【ゆっくり解説】 秦に匹敵する天下最大・兵力百万の大国 楚は何故滅んだのか 【楚 秦 春秋戦国】

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鳥人間 中国史三昧

鳥人間 中国史三昧

11 ай бұрын

一時は戦国七雄で最も広い版図を有し、秦に匹敵する軍事力を有していた大国、楚は何故滅んだのかについて語ります。
チャンネルメンバーシップ、はじめました。
/ @c-history
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Пікірлер: 222
@user-lt4nq1oi9o
@user-lt4nq1oi9o 11 ай бұрын
秦の恵文王時代に巴蜀を攻めてる間に秦に対してプレッシャーかけられず、その後は白起に都を流されちゃったのはめちゃ痛いっす
@MrDeha6450
@MrDeha6450 11 ай бұрын
中央集権でいくさには強かった秦と、中央集権を徹底できずに軍事力で差をつけられて敗れた楚。ですが、項羽はもとより陳勝も呉広も、そして劉邦も、もっというと韓信(この人はどちらかというと呉でしょうか)も、みんな楚の人というのが面白いです。中央集権で力で従わせて戦わせるだけが能じゃない。強さって、もしかしたら戦争に勝てるかどうかというだけで決まるものではないのかもしれないと感じさせる、楚の滅亡理由とその後の楚人の活躍へとつながることのエピソードでした。他の方のコメントも考えるヒントいっぱい!
@omi03watanabe
@omi03watanabe 11 ай бұрын
呉起も改革者として恨みをかっていたので商鞅と同じく誅殺は避けられないだろうけど、その後、旧体制に戻ったかどうかで秦との差が付いた印象ですね。
@intelljp
@intelljp 11 ай бұрын
呉起が楚にいたのは5年間だけ。商鞅は約20年です。差は出ますね。
@bingosaru
@bingosaru 11 ай бұрын
@@intelljp さま その意味で考えると、楽毅が斉攻略に残り2城となった段階で燕の昭王が死去していますが…あと数年長生きしていたら「真っ先に滅んだのは“斉”」となっていたかも知れませんね。
@tevalleyluckman8746
@tevalleyluckman8746 11 ай бұрын
@@bingosaru その場合、燕は晋に匹敵する強国になってしまい、晋は後日のように韓、魏、趙に分裂しなかったかもしれませんね。 と、言った後で訂正の必要が出来ました。 楽毅は晋解体後の人間でしたので、その場合、燕が斉を飲み込んだ場合、華北西部の覇者秦と東部の覇者燕の挟み撃ちで、魏、趙、韓が早々と秦と燕に併合され、危機感に包まれた楚が華北からの亡命者と共に来た呉起の改革を受け入れて、秦、楚、燕の三国時代の到来になったかもしれません。 始皇帝と太子丹の関係にも影響が出ますね・・・やはり・・・
@user-il4oc6nm6w
@user-il4oc6nm6w 11 ай бұрын
長江下流流域は昔から門閥というか地元の勢力が強い。統治者はそこに苦労する。 常にまとまりが悪く、バラバラになってしまうイメージ。肥沃な土地で豊かすぎるゆえに現状維持の考えが強いのかもしれない。 長江下流流域を抑えて中華統一したのは歴史上、明ぐらいしかないんじゃないかな?
@user-pz3yr8pc1w
@user-pz3yr8pc1w 10 ай бұрын
​@@tevalleyluckman8746え?この当時また三分裂してなかったの?😅
@user-rz2bg5pi4h
@user-rz2bg5pi4h 11 ай бұрын
もはや唯一の超大国となった秦に滅ぼされた楚の将軍の子孫が統一王朝になった秦を滅ぼすってすごいドラマチックな展開だよなあ
@tevalleyluckman8746
@tevalleyluckman8746 11 ай бұрын
凄い展開だよね。 始皇帝に未来を読む力があったら、楚の人間は項羽は言うまでも無く、陳勝も劉邦の一族も皆殺しになっていたかもな。
@user-kc6wn7yc9s
@user-kc6wn7yc9s 11 ай бұрын
秦を滅ぼすものは3戸になっても楚人と言われていたかと
@tevalleyluckman8746
@tevalleyluckman8746 11 ай бұрын
@@user-kc6wn7yc9s 正確には「残り三戸になっても秦を滅ぼすのは楚だ!」という言葉だと聞いています。
@user-kc6wn7yc9s
@user-kc6wn7yc9s 11 ай бұрын
@@tevalleyluckman8746 さま うろ覚え補足ありがとうございます
@user-mh8bf7md5i
@user-mh8bf7md5i 10 ай бұрын
ある意味ゾンビのような国家。
@user-mg4fu5wq2o
@user-mg4fu5wq2o 11 ай бұрын
3:55 ここの「東方!」を入れ忘れてますよ~! 今週は多分楚の敗因だろうなぁと思ってたら予想通りでニッコリ。呉起が改革成功させてた世界線も見てみたかったなぁ。
@user-hi8px1oy7v
@user-hi8px1oy7v 10 ай бұрын
秦に巴蜀を取られたことで、秦が上流から速やかに攻撃駆けられる情勢を作ってしまったのがかなり敗因に感じる。 昔中華系の知り合いに「江南は南北朝を作り、天下を二分するほど強いが天下統一はできないよね」と言ったことがあるのですが、「江南は暖かく肥沃であり、物資に困らないから基本的に戦おうという気概があまりなく、世界でも物資が豊かな国ほど貪欲になりずらく、発展しずらいというのがあるがそれに似てる」といった言葉が返ってきましたね。 楚もそういう欠点があったのかも。
@user-mp9og1or4x
@user-mp9og1or4x 10 ай бұрын
アメリカ、中共、ロシア…
@nyt7282031
@nyt7282031 10 ай бұрын
項羽の最後は「四面『楚』歌」でしたからね。
@intelljp
@intelljp 11 ай бұрын
貨幣は、春秋時代は貝殻(子安貝)を使ってました。 後に蟻鼻銭が鋳造されますが、1.5~2cmくらいの小さなものです。楚庄王が大きな貨幣を鋳造しましたが、重くて不便で、また実際の価値より低く、市場が混乱したため、元に戻したそうです。 戦国時代の金銭・銀銭の多くは、楚で鋳造されたもののようです。
@user-rv4ic8yp4m
@user-rv4ic8yp4m 10 ай бұрын
王翦が60万の軍が必要と言ったぐらいですから、手強い国ではあったでしょうね。
@MrNozza1919
@MrNozza1919 11 ай бұрын
楚のころは春信君とかの貴族政治、秦代には陳勝呉広や項粱や劉邦のような群雄の旗揚げ、漢代は英布の反乱や呉楚七国の乱とかあのあたりめっちゃ反抗するよねー 当時はそういうお国柄だったんかねえ
@tevalleyluckman8746
@tevalleyluckman8746 11 ай бұрын
何よりも呉起の改革を潰した事が楚滅亡の決定打となったと思う。
@mocchi2643
@mocchi2643 11 ай бұрын
楚は遷都するたびに都城を郢と名づけていたらしい。
@treasure9262
@treasure9262 10 ай бұрын
楚は蘇る!何度でも!楚が秦に屈服せず独立を保ち続けたら、あるいは楚が天下を統一してたら、と想像するのを止められない。
@gohgoly
@gohgoly 10 ай бұрын
戦国楚は前漢の郡国制後の呉楚七国の乱や三国時代の呉が豪族の集合体だった素地を何となく感じさせますねえ
@user-ej7rh6ht2l
@user-ej7rh6ht2l 11 ай бұрын
宿敵秦を倒して念願の楚を復興させたと思いきや、それをも壊して自ら上に立つ項羽さんの凄さと言ったらもう……。
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu 10 ай бұрын
秦への恨みで動いていたとすら言えてしまいますね。
@user-sd3hm8lj5f
@user-sd3hm8lj5f 10 ай бұрын
中国史上最強の武将ですからね✨
@user-gd7ow9st8v
@user-gd7ow9st8v 10 ай бұрын
三国志最近興味でて色々見てるけど、このちゃんねるもまぁまぁよかったからシェア ゆっくり赤壁ちゃんねる 三国志研究室 試験に出る三国志
@sepa3435
@sepa3435 10 ай бұрын
@@user-sd3hm8lj5fでも項羽といい関羽といい、その手のつおい人は 兵站や戦略考えず、戦術的にどんどん突出してタヒんでしまう罠w
@user-kt8fe8vf9c
@user-kt8fe8vf9c 11 ай бұрын
商業が盛んだったということで思い出したのが、「矛盾」例え話だけど、やり込められる武器商人は確か楚人でしたよね。
@user-qu6tf5db1z
@user-qu6tf5db1z 10 ай бұрын
…なるほど〜…😧
@akiaki4842
@akiaki4842 10 ай бұрын
キングダムは項燕将軍は汗明以上に盛り上がるキャラになってくれるのかが不安
@yasufilooqula5051
@yasufilooqula5051 11 ай бұрын
それでも、秦に滅ぼされた後、楚から出た項羽が秦王朝を倒すことになるから、秦に並ぶ戦国七雄の覇者。懐王に秦の罠にむざむざとかかり、斉との遠距離同盟を切ったのが衰亡の始まり。
@SuiSuiGaming
@SuiSuiGaming 11 ай бұрын
秦の旧楚領でも楚の文化が根強く残ったことや、秦末から楚漢戦争における楚の独立志向の強さを見ると、あまり滅びた感じがしない国ですね
@user-ts1kp3tb5o
@user-ts1kp3tb5o 11 ай бұрын
劉邦やその故郷も元は楚ですしね。
@intelljp
@intelljp 11 ай бұрын
この辺、ちょっと怪しいです。そもそも、「楚人」という統一意識があったのかどうか。 劉邦の故郷、沛県は元々、宋の地です。斉によって宋が滅ぼされ、その後に楚が占領した地です。劉邦が尊敬してたのは、地理的に近い魏の信陵君ですね。 項羽も叔父が罪を犯して呉のほうに逃げてましたが、項氏は項国の末裔で魯に滅ぼされ、後に楚に占領された地です。項羽が当初、魯公に封じられたのもこの縁で、魯も最後まで劉邦に抵抗しました。
@SuiSuiGaming
@SuiSuiGaming 11 ай бұрын
@@intelljp なぜ私の文章を読んで「楚人」としての統一意識があったという含意があると勝手に解釈し、突然長文語りを始めたのかわかりませんが、私は『 旧楚領において「楚人の帰属意識の差異に関わらず」現地の文化が根強く残り、秦の制度に従うつもりはないという反発心から旧楚領で様々な勢力が積極的に独立を目指した』という意味で書きました。
@intelljp
@intelljp 11 ай бұрын
@@user-ts1kp3tb5o 蕭何、曹参、夏侯嬰、劉邦は、地方官吏とはいえ、秦の役人になることに何の抵抗もなかったわけですね。劉邦は、始皇帝見て「男は、ああでなけりゃな」とか言ってるわけです。 「恨」があったのは、張良や項梁・項羽のような元貴族じゃないですかね。
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu 10 ай бұрын
アッシリア(強制移住)や清(弁髪)などは圧政などで他民族を弾圧しましたね。
@ntatanohu1214
@ntatanohu1214 10 ай бұрын
どさくさに紛れてしれっと蔡とか陳とか越とかはまだ分かるとして、あの名門である魯まで、何の盛り上がりもなく滅ぼしちゃうあたりをググッと知りたいんだけどね。
@takey0urhands
@takey0urhands 9 ай бұрын
封建制vs郡県制の議論のときに、封建制維持派は 「封建制を敷いて各地に封君がいれば彼らは自領を守るために必死になるが、派遣された官吏でしかない郡長官では結局防衛の役に立たない」みたいな論があったけど 同じ国内でも自分の封地でなければ兵を出したがらない封君はまた別の面で防衛においてのマイナス要素になることもあったんだね
@user-oi5dt9tt8d
@user-oi5dt9tt8d 11 ай бұрын
一番乗り。やはり懐王拉致の逸話は外せなかった。この動画を拝見する前から思っていたが、項羽が秦の子嬰を斬って西楚を建て、劉邦が項羽を倒し漢一国に統一したのだから、ある意味楚が秦を滅ぼして復讐を果たし復活したとは言えないだろうか。
@intelljp
@intelljp 11 ай бұрын
その項羽が義帝を殺して、楚の血脈は絶えるだが・・・
@mastsu379
@mastsu379 11 ай бұрын
漢の郡県制の確立も武帝の時代までかかってるし、中央集権制の確立は難しいですね。秦が天下統一後、早々に滅びたのもあまりに急すぎた中央集権制による軍役が重すぎて大規模な反乱を発生させてしまったところもあるので
@user-et6vx6gz4b
@user-et6vx6gz4b 10 ай бұрын
日本橋日銀本店の周辺に貨幣博物館という入館料無料の財務省の施設がある。 そこに郢爰が展示されている。展示替えが行われていなければ応じの古の繁栄を垣間見る事ができるだろう。 また最後の都の寿春は三国志でも知られた要衝である。現在は寿県寿春鎮と呼ばれているが、宋代頃の城壁が残る。 四方を城郭と水堀で囲まれた都市は現在複数が残存しているが、寿春城の特徴は周囲の堀が巨大な湖沼となっている点である。 河川の土手の外側に磚(セン:煉瓦)を積んだ珍しい城壁で四方に城門が開かれている。 是非とも訪れたい街である。
@qoamb410
@qoamb410 11 ай бұрын
「楚辞」なんて、「詩経」と並ぶ有名な詩集がありますね。 「尺も短き所有り、寸も長き所有り。夫尺有所不足 寸有所長 物有所不足 智有所不明 数有所不逮 神有所不通。」(楚辞 卜居)という詩の一節が好きです。人や物事には、良い所悪い所があるので、単純に判断せずに当事者の考えを尊重すべきだという、屈原の考えが反映されている様ですね。屈原の哲学にも通ずる詩作を育んだ「楚」の懐の深さや文化は、いわゆる辺境の国では無かったんだと感じます。お話し面白かったです。長文すみません。これからも、お身体をご自愛されて、動画の作成お願いします。
@intelljp
@intelljp 11 ай бұрын
屈・景・昭の3族が癌なんですけどね
@user-br1lo8lh8g
@user-br1lo8lh8g 11 ай бұрын
屈原大好きなんですが このことを考えると「いつの時代も愛国者は報われねえな」とか 今の「日本はどうなん?」とか生臭い事考えてしまう たまに楚辞とか読み返して幻想的な気分にひたるのもいいかも (-ω-)/
@user-mf8vd5ty1k
@user-mf8vd5ty1k 10 ай бұрын
この動画の広告で八村塁がソオ〜て叫んでて笑った
@c-history
@c-history 10 ай бұрын
草草の草
@KAWACHI102
@KAWACHI102 10 ай бұрын
三国時代の呉もその後の東晋も土着の豪族層の発言力が強くて制御に困ってた辺り、江南ってのはそういう土地柄なんだろうなぁ
@user-fl2hc5id8r
@user-fl2hc5id8r 9 ай бұрын
商売強くて個々の発言が強いところは戦に弱いイメージがある 不利になると寝返りやすい
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu 10 ай бұрын
やはり古代での大国、東が秦なら西はアケメネス朝ペルシャが過りますかね。アッシリア帝国すら凌ぐ大規模な領土(西はギリシャ、東はインド)を得、その繁栄ぶりはギリシャ人が宿敵どころか規範とすらするほどでした。 後にアレキサンダー大王に滅ぼされても制度の大半(総督制など)は受け継がれ、300年続く後継者戦争で誕生するヘレニズム国家(セレウコス朝シリア、ペルガモン王国など)の基盤となるばかりか、結果的それらを打倒する事になるローマの(共和制、帝政、またはシルクロードなど)基礎強化にすらなるほどの影響力でした。 また日本で言うなら源平合戦期の奥州藤原氏でしょうか。源氏、平家と並ぶ第三の武家、平家は平清盛すら安易に手を出すなと警戒(義経が平泉に逃げられたのもそのため)、源頼朝すら策謀または藤原秀衡の死を待たなくてならないほどの存在でした。 大国が一つ誕生すれば必ずそれを脅かす存在(大国や異民族)はいつでもある、またはいつでもあっけなく消えてしまうというのは歴史の性とでも呼ぶべきでしょうか。
@user-qu6tf5db1z
@user-qu6tf5db1z 10 ай бұрын
…まるで『ぴよぴよ速報』の【圧倒的にヤベー奴が攻めて来る】の繰り返しだぜ………😱
@user-qr3sx7vh6i
@user-qr3sx7vh6i 11 ай бұрын
県制と封君の併存は漢初期の郡国制に近いのかな? 劉邦も楚の出身だし。
@user-kr7nm3gh2l
@user-kr7nm3gh2l 11 ай бұрын
Thanks!
@c-history
@c-history 11 ай бұрын
ご厚意、いつも感謝しております……! 大変励みになっております~~~!!
@user-uk1ob5ds6q
@user-uk1ob5ds6q 10 ай бұрын
懐王さん、谷村新司にそっくり
@Omochi_5150
@Omochi_5150 11 ай бұрын
興味深いですね。その後起こった呉も結局豪族がまとまれずに空中分解する形で滅亡しましたし、南部の人々の文化的にまとまれない、覇国にはなれないという縛りがあるようにすら思ってしまいます。
@user-nc4je3th5w
@user-nc4je3th5w 11 ай бұрын
世界史的にはむしろ楚的な国王直轄の領土と世襲貴族の封建的な領土が混在してるのってむしろ普通な気がする
@kazuoka1143
@kazuoka1143 10 ай бұрын
それは同感ですね。日本でも鎌倉~江戸幕府に至るまで幕府の直轄領と天皇家・貴族・寺社・大名の領土は混在状態でしたし、西欧でも同様。むしろ秦がこの時代にしては異常なほどに中央集権化が進んでいたと言う話なんだと思います。
@user-sd3hm8lj5f
@user-sd3hm8lj5f 10 ай бұрын
むしろ紀元前の当時に中央集権的な統一国家を樹立した当時の中国が先進的すぎたんですね。日本やヨーロッパは長らく大小の封建領主が混在する時代が続いた訳ですから😲
@panda688
@panda688 10 ай бұрын
楚の豊かさは王侯貴族だけでなく庶民まで国家権力を通した再配分を当てにしなくても困窮することは無いほどだったって解釈ができると思う。中央集権が成立するのは土地が貧しくて王権に集中させた富の再配分が他の収入を圧倒するぐらいに大きい時でしょう。もしくは隣国の強大化を警戒して防衛のために資源を集める必要を全国民的に認めた時か。
@kamenoko4413
@kamenoko4413 11 ай бұрын
春秋時代に覇者になった、長い歴史と伝統のある国で、その結果王族関係者の数が多くなり、それぞれ自己の権利を主張。中央集権的な改革の障害になったことも、大きかったみたいですね。
@user-sl8fs5fp1k
@user-sl8fs5fp1k 11 ай бұрын
11:08 何かパッと見漢の郡国制っぽさありますねこれ そう言えば劉邦も楚出身…………
@harigane4773
@harigane4773 10 ай бұрын
司馬遷が西楚、東楚、南楚と記して… 項羽が中原のメッチャ東で「西楚の覇王」と 名乗ったのは当時の人はあの辺(彭城近辺)は西楚って思ってたのかな??
@daikonmahi
@daikonmahi 11 ай бұрын
3:56の「東方」には反応しない霊夢。俺じゃなきゃ見逃しちゃうね。
@user-sh8we3rz2v
@user-sh8we3rz2v 11 ай бұрын
ありがとうございます!
@c-history
@c-history 11 ай бұрын
ご支援いただき、感謝……圧倒的感謝でざいます……!! ご厚意、とッッッても励みになっております~!!
@user-ih2we4ud3e
@user-ih2we4ud3e 11 ай бұрын
劉邦が即位後に秦・魏・斉・趙などの各国に墓守を置いた際にはなぜか陳勝の国としての扱いになってしまってる楚。 秦には始皇帝の霊を祀るように命じられてるのに…
@user-cj6ts3pq3u
@user-cj6ts3pq3u 10 ай бұрын
楚とかいうちょくちょく地下からの新史料が出てくる地(精華竹簡など
@Lunarzerka
@Lunarzerka 10 ай бұрын
そういや三国志の時代でも呉は王と貴族の個人的紐帯が体制の主軸だと聞いたことがあるな 講談社学術文庫の魏晋南北朝だったかの本に書いてあった
@TAKE-rr9zt
@TAKE-rr9zt 11 ай бұрын
楚!楚!楚!楚! 「楚」のゲシュタルト崩壊(?)が起きかけて、魔理沙氏の解説も 楚して(そして)、楚う(そう)とか聞こえて来た…😅
@user-unetaro
@user-unetaro 11 ай бұрын
秦を滅亡させるきっかけを作った陳勝・呉広どころか滅亡に追い込んだ項羽・劉邦まで楚人だったとは・・まるで明治維新で幕府を倒した長州と薩摩がかつては徳川家康に抑え込まれた毛利と島津の子孫だった事と似ている気がする
@tevalleyluckman8746
@tevalleyluckman8746 11 ай бұрын
歴史には明らかに似たパターンを再現する傾向がありますね。 ある霊能者はそうした歴史の酷似する様相を”雛型”と表現していました。
@user-yf4nu5kv8q
@user-yf4nu5kv8q 10 ай бұрын
項羽はともかく、劉邦を楚人と呼んで良いのかどうか? 劉邦の郷里である沛はもともと宋の地方都市だったんですね。 それが斉によって滅ぼされ、呉や越、魏、楚の進出によって次々と支配者が入れ代わり、最終的に秦の支配下に組み込まれたのです。 だから劉邦にとって、自分が楚人であるという意識はかなり薄かったのではないかと。 秦の魏攻略のどさくさに紛れて楚の勢力圏に取り込まれた経緯を考えれば、むしろ楚に対しては反発の念を抱いていたのかもしれません。
@user-pz3yr8pc1w
@user-pz3yr8pc1w 10 ай бұрын
劉邦と項羽との戦いもある意味楚人同士の戦い内乱だね
@tevalleyluckman8746
@tevalleyluckman8746 10 ай бұрын
@@user-yf4nu5kv8q その意味で見ると、劉邦には楚への帰属意識は低かったと言えそうですね。
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu 10 ай бұрын
ヒトラーやスターリンみたいに、もはや力を手に入れてしまったら出自なんて半ば忘れていたんではないですかね(ヒトラーはオーストリア生まれ、スターリンはウクライナ生まれとどちらも本国生まれではない)。
@needDAI
@needDAI 10 ай бұрын
韓:立地が詰み。大都市の集合体で王権が弱かった。ぶっちゃけノーチャンス。 魏:各地の都市の独立性が高かった。韓よりマシだが立地がキツい。最初期は強かったが…。 趙:長平の戦い痛すぎ。小帝国くらいには成長して、秦相手に粘ったけど地力でどうしようもないほど差がついてしまった。 斉:一族重視し過ぎて人材枯渇。その一族も半独立勢力化。建て直そうとしたが時すでに遅し。東帝からのマッハの凋落。 燕:辺境なので国家体制の確立が遅れ、王権が限定的だった。斉が獲れてれば…。 楚:大事な所での外交のしくじりが後々まで響いた。貴族勢力が強すぎた。国が無くなってからリベンジ成功。 各々字面は違えど、国のリソースを集中させられなかったのが敗因のところが多いよね。結局「厳格な中央集権制」が戦国の世では強いんだろうな。
@zinruinoseigi
@zinruinoseigi 10 ай бұрын
ころころ名前が変わる咸陽と中山編も期待してるぞ
@user-pf7qx8cy9d
@user-pf7qx8cy9d 10 ай бұрын
越と呉も紹介して欲しいです。
@user-bo2ci1bf3f
@user-bo2ci1bf3f 10 ай бұрын
楚が中央集権が発達しなかった理由は、やっぱり気候風土と主要作物の違いかな? 北の麦作地たいと違って、長江周辺は稲作地帯。麦作は少ない人数でも可能だが、稲作はコマメな手入れが必要な代わりに、麦の数倍の収量が見込める だから「村意識」がしっかりしてないと稲作地帯は不作になる。そういう個々の地方毎の「村意識」の高さとそれにに起因する食糧生産性の多さが、封建領主の独立性の維持に繋がったのかな
@tanakayuto148
@tanakayuto148 11 ай бұрын
長江流域って魏晋南北朝の時点でも土豪の力が強かったんだよな
@nakayama2001
@nakayama2001 10 ай бұрын
いつもありがとうございます。いつも楽しませてもらっています。 ただ。戦国時代の終了の説明は聞けば聞くほど不思議なのが、始皇帝の亡き後の秦の崩壊っぷり。 内部腐敗、外部勢力・勢いなどなどそれっぽい理由はいくつもあるけれど、結果がでていることなので理由をつければそれっぽく見える。けれど、秦が覇権をとった理由を考えるとそんなに短期間でその差が逆転するとはとても思えない。 ましてや、秦が統一した後なのだから周辺の軍事力、人材、経済力そのたもろもろは各国が存在していた時よりも劣っているはず。にもかかわらず、あっという間に滅ぼされてしまった。本当に不思議。 もし、機会があれば、他国よりも優れた国造りを行い、他国に勝利したことで経済的にも勝っていた秦がなぜ滅びたのか。なぜ他国が存在していた時には圧倒的な立場だった秦が始皇帝死後にはあのような状況になったのか。何が変わったのか。秦が変わったのか、周辺が変わったのか、これらを始皇帝生前と死後で比較して、その変化がどのように影響したか、をこれも数値化比較することで、どうして戦国の圧倒的な覇者が滅びたのか客観的にもあまり興味が無い人でも『なるほどね。それはそういう結末になるよね』と思えるような説明動画などできたらうれしいです
@user-cr8bn2pm8s
@user-cr8bn2pm8s 10 ай бұрын
中央集権体制は、国が小さいと有効な制度だが、イギリスやアメリカでも州の力が州軍持ち強いなど、国がでかい国は地方の権限あるなど国がでかければ、中央の対応出来ない災害など、指示が遅れる欠点ある制度ではあるから、秦は、厳しい法と中央からの指示なければ何も出来ない制度は、中国の広大な土地治めるには、あってなかったといえる。 ある程度地方自治を任せないと、中央から指示とばすのに数週間かかるシステムでは対応が致命的。
@seattleslew2332
@seattleslew2332 11 ай бұрын
要するに伍子胥は凄い
@murkymurk8305
@murkymurk8305 11 ай бұрын
親子で修羅の人生…
@user-kc6wn7yc9s
@user-kc6wn7yc9s 11 ай бұрын
主君に恵まれなさすぎて涙を禁じえない…
@user-qo8bp1hh9v
@user-qo8bp1hh9v 11 ай бұрын
中央集権化を図る前に領土が広くなりすぎたのが、改革を難しくしたのかもしれないなぁ
@murkymurk8305
@murkymurk8305 11 ай бұрын
ありがとうございます。霊夢沢かとオモタ。
@NobuhitoMiyagawa
@NobuhitoMiyagawa 11 ай бұрын
呉起の改革を継続していればどうなっていたのだろうか? 秦の統一ではなく秦と楚の2国状態だったのかもしれない。 妄想がはかどる。
@dunsany440
@dunsany440 11 ай бұрын
「戦国の動乱が秦楚の争覇に帰着したことを鑑みると、呉起があと十年、いや五年政策に携わりその改革を安定させていれば、天下一統を成すのは秦人ではなかったかもしれない」 郭沫若「十批判書」
@tevalleyluckman8746
@tevalleyluckman8746 11 ай бұрын
天下が二分された恐れがあります。 それが定着した場合、日本の対シナ外交は大幅な変化を遂げていたでしょうねえ。
@user-ux4jh7ic9z
@user-ux4jh7ic9z 11 ай бұрын
楚の中でも東方のはずれ出身で貴族封建政治に関与していなかった劉邦がのちに天下を取ることになって、封建と中央政府のバランスを取りつつ国家を作りなおしたのは興味深い。
@user-ep6gr3ns2z
@user-ep6gr3ns2z 10 ай бұрын
商工業の発展それに伴う最新の政治思想の先進地域な北と農業主体で旧来の仕来りを重んじる地域が多い南の対立。と書くと南北戦争時のアメリカみたいな。
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu 10 ай бұрын
これがオリエントなら、南の定住民と北の騎馬遊牧民の構図となりますね。
@user-Gifu_no_Zoukinya_san
@user-Gifu_no_Zoukinya_san 11 ай бұрын
長江領域の国家は後の三国志の時代の呉でも地方分権的な性格が強かったですね。 やはり、風土や産業の影響で、地方の力が強く中央集権体制が確立されづらかったんでしょう。 国家の求心力を高めるためだと思われますが、王族を重用していたようですし、その反動で伍子胥、呉起、屈原などの優秀な人材を活用できなかったんでしょう。 またそのような王族が力を持ったせいで、お家騒動もいろいろとあり、それがまた楚の力を削いでしまいましたね。
@tevalleyluckman8746
@tevalleyluckman8746 11 ай бұрын
水田や水路だらけみたいだから、人馬が行き来しやすい分、一気呵成に広大な地域を抑えやすい華北と異なって、地元を抑える有力者の力がどうしても大きくなりがちだったのだろうね。
@user-kc6wn7yc9s
@user-kc6wn7yc9s 11 ай бұрын
国土の割りに人口が少なく生産性も低かった事も痛手でしたね
@tevalleyluckman8746
@tevalleyluckman8746 11 ай бұрын
@@user-kc6wn7yc9s 当時の華南はカンボジアみたいに広範な地域がジャングルでおおわれていたみたいだね。 開拓と人口増加に力を入れまくっていたらどれほどの強国になっただろうか・・・ でもそのために必要な国家動員体制強化の為にも、呉起の改革を受け入れるべきだっただろうね。
@bingosaru
@bingosaru 11 ай бұрын
楚…来ましたね。 学生時「秦が天下統一できた要素の1つに“西方からの文化吸収”がある」と教えられましたが…その要素は微妙ですね(汗 結局、初期は弱小国家だった秦は周辺異民族に対抗するため君主を中心に結束する必要があったのに対し、春秋時代から広大で豊かな領域を持つ楚は君主領もそれなりにあるつつ、封建貴族領も多数存在…劉邦即位時点の「漢」の様な感じだったのだな…と思いました。 また、時代が下った三国「孫呉」も温存された在地領主が、孫氏を領袖として皇帝に奉りあげた関係で対外遠征に消極的だった点にも通じるのではないか?と。
@kawasakitaro1042
@kawasakitaro1042 10 ай бұрын
あまり気にしていませんでしたが、確かに秦を滅ぼした劉邦や項羽は楚人ですね。秦の滅亡後は、劉邦の築いた漢王朝が天下を取るわけですし、秦と楚の戦いは最終的には楚が制したと言っても過言ではない。
@user-gt6sz1gf5d
@user-gt6sz1gf5d 11 ай бұрын
秦と違い郡県制を敷いて、全ての土地を官吏に統治させるのではなく諸侯の独立を維持させていたことから、呉楚七国の乱以前の前漢の郡国制と同じような統治状態だったのだな。強大な国力を持とうとも、やはり根こそぎ動員ができる秦の軍事力には勝てなかったか…
@heiho_ita
@heiho_ita 11 ай бұрын
秀吉と似てますね。大名の力を削ぐために長生きできなかったのだが🤔
@tevalleyluckman8746
@tevalleyluckman8746 11 ай бұрын
挙国一致体制を敷ける国の強さは、表面的な様相から想像できないものとなる事が分かります。 日露戦争時代の日本がそうだったように・・・
@nan2246
@nan2246 11 ай бұрын
楚の領土は広大といっても荊州南部や江南が実際に開発されだしたのは三國志の時代 楚の首都が江北の寿春な時点で荊州や交州は秦楚両国にとって経済的な価値はなかったと思われる
@user-jy2lc7cf3x
@user-jy2lc7cf3x 11 ай бұрын
国は滅ぼされても、楚人の心は屈服されなかったってことですね。 「心を責めるべき」って言った馬謖が如何に優れていたか分かる。 プライド高いエリートは賢いくせに自分の事となると周りが見えない…諸葛格もそうよ。
@user-kf9hy5fr9s
@user-kf9hy5fr9s 11 ай бұрын
項羽の西楚。東にあるのに西楚とはこれいかに。
@まんまるあやちゃん
@まんまるあやちゃん 10 ай бұрын
横浜市の東にあるのに西区と云うが如し。
@yuka-youtube
@yuka-youtube 10 ай бұрын
統一すると強く、分割すると弱いかは、割とケースバイケースな気がする。アメリカの連邦国家みたいに、分割統治(州)が良い場合もあるから国土によるのかなあ。広いと直接統治は名ばかりでほぼ不可能な気がします。
@まんまるあやちゃん
@まんまるあやちゃん 10 ай бұрын
ん〜、最後は運と天命って言いたくなるわ。
@user-kr9zt1hz6m
@user-kr9zt1hz6m 10 ай бұрын
確かに百万の予備役がいても、ちゃんと動員し装備を整え組織して訓練しないと兵力百万とは言えないので、中央集権化と、軍制改革で鍛え上げられた秦には及ばなかったということか、覇王項羽の封建的な統治体制は、時計の針を巻き戻す現実にそぐわないもの的な評価だが、封建制への回帰を求める勢力を集約して、秦を倒したことを考えると、項羽の封建もあながち間違いではなかったのかも。あと、春申君の晩節は有力な封君の弊害をよく表しているな
@user-nn6ep3tv6s
@user-nn6ep3tv6s 10 ай бұрын
キングダムの楚攻略が楽しみ
@bumprin
@bumprin 10 ай бұрын
信のやらかしが見れるんですね…
@wonba10
@wonba10 7 ай бұрын
@@bumprin20万で出来らァ‼︎
@coldexp7189
@coldexp7189 11 ай бұрын
達人伝、最終巻出ましたね……
@user-ly6wt9xm1c
@user-ly6wt9xm1c 11 ай бұрын
秦と六国の運命を大きく分けたのは、中央集権制度の構築の速さだったと鳥人間さんの動画を観て感じた。 独立性の高い都市や領地を有する臣下の力をいかに弱体化し、王権を強くできるか。それを早く実現できたのが秦だったのだろう。 楚の体制を例えるならば、江戸幕府の幕藩体制に近いかな。 幕府天領と大名の藩が併立している状態としてだけど。 ただ、政治体制としては楚が有力な邦君が政治を主導するものだったのに対して江戸幕府では旗本や石高の低い譜代大名が政治を主導していた。 親藩や外様は大きな藩を維持できたが、中央政権には食い込めなかった。 石高も天領と親藩、譜代の組合せと外様を比べると幕府方の方が優勢だった。 結果として幕府の方が藩よりも力を持てたわけで、中央集権は楚よりも進んでいたと言えよう。
@user-ti5sz8tn4j
@user-ti5sz8tn4j 10 ай бұрын
楚楚ソクラテスかプラトンか~🎵
@sariel1166
@sariel1166 10 ай бұрын
キングダムの時代以前にボコボコにされて領土が半分になっていた楚さんちーす♪
@tadashisakaurai-hr7zy
@tadashisakaurai-hr7zy 10 ай бұрын
楚はその後、劉邦、項羽の出身地として漢代を構成する主要な勢力になるので、ある意味、秦より楚の方が長く続いたともいえるけどな
@user-pz3yr8pc1w
@user-pz3yr8pc1w 10 ай бұрын
漢王朝を築いた劉邦も楚人だしある意味漢(楚)王朝とも言えるわな
@user-wc4jd3ry8x
@user-wc4jd3ry8x 11 ай бұрын
ルーミア:楚ーなのかー
@shiki2483
@shiki2483 10 ай бұрын
昭和維新の歌の冒頭に出てくるべきらはこの事。
@user-ts1kp3tb5o
@user-ts1kp3tb5o 11 ай бұрын
楚の行っていた郡県制と封君制の並立の発展系が、前漢の行った郡国制になるのかな?
@coldexp7189
@coldexp7189 11 ай бұрын
秦の郡県制を改変した物というよりは、祖国である楚の制度に則った感じ?〈郡国制 後に諸王による反乱があったから、やがてより郡県制に近くなったとか?
@user-ts1kp3tb5o
@user-ts1kp3tb5o 11 ай бұрын
@@coldexp7189 ただ、郡国制その物は前漢でも完全には無くならかったみたいで、光武帝劉秀の義父は皇族で、新の時代でも4郡領有をしていたみたいです。
@ikojiku
@ikojiku 11 ай бұрын
楚が中央集権制を完成していたら、この動画もコメント欄も、日本文化そのものが違うものになっていたかもしれないと考えると、何気に歴史は繋がってるんだなぁ
@tonbitonbi946
@tonbitonbi946 11 ай бұрын
戦国七雄の国で、後になって「楚」を名乗った王朝はあまりなかった記憶があります。 これだけ強国で有能な統治者を輩出した国なのに不思議です。 「韓」もないのですが、これはなんとなく分かる気がします。
@fox37812
@fox37812 11 ай бұрын
五代十国の楚と金の傀儡王朝ぐらいか
@tonbitonbi946
@tonbitonbi946 11 ай бұрын
@@fox37812 さん 私もその2つのみ確認できました。 隋末→唐にかけての混乱期に「楚」と名乗っている人が複数いるみたいです。
@kazuoka1143
@kazuoka1143 10 ай бұрын
この後、楚を名乗る国がほとんど現れなかったのは、項羽のイメージが良くも悪くも強すぎたからなのでは?
@tonbitonbi946
@tonbitonbi946 10 ай бұрын
@@kazuoka1143 さん 確かにそうかもしれません。 「楚漢戦争=項羽と劉邦」「項羽=悪い例、劉邦=良い例」というイメージが 今でも続いている感じですからね。
@shou-sho
@shou-sho 11 ай бұрын
旧楚が秦を滅ぼせたのは、項羽と劉邦の元に一致団結したからですね
@renngekisouhei8303
@renngekisouhei8303 11 ай бұрын
まってた
@nch9153
@nch9153 10 ай бұрын
晏嬰 「私は斉で最も愚か者ゆえ、この国(楚)に遣わされたのです」
@user-ww2yz6mo9h
@user-ww2yz6mo9h 11 ай бұрын
漢代の呉楚七国の乱も地域の文化的影響を受けて、アンチ中央集権的な気風の影響があったとしたら面白いな
@user-fo3yr6ql7w
@user-fo3yr6ql7w 11 ай бұрын
楚人(というか湖南湖北地方だけど)は激情家·エキセントリックな人を多く排出する地と評したが、成る程、項羽はそんな感じだと思う。のだが、どーしても劉邦は楚人とは思えないんだよなぁ。 後に併吞された地だし、人柄も「湖北人とは喧嘩をするな」(カッとなって〇してしまう事が多いらしい)と言われる程の激情家ともいえないし。
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu 10 ай бұрын
古代ギリシャで言うなら古代マケドニア人みたいですね(同じギリシャ人にも関わらず異民族扱い)
@Q-Finch
@Q-Finch 10 ай бұрын
楚を含む華南は、今でも言葉は違うし自主独立の気風がありますね。
@user-gp4uy4ng7l
@user-gp4uy4ng7l 11 ай бұрын
懐王が「界王拳」を使えていたら、ワンチャンあったかもしれない。
@Tnohito
@Tnohito 11 ай бұрын
散らばるより中央集権が強いと。 別の人の清朝末期の動画だと2000年以上後に首を絞める原因にはなってはしまったそうですが当時としてはこれが一番という事で。
@user-dv1zu9mg4y
@user-dv1zu9mg4y 10 ай бұрын
本当に兵力100万なんていたのかなあ 領地は広かったけど 当時の南方や荊州ってまだ未開の地も多かったでしょう
@user-yc6fc7cl4y
@user-yc6fc7cl4y 18 күн бұрын
魏晋南北朝時代まで、地元豪族が私兵集団を率いて半ば独立勢力として存在し続けた地だからな…中央集権化の難しい風土
@towbbb9160
@towbbb9160 11 ай бұрын
劉邦の郡国制のルーツは故郷の楚だったのかな
@user-yf4nu5kv8q
@user-yf4nu5kv8q 10 ай бұрын
劉邦の故郷である沛は元々は宋の地方都市なんですよね。 それが斉によって滅ぼされ、呉や魏や楚の進出により各地の支配下に組み込まれた経緯があります。 だから劉邦にとって、自分が楚人だという意識は少なかったんじゃないでしょうか。 楚を復活させたいという愛国心より、効率よく支配できる体制を作りたい意識の方が強かったのではないかと。 劉邦自身は、項羽らの「楚の復興を!」という掛け声にはウンザリしてたんじゃないですかね。 そのくせ楚の懐王は蔑ろにし、ついには謀殺したんですから矛盾極まりない話です、結局は自分が主導権を握りたいだけだったんじゃないかと。 劉邦が楚の復興ではなく漢の創設を選んだのは、 そういう愛国心の激情から距離を取っていた冷めた目の賜物だったのかもしれません。
@user-wb3qi2ew6l
@user-wb3qi2ew6l 11 ай бұрын
16:53 これだな、楚が秦に勝てなかったのは。国体の違い
@akihikomaeda7080
@akihikomaeda7080 10 ай бұрын
お疲れ様です。今回も素晴らしい動画をありがとうございました。「楚」をはじめとした六国の移りかわり…… というか政体は古代においては普通ではないかと私は思います。むしろ、中央集権化に成功した「秦」があまりにも異質なのではないでしょうか。
@user-et9ml1zk7m
@user-et9ml1zk7m 10 ай бұрын
楚雖三戶,亡秦必楚
@user-dr6fy8fi9p
@user-dr6fy8fi9p 8 ай бұрын
結局、暖かい江南では、過酷な河北を支配したいなんて思わないのが、一番の理由 江南の王朝で中華統一したのは、モンゴル帝国を追い出した明だけなのが、全てを物語る
@user-dk4nh6yr6y
@user-dk4nh6yr6y 11 ай бұрын
楚の元々のルーツは長江文明らしく、秦を含めた中原諸国がルーツとする黄河文明とは文化が根本的に違う所があったみたいです。秦に奪われた旧楚領の住民が秦の法治制度に馴染めなかったのも、「長江文明」の文化と「黄河文明」の文化が互いに影響を与えつつも対立している部分もあったかもしれないですね。もちろん、楚も黄河文明系の文化を積極的に取り込んでいたのでしょうが、どこか自分たちは他の中原諸国とは違うんだぞとある種のプライドみたいなものを持っていて、長江文明系の楚の文化を頑なに守ろうとしてしていたのではないでしょうか。 また、郡県制と封君制の併用は戦国時代には(封君たちが自身の力を消耗するのを嫌がってしまったため)国力を十分に発揮できず、滅ぼされてしまったものの、逆に秦末期まである程度力を温存できた面もあるのではないかと思います。楚人たちに深く刻まれた反秦感情もあったでしょうが、楚の人々があっという間に大規模な軍団を作れたのも、封君たちが残した「遺産」でけっこう兵士や武器を他の六国と比べて集めやすかったんじゃないかと思います。
@user-fi5xb5vm5u
@user-fi5xb5vm5u 5 ай бұрын
苗族の国だがあのへんは共産主義の現代でも隣谷は別部族だったりする 地図的に領土は広いがどれだけ族長を地方官扱いして年貢を取り立てたり徴兵できたか?
@user-ys2hj8qo5f
@user-ys2hj8qo5f 9 ай бұрын
漢の時代に呉の銅銭が悶着起こしたけど春秋時代にすでに開発されてたんだな。 秦に長考の上流を抑えられたのが致命的だったな。 中国ってずっと南方の方がずっと経済力に優れるのにそれが軍事力に結び付かず北方の支配を受ける不思議な歴史がある。
@user-ys2hj8qo5f
@user-ys2hj8qo5f 9 ай бұрын
紀南城はたぶん江陵と思うのだが、現在の都市の下に遺跡が埋もれてるのかな?
@user-qs7ws8lh7u
@user-qs7ws8lh7u 11 ай бұрын
( ・ε・)でも楚も時間がたつと中央集権受け入れちゃうんだよな 必要だったのは時間だった
@user-qx4hc5tr2g
@user-qx4hc5tr2g 11 ай бұрын
でも結局劉邦も項羽も楚の人なんですよねぇ 最後に勝ったのは楚だったわけだ
@user-uc4qs3ox9m
@user-uc4qs3ox9m 11 ай бұрын
キングダムで楚軍が秦を山猿と煽るシーンがありましたけど、楚軍が攻めてる地域って楚の旧領なんですね。
@katuaki921
@katuaki921 11 ай бұрын
楚は何時でも天下統一出来る実力あったのに なんかその都度春秋時代は斉や普や呉に邪魔され戦国時代は三普や秦にボコボコにされたりだったのが😭 成王や荘王の時にチャンスの逃したのが本当に惜しいですよね😅
@tyourea
@tyourea 10 ай бұрын
楚は、中央集権が出来ないが故に秦に支配されても従わないのか。原住民頑固説を提唱しますね。
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu 10 ай бұрын
他の地域でもよくありますね(トラキアなど)。
@user-fs1lk2ls2b
@user-fs1lk2ls2b 10 ай бұрын
古い国で何回か滅びかけたのにしぶとく生き残っていたのが、かえって古い体制のまま残ってしまった感じはしますがね。
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