「魏志倭人伝」全文◎超現代語訳【邪馬台国の界隈051】

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Күн бұрын

邪馬台国探しの第一歩! それは魏志倭人伝を読むことです。邪馬台国は、『三国志』魏志倭人伝の中にしか言及されていないからです。
魏志倭人伝は2000字弱の漢文ですが、邪馬台国だけでなく1800年前の日本の姿を意外に鮮明に描写してくれています。情景が目に浮かぶような記事もたくさんあります。
今回は、魏志倭人伝の全文を陳寿の想いも織り交ぜながら、平易な文章で現代語訳(ただしちょっと「逸訳〈造語〉」含む)してみたいと思います。
※一部、このチャンネルの仮説による解釈が混じることはご了承ください。
【参考文献】
石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝ほか三篇』岩波文庫1985
今鷹真・井波律子・小南一郎訳『正史三国(1)~(8)』ちくま学芸文庫1992・1993
中島信文『甦る三国志「魏志倭人伝」新「邪馬台国」論争への道』彩流社2012
弘中芳男『古地図と邪馬台国』大和書房1998
海野一隆「地圖學的見地よりする馬王堆出土地圖の検討」東方學報51巻59~82頁 京都大学人文科學研究所1979(京都大学学術情報リポジトリ紅)
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Пікірлер: 80
@ch-ub3cp
@ch-ub3cp 9 ай бұрын
伊藤先生、魏志倭人伝の全文和訳ありがとうございました。魏志倭人伝は1800年前の日本がどういう様子だったかを伝えてくれる日本にとっても貴重な資料です。対馬国、一大国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国の長官や副官、次官の呼び名がそれぞれ独特で面白いと思いました。これらの呼び名のいくつかでも現代の日本に残っていれば邪馬台国論争は起きなかったかも?と思いました。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 そうですね。基本的に女王国がそのままヤマト王権になったわけではない(と思っている)ので、呼称の連続性がないのだと思います。ただ、このチャンネルでは、長官・副官の名前は個人名だと考えています。卑奴母離が多いのはちょっと??ですが。 「ミミ」は、『日本書紀』でも名前に「耳」がつく人が登場しています。
@ushun11
@ushun11 9 ай бұрын
全文通しで意訳するのは骨の折れる作業だと思いますが、お陰でお考えが良く分かりました。自分なりの理解を鏡に映す作業は確かに有益ですね。私も挑戦したいと思いました。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 ところどころ原文から逸脱するのでわかりにくいかなとは思いましたが、よくある訳文になっても面白くないので、やってみました。 ご理解いただけたのでしたらうれしいです。 ぜひ上野さんも挑戦してみてください。
@トトロの森-y8c
@トトロの森-y8c 9 ай бұрын
ありがとうございました。ヤマトコクと読んで頂くとより真実味が出てきます。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 このチャンネルでも、「邪馬臺国」を「ヤマタイコク」と発音していたとは考えていませんが、「ヤマトコク」と読むと畿内説?と思われそうですし、「ヤマトゥコク」とかと発音すると、何のこと?と思われそうですので。ご理解ください。
@HOPE-ch8rk
@HOPE-ch8rk 9 ай бұрын
和訳ありがとうございます。聞き取りやすくて運転しながらラジオかわりに聞けました。 もし良かったらいつか、固有名詞を全て拼音で読んだものもお願いしたいです。当時の魏の役人は倭人から聞いた言葉を漢字の音にあてて、我が国でいうところの万葉仮名みたいに表記していたものと思われます。なのでなるべく当時の発音に近いもので読み上げる方がイメージがわきやすいと思います。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 拼音についてはまったく無知ですので、どなたか専門の方にお願いしたいです。 基本的にはおっしゃるような経緯で文字が選ばれたと思いますが、当時の発音は専門家の方のなかでも意見がいろいろあるのではと思います。 引き続きよろしくお願いします。
@隆一西
@隆一西 9 ай бұрын
こんにちは!分かりやすい魏志倭人伝解説ありがとうございました😚ここ最近は古墳時代がテーマでしたので原点回帰したような新鮮な感じで楽しく拝見させて頂きました。貴著の「邪馬台国は熊本にあった」もまだ途中ですが、魏志倭人伝の国々の拠点集落も合わせて紹介されててとても興味深く読ませて頂いてます😚
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 そうですね。今年はちょっと邪馬台国より日本書紀に重点を置いておりましたので・・・。 邪馬台国の方はそろそろ皆さんに忘れられそうなので、まとめ直したいとは思っています。ただ、新しい切り口がないと以前の動画と同じようになってしまいそうで、歯がゆいところです。 自身が比定した拠点集落をたどってみたいと思っていたのですが、コロナでくじけて、未だに実現できておりません。 今後ともよろしくお願いします。
@隆一西
@隆一西 9 ай бұрын
@@J-history 邪馬台国あたりはワクワクしますね😚なお、対馬と壱岐にはなかなか行けませんよね(¯―¯٥)
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
@@隆一西 ご返信ありがとうございます。 対馬と壱岐島はぜひ行ってみたいですが、なかなかチャンスがありません。
@takedaharuki
@takedaharuki 9 ай бұрын
原文と訳を比較しながら動画を見ました。大いに参考になります。魏志倭人伝については私も自分なりに訳を作ったりしているのですが、まだまだ未完成で、岡上さんの研究も参考に改善中です。赤字の部分について伊藤さんと私の見解が近いところがある一方で、黒字の部分でも見解が異なっていたりと、いろいろ考えながら視聴しています。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
武田さん、ありがとうございます。 漢文の専門家である先学の訳文でも人によって解釈が異なっていることも多いでしょうから(不勉強でちゃんと確認したわけではありませんが)、倭人伝の解釈はほんとうにむずかしいと思います。今回は、いちおう現状の解釈ということで動画作成してみました。
@izumiyaroqji
@izumiyaroqji 5 ай бұрын
17:30 「其国」って「倭国」と訳されてますけど、そのまま読むとその国って、伊都国のことですよね。代々、王がいたのも伊都国だし。つまり、普通に読むと、伊都国に卑弥呼がいたということですよね。
@J-history
@J-history 5 ай бұрын
コメントありがとうございます。 帥升が王として治めていた国だとすると「倭国」ということになると思います。 帥升はそのなかで伊都国にいたのかもしれませんが。
@izumiyaroqji
@izumiyaroqji 5 ай бұрын
@@J-history その前段って伊都国の状況をずっと話してますよ。いきなり、倭国の話になるのがぶっ飛びすぎてるなと、感じました。
@TAJIRI-123
@TAJIRI-123 9 ай бұрын
「陳寿の気持ちになって魏志倭人伝を読み解けば」、伊藤先生の目には、「このように書かれていると読める」という「見える化」ですね。 初心者にはありがたい解説です。 1か所思いついた点ですが、「船行一年可至参問倭地」=「主に船で倭地を参問し、約一年かかった。」という事は、「他の国は遠絶で詳細が分からない」のじゃなくて「邪馬台国直行ルート以外は、訪問したけどメンドくさいから書かない」のでは?
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 船行一年は復命報告書に書かれていたことだと考えますので、帯方郡出発から帰還までの期間だと思われます。 直行ルート以外にはそれほど足を延ばしていないような気がします。 引き続きよろしくお願いします。
@koji1964febify
@koji1964febify 6 ай бұрын
水行を船での移動と考えておられるようですが、中国で水とは川の事を言います 行は人の足跡の象形文字で、当時の漢字辞典の説文解字にも「行は人の歩むなり」とあり、水行とは船で行く事ではなく川沿いを行くという意味で、一般的には徒歩での旅程になります 史記の夏記本紀に、帝舜が急ぎ移動した様子を「陸行するには馬車を用い、水行するに船を用いた」と書かれていますから、これをみてわかるように行は普段は徒歩だという事に他なりません
@J-history
@J-history 6 ай бұрын
コメントありがとうございます。 「水行するに船を用いた」は、船を曳きながら川沿いを歩いたということでしょうか? 引き続きよろしくお願いします。
@koji1964febify
@koji1964febify 6 ай бұрын
@@J-history さん 帝春が急ぎ諸国を回った際、沼地はソリを丘は馬車を川は船を使ったという表記で、要は乗り物を使って諸国を巡ったと言いたいわけで この文から陸行、水行は通常乗り物を使わないととれるわけです 古代の道は街道が整備されてるわけではないですから、河川敷を街道の用に使用するのを水行ととらえるべきと各歴史書の記述から判断するべきで 魏志倭人伝でも船に乗る時は船に乗ると明記されてますし、邪馬台国から南の国へ行く際に「舟行」という文言もはっきり書かれています
@takosu4512
@takosu4512 9 ай бұрын
何遍読んでも、あれこれ疑問に思うこと多々あり、興味深いですね。明治生まれの死んだ祖母は、年を数える際田植えと稲刈りで表現していました。あの子が生まれてから田植えを三回、稲刈り四回の時・・・とかね。子供ながらにばあちゃん、すげぇーとその記憶力というかなんというかに驚いた記憶があります。ちなみに九州だと2期作、二毛作が見られるので一年を4で数えたりしたのでしょうかね❓ばあさんの実家は結婚などのイベントがあるとカメの甲羅を焼いて占っていましたが、あんな山奥でどうやってカメの甲羅を手に入れたのやら。邪馬台国からの伝統を脈々と受け継いでいたのかと思うと胸が熱くなります。笑
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 このチャンネルが二倍年暦などを認めていないから言うわけではありませんが、お祖母さんのような方でも1年は1サイクルと考えられていたと思いますよ。夏は1年に1度ですし、冬は1年に1度ですから。 亀の甲羅の占い(?)が現代に至るまで続いていたのには驚きました。ご実家は九州ですか? 邪馬台国の時代は主に鹿の肩甲骨が、壱岐の島などから出土しているようです。 今後ともよろしくお願いします。
@YO-high
@YO-high 9 ай бұрын
これは素晴らしい。 所々に伊藤先生の考え方が記載されていますね。よく纏まってると思います。 で、やはり思ったのは、陳寿は「倭」と「呉」との関りを避けてるように感じたところです。 「呉の大伯の子孫」を「大伯の裔」みたいに「呉」を書かないか、または「越」に書き換えしてるように見えるってこと。 「呉志呉主伝」では逆に「倭」と書かずに、「夷州亶州」と書いてあるように思えます。 他の書物との比較、魏志の「倭人条」「韓伝」、呉志の「呉主伝」なども絡めると面白いですよね。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 「呉」については陳寿がわざわざ避けたのは明らかです。 というのも、魏志倭人伝が参照したと思われる『魏略』は、『翰苑』の逸文によれば「聞其旧語自謂太伯之後」と書いています。そして、そのほうが明らかに文脈が通っています。 それを魏志倭人伝は「自古以来其使詣中国皆自称大夫」と差し替えて、文脈も不明瞭なものにしてしまっています。 句呉と呉とは厳密には違う国であり、陳寿が魏志倭人伝を撰述したころには呉はすでに滅んでいたのですが、倭と呉の関係は許されざるものだったのだと思います。
@大谷主水-l6t
@大谷主水-l6t 9 ай бұрын
気がついたことがありましたので。斉明天皇の筑紫の国の行宮の名前ですが周知のように「橘の広庭の宮」です。この「橘」は伊弉諾の尊が禊ぎをした地名の中の「橘」と同一の所です。ここが日向の地であっていると思います。神武東征もこの地から。唐新羅連合軍との戦いの大本営もこの地です。横道に逸れましてすみません。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 『日本書紀』本文ではそのような記事はありませんが、おそらく一書曰くの記事だと思いますが、確かに不思議ですね。 神武天皇が東征に出発する「日向」は、高皇産霊尊らが葦原中国を平定したのちに瓊瓊杵尊が天降る地ですから、その前に伊弉諾尊がその地にいたというのは文脈的に違和感があると思いますが・・・。
@岡上佑の古代史研究室
@岡上佑の古代史研究室 9 ай бұрын
倭人伝の、短いと言っても2000字、動画にすると30分と結構な長尺ですね!赤文字の解釈のところは勿論、そうでないところでも論点は無数に有りそうです! 困ったことに本当に読み方が定まってない場所が多いんだなぁと実感しました。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
岡上さん、ありがとうございます。 論点が無数にあるので、300年以上も論争が続いているのでしょうね。 ほぼすべて、結論の出ないようなものばかりですし。 ただし、そんな読み方はぜったいに出来ない!というようなところもあると思います。漢文の読めない私にはわかりませんが、岡上さんにはぜひそのようなところをご指摘いただければと思います。
@岡上佑の古代史研究室
@岡上佑の古代史研究室 9 ай бұрын
@@J-history 伊藤さん 有難う御座います。 今回の動画でいうなら、檄の使われ方ですね。伊藤さんは、張政が作ったように読まれていますが、これは厳密には、帯方太守の作った檄だとおもわれます。その辺りの微妙なニュアンスというのが、藤堂明保の倭国伝にうまく訳出されています。是非読み比べてみてください。「為檄」と「以檄」とのニュアンスの差です。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
@@岡上佑の古代史研究室 ご紹介ありがとうございます。 難升米のほうの檄は帯方太守王頎が作っていてもよいのですが、内乱後の壹与のほうの檄は女王国にいた張政しか作れないのではと思い、そのように訳しています。帯方太守にお伺いをたてる時間はなかったのではないかと思うのです。
@may23k68
@may23k68 8 ай бұрын
どうもです。戸と家の違いは 宗族が主体が家と推測しています。 兵、税という説もありますが。 又官に関して邪馬台国のみ副がありません。 対等関係でしょうか?
@J-history
@J-history 8 ай бұрын
コメントありがとうございます。 戸と家の問題はなかなかむずかしいですね。 女王国は税を徴収していたので、その戸籍が関係しているかもとは思いますが、具体的にどうという結論は出せていません。 邪馬台国の4名の官の関係性についても、明確に答えを出すのはむずかしいですね。安易なことを言って、自身の考えがそちらに寄っていくのは避けたいと思いますので。
@may23k68
@may23k68 8 ай бұрын
こういう思考もあるんだ程度で思ってくだされば幸いです。
@J-history
@J-history 8 ай бұрын
@@may23k68 そうですね。さまざまに考えることは大切です。 どこかに答えはあるはずです。
@izumiyaroqji
@izumiyaroqji 5 ай бұрын
8:23 原文に中国って書いてありますが、中国って、1900年代にできた国ですよ。
@J-history
@J-history 5 ай бұрын
コメントありがとうございます。 では、この魏志倭人伝の文章は1900年代に書かれたということでしょうか。
@izumiyaroqji
@izumiyaroqji 5 ай бұрын
@@J-history いや、そのまま、『中国』と訳されているので、、、
@izumiyaroqji
@izumiyaroqji 5 ай бұрын
つまり、石原道博氏の魏志倭人伝(岩波文庫)を、要約されてませんか?
@かずま-q7u
@かずま-q7u 5 ай бұрын
私も時代考察など、間違っている箇所が一緒のように感じました。
@J-history
@J-history 5 ай бұрын
@@izumiyaroqji ご返信ありがとうございます。 昔から中国王朝は中華思想に基づいて中心の国という意味で「中国」という言葉を使っていたのではないでしょうか。魏志倭人伝中でも、持衰に関する記事や、朱丹を身体に塗るという記事でも中国という言葉を用いています。
@journey3451
@journey3451 9 ай бұрын
すばらしい!! やはり古代日本は春秋でそれぞれ年を取る。ヤマトの王様は政治と祭祀にそれぞれ冠位があって祭祀王の方が 当時の中国では偉そうですね。 政治王を継いだ天皇は欠史八代のようにあまり書くことなく架空とまで言われてしまうのかもしれません。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 祭祀王と政治王がいたという説ですか。専門の先生でもそうお考えの方もおられますね。 春秋暦、二倍年暦についてはとても人気がありますが、このチャンネルはちょっと信じられないという立場です。。 引き続きよろしくお願いします。
@ancientJapanesehistorywithMAP
@ancientJapanesehistorywithMAP 9 ай бұрын
壮大な企画ですね!さりげなく新説が赤文字で記載されていて 倭人伝の注釈となってとてもわかりやすかったです。徹底した論考の跡がよくわかる動画でした88888
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
古荘さん、ありがとうございます。 自説を訳文のなかに盛り込むのはなかなかむずかしいものですね。 あまり本文から逸れるもの顰蹙ものでしょうが、抑えすぎるのも面白くなくなってしまいますので。
@kyupytarou
@kyupytarou 9 ай бұрын
古代史の入り口にいる人 また入り口近くにいてまだ踏み入れていない人。 とかく古代の文献は漢字ばかりでとっつきにくいです。 本編の現代語訳は分かり易い秀作です。 論争に加わるにも文献になんて書いてあるか知らなければ感想も意見もありません。 一人でも多く方が古代史の魅力に触れられたらと願います。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 なにかのお役に立てたのでしたら幸いです。 古代史への入り口になれれば、このうえなくうれしいです。 今後ともよろしくお願いします。
@井塚正邦
@井塚正邦 7 ай бұрын
何で、バックに音楽を流すんですか、聞き難い。
@J-history
@J-history 7 ай бұрын
コメントありがとうございます。 わたしの美しくない声だけでは聴きづらいでしょうと思い、BGMを入れています。 今後ともよろしくお願いいたします
@masamasaict7312
@masamasaict7312 9 ай бұрын
改めて魏志倭人伝を見た。どこかにここか短里だということが書かれているのだろうか?途中、沖縄かとも思われる記載があるが縄文海進で温暖だったと考えられるから関東でも可能か。やはり中国の規模感なのに無理やり短里にして、九州に収めようとするのはかなり疑問。NHKもほぼ畿内説を取っているから。ちなみにNHKでは狗奴国とする人々が鯨面分身していた。だから逆。水行は海を渡っていない。河川を行ったと思われる。対馬からは、約1000里カン海(日本海)を南に行けば出雲がある。一大国っていうくらいの表現が壱岐島みたいな小島なわけが無い。それなりの勢力だったことが伺える。是非、関東平野の水運の発達を調べて。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメントありがとうございます。 おっしゃるように短里だとは記されていません。 ただ、倭人伝の直前に記される韓伝では、韓の地が方4000里と記されていたり、倭人伝で帯方郡から狗邪韓国まで7000余里と記されています。 また、対馬海峡は計3000余里となっていますので、明らかに魏の標準里とは尺度が違っています。 魏志倭人伝によれば、黥面文身しているのは狗奴国の人ではなく女王国の男だと記されていますから、NHKは明らかに意図的ですね。 一大国を壱岐島以外と考えるのは、なかなか難しいと思いますが、ぜひチャレンジしてみてください。 引き続きよろしくお願いします。
@ハチ公-c9c
@ハチ公-c9c 4 ай бұрын
邪馬台国と女王国は違う
@J-history
@J-history 4 ай бұрын
コメントありがとうございます。 魏志倭人伝内の「女王国」には「30国の連合国」という広義の女王国と、「邪馬台国とイコール」という狭義の女王国という2種類の用法があると思っています。
@田圃-u6x
@田圃-u6x 9 ай бұрын
参考文献を示さないといけませんね
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
コメント&ご指摘ありがとうございます。 石原道博氏編訳の岩波文庫本については冒頭に記載したのですが、若干の解釈に関連しそうなものは概要欄に記載します。
@田圃-u6x
@田圃-u6x 9 ай бұрын
@@J-history すみません、じゃあ見落としたと思います。内容がよかったのでちゃんとした形式にした方がいいなとおもったので気にしないでください。😯
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
@@田圃-u6x いえいえ。私もそこまで考えていませんでしたが、言われてみるとその方がいいなと思いました。ありがとうございました。
@田圃-u6x
@田圃-u6x 9 ай бұрын
@@J-history やはり私が知っている優秀な研究者の内容にも似ているのでむやみに出すと他の作家の内容に触れてマズい。 学会や在野の研究者は地味に命を賭けて研究しているのでとんでもない怒りを買うと思うし、引用の範囲を超えている。 自分が論文を書いた内容でない場合は著作権に触れるから許可の無い使用はダメです。
@J-history
@J-history 9 ай бұрын
@@田圃-u6x ご返信ありがとうございます。 今回の訳文でまるまるどなたかの訳文を引用したところはないと思うのですが、原文があっての訳文ですので似たような訳文になる箇所はあると思います。 このチャンネルでは郡使の報告書への地図添付説を唱えていますので、そのときの考察に関連した弘中氏と海野氏の論文は参考文献として挙げさせていただきました。 また、「船行一年」は中島氏の解釈に賛同しておりますので、それを参考に訳文を作っております。 ただ、すべての論文や著作物を読んでいるわけではありませんので、引用しているつもりはなくても引用しているような形になってしまっている箇所もあるかもしれません。問題がある箇所についてはご指摘いただければと思います。よろしくお願いします。
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