Europa les tenía mucha envidia y no los reconocía como continuidad del Imperio Romano, los llamaban griegos. Bizantino, ese nombre le dieron los historiadores europeos en el s XIX, casi 400 años despues de ser extinguido. Bizantino, significa algo que no termina de definirse, algo que es y a la vez no es. Es que ese Imperio, para los Europeos si bien era continuación del Imperio Romano, a la vez no lo era porque tenían fuertes costumbres orientales adquiridas por el paso de los siglos, lo cual lo hacia totalmente diferentes a los romanos clásicos. Pero, su identidad como romanos nunca se perdió, y para los reinos orientales siempre fueron romanos.
色々な意味で記憶が想起、再構成される以前に。似たような話題でコメントできるのがありがたいですね^^ 三銃士のネーミングだと三銃士は貴族の変名がアトス、ポルトス、アラミスだったので。ラテン語とギリシア語の違いはなんとなくわかりますねアトスがフ・ェール伯爵、ポルトスがデュ・ヴァロン、アラミスがデルブレ―神父だったのでフランス貴族にギリシア、ローマの古名だったので当時の貴族階級はラテン語やギリシア語が必須だったことは分かりますね。現代のプチ・二コラや、トム・ソーヤの冒険などではラテン語の綴り200回とか罰がよく出てきましたが。現代の古典教育はラテン語に移りギリシア語は衰退してるのかもしれませんね。 ああ、そうだ。キリスト教も偶像は欲しかったようで、聖人の像はたくさんつくってるようですね。聖フランチェスコとか、聖母マリアとか、キリストもですが。この辺の庶民感覚は、塩野さんがエッセイか何かで書いてたと思いますが。ローマ人の物語でも、アウグストスやカエサルにあやかりたいという意識でジェニウインという精霊のような。概念を書いてましたかね。アウグストスの巻で。カール大帝だかピピンだかの近辺はトールポワティエでイスラム勢力を止めたので。やはりローマの後継国家という扱いになったのかもしれませんね。 以前、塩野さんの十字軍物語を読んでラテン帝国の建国と。それ以前の著書であるコンスタンティノープルの陥落を比較を見てみようとしたことがあるんですが、まあ中身に没頭して投げ出したんですが。ユスティニアヌスとナルセスが出てきたので田中芳樹さんのアルスラーン戦記に出てきたナルサスのモデルかなあと思っった覚えがあるんですが(宦官のようだったので)。後は光栄の蒼き狼と白き女鹿に出てきたアレクシオスぐらいか知りませんでしたねえ。 アンティオキアの事は少しは知識があったので、アサド政権の亡命でシリアの件ではキリスト教勢力がどうとかいう話はピンときたんですが。亡命先がロシアというのもまあ、皮肉といえば皮肉なんでしょうが。塩野さんはルネッサンスのダヴィンチから、田中さんはモンゴルの征西あたりから入ったようですが。イスラム教のせいか東ローマ帝国は影が薄いかもしれませんね。考えてみると、オスマン帝国もウマイヤ朝も東ローマ帝国と似たような版図に至ったたので。前帝国を見直す機会になって全般的に良いと思いますね。 どこかで以下を拝見したので、気候変動や疫病の観点から、日本史も世界史も見直すほうがいいかもしれませんね。ローマ以後の地中海世界にもあまり出てこなかったので。以下、補記しておきましょう。ロシア帝国や神聖ローマ帝国、大英帝国も、アメリカ合衆国ももローマの後継国家と名乗る理由も分かるような気がしますね。しかし、イタリアからその後に出た帝国というのはないのでイタリア人の家系から出たフランスのナポレオンも似たようなことを考えたのかもれませんね。まあ、イスタンブールよりコンスタンティノープルやエデルネよりアドリアノープルの方が詩的な印象を受けるのでいいかな?と言う気はしますがね。 ・人類史上「最悪の年」だといわれる西暦536年には何が起こったのか? by tazzanderson 人類の歴史の中で「生きる時代として最悪の年」としては、ヨーロッパ人口の3分の1~3分の2が死亡したとされる黒死病が大流行した1347年、ホロコーストのあった1941年~1945年の間、そしてインフルエンザが大流行し1億人の死者を出した1918年などが候補として考えられます。しかし、ハーバード大学の研究者は、多くの人が考え至らなかったであろう「西暦536年」を「最悪の年」として挙げています。536年に何が起こったのかが、最新の研究で詳しく示されました。 Alpine ice-core evidence for the transformation of the European monetary system, AD 640-670 | Antiquity | Cambridge Core www.cambridge.org/core/journals/antiquity/article/alpine-icecore-evidence-for-the-transformation-of-the-european-monetary-system-ad-640670/0727B4230C5DA92634B6251B9FBD3898 Why 536 was ‘the worst year to be alive’ | Science | AAAS www.sciencemag.org/news/2018/11/why-536-was-worst-year-be-alive Scientists Have Determined The Worst Year to Be Alive in Human History www.sciencealert.com/scientists-have-determined-the-worst-year-in-human-history ハーバード大学の考古学者であるマイケル・マコーミック博士は536年について「生きるのに最悪の年ではなくとも、最悪の期間の始まりだった」と述べています。 西暦536年は東ローマ帝国でユスティニアヌス1世が統治して約10年ほどたった頃。多少の小競り合いはあったものの、伝染病が広まっていたわけでも、大虐殺があったわけでもありません。 by Fancycrave.com しかし、謎の霧が空を覆い太陽の光を遮断し、地球上の温度が急降下したことから、536年以降は何年も世界中で干ばつ、不作、食糧危機といったカオスが続きました。夏でも気温は1.5~2.5度ほどしかなく、中国では雪が降ったとされています。歴史家のプロコピオスは「多くの恐怖の前兆が、今年1年の間で起こりました。太陽はまるで月のように年中明るさのない光を発し、日食のようでした」と記しています。 南極の氷床コアやグリーンランドの樹木の年輪、そしてその後の火山活動といった証拠から、536年には大規模な火山噴火があったことが示されているとのこと。これらによって短期間のうちに世界中の気温が低下し、飢餓がまん延したのです。 恒久的な氷堆積物が徐々に積み上がる氷床コアは、考古学的な研究の重要なリソースです。目的の年代の氷床コアを見ると、その年代の大気に何が起こったのかを見ることが可能になります。 by National Climatic Data Center (NCDC) 西暦536年の氷床コアにはテフラと呼ばれる火山灰や破片の堆積物が含まれており、火山活動があったことが示されているとのこと。また、グリーンランドと南極の氷床コアは540年に2度目の火山噴火があったことを示しており、これが世界的な混乱を長引かせました。さらに541年にはペストが大流行し、状況はさらに悪化したといいます。 しかし、研究チームはスイスとイタリアの国境付近にある氷床コアを詳細に分析した結果から、640年の氷床コアに鉛が混じっていたことを発見。鉛による環境汚染自体はよいこととは言えませんが、これは人類が採掘や、鉛鉱から銀の精錬を始めたことを意味します。その後、660年、695年には人類が銀貨を鋳造したことも示されています。研究者によると、金属を再利用するのではなく新たな採鉱が行われたということは、経済の回復を示しているとのこと。ただし、この時点で火山が噴火してから100年以上が経過しています。 なお、1349年から1353年の間も大気中から鉛が消えており、経済が悪化したことが示されていたとのこと。この期間は黒死病が大流行した時期であることから、氷床コアに含まれる火山灰に加えて鉛を調べることで、歴史的なイベントを調べることができると研究者は発表しています。