-i1w
@フォード-i1w 5 ай бұрын
​@@イム8-x8w 信玄の同盟破棄は相手の過失がきっかけ(諏訪は村上・武田に黙って上杉憲政と同盟して佐久郡分け合う、高遠は諏訪惣領全部寄越せ!と武田攻撃、今川は上杉と誼結ぼうとした+信長・義昭の了承の下侵攻)だったりもするし、「信用できないけど信玄と組まざるを得ない…」って状況に持ち込む外交滅茶苦茶上手いのよね なお本人の寿命
@フォード-i1w
@フォード-i1w 5 ай бұрын
何気に美濃遠山氏(武田傘下)が桶狭間前に三河にちょっかいかけてるという… そういう意味では武田といらん対立を招きたくなかったのもあるだろうし 織田伊勢守家の信清が清州同盟辺りの時期にまた反旗翻すとか尾張統一も未達成だったから後方に懸念材料残したくなかったのもある 松平一門・菅沼家・水野家・奥平家・西郷家・牧野家・戸田家等三河は国衆だらけ&今川より家格上の吉良氏もいる。これをまとめ上げた家康の若い頃からの怪物っぷりよ
@フロムフロム
@フロムフロム 5 ай бұрын
確かに有名どころでは平将門の頃には武闘抗争の地ですね。
@星の行商人リボク
@星の行商人リボク 5 ай бұрын
エアバッグ論で言うと美濃平定前後はもっとでかいエアバッグとしての武田がうってつけて事だったのかな
@とみ-p7z
@とみ-p7z 5 ай бұрын
浸透襲撃さんの動画が、いつも勉強になるなぁ〜、と拝見しております😊 信長がなぜ東進しなかったか? 動画内で触れられた理由で、非常に納得しました。 私の意見ですが、「西進した方が石高的・政治的うまみが増す」と判断したからではないでしょうか? 仮に東進して三河・遠江・駿河を手に入れたとしても、1598年ベースの石高では、約29万石(三河)+約25万石(遠江)+約15万石(駿河)=約69万石の増加で、甲相駿三国同盟の武田、北条に攻め込む大義名分を与えてしまう。 反対に西進して政治力を付けつつ、約54万石(美濃)+約56万石(伊勢)+約77万石(近江)=約187万石の地域を抑えた方がメリットが大きいと判断したのでは?と考えます。 攻めとってもうまみがなく、しょっぱい土地は松平に与えて緩衝地帯にしつつ、自分は西進してうまみのある畿内を抑える。この方針を清州同盟の時に信長は決めていたのではないかな?と思いました。
@木村和雄-r7t
@木村和雄-r7t 5 ай бұрын
信長さんの戦いはこれからだ!
@pop-p4x
@pop-p4x 5 ай бұрын
陰謀論の仕組み(なぜ流行るのかなぜ周りが見えなくなるのか?どこがどういったメリットがあって流しているのか)とかの解説聞いてみたいな〜
@kirin4126
@kirin4126 4 ай бұрын
まあ尾張も南端は家康の勢力三河の北西縁は信長の勢力ということでその位置で清須同盟ということで 昔の大河でも同盟するときの領土決めを描写していましたね
@s.t.160
@s.t.160 5 ай бұрын
仮に三河を統治できたとしても、三河から伊豆にかけては、平地→障害物(山・川・湖)→平地が交互に続く地形である関係もあったかもしれませんね。 令和の今でも、岡崎と豊橋で文化圏が違ったり、浜松と静岡が同じ県に感じられなかったりしますから、当時はもっと統治しづらかったんだろうなと。 今でこそ、新幹線、新東名、国道1号線と何本も東西交通の大動脈が通ってますが、それは東京・名古屋・京阪神を強固に結ぶ必要があるからであって、その必要が出てきたのはそもそも江戸時代以降ですし。
@名無し-w1p
@名無し-w1p 5 ай бұрын
東へ行かなかったのは関東や三国同盟とのいざこざもあるのでしょうが、今川を攻めると東西に細長い領地を持つことになるのでそれを嫌ったのかなと。
@maidminori
@maidminori 5 ай бұрын
civ4の「遠方のいい土地」は是非都市を建てましょう 赤字でもいいんですどうせすぐにお隣さんに割譲して機嫌取りをしながら将来、「返還」してもらえますから 都市割譲は高難易度で特に有効です
@helixlord9014
@helixlord9014 5 ай бұрын
時代は違うけど、会社買収(M&A)でも似たような話はでてきますね 譲渡価格(取得コスト)はぱっと見くっそ安くても、織田家管理下に体制を塗り替えるためにヒトやモノを注ぐコストが一時的にかかる。 更にそれら統制を維持していくこと継続的なコストがかかり続ける。 その結果、安値に飛びついて買った会社が赤字体質になり損失垂れ流しのお荷物になってしまうなんてのはよくあるケースみたい。 そんならそこまでしなくてもゆるく提携に留めておくのも選択肢では?的な。
@神埼仁美
@神埼仁美 5 ай бұрын
凄く納得しました❗ ってか信長って 天才? いや鬼才でしたのね
@cyberterro
@cyberterro 5 ай бұрын
攻略した地域を降伏した(又は寝返った)敵将に統治を委任するのは良くある話で、東に領土を拡大できたのは家康の実力だったのかも。 当然ながら信長も家康の家臣の何人かは調略して監視役にしてたと思われ。
@ごちゃまぜ同志
@ごちゃまぜ同志 5 ай бұрын
間接統治の大事さが良く分かります。住民「~~~様の言うことなら聞く」 徳川家康(松平元康)が瀬名姫と結婚したのも、今川義元が松平の権威で三河を統治するため 第二次世界大戦後に皇室が残ったのも統治のため
@金ぴか70
@金ぴか70 5 ай бұрын
教科書通り$薄っぺらい理解でしたので、深い考察をありがとございました。大高、鳴海、沓掛、さらにドンバスや 韓国も緩衝地帯であり、 徳川もそういう防壁に利用したのですね。 今日は、桶狭間の戦いの日(5/19)しみじみ拝見しました😢
@ぱくまん-z1x
@ぱくまん-z1x 5 ай бұрын
信長さんからしたら「三河なんて要らねえよなぁ。それより伊勢や、義父殿の美濃が欲しいぜ!」ってなるよね。
@dijpistol2249
@dijpistol2249 5 ай бұрын
うれし…うれし…
@伊吹戸主
@伊吹戸主 5 ай бұрын
浅井長政と仲良くしたのも家康と似たような関係を望んでたのでしょうか?
@Bチャー
@Bチャー 6 ай бұрын
三河武士はめんどくさい連中で家康が手懐けるまで妖怪首置いてけの親戚みたいだから行きたくなかったんじゃね?
@muramasa9582
@muramasa9582 5 ай бұрын
地味に見える部分でとんでもないことやってますねぇ…これが信長か。
@r91RwKeQ
@r91RwKeQ 5 ай бұрын
信長って占領した後にどう統治するか自分の家臣団や 現地で組み込んだ家臣団でで統治できるなら自分でやるけど できないなら素直に元からの統治者に投げていたんだろうな。この先もそれっぽい場面を眼にするし。
@gc8zacc3
@gc8zacc3 5 ай бұрын
信長上洛前の畿内の状況は、淡海乃海:水面が揺れる時が面白い。
@momopopo.
@momopopo. 5 ай бұрын
5万人超えおめでとうございます。教育の成果ですね😊
@唐鳥庵
@唐鳥庵 5 ай бұрын
30:05 モンちゃん、シャカ、フビライ、アレクサンドロス「戦争理由と新しい拠点アザーッスww」 オラニエ公、エカテリーナ、ギルガメッシュ「国境線文化で押したろww」
@kiyotamu3298
@kiyotamu3298 5 ай бұрын
上党郡がただで手に入る?もらったろ!した結果長平した趙の例もあるから領土を増やすことによって生まれるリスクってのも考えないといけないよなぁ
@masahiru8726
@masahiru8726 5 ай бұрын
真ん中の当たりの西暦が、関ヶ原の戦い(1600年)の後になっていますね・・・そこは間違っちゃいけなかった。。ちなみに地に争わざるところありってのは鶏肋ってことですね。。
@サイドエフェクト-i4z
@サイドエフェクト-i4z 3 ай бұрын
信長の野望やってると東が上杉、武田、北条が壁になってるんだよな。 信長の野望だと今川滅ぼすとハードモードなんだよな。
@シャチとリスの旅音さんぽ
@シャチとリスの旅音さんぽ 5 ай бұрын
待ちに待った最新作、今回も大変楽しく勉強させて頂きました。 三好長慶が天下人とか言われることにどうにも違和感がありつつも、うまく反論できないもどかしい自分がいたのですが今回、浸透襲撃様が身の丈にあった領地は維持できないっていう単純明快で分かりやすい答えを出してくれて大変スッキリしました。 また、信長が清州同盟を結ぶべき相手は松平元康に限らなかったって視点も当方にはありませんでしたので大変参考になりました。 それからこの動画見たあとで思ったのですが、当然尾張国内には三河放棄という信長路線に反発する勢力もあったはずなのに、それを完全に押さえつけて国論を美濃侵攻一本にまとめあげた信長って改めて凄いですね。
@いお-r9k
@いお-r9k 5 ай бұрын
親父の信秀が美濃や三河の二正面に手を出して四面楚歌になったから、信長は慎重になったのかな?
@snow_wind6619
@snow_wind6619 5 ай бұрын
勝った勝ったと提灯行列してた某国に聞かせてやりたい内容ですね
@hiron114
@hiron114 5 ай бұрын
朝鮮半島が、三河って感じかなぁ。 途中でやり過ぎた事に、気付いたのか、愛新覚羅溥儀を満洲国皇帝にして、属国化したけど、時すでに遅しだな。
@郎太-d1w
@郎太-d1w 5 ай бұрын
身の丈にあった領土拡張のところでイナゴ戦法を思い出してしまった
@おぐら-q9u
@おぐら-q9u 5 ай бұрын
そもそも織田家の外交を時系列にすると明確。 斎藤家(道三)と同盟 今川の尾張侵攻の際は援軍を受諾 ↓ 道三と義龍の不和が表面化して斎藤家と関係が希釈化 ↓ 桶狭間合戦 ↓ 尾張を完全に統一 ↓ 朝廷より上洛の要請が入る ↓ 浅井、松平と同盟締結に動く 先に浅井との盟約が固まる ↓ 北の盟約がなり京への道を確保するために美濃攻略を本格化 ↓ 松平との盟約がなり、松平を三河守護代任命への助力をする 美濃と三河では優先度や大義とか違った結果だと思う。
@lattehoji1492
@lattehoji1492 5 ай бұрын
家康がどさくさに岡崎城を奪取したがそもそも間違ってるし 義元死後、家康と信長が争っていたことを無視されることが多すぎることから 結局みんな信長はいっぱい調べるけど家康は調べず昭和の創作なんかを下地にしてるのが分かる
@user-nz9nv4pz8h-大福モチモチ
@user-nz9nv4pz8h-大福モチモチ 5 ай бұрын
実際、信長公は桶狭間後もしばらくは三河侵攻を諦めてないんですよね ちょっかい出し続けてましたしね それに対して家康公が防戦して足掛かりを与えなかったから信長公も方向転換したんですよね… 美濃の斎藤氏(一色家)とも敵対したままでしたし 家康公も今川家一門扱いされてたはずなのに桶狭間後の防戦に対して駿河からの後詰が何度要請しても来なかったのが離反する要因ですよね これに関しては氏真さんが悪いと言うより北条氏との同盟関係を重視し本国の駿河をまず固めようとしたみたいですが…
@yumikuni92
@yumikuni92 5 ай бұрын
いくつか「1662年」とか100年進んでる箇所がありますよ
@kinositakinako4881
@kinositakinako4881 Ай бұрын
朝倉氏を滅ぼした後に旧朝倉家臣に越前の統治を任したのも、今はまだ支配しきれないと考えたり その先の加賀の一向一揆との衝突を危惧しての事だったのかな
@rarecoil
@rarecoil 5 ай бұрын
ホトトギスの「殺してしまえ」に一番遠い人のように思う
@r91RwKeQ
@r91RwKeQ 5 ай бұрын
使えない土地を広げすぎて国土防衛に困る。ある意味でロシア・ソ連がそれにあたるんだろうな。 接する国の数も大抵増えるしそれによってのコストのわりに得るものが少ないとされてるな。
@やっさん勝蔵
@やっさん勝蔵 16 күн бұрын
今川さんて政治家さんでしょ。とうとうみ
@やっさん勝蔵
@やっさん勝蔵 16 күн бұрын
を取ったのは北条早雲三河をおさえたのは太原雪斎、今川さんはほとんど合戦は人任せ、初めて大戦に出たら討ち取られる義元さんもその兄さんも、今川さんは合戦下手と思いますが!
@ぬぬ-s9b
@ぬぬ-s9b 5 ай бұрын
三河方面の調略の進捗状況が悪いのと 斯波氏の追放後の尾張統治の大義名分を中央からもらうには中央へ貢献(斯波氏の代わりに近いこと)をする方向へ向かわざるおえなかったのでは?
@たいえいじ
@たいえいじ 2 ай бұрын
音楽がかっこいいんだが
@jtaka451
@jtaka451 24 күн бұрын
ファルコムの「空の軌跡」3部作をプレイしよう!! いいゲームだ。
@たふたふ-s1p
@たふたふ-s1p 6 ай бұрын
いえーい!信長さん、見てるー?!
@コメントします-h7h
@コメントします-h7h 3 ай бұрын
今川を退けたい信長と今川から独立したい家康の利害が一致して、打倒今川で桶狭間以前から裏でつながっていたら当然の報酬だと思うんだけどね。
@krn913
@krn913 5 ай бұрын
当時の関東なんて幕府衰退してから蛮族が勢力争いしてるようなもんだから近づきたくないよなぁ
@matukawatositane
@matukawatositane 5 ай бұрын
東に上杉、西に織田で二進も三進も行かなくなった今川はどう動いても誰か離反者が出るわけでな 家康が稀代の英雄だったのは織田家にとっても大きかったのじゃ
@草食-k4i
@草食-k4i 6 ай бұрын
いうほど防衛戦に勝ってすぐ敵領地奪取に攻め込むか?
@以下の通りです1012
@以下の通りです1012 5 ай бұрын
まあそうよな 他国を自国の領土に組み込むにもある程度の時間と人材が必要になってくるし
@うそねこ-e4f
@うそねこ-e4f 5 ай бұрын
大将が死ぬという中々レアな事がありましたし
@takayoshi1971
@takayoshi1971 3 ай бұрын
三河で織田家が結構エグい事やってたんじゃないかと推測。 統治するには間接的にやる方が得策だと考えたんじゃないかなぁ。
У вас там какие таланты ?😂
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Карина Хафизова
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Try Not To Laugh 😅 the Best of BoxtoxTv 👌
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boxtoxtv
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