【邪馬台国】はどこにあるのか? 死のリズムを奏でる不可思議な神宮、その驚愕の舞台裏とは? 天皇家・三国志・発掘物・小学校の理科から読み解く最新の「九州説」を紹介【論争】(Yamatai)

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セピアのゼロから歴史塾

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Күн бұрын

邪馬台国論争は単なる古代史のミステリーにとどまらず
天皇家のルーツ、という「今」に直接的に関係する内容です。
00:00:00 邪馬台国論争とは何か?
00:01:10 なぜこの論争が重要か?
00:05:02 論争の原因は何か?
00:11:03 場所についての諸説
00:15:57 真・邪馬台国までの道のり
00:18:51 近畿説の根拠
00:23:40 九州説の根拠
00:35:06 45度ずれた方角
00:42:07 粉飾された距離
00:47:09 邪馬台国を特定する
01:01:10 〇〇神宮の正体
01:05:28 参考書籍のご紹介
【今回の参考書籍】
あおきてつお様 著『邪馬台国は隠された』(三冬社、2022)
amzn.asia/d/4pkDbjo
縄文時代
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#日本史#卑弥呼#邪馬台国

Пікірлер: 528
@user-ij4lg7pk7p
@user-ij4lg7pk7p 2 жыл бұрын
動画100本目?!おめでとうございます、そしてこんなにたくさんの楽しく面白い動画を投稿してくださってありがとうございました!動画時間見てびっくりしましたが、100本目にふさわしい内容だと思いました!後半部分も楽しみにしております!
@user-jy3gb1vq8w
@user-jy3gb1vq8w Жыл бұрын
邪馬台国論争の本は300冊、動画で1000本以上観たがこの方の解説はわかりやすい上にとても良くまとまっている。この方はとても優秀、みんなに見せたい動画ですね。
@NAO-wq6xe
@NAO-wq6xe Жыл бұрын
半島人には人気なの? 半島お仕置きしたのよ? 卑弥呼様
@asaaka6580
@asaaka6580 9 ай бұрын
私も全く同じ思いです。もう少し評価されるべき動画です。説に関しては他者のものですが非情に分かりやすい。
@ezakitakakazu10
@ezakitakakazu10 Жыл бұрын
私は、魏志倭人伝に出てくる地名や地形的な観点から福岡県山門郡一帯にあったと思います。宇佐市だと大きな川や平野が無く発展性があまりないように思います。山門郡は筑後川という一級河川一帯の平野で、吉野ヶ里遺跡も近く、名前もそのままヤマトです。魏志倭人伝に出てくる対蘇国(トス国)や呼邑国(オギ国)等は鳥栖(とす)や小城(おぎ)といったいまだに残る山門郡周辺の地名と一致しています。
@NAO-wq6xe
@NAO-wq6xe Жыл бұрын
違いますよ。 邪馬台国はヤマト国。 日本の事ですよ。 日本ですよ。 そもそも日本が出来てから800年もたってますよ。
@inri9980
@inri9980 Жыл бұрын
@@NAO-wq6xe 同感です、邪馬台国ヤマトタイコク→(大和大国) 日本の事ですよね。
@user-tu2sb7if1p
@user-tu2sb7if1p Жыл бұрын
おはよう、こんにちは、こんばんは… 卑弥呼の所在を探して行く数年… 鳥肌が経ちました… 本当にありがとうございます。 今度、宇佐神社に行って来ます…。
@sayatube00
@sayatube00 2 жыл бұрын
とっても楽しかったです! セピアさんのお話を聞いていると「もうそろそろ邪馬台国の場所が決まるんじゃないかなー」と思うような内容でした😊 次回も楽しみです
@tarishihiko
@tarishihiko Жыл бұрын
神授業です!高校日本史でこの授業があったら、歴史ってこんなに面白いんだと皆思うはず。 自分は古代史が好きで、しろうと推理をしていますが、邪馬台国は北九州以外考えられないです。
@NAO-wq6xe
@NAO-wq6xe Жыл бұрын
日本は日本です。 九州も日本です。
@warkwark
@warkwark Жыл бұрын
誠に配信頂き、有難う御座います。非常に納得が行く興味がドンドン湧く動画でした。和気清麻呂の発想&行動が面白い。又、視聴が待ち遠しい気持ちです。
@user-es5nc7xo5r
@user-es5nc7xo5r 5 ай бұрын
45度ずれた方角、粉飾された距離、長里と短里などの解説、とても分かりやすかったです。邪馬台国の場所が北九州が最有力であることが理解できました。これからも配信頑張ってください。
@user-os9zx9tf8f
@user-os9zx9tf8f Жыл бұрын
大学の講義で邪馬台国論争の教授の持論聞いた時のことを思い出しました。いつ聞いてもこの議題は面白いですね…いつか決着がついて欲しいとも思うし、まだまだ色んな説を楽しみたいとも思うおはなしです
@spica1jp
@spica1jp Жыл бұрын
邪馬台国は、どこか?・・古代からの挑戦状!の動画も、距離・方位に矛盾が少なく&説得力ありと思いました。
@user-tt6im3vy7q
@user-tt6im3vy7q 2 жыл бұрын
今回も楽しかったです😄分からない事ってロマンがあっていいですね〜 次回も メッチャ楽しみです♪
@user-ih7tg2bc9l
@user-ih7tg2bc9l Жыл бұрын
素晴らしい。次を期待します。
@user-qo4xg5or5y
@user-qo4xg5or5y 2 жыл бұрын
セピアさんが動画内で仰っている教科書をまさに学生時代は使っていて、その後もこの時代は詳しく学ぶ機会もなかったため、なんとなく近畿なのかな、なんて思って今日まで過ごしていましたが、今回解説して頂いて、その考えがガラリと変わりました。 早速紹介して頂いた本をポチっとしてきました!今回のボリュームで内容の半分とのことでとても驚きですが、今から読むのがとても楽しみです…! そして、講義チャンネル動画100本目、おめでとうございます…!これまで多くのことを学ばせて頂き本当にありがとうございます!今後も楽しみにしております〜!
@user-qc1sn3si8o
@user-qc1sn3si8o Жыл бұрын
今は亡き推理小説作家の高木彬光も、著書「邪馬台国の秘密」の中で宇佐説を採っていた記憶があります。
@m.sakurai9519
@m.sakurai9519 Жыл бұрын
魏志倭人伝のあとひとつ、句奴国と争うとあることも、九州でしかありえませんね。句奴国は発音はクマコク…ではなかったのかと。そうすると邪馬台国は九州の北半分ほど。下に句奴国。、それはやがて追われて薩摩となるのかもしれません。 宇佐神宮になんで昔から、そんな権威があったのか、不思議でしたが、比売大神を祀っているときいて、すぐにピンときました。もはや論をまつ必要もないですね。大和王権が九州を制覇していった中で、その卑弥呼を祀る神社をより厚遇し、かわりに我が先祖も祀ってほしいとなるのは自然です。
@chikugomarudiy7663
@chikugomarudiy7663 10 ай бұрын
楽しそうに喋る先生のファンになりチャンネル登録しました!小芝居が最高!!笑
@MidnightSTcat
@MidnightSTcat 2 жыл бұрын
宇佐神宮に古くから伝わる口伝「二之御殿の位置を動かすことは絶対にまかりならぬ」 祭神はヒメ大神、石棺があったのはこの下ですね。 宗像三女伸となってますが、これもまた三人が同一人物だって説も有ったり 果たして埋葬されているのは誰なのか 個人的には八女説なので(広志によると伊都国の南に邪馬台国)、宇佐はまた別口かと思ってますが、大変興味深いです。
@yocyajima9383
@yocyajima9383 Жыл бұрын
九州説が正解だと思います。学会や政治家に邪馬台国が奈良から九州に変わると困る人たちが沢山居ます。宇佐神宮は福岡県内の地域のご神体を勧進したらしいです。 福永晋三先生の九州説もとんでも説ですが文献や神社の古文書などを詳解していて、遺跡なども解説しています。全部が正しいとは言いませんがとても面白い解説になっています。 KZbinで沢山見ることが出来ます。
@YO-high
@YO-high 2 жыл бұрын
面白かったです。 正直、宇佐と出雲は謎だよなぁ。どちらも「杵築」を冠してるんだよね。 出雲大社と言われてるけれど、本当の名前は「杵築大社」で、宇佐神宮の住所は「杵築」なんだよね。 なにか封印されてるとは思う場所ですなぁ。4拍手ってのも同じだしね。 個人的には、北九州全体が「女王国」で、卑弥呼のいた場所は「日田」じゃないかなと思ってます。 あと、魏志倭人伝の「邪馬台国へのルート」とは「邪馬台国から帯方郡への帰国ルート」だと思っています。 帯沙→対馬→壱岐→伊都国が行きのルートで、帰りが、伊都国→末羅国(徒歩)→壱岐→対馬→狗邪韓国だと思います。対馬海流を考慮するとそうする以外ないですから。陳寿が書いたのは帰国ルートです。海流を遡るのは人力では難しいです。 行きに伊都国で全ての船を臨検したという記述があるので、直接伊都国に行ってたのでしょう。 そうすれば、壱岐から伊都国は東南になるので、倭人伝の記述通りですね。
@xkaiyoutube
@xkaiyoutube 2 жыл бұрын
今回も楽しかったです! 「陸路1ヶ月」の解釈次第でここまで歴史が明瞭になってくるのはビックリです!
@kou-gb8xo
@kou-gb8xo 8 ай бұрын
陸路1ケ月の根拠がない、魏志倭人伝(作者陳寿)はフィクション作家、彼の言う邪馬台国はたどっていくと、海南島に行きつく、単なる小説ととらえた。
@takeshi492
@takeshi492 2 жыл бұрын
圧倒的にわかりやすいですねー、勉強になりました
@pochicancan55
@pochicancan55 2 жыл бұрын
更級日記でも、千葉から京都まで、陸路でほぼ3か月掛かっています。
@user-kj5wu1in6k
@user-kj5wu1in6k Жыл бұрын
日田の鉄鏡が曹操と全く同じと判明した時点で、 邪馬台国は間違いなく北九州と確定しましたね。
@user-rs6dn7zl3l
@user-rs6dn7zl3l Жыл бұрын
不彌国が日田であり そこから南へ陸行30日228キロで南九州なのです
@user-py4qo7wp5i
@user-py4qo7wp5i 2 жыл бұрын
邪馬台国論争、とても興味深かったです。 方位がずれていたり、距離を盛ってみたり、それが本当だったら今まで自分達が信じてきた歴史が、どんどん違ってきてしまうんじゃないか・・・!? 歴史にはロマンが詰まっていますね。 後半も、楽しみにしています☆
@tabinotochu
@tabinotochu 4 ай бұрын
とても興味深いお話しでした。難しいお話をわかりやすく説明できることはすごい才能だと思います。 古代の歴史が特に好きなのでチャンネル登録させていただきました!
@user-fo8rf3vv5b
@user-fo8rf3vv5b 2 жыл бұрын
動画長くて嬉しい
@yuu7859
@yuu7859 2 жыл бұрын
大作お疲れ様です! 私も九州説派だったので冒頭テンション上がりました! とはいえ今まで放射説と地名くらいしか根拠として持ってなかったので、いろんな考え方を知れて勉強になりました☺️ 近畿説は出土物が強いよな〜と思っていましたが、必ずしもそうとはいえないんですね! そもそも古墳は円墳から前方後円墳へと推移するので、卑弥呼の時代を思えば箸墓=卑弥呼陵説は薄いと思ってました。セピアさんの「直径」「亀山」がなんとなく繋がった気がして興味深かったです✨ 宇佐八幡神託事件、宇佐まで出向いたのは確かそもそも宇佐八幡側が道教を天皇に推したからだったからかと。神託の真偽を確認しに行ったことになってた気がします。 四拍手の件は初めて知りましたが、出雲もそうなんですね。そもそも伊勢神宮は天皇家と結びつきが深く、出雲とは一線を画すので宇佐(出雲派)と道教が結託してた…?なんて宗教学的(宗派立場的)に疑っても面白いかな〜なんて動画を見て考えてました! 学者でない方の著作は本を売るために内容やタイトルを盛っていることが多く、一次資料の読み込みも甘いイメージがあって避けていましたがセピアさん紹介の本は面白そうなので読んでみますね☺️! 長文コメントですいません、、!
@user-ri8lm8ov2l
@user-ri8lm8ov2l Жыл бұрын
学者はもう宮内庁の圧力で、答えがわかっていても宮内庁の意向にしか沿わないでしょう ですので真相は学者以外から出ると思ってましたが、その通りの状態 近畿説は明らかに無理があると思っていましたが、この動画で納得しました 九州説宮崎県西都原古墳だろうと思っていましたが、九州宇佐説が最もらしい感じですね
@bf6618
@bf6618 Жыл бұрын
宇佐神宮説にはあまり興味が無かったのですが、1時間で一気に惹き込まれました! ありがとうございます🎉
@user-gt6bk9ch7f
@user-gt6bk9ch7f Жыл бұрын
面白かったです。私も宇佐神宮が邪馬台国の中心地だと思うことも多いです。 そうするとヤマト、ヤマタイの発音と奈良を表すヤマトの関係は?となってしまいます。 神武東征の後に倭国大乱が起こり欠史八代の時代の天皇は一時的に九州の日田に逃げ帰っていたとの説もあります。 だから事跡の記述が薄いのだと。 箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓と伝わっています。 彼女は幼少期を香川県で育ち大変人望が厚い指導者だったとの伝承が残っており讃岐国の一宮である田村神社は彼女が主祭神です。 卑弥呼の治世は崇神天皇の時代と被っており倭迹迹日百襲姫命も同時代の人です。ただ九州に別の独立勢力があったとしても不思議ではありません。 景行天皇の時代に九州平定を行ったときに大分県の女酋が早々と恭順の意を示したみたいな事が書かれてあるので 宇佐だとすると、これが壱与の流れを汲む邪馬台国の後裔なのかもしれませんね。
@otsuri_laffey
@otsuri_laffey 2 жыл бұрын
日本の歴史にとってこんなに重要な部分が結論付けられてないっていうのはある意味面白い
@user-rs6dn7zl3l
@user-rs6dn7zl3l Жыл бұрын
早く解決するべきです
@uttii28
@uttii28 2 жыл бұрын
もしかしたらセピアさんも読んでいるかもしれないけれど、鯨統一郎さんという推理作家の書いた、創元推理文庫より出ている「邪馬台国はどこですか」もおすすめです。 ここではなんと邪馬台国の場所の候補は近畿でも九州でもない説をとっていますが、アクロバティックな展開ながらも納得する内容となっています。
@guutmaph06
@guutmaph06 2 жыл бұрын
邪馬台国以外にもオムニバスでいろんな歴史的謎をアクロバティックに読み解いてるから面白いよな 個人的には本能寺の変のやつも好き
@kakochan8622
@kakochan8622 Жыл бұрын
いやぁ〜惹き込まれるお話でした!こんなに長い動画なのに全く飽きさせないのは、本当にお見事!これからも拝聴させていただきます😊
@NAO-wq6xe
@NAO-wq6xe Жыл бұрын
。?Σ( ̄ロ ̄lll)? え? さくら 雇ってるの?
@hidetoshitakimoto9977
@hidetoshitakimoto9977 Жыл бұрын
私が知ってる事実、それを補完する腑に落ちた説+αでとても参考になりました。そしていつもながら楽しいw1年遅れですがw
@junichimoriya9166
@junichimoriya9166 2 жыл бұрын
詳細な説明をありがとうございます、以下は同意します 1.短里を使用していたこと 2.対馬海峡の海流に影響を受けて、船旅は、方向が東方向に流されること また、以下は同意できないです(GoogleEarthで簡単に測定できることです)) 1.一大国(壱岐)からの1000里が松浦としていること(松浦まで500里くらいでしょうか)   ・同様に東に流され宗像市付近が1000里となります 2.方角を45度傾けていること   ・海路と陸路では話が違います(この時代でも正確に測量する器具がありました) 3.魏志倭人伝の記述を曲解していること   ・邪馬台国までの距離が、12000里になっているところを、海路(舟)と陸路(徒歩)を加算    して考えていること、帯方郡から邪馬台国までの距離ですので、途中通過する合計を話してい    るのではありません、邪馬台国までの直線距離で測るととして説明した部分です 4.水行、陸行も魏志倭人伝の記載は正しいです、また、水行については、海流に影響を受けますし   陸地を見失うようなルートはありません、ですから南方面に海流にのって海岸線を見ながら通過   することになります、GoogleEarthで計測すると必然的に割り出すことが可能です   因みに水行10日は、当時の舟だとして200Kmくらい進めます 5.丹が産出されたことが説明されていない   この年代当時の記録では、丹が産出されたのは、四国の若杉山しかありません 6.牛馬なしが説明されていない   この年代当時の記録では、四国山上国家が多数あり、水が貴重でした、なので領域に牛馬を置か   なかったとされています(人間の水源がなくなりますからね) 7.東に1000里のところ他の倭人の国がないと説明していること   四国の東には、畿内(奈良含む)があり十分要件を満たしている) 8.卑弥呼の墓は、宮谷古墳です(もともと魏志倭人伝では、大きな墓の記載ではないです) 9.4000里に小人の国がなければならないが説明されていない   これは、種子島のことです(広田遺跡で発掘の人骨が小人です150cmくらい) 邪馬台国は、魏志倭人伝にのみ記載のある名称です(実際の漢字読みは「ヤマト」です) なので、その書物のなかの表現以外を参照するのは、ナンセンスと考えます、邪馬台国論争と日本国 の成り立ちに関しては、隠されていますが(戦後GHQに捨てられたものが多いですが)中国の書物で は、わからないです、日本国の縄文時代から引き継がれている古代文字(神代文字、カタカムナ。。。) など、紐解く必要があります、それぐらい、日本人は、歴史が秘密めいていて素晴らしい民族である と言えます、中国の歴史は、4000年とか言っていますがレベルが違いすぎます 邪馬台国論争、趣味であるなら良いのですが、明確になっているものをいろいろ深堀りしたところで 魏志倭人伝の記載以外からは導かれません、さらに日本人の歴史を深堀りすることは素晴らしいです ※長くてごめん!!
@user-xs1bs2lv9w
@user-xs1bs2lv9w 5 ай бұрын
すごく面白い
@amakun0115
@amakun0115 Жыл бұрын
私も色々調べた結果、論理的に近畿(奈良)には在りえないと思います。邪馬台国を日本人に知らしめた倭人伝には、位置関係が分かる記述が複数書かれています。邪馬台国の北に伊都国(現在の福岡県糸島市)が在るとも書かれており、いずれも伊都国より南に邪馬台国が在ることを示しています。終りの方の南に陸行・水行何日と書かれているのは、その出発点がはっきり書かれていない事に気が付かれていないのでは?それまできちんと距離表示で書かれていたものが、なぜかいきなり時間表示にここから変わっています。私は邪馬台国までの全行程を記述したか、敵対国へのカムフラージュではないかと思います。ところで年頭にあったTV番組で九州説の学者が具体的根拠を幾つも上げたのに対し、近畿説の学者は何一つ具体的な根拠も上げられず幻滅しました。番組から埋葬者へ高価な副葬品を入れるのは九州のみの風習だったのが、纏向が発展するにつれ近畿で広まっていったのは、九州もしくは岡山からの遷都が考えられるのではと問題提起がありました。これにも何の反論も無く無言でした。纏向遺跡の発掘に携った学者の方も嘆いていましたが、近畿の学者は大阪湾などで発掘されている関係資料には目を向けないのが現状だそうです。あくまで全ての文化は近畿発生としたい勢力がいるようです。
@user-dt9zj4xm9s
@user-dt9zj4xm9s 2 ай бұрын
壱与のお墓が平原遺跡という可能性はあると思いますか?
@pochicancan55
@pochicancan55 2 жыл бұрын
紀貫之の土佐日記では、高知から京都に帰るまで、船で55日掛かっていますね。 昔の旅は時間が掛かかるものと思います。
@user-zr8bk5me9o
@user-zr8bk5me9o Жыл бұрын
とても、おもしろい。 私も この説を おしたいと 思います。
@masayukinakamura-ti8wb
@masayukinakamura-ti8wb Жыл бұрын
腑に落ちましたー
@taka7218
@taka7218 Жыл бұрын
中国の学者によると当時入れ墨をしていたのは九州だけなので九州しかないそうです。
@user-kb3hp2qu8k
@user-kb3hp2qu8k Жыл бұрын
その通りです。入れ墨が似合うのは、ズバリ、火の国、阿蘇山の麓である熊本県です。
@taka7218
@taka7218 Жыл бұрын
結局、九州説を正とするならいろんな問題が解決するものの、それで卑弥呼=天照になってしまうと日本が始まったのが2世紀になってしまったりするのが都合が悪くてゴネているだけだと思います。 大日孁ノ貴(おおひるめのむち)=天照=卑弥呼?の子孫で高千穂出身の神武天皇が東征して奈良で初代天皇になっているのですから辻褄的には九州しかないのに、日本書紀は適当に年代を胡麻化しているだとか天皇家と関係ない伝承を取り入れたダケとかわけのわからない理屈をコネないと近畿説を唱えることができないのです。
@user-ei5go4jx6c
@user-ei5go4jx6c 8 ай бұрын
刺青は、アイヌもしてるし 全国の縄文人もしてると思うで 遺跡がでる迄、全部推論なので 皆で、小銭を稼ぎましょうか。
@user-hy2tm9kd6c
@user-hy2tm9kd6c 4 ай бұрын
大和王朝は縄文人達が建立 邪馬台国は九州人の建立 それが時代が進むにつれ交流がうまれ自然的に合体して大和王朝に統合された 一悶着あった出雲もなんらかの理由で大和になびいた但しなびく条件が様々あった物と思われるその条件に神の有り方が一つには加わって その内容が日本書紀に創作的に記載された ただ九州で邪馬台国と呼ばれた地域は大分県の宇佐市付近でその宇佐市の背中に当たる部分に耶馬溪と呼ばれる場所が今もある この意味は邪馬台を支えると言う意味を持つ つまり壁の様に邪馬台を保護している場所なのです 近畿説の方々は無理なこじつけをもう捨てて下さい 第一九州から東遷するにしても地理的に大群団が東に進むに海なら大船団が必要 何百の船どうやって調達? 陸なら大群団は悪路 河川を武器や兵站を馬もなくどうやって進む? さらに倭人伝中の3万個や五万戸の戸数表記も今の時代の感覚からしたら大変な戸数になる 多分白髪三千丈の使い方の類いで勘定の仕方は割り引かなければならないだろう それと九州の八代の地方には入れ墨まつりが昔からあるし 海産物を海に潜ってとっていたのも事実である 周りの生活条件も考え その当時の地理的条件さらに言葉の繋がり方 日本語の共通は地域地域の横の繋がりから確立されたと推定できる いずれにしても近畿邪馬台国説は無理ばかり 出土品にしても当時の生活事情からどうとでも解釈出来るし様々な都合でやり取りがあったはず もっと鳥瞰図的に歴史を見直したらどうだろう もし何千年前から言葉に余り変化が無ければ昔の地名は昔のままに存続しているはず ならば邪馬台国と言うのも始めのやまの部分はそのまま残って後の部分が変化したとも考えられる 現代語でもそんな例は沢山ある 特に人の名は簡略化が多い それが人間の通弊ならこの点も歴史に組み込まれねばならないだろう 地理的条件と距離的条件は倭人伝だけに頼るのは無理がある もっと視野広く条件の有り方を実際生活に側して取り込む必要がある 不毛な仮説にそろそろ終止符を打つ時では無かろうか 大前提を東日本の縄文民族と九州地方を中心とする海洋民族の融合地点が大和地区であるとした時すごく自然に日本の国家原点が流れ出す 皆さんも良く考えて欲しい 空白の時期は東日本 西日本のまとまり方を模索して様々なやり取りがなされたに違いなくその為中国の捉え方に国内で変化があった物と考えられる 具体的には根っから日本人と中国人の思想違いからたもとを分ったのかもしれない いずれにしても日本人と中国人は異なると時の指導者が判断したのかも知れない この部分はやがて文化の違いが証明していって現に日本は争いのない世界に一方の中国は争いばかりの世界に入って行く この歴史的事実をどう解釈しますか? 日本が争いで荒れたのは鎌倉から戦国時代位で 国は分断せずに一つにまとまっていて天皇中心は揺らいでない いかがですか? この様な仮説も 検証は難しいでしょうが大きく流れを捉えてみたら これが自然に思えるのですけどね。
@user-pq4jz2wr3j
@user-pq4jz2wr3j Жыл бұрын
邪馬台国は豊前で間違いないでしょう。 福岡県と大分県の県境の川は「山国川」昔は「山都川」と書いてありました。 もっと広く定義すれば「筑豊地区」「豊前市」「中津市」「宇佐市」及び「英彦山」や「日田」周辺も女王国でしょう。 田川郡赤村の前方後円墳は記述の卑弥呼の墓と同じサイズで近年まで年代も同じなのに何故か円墳にされて来ました。 香春町の香春岳の麓の「鏡山神社」は銅鏡を「宇佐神宮」に納める神事が今もあります。 古事記に記載されている「天香久山」は奈良県の天香久山から海は見えません。 香春三ノ岳から苅田湾が一望でき飛ぶ海鳥も見れます。 香春三ノ岳は古くから銅などのレアメタルを産出する鉱山で戦略的に重要な場所です。 宮内庁の管轄の「河内王の墓」(円墳)も鏡山神社内にあります。 何らかの形で邪馬台国と天皇家が結び付いて後の「神武東遷」となったと思われます。 ちなみに「倭国」と「大和」は別の民族の可能性が高いですね。 魏志倭人伝による倭国の民は皆「刺青」をしていますが「大和」にはその風習はないですね。 戦国時代末期まで豊前の国は天皇の直轄領でした。
@warosu_emperor
@warosu_emperor 2 жыл бұрын
100本目おめでとうございます!まさか邪馬台国論争にそんな深い理由があったとは 単に町おこしになるからだとばかり思っていました 陳寿の情報の隠しかた・ごまかしかたがまるで私の大好きな水平思考パズル(ウミガメのスープ)のようで、許されるなら陳寿さんにはぜひ出題者をやってもらいたいなぁと思ってしまいました
@paradise6971
@paradise6971 Жыл бұрын
応援しています。 これからも次の聖書の言葉を思いに留めて頑張ってください。 (格言 22:29)仕事に熟練した人を見たことがあるか。 その人は王たちの前に立ち, 庶民の前には立たない。
@TN-ux5rk
@TN-ux5rk Жыл бұрын
動画を見るまで箸墓古墳が卑弥呼の墓だと思っていました かなり邪馬台国=宇佐説に説得力がありますね
@conanrockwell4254
@conanrockwell4254 Жыл бұрын
確かに「八幡」を訓読みにすると「ヤマタイ」に近い。
@romico.
@romico. Жыл бұрын
とても分かりやすい説明でした。これからも楽しみにしてます。  ガッテン👍 あっ すいません....
@user-xg5zp5oz3j
@user-xg5zp5oz3j 2 жыл бұрын
二礼四拍手一礼の四拍手の意味が興味深いですね。
@user-wi3lh8ju4p
@user-wi3lh8ju4p 2 жыл бұрын
100本目おめでとうございます! \(^o^)/ 益々、吉野ヶ里行きたくなりました
@warkwark
@warkwark Жыл бұрын
5月末に吉野ヶ里遺跡を廻って来ました。全て散策すると徒歩で1日は掛かる非常に広い遺跡でした。ボランティアのお話では、夏は暑く冬は寒い台地(丘)だと言ってました。
@smitugu
@smitugu Жыл бұрын
いつもありがとうございます。楽しみにいつも拝見してます。いろいろ考えさせられることばかりですね。知的欲求を満たしていただいております。感謝です。
@gutsenergy2010
@gutsenergy2010 Жыл бұрын
「魏志倭人伝」に「女王国より以北には、一大率を置く。(一大率は)常に伊都国に置く」とある。つまり邪馬台国の北に伊都国があるとする。近畿説では、この表現はできないのではないか。
@seiichihamada9823
@seiichihamada9823 Жыл бұрын
一大卒
@tonijpn
@tonijpn Жыл бұрын
新潟県の弥彦神社も、二礼四拍手一礼の慣習です。越国も出雲国のように、国譲りがあったのかな?
@user-rs6dn7zl3l
@user-rs6dn7zl3l Жыл бұрын
行ったことがあります 柏崎に何回か行ったことがあります
@peaojaru3626
@peaojaru3626 Жыл бұрын
これの続編は何処にあるのでしょうか。探しましたが見つからないです。 追加⇒大変面白く見させていただきました。
@user-bf4up4vc5r
@user-bf4up4vc5r Жыл бұрын
徒歩で歩く場合、舗装されていないから、大雨の場合、道がドロドロになり転倒しやすく大切な荷物が汚れたり割れたりしたら大変だから歩くのを止めたりして日数が何日もかかると思う。使者の人達も風邪にかかったら大変だから歩くのを止めたりして日数が何日もかかると思う。
@user-is8yy7uc3g
@user-is8yy7uc3g 2 жыл бұрын
始めてみました。面白かったです。 ご存じかもしれませんが、1973年出版の高木彬光著、「邪馬台国の秘密」が元ネタですね。 読んでいなければお勧めします。
@sane-an
@sane-an 2 жыл бұрын
記念すべき100本目!おめでとうございます!!参考著書、意外と出版されてまだ日が浅いのですね( °_° )?!後半楽しみです!
@user-kr2vk8iw3m
@user-kr2vk8iw3m Жыл бұрын
思わず漫画買っちゃいました。 動画も漫画も面白かったです
@yamatotakeru2008
@yamatotakeru2008 Жыл бұрын
いつも偏りのない無理のない説明で納得出来ます。お話の仕方もすごく引きつけられます。現代の弁士。
@user-nh3zz8qk5h
@user-nh3zz8qk5h 3 ай бұрын
海流の速度、ずれた方角、残り1300里、陳寿の立ち位置など目からウロコの連続でした。私も以前から九州説でしたのでより確信が持てました。
@user-bb8zo2vg6o
@user-bb8zo2vg6o Жыл бұрын
三国志好きな人が地政学的な解釈を入れようとされていますが、当時の感覚では海を隔てた遠くの国では全く脅威にはならないでしょう 今でこそ中国は海に覇権を求めていますが昔から中国は大陸国家です。 また距離等の測定は歩いたり見たりして測定していたとはとても考えられませんし、短里を使っていたことからも周髀算経を使っていたと考えれます。 帯方郡から狗邪韓国(釜山)へは海と陸を進んでいますが山もあったりと真っすぐ進めるはずもありません 周髀算経を使っていたとしたら太陽が昇ってくる方向が季節で違う事くらい知っていて当然で間違える事は無いでしょう また宇佐では魏志倭人伝にあるような人口を支えるだけの土地は足りないし、伊都国までも遠すぎる 個人的には筑紫平野全体が邪馬台国、女山が卑弥呼が居た場所、権現塚古墳が卑弥呼の墓だったのではないかと考えます 日本歴史学会はどう考えても邪馬台国とヤマト政権は別なのに記紀は全て出鱈目とかありもしない空白の4世紀を作り出したりと歴史を意図的に捻じ曲げてるとしか考えられない
@user-bb8zo2vg6o
@user-bb8zo2vg6o Жыл бұрын
奴国を現在の博多とする説が有力ではありますが、当時の博多はまだ海だったので奴国を博多(福岡)とするには実は不可能なのです。 大阪平野や筑紫平野などが当時は海だったという事は地質学や地形学等で判明しており、当時の海は現在より数m程水位が高かったのです。 現在の水位になるのは5世紀以降だと言われています。 従って海沿いに移動していたとしても現在の春日市か大宰府あたりだった可能性が高く、そうなると東南というのは間違ってはいないのです。
@teru1645
@teru1645 Жыл бұрын
奈良県民だけどぶっちゃけ邪馬台国はどこでもいいと思ってます ただ、拡大解釈されて奈良県人は大ウソつきだみたいに思われるのは嫌だな・・・
@sentarou6969
@sentarou6969 Жыл бұрын
考古学者と行政が信用できないだけです👌
@user-sn7iy6ex1p
@user-sn7iy6ex1p 2 жыл бұрын
セピアさんこんな面白いことやってたのか!
@sundaymoney2958
@sundaymoney2958 2 жыл бұрын
非常に面白くて、分かりやすかったです。 1つ疑問なのですが呉に対する水軍を期待しての倭国との交流だと思ったのですが それですとなぜ遠くに見せる必要があったのですかね? それよりも「近くてすぐに援軍に来てくれる国と国交を持ちました。」の方がより功績があるように感じられました。
@reizoukoreizouko
@reizoukoreizouko Жыл бұрын
魏志倭人伝が書かれたのが、呉が滅ん晋が統一した後だから、実際に背後の脅威であるかどうかよりも、皇帝の威光に重きを置いたとか?
@grappa8334
@grappa8334 Жыл бұрын
先日、吉野ヶ里遺跡から出土した石棺墓の発掘調査が行われ、石棺から赤色顔料が確認されています。 宇佐神宮の神殿の横に埋まっている石棺から見える真っ赤な何か… 邪馬台国の時代の有力者の石棺墓の内部を赤く塗る慣習があったとすれば宇佐神宮に埋まっている石棺も その時代の有力者と考えることができますね
@user-vo2os4xu8t
@user-vo2os4xu8t 3 ай бұрын
宇佐神宮の氏子で宇佐市に住んでます。 宇佐が邪馬台国をいう話を昔から何度か聞いたことがあります。 神宮の近くは丘になっていて古墳が多いです。
@asdfghjkl3076
@asdfghjkl3076 Жыл бұрын
素人考えだが、広大な九州、中国、四国地方をすっ飛ばして、地理的に遠い近畿地方の国が他のどこよりも中国と密接な関係を築くとは考えにくい。 一般的に考えれば、地理的に近い九州北部の国だろうと思う。 古墳の中には、"なぜか"調査・発掘が禁じられているものがあるようなので、それらを全て暴いたとき、真実の歴史を知ることができるかもしれない。
@NAO-wq6xe
@NAO-wq6xe Жыл бұрын
いや、もう日本出来てから800年たってるんだが?
@sbnuna2958
@sbnuna2958 Жыл бұрын
あっちゃんの動画めっちゃ参考にしてそう
@sn-tf9uf
@sn-tf9uf 2 жыл бұрын
詳細な説明に感謝感激です。温泉好きの天皇や側近が多く別府辺りと思ってた。記紀編纂前の大化の改新の人物達が謎を解く鍵に思える。
@yomoda_yomokure
@yomoda_yomokure 2 жыл бұрын
そもそも末盧国は松浦なのかな。壱岐から潮の流れに乗れば、自然と博多に着くものを、わざわざ命がけで潮の流れに逆行して松浦に上陸し、陸路で難所の背振山地を超えて博多に行った理由はなんだろう。
@user-hy3jb9ei4t
@user-hy3jb9ei4t 4 ай бұрын
次回の話してますが、動画ありますかね? 見つからないのですが…無茶苦茶観たいです!
@user-rg8yx5nl4d
@user-rg8yx5nl4d Жыл бұрын
八俣遠呂智先生の動画が面白いです。邪馬台国は農業生産力が大きく、結果人口が多かった福井平野です。
@is0308ful
@is0308ful 4 ай бұрын
女真族編でも観ましたが、とても面白い解説です。 高校生のときは苦手科目でしたが、うん十年経った今、もう一度学んでみたくなりました。
@user-dj4dr7yh9v
@user-dj4dr7yh9v Жыл бұрын
かなり、前の本なのですが、推理作家の高木彬光さんをご存じでしょうか。その方が書かれた歴史推理小説の「邪馬台国の秘密」という本が有ります。1975年に書かれたと記憶していますが。主人公の神津恭介と友人の松下研三が推理で邪馬台国の場所を特定するという内容ですが、非常に面白いです。若干のアプローチの違いは有りますが、結論は同じ事を書かれています。もし読まれた事が無ければお薦めいたします。
@kagegami2
@kagegami2 Жыл бұрын
漫画家さんも、一種の研究家でその研究をかみ砕き脚色して楽しめるようにしたのが漫画だと思えるので下手なアマチュアより研究内容としては信憑性のある方じゃないかと思います。
@catherine6368
@catherine6368 2 жыл бұрын
面白かったです^^歴女にはたまらない><b
@user-ti1cj7bq3p
@user-ti1cj7bq3p Жыл бұрын
説得力のある解説で納得しました。昨年吉野ケ里遺跡へ行って、九州説に傾斜していたところでした。有難うございました。
@cr5254
@cr5254 Жыл бұрын
大昔の強い国をイメージすると兵を沢山抱えてる国で、沢山の兵を食わせるには沢山のコメの収穫が要る訳でw 九州の米所といえば佐賀福岡熊本の佐賀平野~筑後平野になります。もう一面田んぼ。 三国志のドラマ見てたら諸葛亮と司馬懿が「兵糧」の奪い合いやってますやんw そんな魏の使いがやって来て見る所は 広大な田んぼだと思いますよ。私は福岡南部から熊本にかけての何処かだと思います。その辺りだと昔は阿蘇山のモクモク上げる 噴煙が普通に見えてたと思いますから「私は火(日)の巫女よ!」と言っててもおかしくない。
@bittersweet7022
@bittersweet7022 2 жыл бұрын
納得。宇佐周辺に耶馬溪って場所もあるし、なんか関係ありそう。
@24stream
@24stream Жыл бұрын
あえて他の方のKZbinで見た反論を書くと、考古学的には弥生時代初期から日本中の交流が盛んで頻繁に行き来していた形跡があるのと、中心が近畿であったこと、大乱の形跡は高所住居として瀬戸内海に散らばっていること、淡路島では古くから鉄器の製造をしていたこと、確かに北九州では農具も鉄など鉄が進んでいたけど、それだと邪馬台国の鉄の鏃と石の鏃の説明がつかないこと、あと、日本でも邪馬台国はヤマト国と発音されていたこと(タイは中国語発音)、当時でも交流が盛んだったということは、最大の国が近畿というのは朝鮮や中国でも知られていたというのが自然なこと。その中でクシャナ朝と同等の扱いを九州の一つの国にするか疑問なこと、九州だけで、朝鮮を超える大国とみなしていたというのは不自然。などを考えると、九州説は厳しいのかなと思いました。
@samosamo777
@samosamo777 Жыл бұрын
3世紀のクシャナは四方に敵対国があり、遠い魏国にはほとんど影響力を持っていません。当時の日本国の中で最大勢力がどこであったのかという話と邪馬台国がどこであったのかという話も関係がありません。魏が認識している邪馬台国は行程を以てはっきりと示されています。 近畿に邪馬台国を求めるのは「三国志」という書物に権威を感じ、それに書かれているのは日本で最も権威のある勢力であるはずだから近畿でなければならない、という「だったらいいのに論」に過ぎません。
@yukikosakaguchi847
@yukikosakaguchi847 5 ай бұрын
楽しく拝見いたしました。二拝四拍手一礼は新潟の弥彦神社もそうです。神は天孫降臨族のヒメです。大国主神は糸魚川の姫川の奴奈川姫に求婚して、翡翠を貰い、玉造温泉で勾玉を、とも言われ、糸魚川は上越、弥彦山は下越ですね。又拝見させて頂きますありがとうございます😊
@kingrap3089
@kingrap3089 Жыл бұрын
箸墓古墳は4世紀の築造です。この遺跡が今から50年前に本格的に調査されたのですが、その当時ですら4世紀の築造と結論付けられていました。箸墓古墳は奈良盆地の東寄りにあって、その辺一帯には4,5世紀の前方後円墳が築かれています。要は、箸墓はそうした古墳群の一部に過ぎないのです。しかも箸墓が築かれてる場所は2つの河川の間にあって、その幅は100メートルほどしかありません。そんな窮屈な場所に女王の宮殿は作りませんよ。ちなみに、卑弥呼の時代の1里は短里で、76メートルほどです。
@renren5491
@renren5491 Жыл бұрын
纏向での九州の土器は少なく、逆に壱岐・博多湾岸・北部九州から畿内系土器が大量に発掘されている。 旧貿易港の遺跡西新町遺跡では、出土土器のうち朝鮮式が3割・畿内式が3割にのぼる。先進弥生土器が東から九州へ還流していた。
@user-eh3dq3hc7w
@user-eh3dq3hc7w 9 ай бұрын
記紀の景行記にでてくる宇佐の女王がおそらく豊与でしょう。豊の国。 その記述によると、宇佐以南から宮崎の高千穂を含む中部あたりまでを支配しており、 それより南が熊襲で別国。 倭人伝の邪馬台国7万戸、温暖で海産物豊富で山に囲まれた地理・文化は倭人伝の倭国そのもの 宇佐の北の京都郡をベースに九州中部まで平定し、後にヤマトタケルが熊襲を制圧した。 記紀とも合致しますね。
@user-hh8gn8ey5z
@user-hh8gn8ey5z 9 ай бұрын
字がめっちゃ上手
@LL-mj7gs
@LL-mj7gs 2 жыл бұрын
総距離が明確に示されている時点で近畿説はあり得ないし、当時の人がノロノロと移動したと言うのは当然の話です。車はもちろん整備された道路すらないです。魏志倭人伝にも先を行く人の姿すら見えないほどの草木だったとあります。 旅先で食糧や寝床を調達しようにもコンビニも飲食店もホテルも無いのですから、1日の大半は食いつないでサバイバルするために必死。日中8時間一目散に移動なんてできるわけがない。 雨が降ったらただでさえ悪い道もぐちゃぐちゃになるので、当然無理をしないで休むでしょうし、時に道に迷ったとしても不思議じゃない。標識もGPSも無いですし、現地日本人には中国語が通じません。現代日本の感覚で考えてはいけないです
@morikumi
@morikumi Жыл бұрын
字うまいなー
@8e38ky5w
@8e38ky5w 2 жыл бұрын
歴史記録に残る卑弥呼。  無いが活躍した女帝・男帝も居たはず!          この辺にロマンを感じる
@kotakamituna5636
@kotakamituna5636 Жыл бұрын
不弥国(ふみこく)は、その読み方から、今の宇美町(うみちょう)ではないかという説が有力だと思います。 魏志倭人伝では、末盧国から不弥国まで、各駅停車みたいに記述されているのに、いきなり畿内に飛ぶのはおかしいと思っていました。 また、北史倭国伝には「倭国は阿蘇のある島にある」と書かれていることから、九州であることは明らかなのに、畿内説派は、それは間違いだ捏造だでたらめだと認めず、自分の都合の悪い史料を無視します。 畿内説派は、畿内と言わないと教授のポストが与えられないそうです。素人の方が真実を述べる理由です。
@KM-ix1so
@KM-ix1so Жыл бұрын
>倭国は阿蘇のある島にある」 今旧唐書読んでますけどそんな箇所どこにも無いですけど?
@user-rs6dn7zl3l
@user-rs6dn7zl3l Жыл бұрын
不彌国は日田です
@toki8606
@toki8606 7 ай бұрын
魏志倭人伝の作者が、司馬懿の威信を高めるために、金印を授けて意図的に遠方の国にしたてあげたのだと私も思います。というのは、魏志は司馬懿の子孫が作った晋の国が作ったからです。
@user-rg1pb4mw6o
@user-rg1pb4mw6o 5 ай бұрын
やまと言葉では『ひと、ふた、み、よ』なので忌み言葉云々は眉唾ですが、宇佐説は興味深く聞かせていただきました。
@flower3929
@flower3929 Жыл бұрын
お声というか、マイクかもしれませんが、サウンドが良いですね。
@OK-kiyoshi1155
@OK-kiyoshi1155 Жыл бұрын
とても納得!30年前に青木てつおさん作画による「緋が走る」を愛読してましたよ。 中田敦彦さんと喋り方が似てるけど内容は貴殿の方が良いです。 チャンネル登録しました。 これからのご活躍を期待しています。 良い仮説と本を紹介して下さりありがとうございました😊
@totoro0401
@totoro0401 2 жыл бұрын
高木彬光さんの本『邪馬台国の秘密』だったか❓の結論も宇佐だった。 棺の話も出てくる。 神津恭介の推理という体で一応、推理小説だけど、ほぼ同じ結論に達してた。 いちばん納得のいく説だと思う。
@user-tb5pi2is5u
@user-tb5pi2is5u Жыл бұрын
神話の古代出雲は島根県ではないと島根県在住の研究家が指摘しています。 ある人の研究結果から卑弥呼の王宮は徳島県の吉野川市と阿波市の境にある吉野川の中洲、善入寺島にあった説があります。
@sunsun2181
@sunsun2181 Жыл бұрын
四国説、面白いです。九州と畿内は学者のメンツあらそい。徳島には朱があるし、海に近い温暖地だから、邪馬台国の描写にそっくり。 真珠も青い石も取れる。なんとかいう先生が、愛媛と徳島に横長にまたがる国だという説を出しています。 牛も馬もいなかったですしね。
@plumgosbird
@plumgosbird Жыл бұрын
倭国と魏の間に翡翠の位置付けをもっと強く表現したほうが良いと思いました。
@hdms5387
@hdms5387 5 ай бұрын
面白い!宇佐の近くに「 耶馬溪 」という地域がありますが、何か関係あるんですかね
@ichirosakazume1399
@ichirosakazume1399 Жыл бұрын
新潟の弥彦神社もお参りは4拍手ですよ
@chi2kaki223
@chi2kaki223 5 ай бұрын
本年2024)になって、 邪馬台国の場所でなく、卑弥呼の夢を見たので、検証したいと思っています。
@higashioosaka
@higashioosaka Жыл бұрын
宇佐神宮神託事件から攻めたのはなかなかユニーク!
@keen1174
@keen1174 Жыл бұрын
2・3世紀の土器の移動や集中は、人の移動・集中を端的に表すものです。またその質の高度さは、地域の先進性を表すものです。 質の高い土器の出土が限定的だったり、皆無なところに人の集中もなく有力勢力は存在しません。また外からの先進性のある土器の流入が顕著な場所は、被支配の関係が考察されます。 広域に運ばれた先進性のある土器の主産地がその時代を制していたと考えられます。 各地の発掘担当者の分析によって、当時の全貌が明らかになりつつあります。それによっても邪馬台国論の趨勢が定まってきました。 近畿・東海地方の土器が東北から九州に及び移動が活発になっています。九州系土器の移動はそれらに圧倒されています。特に博多湾岸から伊都国にかけて近畿系土器が多数出土しています。
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