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【学校では教えてくれない】戦国時代、国力差ランキング!経済、収穫、人的資源で総合評価!歴史解説!
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【歴史入門】戦国雑記帳
Күн бұрын
Пікірлер: 135
@sengokuzakki
3 ай бұрын
ご覧頂きありがとうございます。皆さんの考える国力ランキングも教えてください。 今週末も暑い中、多くの視聴者さんが名古屋城に登城いただきました。ありがとうございます。 沢山の皆さんとお話や写真を撮らせて頂きました。ぜひ、皆様も秋の旅行のご予定は名古屋城に!!お待ちしています。
@hayakawamikan
3 ай бұрын
先日一乗谷城へ観光に行きましたが、あまりのスケールの大きさに圧倒され終始興奮していました。巨大な山が全て城であることと、谷全体が城下町を形成していてその広大さは想像をはるかに超えていました。城下町の入り口に配置された石垣の巨大さには開いた口がふさがりません。何度も遠征を繰り返し信長を長く苦しめた力の背景に納得しました。
@pianochandaisuki
3 ай бұрын
なのに城を捨てて逃亡して捕まるのは惨めだね😂
@龍哲文
3 ай бұрын
今では使えませんが、戦国時代では「越前(敦賀)~近江(琵琶湖)~摂津(堺など)」の「日本大水道」と言うべき水上貿易路が存在してました。 最終的に信長・秀吉は大水道の権益を独占したことで大兵力を手に入れることが出来ました。 尾張ですが、津島・熱田の貿易だけで「実質:30万石以上」の利益が出ていて、当時の織田の国力は、かなり高かったりします。
@silentbrave7484
3 ай бұрын
いやあ、いつもためになりますね
@白鳥上沼垂
3 ай бұрын
越後上布は今でもつくられてますが、そこから枝分かれするように冬季の副業として織物が盛んになりました。 小千谷縮や塩沢紬、十日町絣etc.....
@ヒストレイン
3 ай бұрын
四国の土佐なんかは7.8割が山で石高も国力もちろん高くは無いのだが、反面、良質な木材に恵まて山や海からの資源は無尽蔵で、そこに目をつけた国主の長宗我部元親は、築城ブームに乗って全国に木材を売りまくってかなり銭を稼いでいる。元親って土佐という辺境の大名ながらも、経済的センスは高かったようだ。
@ハナハサクラダ
3 ай бұрын
四国全土で100万石無かったとか?確かに稲作に適した土地では無かったようですね。もう少し経済力あれば長宗我部氏も活躍できたかな?
@pianochandaisuki
3 ай бұрын
一領具足という制度で最大4万人を動員したのも革命的だよね😮
@markun2nd
2 ай бұрын
@@ハナハサクラダ ですね。80万も無いです。( ;∀;) 実は四国の国力で言うと伊予国36万一強です。そもそも戦国期も複数の大名が並び立ったし今も松山が人口多いですしね。
@masao750
2 ай бұрын
土佐は山内氏入国時20万石幕末では49万石。
@markun2nd
2 ай бұрын
@@masao750 この江戸時代の急上昇は長門藩と同じで通じるものがあり、明治維新の高い発言力の源泉になったのでしょうね。
@29食べよう
3 ай бұрын
石高制下の石高はあくまで年貢を納める為の課税標準で、江戸時代になると目的は同じだが田方と畠方で分けられてる。 土地生産量が豊かな国ほど田方が多くて、限界な国ほど畠方が多い。 この時代の品種だと米は収量倍率10倍、麦は収量倍率3倍程度。
@ぽっくりさん-v1v
3 ай бұрын
博多のある筑前は有力大名がおらず何度も焼かれてるからなぁ 箱崎宮周辺に大陸人の街があったらしい(現在の唐人町とは違う場所)から「博多」の定義は黒田が作った博多部より広域なものだった
@おびたん-d4f
3 ай бұрын
朝倉義景についての公平な評価が素晴らしいです。背後に一揆軍を抱えて動けなかったし、信玄に天下を取らせるのも面白くないでしょうから、反織田同盟が機能しないのは自然。 近江の国は湖水自体が、日照り対策する必要がないので、もの凄い価値があった思います。 上杉謙信は、農業以外で自国を発展させて、とても現代風の考えを持っていたのですね。 平和な時代に生まれてもそれなりに成功したでしょう
@joejoe-xh4nx
3 ай бұрын
摂津の経済基盤を気づいたのは信長ではなく三好家かと
@匿名-y3c
3 ай бұрын
そうですね。 三好家の築いた堺の繁栄を、信長が利用して天下を取ったという事ですね。
@shiryu7876
3 ай бұрын
信秀の頃は大名ではなく、大名の代理である守護代二人の内、一人に仕える家老でしかなかった。ただ、津島や熱田を抑えていて実質的には尾張の代表として道三や義元と争ってたという超有能家臣だった。信長が大名になったのも信秀死後に家督を引き継いでから身内や家中の勢力争いを経て尾張を統一した7年後のこと。
@Grupook-p9q
3 ай бұрын
堺は摂津国ではなく和泉国では? 龍造寺隆信の祖父は家純であり、曽祖父が家兼…
@r4xep6qv83
3 ай бұрын
三国ヶ丘があるのは堺のあった堺市ですが。
@林山火風
2 ай бұрын
堺の地名は摂津国と和泉国と河内国の三国の境に発展したので、境から転じて堺と名付けられました
@石橋展通
2 ай бұрын
戦国時代は活力にあふれていますね。 貿易の利潤の大きさ、海上輸送の低コスト(海上輸送と陸上輸送コスト差は100対1だとか) 信長様が生きておられたら欧米とアジアの立場が逆転していたかもしれませんね。
@pinocciokun
3 ай бұрын
畿内の武将は過小評価され気味だが、有数の経済圏、穀倉地帯、それに加え宗教勢力もひしめき合っており、利権争いが激しくまとめるのが難しかった土地。 それを考えると信長よりも先に天下(畿内)を治めた三好長慶はまだまだ過小評価されているよね。
@bluestar_1213
3 ай бұрын
三好長慶は、京周辺で勢力を拡大していったせいもあって、自分が天下人というよりは、鎌倉幕府での北条氏ポジを取ろうとしたのがねぇ・・・ まぁ、色々としがらみがあって、そうせざるを得なかったのかもしれないが・・・ 信長は外部からの勢力だから、しがらみなんて、そんなの関係ねー!って感じだったんだろうなぁw
@shiryu7876
3 ай бұрын
@@bluestar_1213 寧ろそういったしがらみを断つ為に副将軍や管領を固辞したり本拠を美濃から移さなかったんじゃないかと
@べーぐるべーぐる
3 ай бұрын
信長は物資の大量輸送のメリットを理解していたのが凄い。道の整備をするように命じて、琵琶湖には数十メートルの大船を作って京都へ兵員輸送もやっている。
@kh2895
3 ай бұрын
めちゃくちゃ画期的なことですよね。 それをできなくて朝鮮で秀吉は勝てず その教訓を活かせず第二次世界大戦でも物資を送るのがアメリカより劣っていたという。
@べーぐるべーぐる
3 ай бұрын
@@kh2895 余談ですが、秀吉は物量戦は得意だったと思います。朝鮮出兵の秀吉の誤算は朝鮮のあまりの貧しさだったと私は思ってます。当時の日本国内は遠征先である程度は現地調達するのが普通です。朝鮮も数百万の民が住んでいるのだから、秀吉も現地である程度は調達出来ると予想していたはずです。しかしながら、現地調達が全く出来ずに快進撃で進んだにも関わらずに、結局は釜山に後退してます。コレは米だけでなく、武器弾薬も全く現地調達出来なかったと思われます。 2回目の出兵の際には、秀吉は釜山に城を築いて、かなりの兵糧弾薬も備蓄してます。それと海路の開拓も進めていて物資輸送路を確保するように前進してます。最もその前に秀吉の寿命が尽きてしまいましたね。
@匿名-y3c
3 ай бұрын
@@べーぐるべーぐる 確かに朝鮮出兵は負けて撤退した訳ではないので、秀吉が家康並に長生きしていれば、朝鮮半島が日本領になった可能性はありますね。 そんなに貧しかったならスタートラインが低いので、それより豊かにするのが容易ですし、国民国家という意識が出来るよりもずっと前の時代でもあり、支配層を入替えれば案外朝鮮半島の庶民は日本の支配をアッサリ受け入れたかもしれません。 但し、その後に誕生した清王朝が、日本の朝鮮支配を認めたかという問題はありますが。
@べーぐるべーぐる
2 ай бұрын
@@匿名-y3c ありがとうございます。これも余談ですが、朝鮮出兵の先手衆は西国大名であり、朝鮮出兵が仮に成功した際には朝鮮の領土は西国大名に与えられたはずです。しかしながら、彼らの士気は低くて、秀吉死後は一斉に撤退してます。これは如何に朝鮮の土地が貧しくて、開発に金と時間がかかるかを理解していたためと思われます。 ただし、一部の陶芸技術は非常に高度であったため陶工たちは日本に連れて帰ってきて西日本の陶工技術を発展させました。
@匿名-y3c
2 ай бұрын
@@べーぐるべーぐる なるほど土地が貧しいのでは、農業が主要産業だった当時の経済体制では、西国大名が統治しても豊かにするのは難しいですね。 国際貿易の殆ど無い当時は、全人口を養うに足る食糧を生産できる農民を人口から引き、そこから支配層(武士や両班など)も引き、残った人口しか商工業に投入できませんから、食糧生産の生産性が高くないと商工業も栄えませんし。 その中でも高度な技術を持つ陶工という、朝鮮半島の生産力の一番美味しい部分だけを連れて帰って撤退というのは、ある意味では良いところ取りになり、最も経済合理性に沿った結果になったのかもしれませんね。 日本が朝鮮半島を支配し、明王朝が衰えた際に、明、満州族、日本の三者が、大陸の覇権を巡って三つ巴の戦いを繰り広げる姿を想像するとワクワクする気持ちもありますが、あれはあれで良かったのかもしれません。
@三方ヶ原家康
3 ай бұрын
泉州堺は和泉では?大阪は摂津・和泉・河内と3つに分かれているのが難しいですね。近江は東海道・中山道だけでなく日本海側からの物資を琵琶湖で通すので商業価値も抜群です。信長が足利義昭から得た大津・草津はそれだけ重要ということです。海外貿易こそ厳しいですが、石高実質1位(陸奥は広すぎ)、国友村の鉄砲も含め総合すると1位ではないかと。あと博多を有する筑前も貿易ということなら無視できないです。
@袈裟丸平三
3 ай бұрын
堺に関しては 現在は全域和泉に存在しますが 江戸時代に国境を大和川に変更するまでは 摂津、和泉両方にまたがって存在していました 和泉に該当する面積の方が大きかったかもしれませんが そこはそれ 分かりやすさ重視したのでしょう(目そらし
@三方ヶ原家康
3 ай бұрын
@@袈裟丸平三 なるほど!三か国の境にあったから堺なのですね。泉州堺というフレーズよく聞くものだからまさかそのような経歴があったとは。大変勉強になりました。
@dayagaming9828
3 ай бұрын
@@袈裟丸平三地元民の歴史好きですが、国境変更は明治に入ってからですね。 大和川の付け替えは江戸時代に行われました。 なので仰る通り、堺は明治時代の国境変更までずっと摂津と和泉両国に跨る町だった事になりますね。
@立てよ国民-n2n
3 ай бұрын
近江は坂本からの収益がかなりあり、商業は盛んだし。
@ゆあきん
2 ай бұрын
尾張1国で3国もちの今川と拮抗していたって普通に凄い
@passpawn21
3 ай бұрын
最新のは分からないけど初期の信長の野望シリーズだと周防/長門は石高が低くてかなり苦しかったような。 逆にランキングになくても武蔵なんかはめっちゃ石高が高くて人口も多く豊かだった。
@markun2nd
2 ай бұрын
初期信長、当たってますね。長門は古代からランク下で検地で13万国しかない。関が原後、毛利家はかなり困窮したそうです。しかし江戸期にバグるほど開墾まくり実質石高20万超えて困窮から富国化成功。その原動力が明治維新に続きます。武蔵も正解で1国だけで66万石もあります。信玄は神格化されて強いイメージだけど国力だけ言えば甲斐信濃2国で62万(肥沃な川中島長年係争中)なので、武蔵相模伊豆下総が領国の北条、越後越中佐渡が領国の上杉には石高で劣り動員数で負けてしまいます。
@AGATABITO.
2 ай бұрын
西街道は九州のことだが現九州の物流を竜造寺がおさえていたとは初耳だ
@直重秋野
3 ай бұрын
戦国大名家と国力は分けた方が良いと思いますけどね。大内家が栄えたのは筑前の博多を勢力下に置いたからですし、現在の福井県は越前と若狭で、若狭の守護は武田氏でした。
@見届け人-t6m
3 ай бұрын
つまるところ尾張、美濃、近江という勘所をおさえたが故に織田信長が四方を敵に取り囲まれても経済力と内線の利で天下統一まで迫れたという理解でOKですね。
@うぐいす-x2s
3 ай бұрын
桶狭間の戦いを語るときに「駿遠三3カ国の大大名・今川 vs 尾張1国の小国大名・織田」みたいに言われるけど 実際の石高にそんな大きな差は無かったみたいだね
@nagoyashimin569
3 ай бұрын
但し海西は実質一揆が抑えているし知多は水野氏と幕府が抑えている、春日井と愛知の東側は今川に侵入され丹羽は信清の領土、岩倉と羽栗は守護代を倒した直後でとても動員できない。 実質海東すべてと春日井愛知のある程度+水野しかないからね。
@nekono_mimikon
3 ай бұрын
@@浅井忠幸 厳密に言えば出来ていないでしょう。 信長が兵農分離を強行するのは晩年の話で、本格的な兵農分離は秀吉の太閤検地からです。 また武田信虎は1519年から兵農分離に着手していますが、これが家臣団の不満を募らせ後には子の晴信を担ぎあげたクーデターに発展します。
@hm-wx9rk
3 ай бұрын
ジャイアントキリングのように語られる桶狭間の戦いですが、信長の父の頃から今川義元とはやり合っていて、勝ったり負けたりです。
@立てよ国民-n2n
3 ай бұрын
津島湊と熱田湊があったからなあ。駿府も商業が盛んだったし。尾張統一と言っても南尾張は今川の勢力だったけど、殆ど経済規模は互角かな。
@doctornuru
3 ай бұрын
父親の晩年は落ち目だったし、相続後に兄弟で内紛が起きるってのは家が滅びる鉄板のパターン。 桶狭間の前には信長は尾張の国力を戦力に変える時間が無かった。不利だったしジャイアントキリングなのは間違いない。
@yasunori_suzuki
2 ай бұрын
田んぼの面積が全てだろうから、平らで水捌けが悪い地域が強そう。
@keo966
3 ай бұрын
戦国時代は約100年あり、年と共に各国の戦力は変化している 戦国後半の1560年頃から1580年頃は、5年毎位に表さないと判り辛い
@福田恒一朗
3 ай бұрын
逆に国力が厳しいのは独断だが、出雲、安房、土佐かな、何故ならば出雲は出雲鉄こそあるが、農業面は耕作できる土地が限られており、宍道湖こそあるが、漁業面でも厳しかった。尼子氏は戦争では強かったものの、財政面では非常に苦労したとされている。安房は農業、漁業は圧倒的規模は小さかった。里見氏も財政の面では苦労した。土佐は昔流刑の地であり、陸の孤島とされていた更に瀬戸内海とは反対側にあるため貿易には非常に不利であった。土佐は国土こそ広いがあまり、耕作には向いてない土地がある為に農業は難しかった土地でもある。長宗我部氏の四国統一は瀬戸内海進出の原因となります。
@pianochandaisuki
3 ай бұрын
@@福田恒一朗 だから元親は一領具足というシステムを作って兵力を増やす事で飛躍したんだよね。まあ最期の方は無理がたたって限界が来たんだろうけど😉
@markun2nd
2 ай бұрын
出雲18万石、安房4万5千石、土佐9万8千石。本拠地の石高的には里見氏が一番厳しい。しかし背後が海で憂いなく上総37万石をほぼ領国化できているので狭い割に兵力1万超えの兵力。上杉、北条も一目置く勢力です。尼子氏は大内と後に毛利との泥沼の戦いとその間に播磨まで進軍したのはお見事。しかし財政難という意味では西の上杉氏と似てます。尼子経久と孫の晴久が8カ国の守護。この時期の尼子氏は目立たないけど強かったです。原動力のひとつは石見銀山。大内氏と争っていたけど基本的には尼子領。晴久存命時は毛利氏に2年ほど短期で銀山を奪われただけです。活躍時期が毛利元就と被ってますが因幡・備中・備前・美作・播磨が主戦場で2万8千動員。目立たないけど出雲より石高の高い山陽エリアに進出しています。一番大変で凄かったのは長宗我部。石高低い割に小豪族が分立。元親の祖父代で本拠地を失地。そこからスタートのほぼ四国平定なので驚異的です。しかし頑張り過ぎた。土佐一国領有に抑えられた上に九州平定戦で元親の嫡男信親を失ってから後の豹変が滅亡に繋がりました。
@ichijikuatama
3 ай бұрын
13:25 これ、信長が求めてた中央集権体制ができるんじゃねえ?
@のっぶ-q4r
2 ай бұрын
山口の勘合貿易は現中国からみたら(日本は中国の領土)になる。当時の事を批判する訳じゃないけど勘合貿易は現代人が思う貿易じゃないですね。ただ陶氏が謀反を起こしてなかったらどうなったかは浪漫はありますね!毛利氏は当時強く国力もそれなりにあった思いますが個人的には微妙ですね。
@out_of_standard_griffon
3 ай бұрын
尾張弱兵とも言われてましたが、とんでもなく肥沃なんでなんとなくわかるんですよね。 寒くて貧しい地の方が兵は強いw
@silentbrave7484
3 ай бұрын
信長の野望やっていたときの印象と違って若干カルチャーショックです笑
@ayutake7427
3 ай бұрын
越後の経済を支えた一つが越後上布、朝廷や公家にも献上品として贈っていたと思いますが、当時の公家って貧乏で困窮してただろうに小芝居みたく購入とかは無理な気がするのだけどな
@61mac73
3 ай бұрын
謙信の関東攻めは冬場の食料不足を補う為に軍団を関東に置き食料も地元から奪って過ごしていた 戦国期の越後での死亡は春先の食料不足時が多かった
@クロノス-h9n
3 ай бұрын
後は大正義博多を有する筑前は入るでしょうねぇ 長門も豊後も博多ありきみたいなとこあるし
@詞綾辻
3 ай бұрын
地元新潟はちょっと調べただけでスズや銀の鉱山跡地がやたらある。 ただ県名の通り池沼や大小の潟ばかりで耕地には向かず、水運も信濃川と阿賀野川があり盛んに見えますが上流から運ばれてくる土砂で河底が浅く船舶の底を傷つけるのでさほど使われていなかった。 越後は冬に出兵し他国の備蓄米を奪って自国の食料備蓄をカバーしてた。 義の上杉謙信って言われてるが、やってる事は鬼畜。 戦で人質を海外に輸出しまくってたので地元でさほど人気がない。 補足ですが明治時代に諸外国の圧力で新潟港を開いたのは使えない湊だったから。 現在は毎日海底に河口底にある土砂を吸い上げる船が信濃川の河口を深くしようと頑張ってるが効果がない。
@donaldminion3462
3 ай бұрын
上杉の人質を売買する市が開かれたが、人質を海外に売り飛ばしたのはキリシタン大名をはじめとする九州諸侯だが。貴兄は上杉下げが行き過ぎでは?
@sonchuzan
3 ай бұрын
いつ時点の国力だろう。尾張などは統一勢力がないノブナガ以前時期、三河も広忠期間は国力を評価しがたい。甲斐も信虎統一前はぐだぐだ。 越後も景虎のカリスマで維持してたけど彼の統治中もぐだぐだだった。
@rei-egg
3 ай бұрын
エチゴネットウエスギわろた
@ichijikuatama
3 ай бұрын
2:35 確か毛利氏が占領したら貿易無くなったって聞いたけど
@明石則実
3 ай бұрын
毛利にもちゃんと貿易を担当する奉行が赤間関にいましたよ。
@袈裟丸平三
3 ай бұрын
正式ルート(いわゆる勘合を用いた朝貢貿易)がなくても 私貿易(明は海禁政策をしていたのでほとんどが密貿易)が あるじゃないですか(ニッコリ 正式ルートの途絶は 私見ながら毛利氏は主要因ではないと思います 詳細に書くと 少なくとも正徳帝の即位(1505年)辺りから 記述する必要があると思うのですが それだと長くなりすぎるので 諸々省略して書くと 大寧寺の変(1551年)の後に (1556年)大内義長と大友義鎮が貿易を求めたところ 書類不備と大内義長の家督継承の経緯を 明側に問題視され拒否され 嘉靖28年(1549年)を最後に 正式ルートの貿易は途絶えています
@t-nakahiro
3 ай бұрын
山口で生活した経験のある隆元に引き継がれたはず。
@キングヘイロー
2 ай бұрын
日明貿易だけじゃね?出来なくなったのって
@markun2nd
2 ай бұрын
@@袈裟丸平三 ですよね。寧波の乱(大内義興・博多vs細川・堺)で途絶えていたのを大内義隆がなんとか勘合貿易を復活させて博多が大変栄えました。当然、大内義長も狙う訳ですが明国がその判断に至るまでの外況が悪過ぎます。石見銀山は大内と尼子の休戦で尼子領であったけど良好な関係でした。しかし尼子晴久が長年、美作備前に遠征している隙を陶氏(小笠原氏)が攻撃したのを義隆が咎めました。ところが直後の大寧寺の乱の影響はすさまじかった。まず肝心の石見銀山は尼子氏に取り返されました。更にザビエルやポルトガル商人が山口滞在時に起きた大事件であった為、世界的に悪い風説が広がり、堺商人も大いに活用したと思われます。勘合貿易が無くなっても私貿易は盛んになりました。もっとも後期倭寇も盛んになり明国は苦労する訳ですが、、、
@山内光希
3 ай бұрын
関東東北の国力を教えて欲しいです また三好長慶の特集となぜ衰退したのか、個人的には三好長慶は天下をとっていたのか?とか色々気になります。畿内を制していたら天下人と言う認識にモヤモヤしてて… 全国の大名を差配できる立場を天下人と言うのではないか?とか三好氏を絡めた天下とは?を特集して欲しいです
@でふぉると武雄
3 ай бұрын
この頃の貿易は日本海側が主流 江戸時代でも関西の経済力に勝てなかった 本格的に関東が栄え始めたのは明治以降
@ZERO-nr1fo
3 ай бұрын
住んでて思うけど、北東北が大分足引っ張ってると思う ここ何もない
@guugoosuka6909
3 ай бұрын
越後や武蔵は当時は湿地帯が広がっていて土地の有効活用ができなかったんだよなぁ 武蔵は江戸時代、越後は近代に入ってからの治水で大きく生産を伸ばした。
@tmotchy93
3 ай бұрын
江戸なんか湿地帯で、昔は東海道も、相模を通って船で上總に入ってた位ですから通りにくい位ぐらい泥濘が酷かったと思いますよ。
@markun2nd
3 ай бұрын
それは事実であるが戦国よりかなり古い時代過ぎる。
@一条ヒカル-u3s
3 ай бұрын
越後は江戸時代には治水を大規模に行ってます特に信濃川流域は川筋付け替えとか堤防を嵩上げしたりして、河川敷は水田地帯に改良されてましたよ。 越後上布は平安時代にはブランドで証拠の木簡も有りますし、朝廷からの感謝状も有ります。 戦国期に高田・直江津は日本一どころか世界一の大都市でした。 江戸時代にも越後の麻織物は夏の必需品で大奥や各潘の上屋敷勤めの侍は越後の麻織物で夏を過ごしたとか。
@雲霧仁左衛門-o5l
3 ай бұрын
戦国末期(江戸時代ではない)には近江と武蔵が人口ランキングのトップ2
@markun2nd
2 ай бұрын
@@雲霧仁左衛門-o5l ですよね。太閤検知の石高を元にしたマップでは尾張・武蔵・近江の広さ大きさがバグっています。大国の武蔵がこちらの動画の順位に入ってないのはオカシイです。古代から日本の中で関東の人口が多く武蔵はその中の中心地です。同様に越後も古代史では越の国は出雲より豊かとの事。越後も昔から湿地が減って耕地増えたとしても明治期に日本一人口が多い県に成り得ないてす。なので、動画の越後上位は激しく同意です。 武蔵は関東管領上杉氏の本拠地な上にの戦国大名が同国に存在していました。小田原北条氏が強くなったのは武蔵進出してからで、それまでは早雲の弟が戦死し小田原城を奪い返されたり安定してなかったです。近江も同様ですね。あれだけ六角氏が将軍報じて京都へ行ったり浅井氏が同居している。江戸が湿地帯なのは同意。氏康時代は里見氏との戦線が近かった為、江戸は不便だけど守りやすい沼地だったので扇谷上杉氏以来の重要拠点としていました。しかし、家康入府の頃は拠点性が薄れ粗末な建物しかなかったそうです。しかし、江戸の可能性を見出せたのは流石です。
@9zheng00
3 ай бұрын
考えたこともなかったけど木綿は一般的ではなかったんですね こういうことを知れると動画を見るのがやめられないです
@pinocciokun
3 ай бұрын
戦国時代に木綿の国産化に成功して莫大な儲けを出していたのが三河地方。今でも三河木綿は有名ですね。
@kent__3571
3 ай бұрын
綿花は熱帯~亜熱帯の植物で日本の気候に合わない植物ですからね。江戸時代は鰊から作られた肥料を大量に使ってなんとか栽培してたとか。 なので明治時代に外国の安い綿が入ってくると、日本の綿花栽培はアッサリ終わりました。
@キングヘイロー
2 ай бұрын
近江が一番と予想!
@裏側さん
3 ай бұрын
どんな役柄でも格好は足軽…。 最初は違和感を感じましたが、 今は…。 『むしろコレが良い』 秋は仕事的にぽっかり日にち空きそうだから名古屋行ってみよかな? 淀川区からのぞみ使えば1時間ちょっとだしなあ。 まだまだ暑いけど熱中症に注意して頑張って下さい。
@ishinjiroster
3 ай бұрын
何を基準に順位づけしたのかが一番気になります。 あと戦国時代のいつ頃なのかも気になります。 応仁の乱の直後は近江のあたりは戦乱で荒れ果てて国力がだいぶ落ちていたはずです。浅井氏も近江の復興にかなり手間取ったようですし。 石高はだいたい資料から推測できますが、商業的な経済力をどうやって把握したのか。
@kutugen
3 ай бұрын
KZbinの登録者ランキングでは日本で1万4千位ほどでござる。 歴史カテゴリではベスト100位に入っておるやも知れませぬ。 されど動画制作者と踊舞氏のポテンシャルがあれば下克上を果たせると思いまするゆえ、益々精進して下されたく候。 なおこの種の動画はロングテールで再生されまする故、続ければ続けるほど財力は増しまするぞ。
@パブロン-j1r
3 ай бұрын
これは、大変興味のある情報ですね☺『貿易』『特産物』などがあると有利ですね😁この時代に、北海道が知られていたら、どこが資源を独占できたのかが知りたいですね。
@袈裟丸平三
3 ай бұрын
蠣崎氏 或いは蠣崎氏の自立を安東氏が容認しなくなるか 容認しようとしまいと南部氏が横取りを狙うか そんなあたりじゃないでしょうか? 当時の航海技術を考えると それらより遠い地域の勢力は考慮の必要はないと思います
@介億-i8c
3 ай бұрын
加賀の国は出てないような
@てるボー
3 ай бұрын
楽市楽座は織田信長が始めたってのは昔の教科書が嘘をついていたのですか?
@masao750
3 ай бұрын
播磨が統一されていたら豊かな国の一角
@めふめとしゃるーく
3 ай бұрын
重箱の隅をつつくようですが、龍造寺家兼は隆信の曾祖父ですよー。
@大隅一貴-q1w
3 ай бұрын
堺は、和泉では?
@yosukefei
3 ай бұрын
飛騨が最弱と思います。 ほぼ全て険しい山 寒冷で豪雪地帯 内陸で大きな川もない
@gogyohakobera
2 күн бұрын
鉱山があったし神通川も決して小さい川ではないよ さすがに隠岐対馬のほうが下なのでは
@sayaandmasa
3 ай бұрын
伊勢と武蔵が入っていると思ったが入っていなかった。
@袈裟丸平三
3 ай бұрын
三大津の一角安濃津を含む伊勢が入らないのは 明応大地震(1498年)の影響で廃れたせいではなかろうかと 武蔵に関しては徳川氏入封以降の魔改造(土木工事)の賜物かと (あくまで個人的偏見と感想です)
@markun2nd
3 ай бұрын
@@袈裟丸平三 さん 古代から関東の中心で経済・石高的にも高く大国と指定された武蔵国が上位に入らないのはオカシイと思っています。平安期は平将門、鎌倉期は執権北条氏が守護で、戦国期、関東最大勢力の関東管領上杉氏の本拠地でした。分裂してからも多数の大名が存在しました。その後、後北条氏が武蔵進出・統一してから急に今川武田上杉と戦えるように動員兵力が上がってます。(相模の石高は低く、小田原は北条が最初に奪取してから後も早雲の弟や重臣が戦死し奪い返されたりと苦戦してました。武蔵まで進出した頃に小田原城は巨大要塞化しました。)武田織田存在時から動員3万(vs武田2万)~5万超(vs滝川)居たのは武蔵国の存在は大きかったと思っています。余談で、徳川家康の江戸周辺の治水事業は本当に見事でした。北条氏にとって氏康時代に戦線が近かった頃は沼地の不便さを活用した重要な軍事拠点でしたが、後世は拠点性が薄れていて、小田原城は秀吉も驚いたものの、家康が入府した頃の江戸は簡素な建物しか無かったとのことです。
@JTR8500
3 ай бұрын
甲斐は?金山と、馬産が有るから貧乏とは考えにくいのですが…。国力低いんですかね?
@markun2nd
2 ай бұрын
石高だけを純粋に考慮したらとても低いです。信玄は強かったんですが徳川氏の影響で神格化されてバグってます。武田氏:甲斐22万、信濃40万(肥沃な川中島は長く上杉氏と係争地)です。本国だけなら能登21万の畠山氏と大差無いです。 ライバルの北条氏:相模19万、伊豆7万、武蔵66万、下総39万、上総37万(里見氏係争地)、上野39万(上杉氏係争地) 上杉氏(長尾氏)越後39万、越中38万、上野39万(北条氏係争地) 今川氏も本国だけなら駿河15万が小さく甲斐より下位ですが、三河29万 遠江26万 尾張の一部(今川譜代領)まで合わせたら100万石ありそうな勢いで規模感が、、、
@ナックル星人
3 ай бұрын
やっぱり尾張は入りましたか 今川義元、太原雪斎も欲しかった ようですし信秀も財力が無ければ 権力者にはなれませんでした。
@markun2nd
2 ай бұрын
尾張の一部は義元が桶狭間に行く前から直属の駿河遠江の複数の武将が城主になってます。信長は相当大変だったかと。
@眞田充博
3 ай бұрын
尾張の地図が間違ってる。三河が尾張に入ってる。
@osarasan
3 ай бұрын
微妙に間違ってる情報が…龍造寺の件と和泉の国の件は他の指摘もあるのですが、尾張は元々鎌倉時代から平泉の金の輸送ルートで常滑焼が活発で陶器輸出でも大金を稼いでました。 織田信秀ではなくその父である織田信定が津島を手に入れてから莫大な資金源を手に入れました。つまり3代に渡る政策です。 越前は他に越前和紙が朝廷御用だったり特産品の儲けも盛んでした。
@高橋由美子-d4j
3 ай бұрын
力業(ちからわざ) 並べ比べて 富競い 一時の夢 また次の人
@ひとゆう-q8o
3 ай бұрын
年末年始 尾張に行こうかと思ったが 清盛にした スマン
@kh2895
3 ай бұрын
岡山も厳しかったんだと思います。 海を埋め立てて土地を増やしたのは良いもののそしたら米の育ちが悪くなるという…その分綿が取れるようになり今のジーンズが名産品になるという。良かったんだか、悪かったんだか
@markun2nd
2 ай бұрын
備前国は古代から肥沃な地でした。備前国が大きくて美作国に分国したくらいです。戦国期でも22万石で中国地方では(細切れもあるんですが)一番大きいです。大名的には小勢力が多くて厳しいけど逆に大名として成立するのだから豊かなんでしょう。更に「福岡」を忘れちゃいけません。歴史教科書に載るくらい室町期の平和な時代には栄えて堺や博多と並び立つ市だったそうです。西大寺も近いですし長船の鍛冶や備前焼等の工業も盛んですしね。しかし戦国期に荒廃しました。一部住民は岡山市表町(旧福岡町)へ移住しました。ちなみに、黒田如水は播磨のイメージ強いけど黒田家のルーツは備前国「福岡」。現在の瀬戸内市福岡は田んぼばかりですけど(女子プロゴルファー渋野選手の練習場があるか)、黒田長政の国替えで筑前で新しい城下町を作る際に「福岡」と命名したのは、この地でかつての賑わいを取り戻したいとの黒田家の願いだったそうです。
@tba3576
20 күн бұрын
ちょっと、国際比較もやってほしいですね。 日本史を日本だけで語ると、訳が分からない、おとぎ話になっちゃいます。
@トトアスタ
3 ай бұрын
よりにもよって1位に推した国の要素である堺の説明明確に国違うし消して再投稿した方がいいくらいの誤りでは?
@明石則実
3 ай бұрын
堺は摂津と和泉にまたがってんだよ
@markun2nd
3 ай бұрын
視聴数稼ぎのあまりこういったランキング好きじゃない。人口かなり高かった山城が外されたのは何でだろう?(商業、人口評価してるのに何ででしょう?)九州高すぎない?特に上国である武蔵の評価が全くされて無いランキングは納得いかないです。後、長門がランクイン?大内氏で栄えた山口の大部分は周防だし石見銀は瀬戸内ルートあり。毛利氏が安芸から移った直後は石高低く徳川の狙い通りかなり困窮してたけど江戸時代に爆上げして実質石高がバグってた影響で明治維新に繋がりました。 関東の中心として武蔵は考慮して欲しい。関東は古代から関西より人口が多く平安時代から格式高い最上位3神宮の2宮は関東。中世は鎌倉幕府ができて室町戦国でも重要職が残った。現代の調査でも関東の中でも武蔵(越後も高い。明治期に新潟県が全国一人口多い時あり。東京より高い。)の石高がかなり高いデータがある。(面積の割に尾張近江が高いのは同意)武蔵は元々関東管領上杉氏の本拠で、その後も戦国大名が武蔵には多数存在していたし、北条氏が統一して武田上杉と戦える動員数を支えた国力の礎が武蔵。石高はそれほとでもない相模だが、小田原城の大規模化→総構えを成し得たのは武蔵を勢力圏に入れてから。 秀吉が見て翌年から大阪城の総構えの大規模工事を始めた。 10位に入ってないとオカシイかなと思います。
@mammalia-v4s
3 ай бұрын
ランクインしてないのに最終的に徳川が天下とるんだ!
@puhero670
3 ай бұрын
動画見る前に北九州圏のどこかと悩んだけど米産地、金山持ってる越後1位と予想!! 結果....残念;;2位だったか!!
@ekcant5026
2 ай бұрын
あの甲冑の小芝居いらないかもですねー。
@秦伏見
3 ай бұрын
堺は和泉やが
@pvl4725
3 ай бұрын
徳川幕府の前まで関東は利根川や荒川の氾濫原や農耕に適さない武蔵野台地が広がっていてほんと経済価値の低い地域だったんだね 日本の文化がずっと関西で発展した理由が良く判る動画です
@塞翁が馬-p9e
3 ай бұрын
堺は摂津なのか。むしろ和泉の方が大部分だと思うのだが。
@hamuhamu-2m27y65
3 ай бұрын
全ての国の表示が現在の県になっている。もう少し勉強してください。
@兎亀吉
3 ай бұрын
途中の甲冑着てるオッサンが絶対に要らん、飛ばすのが面倒臭いキレイな声の女性のナレーションだけで良い。
@chateaulatour77
3 ай бұрын
地図がなんで都道府県なの? 美濃なのに岐阜県(美濃+飛騨)だし 長門なのに山口県(長門+周防)だし まあ3分で見る価値なしと判断しましたがとても質が高いとは言えない動画ですね
@諏訪四郎-g1x
3 ай бұрын
入門だから、わかりやすい都道府県の方がいいと思います。
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