【ゆっくり解説】 楚・呉・越 長江流域に勃興した諸国家の興亡 南から見た中国史②【春秋 戦国】

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鳥人間 中国史三昧

鳥人間 中国史三昧

Жыл бұрын

春秋戦国時代の南方の国家 楚・呉・越の隆盛とその諸国の特異な文化について語ります。
チャンネルメンバーシップ、はじめました。
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Пікірлер: 127
@treasure9262
@treasure9262 Жыл бұрын
やはり南方はロマン回です。陳勝呉広も項羽も劉邦も皆楚人。秦末漢初は、楚人同士の争いとも捉えられますね。
@user-fh4wh7gx7s
@user-fh4wh7gx7s Жыл бұрын
越王勾践剣カッコ良すぎる
@katuaki921
@katuaki921 Жыл бұрын
呉や楚の強さは冶金技術も非常に優れていたからなんだよなあ 当時の剣がまだ残っているのがまた凄いとしか言いようが無いですね
@user-ks5yd3jy1n
@user-ks5yd3jy1n Жыл бұрын
今回も動画を閲覧した者です。  今回は【長江流域における強国【主に楚】】ですね。  長江流域の強国が、いかに強国となって中国の歴史に食い込んでいったのか。  今回は、この流れが分かり勉強になりました。  古今の世界史と同様に、強国になるには資源が重要なんですね。  また面白いところは、始皇帝による天下統一後も楚の地域は独自の文化と思想を持ち、それが後に発生する項羽と劉邦らを生み出す土壌であったことですね。  楚の地が独自の文化と思想を持つに至ったのは、やはり長江流域の強国の誇りにあったのかもしれませんね  ゴールデンウィーク真っ只中ですが、投稿者さんにおかれましては、あまり無理はせずに、健康とメンタルに気をつけ、ゴールデンウィークを楽しみつつ、動画を作成していただければ、幸いです。  話が長くなりましたので、ここで筆を置きます。
@enchopicopico
@enchopicopico Жыл бұрын
江南の歴史解説ありがとうございます!さあ、宴と行こうではありませんか。会稽の宮殿にどうぞ。本日はチャーハンと餃子祭りでございます!肉や米、卵から小麦に至るまでの食材は全て一級品にございます。そしてシェフも一流!三人の一流シェフの中からお好みのシェフを一人お選びいただけます。南朝宋後廃帝、東昏公、張巡、三人が三人ともその道を究められたるシェフです。また、裏メニューは生のあん肝をこちらの固い薪に座って何杯食べられるかチャレンジするというものになっています。どうぞ、極上の味を堪能なされませ。
@user-kq2hj6wq3y
@user-kq2hj6wq3y Жыл бұрын
諸葛瑾「あぁ、夫差と勾践は互いに争うし、酔っ払った劉表が酔い潰れた人に針刺して、その背後からこれまた酔っ払った孫権が劉表を真っ二つにしようとしてる。ってか諌めようとした人が血塗れに。更に輪をかけてこれまた酔っ払った暴君孫皓が諌めようとしたり文句言った人を次々とぶった斬るし。」 陸抗「親父やめろ‼️」 陸遜「こんな宴会やってられるか💢‼️」バタッ。陸遜倒れる。 陸抗「親父~‼️」 諸葛瑾「かくなるうえはあの頑固ジジイに頼もう。」 頑固ジジイ(=張昭)「誰が頑固ジジイじゃ。この驢馬💢‼️」 驢馬(=諸葛瑾)「もうあなたしかこの惨劇を止められる人間はいません。どうかお助けを‼️」 張昭「よし、分かった。」 皆の前で張昭 「こんな宴会やってる意味などないわ💢‼️もうお開きだ‼️」 皆ハッとして帰って行く。 諸葛瑾「ほんと助かりました。」 張昭「何、こんなんじゃ南方の恥さらしよ‼️」 張昭も帰る。 諸葛瑾「やれやれ。」 諸葛恪「親父大変だね。」 諸葛瑾「うるさい💢‼️ハァ、こいついつか家潰すわ。」 その様子を眺めていた諸葛亮 「兄さん😓。」 お呼びでない🐕️(=諸葛誕)。 蜂蜜探して彷徨う🐒(=袁術)。
@user-br5ln8wu5w
@user-br5ln8wu5w Жыл бұрын
流石に衛の懿公と弘演の肝臓は見つからんかったかぁ…
@c-history
@c-history Жыл бұрын
ご支援いただき感謝感激ィ! まずは最高のシェフとは何かということを考えさせてください!一か月くらい!
@user-ly6wt9xm1c
@user-ly6wt9xm1c Жыл бұрын
呉越の習俗の解説を聞いてみると、初期は環太平洋文化圏の影響を大きく受けていたように思える。 時代が下るにつれ中原の文化などが採り入れられていった訳だが。 文身なんかは倭国でも行われていたし、古代日本の着物の襟を左前にする習俗に関しても、呉越地域から早くに流入したのかもしれない。 また、米の伝来も南方からではなかったかとの説があるが、呉越の地域は良渚文化のエリアでもあったし、土壌の作り方などの耕作のノウハウはあったわけで、交流があれば有力な説だと言えるだろう。 それこそ考古的記録の発見がされていないだけで、交流はなかったとは断言できない。 それこそ推測でしかないが、同時に投稿主の言うところのロマンでもあるのだろう。
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
越王勾践剣(湖北省江陵県望山1号墓より出土)と呉王夫差矛(湖北省江陵県馬山5号墓より出土),春秋時代の中国で最も傑出した冶金作品。この2つの武器だけで実は1本のビデオを書くことができます
@user-YJSP_810
@user-YJSP_810 Жыл бұрын
南方の越は入れ墨を入れる文化があったとか。史書にも倭という民がここらへんにいたとか。
@qoamb410
@qoamb410 Жыл бұрын
「いわゆる忠なる者は不忠にして、いわゆる賢なる者は不賢なり。其所謂忠者不忠、而所謂賢者不賢也。」(史記 屈原賈生列伝)なんて話しがありましたね。屈原、優秀な人物であったが、彼に反感を持つ人々が楚王に入れ知恵した結果、屈原の話しは楚王に聞き入られなかった。この事から為政者は、臣下や部下の話が真実や本当に国や民の為にな事かを見極める見識が大切なんだと言っているとされていますね。屈原の波乱の生涯から生まれた、現代でも通用する素晴らしい言葉の様な気がします。動画面白かったです。長文すみません。
@user-kf9hy5fr9s
@user-kf9hy5fr9s Жыл бұрын
巴蜀って国だったんですね。 勉強になります。ありがとうございます😊
@mukutinausagi
@mukutinausagi Жыл бұрын
やっぱり資源があるのは大きですね 特に古代ですと、遠方に運ぶの難しいですし
@user-sd7wl4zg4z
@user-sd7wl4zg4z Жыл бұрын
青銅器時代の中国南方はやたら冶金技術が高いんだよな。多分、北方よりも優れている。銅資源が多かったのもあるだろうけど、技術の発展を押し上げる要因が他にもありそう。
@ravilsan1987
@ravilsan1987 Жыл бұрын
山がちでお世辞にも人が住むのに適した地域ではないものの、米というチート級に生産効率が良い作物を育てていたがために中原諸国と渡り合えたというのも興味深い
@heiho_ita
@heiho_ita Жыл бұрын
運河が出来てから江南の重要性がわかる
@user-ep6gr3ns2z
@user-ep6gr3ns2z Жыл бұрын
後漢の時代に例えると予州徐州荊州揚州と益州の半分が楚の国だから広大だよな。
@user-dk4nh6yr6y
@user-dk4nh6yr6y Жыл бұрын
やっぱり、豊富な資源を自給できる国は強いんですね…。春秋戦国時代の楚や呉越といった南方の国々が強かったのも、南方の気候がもたらす豊富な食糧や各地に眠る鉄鋼資源等が多かったからでしょうね…。巴蜀は……あまり詳しくやりませんでしたが、やはり資料が少ないのでしょうか…。 そして、秦側の記録や出土史料から、楚は中原地域の文化を吸収しつつ、独自の文化を長い間守っていたんですね。まあ、人々に根付いた独自文化というものはそう簡単に変わらないでしょうね…。そして、最後に天下統一し、長期政権である漢王朝を築いた劉邦は中原に近い所とはいえ、楚の国出身なので、秦の制度等をけっこう踏襲した漢王朝にはけっこう楚独自の文化の名残も残っていそうですね…。 なお、呉越の文化は後の倭人の文化との共通点もあるので、呉越の子孫は日本列島に住み着いたのではという説がある。日本の稲作は長江流域から直接伝わったという話もあるので、けっこうありえるかも…。
@user-yakisoban
@user-yakisoban Жыл бұрын
やっぱ日本のルーツは中華南部のような気がするなぁ
@seattleslew2332
@seattleslew2332 Жыл бұрын
「臥薪嘗胆」が勾践単独のエピソードだったとは!
@user-jj9cy6ze5w
@user-jj9cy6ze5w Жыл бұрын
メソポタミアやインダスでは銅鉱山を持つ勢力はあまり自分では使わず、大国との交易で繁栄する印象があります。 江南の国々が自ら青銅器を作り、軍事的に発達していった流れは個人的には新鮮です。やはり産地と加工技術、両方揃ってこその発達か……
@bwjbb475
@bwjbb475 Жыл бұрын
こんばんは。出たな!次世代の新素材トリポーラス!鳥人間さんはまさかSONYの回し者?ww 江南特集第二弾ありがとうございます。いやあ~面白かったです。中原とは違う独特の文化が栄えていたというのは興味をそそられますねえ。 それでも中央と戦うために中原の文化も受け入れている。そこら辺はより面白い。そして何より秦打倒は楚から始まったという所。そういやあ確かにそうだなと。感心してしまった。
@user-wi6pu3lb9i
@user-wi6pu3lb9i Жыл бұрын
良く知らなかった楚の統治機構をよく理解できた。なるほど中原や秦とは違うわ。風土的には力を持った部族が集まったようなイメージなのに、緩やかな王権がそれらをふんわりと統治してた感じかな。中原から距離を置いているところで、なんとなく京畿に対する鎌倉幕府を思い浮かべた。
@user-kr9zt1hz6m
@user-kr9zt1hz6m Жыл бұрын
楚・呉・越となんとも濃ゆい顔ぶれの濃厚な動画でした。戦国七雄の(ただし七人とは言っていない)に、有力な南方諸国家を、形だけ中原に組み入れようとするたくらみだったとは、正直こすい。しかし、富国あっての強兵なんですね、内政は大事
@tostom3701
@tostom3701 Жыл бұрын
時代史や人物史では物足りなくなると地域史(地方史)が気になり出しますのでこういう解説は実にありがたいです 特にやたらめったら軍事難民被害に遭ってる四川省(蜀の地)の話に今後も期待申し候 まあ自分の住んでる地域(郷土史)に詳しいかと言われるとこりゃまた灯台元暗しなので、あくまで気が向いたらでお願いいたします
@user-YJSP_810
@user-YJSP_810 Жыл бұрын
そして地域史も見た私は官制史を知りたくなってしまった。
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
"湖廣填四川",湖南省、湖北省、広東省の人口を戦乱飢饉で人口が激減した四川盆地内に移す
@user-vd1jw9nf8u
@user-vd1jw9nf8u Жыл бұрын
屈原と聞くとちまき食べたい端午の節句^ ^
@user-sd3hm8lj5f
@user-sd3hm8lj5f Жыл бұрын
やはり楚は国土が広大だから産出される天然資源が豊富で温暖な気候のおかげで農業盛んだし富国強兵を図るには絶好な地域といえる。しかも中原の文化を取り入れつつ完全に同化せずに独自の道を行くという方向性も奏功した結果、戦国時代後期には秦と並んで超大国になった。しかし春秋時代に50ヶ国以上も周辺諸国を滅ぼしたとは…😲 だから領土が当時として最大級になったんだね✨
@kan_igo
@kan_igo Жыл бұрын
独自の文化を守り抜いた楚だからこそ、秦を破る人材を生み出せたのだろうか。
@まんまるあやちゃん
@まんまるあやちゃん Жыл бұрын
長江の流れに乗せて一篇の長歌を吟じている様な後味の動画でした。
@Legendary_mapo_tofu
@Legendary_mapo_tofu Жыл бұрын
こんな昔から、剣や美術品の出来が良い
@shibushibu6265
@shibushibu6265 Жыл бұрын
この地域はまだまだ新しい史跡が出土する可能性大なのですね。すごいロマン…🤔絵画、もっと古いの出てこないかなぁ。
@user-Gifu_no_Zoukinya_san
@user-Gifu_no_Zoukinya_san Жыл бұрын
楚は春秋戦国時代は、中華の範囲に属していない外国に近い感覚だったんでしょうね。 まだ周の権威が残っていて、諸侯も遠慮して王を名乗っていなかったときから、王号を名乗っていたといいますし。 そういうこともあって「外国人」登用にも及び腰で、秦のような構造改革(ペレストロイカ)にも後れをとり、結局、秦との総力戦(トータルウォー)にも敗れることになったんでしょう。 楚が決定的に中華の一部となったのは、楚人である劉邦が天下を取り漢を建国したのち、なのかもしれませんね。
@hirosat5269
@hirosat5269 Жыл бұрын
8:17 2500年前から髪がセンターパートにツーブロックとかほぼ現在じゃねーか。
@cdwalfredo
@cdwalfredo Жыл бұрын
フハハハハ怖かろう! しかも手足を使わなくても諸国を動かす事が出来る!
@user-rs5fe8og7g
@user-rs5fe8og7g Жыл бұрын
越王勾践剣が美しすぎる
@user-el7ve2eq3n
@user-el7ve2eq3n Жыл бұрын
呉の遺民は渡来人としての日本人のルーツの一つとも言われてるよな
@dekamega999
@dekamega999 Жыл бұрын
呉越では全身刺青の文化があったんですね 地理的にも日本に近いし、日本の海洋民(全身刺青の文化があった)とつながりがあったのかなぁ
@user-dc1nv4nu9r
@user-dc1nv4nu9r Жыл бұрын
魏志倭人伝に倭人には刺青の文化があるって書かれてるんですが、どうやらこれは日本が呉の文化圏の一部だと見做されていたからこのような記述がなされたようです
@takashi-aoki
@takashi-aoki Жыл бұрын
8:20 服の左前、文身、いずれも邪馬台国の人々との共通点が指摘されている。
@fusako9452
@fusako9452 Жыл бұрын
待ってました~😊
@potecabocha
@potecabocha Жыл бұрын
沖縄女性のハジチ(針突)と言う手の甲に入れ墨をする風習やアイヌ民族の女性が体に入れ墨をする風習と関連はあるのでしょうか。 中南米は16世紀まで青銅器文化が続いて「テムル=鉄男」鉄も火薬も羅針盤も知らなかったと言われていますが、青銅器の美は格別ですね。
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
沖縄は関係ありそうですけど、アイヌは無関係ですね。DNAから見るに、南方民族との接点がありません。文化が並行進化することは普通にあり得ます。
@user-ch6rg1bt3v
@user-ch6rg1bt3v Жыл бұрын
凄いな山⛰️が抉れてる😊
@hideshitaniyama8432
@hideshitaniyama8432 Жыл бұрын
春秋時代と戦国時代には、「国を滅ぼしてしまうか否か」という違いがあります。 呉王夫差が伍子胥の勧めに従わず越を滅ぼさなかったのは、春秋の気分が残っていたのも一因でしょうか。
@user-yg7ww2hk9o
@user-yg7ww2hk9o Жыл бұрын
魏志倭人伝では倭国の使者の難升米と都市牛利が「我々は呉の太伯の子孫だと聞いている」と述べていましたが実際現在の江蘇省や浙江省の人達と元は同じ人種だったのかなぁといつも思います 実際黥面分身の文化は倭国の埴輪にも見られるみたいですし
@user-vd1jw9nf8u
@user-vd1jw9nf8u Жыл бұрын
今に残る日本の伝統文化との共通点が多く指摘されてますね。個人的には日本は姫氏の国という説が好きです^ ^
@kyokutousega
@kyokutousega Жыл бұрын
でも、何で古墳には書籍が無いんですかね…
@user-gm9hb3gq5o
@user-gm9hb3gq5o Жыл бұрын
ただ中国は周辺国の由来は匈奴ですら中国って言うからなぁ、なんなら豊臣秀吉も福建人とか言われてたらしいし...
@user-ie9jn5cr8s
@user-ie9jn5cr8s Жыл бұрын
日本は縄文時代が、がっつりと存在感はなってるから、チャイナと一緒にはできないと思うなあ。
@queirrelel
@queirrelel Жыл бұрын
チャイナは大鍋が必要だから壺なんて必要としないだけだろ
@user-np2qk4mu1p
@user-np2qk4mu1p Жыл бұрын
面白かった❣️ 中原と長江流域は、文化は違ったのでしょうけど、どうにかこうにか、一体になっていけたんですね。 西洋史なら、宗教を巡って殺伐とした歴史がある訳ですが、そう言えば、中国史には宗教問題はあまりないような💦 仏教をどう取り込むかを巡って、主に南北朝の時期にあれやこれやがあったくらいかなぁ。 それは、中国も仏教も多神教であったことが幸いしたんですかね。 色々解説ありがとうございます🙇‍♂️
@user-ke1xz7lw3m
@user-ke1xz7lw3m Жыл бұрын
楚・呉・越は、もともと長江文明から発祥した国だから 中原の国々とは別の文化や民族だったのだろう 戦国時代は長江文明と黄河文明という二つの文明の衝突でもあったわけだ 項羽は秦の都だった咸陽が地の利もあり都に相応しいとの幕僚の意見を無視して、楚の彭城を都とした それは故郷に錦を飾りたいとの項羽の意思だったから、道理を知らないと嘆かれたとの話もあるが しかし楚と秦が別々の文明だったと考えれば、別の見方も出来るな 項羽にとっては、秦の領土はあくまで海外領土であり、イギリスが植民地を世界中に広げても首都がロンドンだったように 本当の意味で、項羽にとっては自分の領土とは感じられなかったから、咸陽を都にする気にはなれなかったのではないか そう考える事も出来るね
@user-kq2hj6wq3y
@user-kq2hj6wq3y Жыл бұрын
逆に元々は楚人ではない劉邦は咸陽が地の利もあり都に相応しいとの幕僚の意見を採り入れたものの色々事情があって渭水の南側の長安に都を構えた。その事情として考えられるのが咸陽が渭水の北側で北方から匈奴が攻めてきた場合、川を背にして戦わなければならず退路がないに等しい状況にあったからでは?始皇帝ですら都を咸陽としながら宮殿を渭水の南側に建設した(阿房宮)のは咸陽の弱点をよく知っていたからでは。
@user-et6vx6gz4b
@user-et6vx6gz4b Жыл бұрын
8:15の被髪が現代的すぎて驚愕!!
@user-fb3oq9jq3d
@user-fb3oq9jq3d Жыл бұрын
長江流域、春秋のころは農耕物流物産にめぐまれ覇者も登場したが、戦国漢代に気候変動があったか、中原の耕地が激増したかで片田舎に転落。 ということでしょうか? 漢末魏晋南北朝期のジェノサイドにより、天秤は再び江南にかたむいたか。
@user-wb4gn6ys7x
@user-wb4gn6ys7x Жыл бұрын
ありがとうございます!
@c-history
@c-history Жыл бұрын
いつもご支援いただき、恐悦至極に存じますッ!! ありがたや……ありがたや……!!
@user-kx2gy3cd5x
@user-kx2gy3cd5x Жыл бұрын
楚ってもっと北東にあったのかと思ってました。結構南方だったんですね。地図で位置を確認せずに覚えてました。
@user-oi5dt9tt8d
@user-oi5dt9tt8d Жыл бұрын
楚は中原の文化を取り入れつつも独自色にこだわり続けたのだろう。そしてその反骨精神が項羽と劉邦を生み出し、秦を滅ぼし、漢となった。漢は楚の生まれ変わりと見るのは飛躍だろうか。
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
どうでしょうか? 沛県って、中原に近く元は宋の地で、楚の征服地ですね。劉邦の遺伝子(O2)が他の遺伝子を上書きして、漢民族の主流となっていくわけです。 曹操は、曹氏とも夏侯氏とも異なるO1bだと明らかになってます。曹氏か夏侯氏に長江流域をルールとし、父系を異にする親族がいたのかもしれません。
@paipanboy
@paipanboy 9 күн бұрын
@@intelljp 曹操は親父が爺ちゃん(宦官)の養子だったから、曹氏との血の繋がりはないんだろうね。
@KOME1990
@KOME1990 Жыл бұрын
南方諸国は日本の源流となる文化にも影響を与えたとする説もありますよね。
@KM-rh5xv
@KM-rh5xv Жыл бұрын
余りにもマニアックな話をメンバー限定とかで見たいなぁ…🤤
@q.7546
@q.7546 Жыл бұрын
楚 大国なのになんだかんだ頻繁に首都落ちてるんですよねぇ
@user-kq2hj6wq3y
@user-kq2hj6wq3y Жыл бұрын
そう、最初は江陵や公安の辺りだったのがかつて滅ぼした陳へ移り、最後は春申君が寿春へ移した。これらは三国時代もほぼ重要拠点となっている。
@scipio99
@scipio99 Жыл бұрын
江陵は陸路と水路が交わるハブ。 周囲からアクセスしやすいから交通の要衝になる。 平時は便利だけど、有事は攻められやすい。 洛陽や潁川などにも言えるけれど、都市としてのアクセスの良さは、防衛の堅さとはトレードオフなのが悩ましいところ。
@user-kr7nm3gh2l
@user-kr7nm3gh2l Жыл бұрын
Thanks!
@c-history
@c-history Жыл бұрын
ご支援いただき、まことにありがとうございます!! ご厚意にいつも励まされております!!
@user-ub1sn7jx6v
@user-ub1sn7jx6v Жыл бұрын
公孫述ー!早くきてくれー!雑に秦に征服されて終わった巴蜀に栄光をー!
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
越は、勾践の後もしばらくは強国で、3代後の朱句(前447~前411)の時代が最強だったようです。その後、王殺しが頻発して弱体化し、楚に滅ぼされますが、遺民は閩越(福建省)に逃れます。 秦の統一後、閩中郡が設置され、王位は廃止されますが、「君長」としての間接統治になります。楚漢戦争時は漢に味方して、「閩越国」として復活しますが、武帝の代に反乱を起こして滅ぼされます。勾践の子孫を自称する閩越国の王族が「欧陽」氏ですね。欧陽姓の人のY-DNAがO1aであり、オーストロネシア語族と関係がありそうです。
@user-kq2hj6wq3y
@user-kq2hj6wq3y Жыл бұрын
欧陽氏は越の末裔か。でも出てくるのが結構後になったのはやはり貴族社会の中では異端だったのだろうか。科挙制度が浸透する中で欧陽氏は頭角を表すようになったのか?
@KKK-pl4zy
@KKK-pl4zy 11 ай бұрын
蒼天航路でも劉備が舞を披露した屈原!
@user-lw5sd7lb4u
@user-lw5sd7lb4u Жыл бұрын
楚・呉・越の三国、このうち越は最後の王無彊が、楚の威王に敗れ逃亡して27年後に滅亡していますが…謎だらけ…。
@user-bm8ci1vy5f
@user-bm8ci1vy5f Жыл бұрын
漢以前の中華は各国の色がより強く出ている気がしますね
@user-pi5mb3hz5n
@user-pi5mb3hz5n Жыл бұрын
我が北陸地方は、越前、越中、越後、越の国と言いますね。着物は呉服ですので、呉の影響かと思います。呉越同舟とは長江から流れて日本海を渡ったのかもと思いました。
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
古代日本の服装は、貫頭衣なんで越以南の東南アジアの影響が強いです。 呉服は、南北朝時代の南朝から入ってきたんだと思います。
@user-pi5mb3hz5n
@user-pi5mb3hz5n Жыл бұрын
@@intelljp 教科書や通説はその通りと思います。 但し、専門は違いますが、海外の大学で教え、某大学院後期博士課程の単位を全て修めまして、国内外の学会発表で散々突っ込まれ、一文ですがそれでも教科書や長辞苑に文章が乗った経験者から言いますと、昔の特に古い時代のものは疑ってみた方がよろしい場合もあるので、提案させて頂きました。
@mitism889
@mitism889 Жыл бұрын
@@user-pi5mb3hz5n 呉服って奈良平安時代からだと聞いているので、もし起源を推定するなら漢文化を受け入れた鮮卑族の服装が起源だと思います。
@rotriot367
@rotriot367 Жыл бұрын
イスラーム世界のパシュトゥーンやテュルクの部族連合的な統治機構にも似た、華北とは異質な横並びの社会が江南にあったんだなと思った。
@yuka-youtube
@yuka-youtube 10 ай бұрын
ドンドン 至高は魔理沙! 中国の凄まじい風景(クレーターや四川崖など)のヤバすぎる絶景シリーズをお願いします。
@user-sl8fs5fp1k
@user-sl8fs5fp1k Жыл бұрын
いずれも五代十国時代、十国として蘇る(越は呉越でカウント)
@user-ti5sz8tn4j
@user-ti5sz8tn4j 8 ай бұрын
史記は楽しい読み物です❤
@Kotchan66
@Kotchan66 Жыл бұрын
31:04 今なお使用されている成都の都江堰お願いいたします。
@2010winter100able
@2010winter100able Жыл бұрын
呉越同舟って中国でもいうのだろうか。それはさておきシャーマニズム、鬼道を能くした風は九州(邪馬台国)にも伝わっていたのではないか?
@shou-sho
@shou-sho Жыл бұрын
懐王の件は、 経済が繁栄 → 貧富の差が拡大 → 国が衰退して滅びる → 後世の世からは暗君扱い というよくあるパターンということかな?
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
やはり、楚は他国に比して封建領主の数・割合が多くて、中央王権に富が集まらなかったことが問題のようです。全体国力だと、単独でも秦に匹敵したはずです。 懐王以前には、宛、巫、黔中の三郡の直轄地があり、懐王は新たに漢中、江東、新城の三郡を設置してます。
@user-qw4xc7gt8m
@user-qw4xc7gt8m Жыл бұрын
越を昔から謎に思ってるんですが、会稽のもっと南にある方の越(山越?)の一味なんですかね?会稽の越は。その辺が昔から謎でして。
@drill2949
@drill2949 Жыл бұрын
5:37 「雲夢」が「霊夢」に見えた…疲れてるのかな。
@hirokage9427
@hirokage9427 Жыл бұрын
さりげなくでてたアーチャーw
@user-mg4fu5wq2o
@user-mg4fu5wq2o Жыл бұрын
霊夢「楚の霊夢!?」魔理沙「残念、雲夢だ」 鳥人間~そろそろ中国史ガチャを回したいよ~。
@chibik2965
@chibik2965 Жыл бұрын
僕も江南に覇を唱えたいです!
@user-ti5sz8tn4j
@user-ti5sz8tn4j 8 ай бұрын
衆人、みな酔いて、我ひとり醒む。 屈原の嘆きの唄
@nobuyuki0721
@nobuyuki0721 Жыл бұрын
呉越同舟の故事の元となったと思うよ
@user-nz8dz6gg7r
@user-nz8dz6gg7r Жыл бұрын
楚はやっぱり毛並みが違いますね。 竹簡や帛書(馬王堆老子とか)についての解説もお願いします。 投稿お疲れ様です!
@Yosakoi_akiko
@Yosakoi_akiko Жыл бұрын
楚は戦略資源を自給できるかつそれを国家直轄で運用できたからクソ強かった?
@user-qy7kl5cu1x
@user-qy7kl5cu1x Жыл бұрын
諸侯の赫連勃勃興ほどワクワクするものは中々無い
@user-ub1sn7jx6v
@user-ub1sn7jx6v Жыл бұрын
勃興するのはええけど、殺戮は勘弁してもろて、、、
@domesan1
@domesan1 Жыл бұрын
項羽は何故西楚の覇王だったんだろう?東側なのに。
@sjfaow
@sjfaow Жыл бұрын
日本人がマンモスを狩っていた頃中華は豊かな文化があったんですね
@secretosecreta4307
@secretosecreta4307 Жыл бұрын
天勾践を空しゅうすることなかれ、時に范蠡なきにしもあらず。
@user-ti5sz8tn4j
@user-ti5sz8tn4j Жыл бұрын
尊皇攘夷の語源❗ 周王室を守り外敵を討つ。
@user-jk6dn2ov2c
@user-jk6dn2ov2c Жыл бұрын
やっぱり楚とか江南の方は上古中国語じゃなかったのかな。一緒なら蛮夷だなんて言わないし
@harigane4773
@harigane4773 Жыл бұрын
雲夢沢が霊夢沢に見えたw
@user-br1lo8lh8g
@user-br1lo8lh8g Жыл бұрын
越や杞以外に禹の末裔はどれくらいいたんだろう?だれか教えて
@maidminori
@maidminori Жыл бұрын
なんでいきなり鉄仮面!?霊夢は度々サイコになるよね
@7wayfz21
@7wayfz21 Жыл бұрын
呉越同舟、の語源
@naughtnaught
@naughtnaught Жыл бұрын
楚の反発具合からして、秦は、どうやら異民族の同化政策は不得手だったらしい。
@Taka18782
@Taka18782 Жыл бұрын
それも一つの面ですね。また別の一面では、のちに始皇帝が文字、度量衡、道幅などを統一したことで、「中華は一つ」という意識がこの地の人々に根付きました。
@monoris2008
@monoris2008 Жыл бұрын
南方諸国は中華統一政権は取れなかったのよねー
@user-tx5ge2nw7t
@user-tx5ge2nw7t Жыл бұрын
ーコメです
@user-yc4wy1bp1l
@user-yc4wy1bp1l Жыл бұрын
我去浙江,福建,聽到一些當地人說話,能感覺到和日語十分接近。特別是浙江的一些方言。聽起來和日語太接近了。吳越有大量後裔移民去了日本。這應該是沒有什麼疑問的。春秋戰國的那段歷史,確實是中日共同的歷史。 春秋戰國時代人們的精神氣和現在的中國人完全不一樣,但和日本人卻很接近。 那個時代的靈魂,只有在日本才保留了下來吧。
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
古越語は、膠着語で少し似たところがあります。しかし、サンプル数が少なくてなんとも言えないです。 中国少数民族で日本語に一番似ていると思ったのは、土家語ですね。日本語の平仮名が適用できるくらい発音体系が似ています。土家族は、巴人の末裔を称してるようです。
@user-kv6em6bc2t
@user-kv6em6bc2t Жыл бұрын
你在扯什么蛋哦,春秋战国时代中国人可不会成为别人的殖民地,也不会允许他国军队在自己领土上驻扎,越王勾践的卧薪尝胆的精神恰恰体现在现在中国人身上,中国以前弱小时候的隐晦忍让,甚至驻南斯拉夫大使馆被美国炸了都可以忍下去,换得了现在与美国争取天下的机会,当然你们这些人认为我们中国人不民主什么的,但我告诉你,鸦片战争以来的中国人受尽了屈辱,这种千载难逢的机会可只有一次,如果这次中美争霸的过程中输了,中国人的下场就是现在的日本人,一辈子只能是他国的傀儡,被西方人收割,但如果中国赢了将会为华夏民族的万世开太平,当然和你们说那么多感觉是对牛弹琴,你们只管见证历史就好了
@zackwang9314
@zackwang9314 Жыл бұрын
太君,你是典型的精日
@heiho_ita
@heiho_ita Жыл бұрын
ゴールデンウィークはお家で中国史😃
@user-lz6cs6ik1x
@user-lz6cs6ik1x Жыл бұрын
孫武先生ww
@user-lz6cs6ik1x
@user-lz6cs6ik1x Жыл бұрын
荘王様ww
@user-ru1hi1mj4q
@user-ru1hi1mj4q Жыл бұрын
ありがとうございます!
@c-history
@c-history Жыл бұрын
いつもご支援いただき、まことにありがとうございます! 大変励みになっています……!!
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