【ゆっくり解説】 北方の辺境国[燕]は、本当に弱小国だったのか 【燕 秦 春秋戦国】

  Рет қаралды 88,540

鳥人間 中国史三昧

鳥人間 中国史三昧

Күн бұрын

Пікірлер: 162
@うみうし-l7b
@うみうし-l7b Жыл бұрын
この燕が支配してる地域、後々燕雲十六州だったり北京があったりで、当時は目立たない辺境国家だったとしても何気にすごい重要な役割を果たした国なんじゃないかと思いました 燕の自国領を広げただけに留まらず、中華の領域を広げたというか
@影森治-e1h
@影森治-e1h Жыл бұрын
やっぱり極稀に現れる名君・名将頼みではシステマチックな秦に敵わないんだなって、、、
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
燕昭王の「一帯一路」(滄海之路)戦略 燕の貨幣、燕明刀は、朝鮮半島、日本の広島県、佐賀県、沖縄県でも出土してます。 このルートで、交易路が開拓されたようです。
@nonsectlogical
@nonsectlogical 3 ай бұрын
そうだったんですね。 北も西も強敵だらけ。燕は、「東方」に目を向けて、国運を拓こうとしていたんだなあ・・・あんな早い時代に。 人間のダイナミズム・発想力は、本当に凄い。立ち尽くすしかないね。 「燕」ファンとして、燕は贔屓したい国です。
@無暗道人
@無暗道人 Жыл бұрын
燕はあまりに記録が無いのに歴代の王様だけは異常に人数が多いから、「実は燕は二国あったのを司馬遷が一つにまとめてしまったんだよ!」「な、なんだってー!」と主張する学者までいる。
@劉文叔-c4s
@劉文叔-c4s Жыл бұрын
実際春秋時代は衛付近の中原地帯に南燕という国があり、たまに春秋左氏伝に登場する 司馬遷がこの国の君主とごっちゃにした可能性は大いにある
@torotsuki
@torotsuki Жыл бұрын
実際、前718年に宋の東門攻撃に報復するために鄭が宋に攻め入ったとき、宋は南燕と組んで鄭を迎え撃ったという話がある。鄭の公子曼伯と公子突が背後から別働隊を率いて南燕を奇襲して、南燕と宋は敗北したらしい
@無暗道人
@無暗道人 Жыл бұрын
@@劉文叔-c4s 史記の燕召公世家世系表で9代恵侯、25代恵公、40代恵王、16代桓侯、19代桓公、35代桓公、15代宣侯、20代宣公、21代昭公、39代昭王、23代文公、36代文公と諡号のダブリがやけに多いのもそれっぽいですねえ。
@towbbb9160
@towbbb9160 Жыл бұрын
この説、実は結構信憑性あるのよな
@nonsectlogical
@nonsectlogical 3 ай бұрын
最後の絵が、癖になってます。 贔屓の「燕史」に、こんな絵をつけてくれてありがとう。 涅槃ポーズで本読み。皆に頼られる巫女だから、のんびりしたお休みにも、自己研鑽を怠らないのですね。
@如月弥生-f6h
@如月弥生-f6h Жыл бұрын
燕というと楽毅にばかり目が行っていましたが、子之の乱っていう直近のトラウマを君臣共に抱えた国で 郭隗を師と仰ぎ、楽毅に軍を長期間預けつつ国内を安定経営した昭王ってとんでもない名君なのでは?と思うようになりました
@akihikomaeda7080
@akihikomaeda7080 Жыл бұрын
お疲れ様です。今回も素適な動画でした。「燕」といえばやはり楽毅と「燕人張飛これにあり」の名乗りの張飛ですよね。あと、映画では荊軻が登場する「始皇帝暗殺」でしょうか。😄
@和田高明-w7s
@和田高明-w7s Жыл бұрын
ありがとうございます!
@c-history
@c-history Жыл бұрын
いつもご支援いただき、有り難き幸せッ!! お心遣い、いつも励みになっております~!!
@ここをキャンプ地にした
@ここをキャンプ地にした Жыл бұрын
燕っていえば、やはり楽毅なんだろうけど、刺客・荊軻のエピソードも好きだな。特に覚悟を決めて秦に向う際に、仲間と別れる時に詠んだ詩が最高過ぎる。
@princ2024
@princ2024 2 ай бұрын
风萧萧兮易水寒,壮士一去兮不复还。充满了无尽的悲凉...
@亜紀小山
@亜紀小山 Жыл бұрын
ちょうどキングダム戦国七勇で燕を見たばっかりだったのでまさにナイスタイミングでしたよ。楽毅が国を出奔せずに重用されてたらどうなったかなぁ
@MrDeha6450
@MrDeha6450 Жыл бұрын
最後に出てきた慕容垂や安禄山も頭に浮かんでしまう「燕」。私が最初に触れたのは漢文の授業の荊軻の話でした。建国からその太子丹が荊軻を送り込むまで、知られざるストーリーてんこ盛りでびっくりしました。そして私にとっての燕最大の謎は『山海経』の『倭属燕』。
@三宅猫之助
@三宅猫之助 Жыл бұрын
その成立からして記録する慣習や制度がなかったとは考えにくいので、斉が姜斉から田斉になったように乗っ取りがあって記録抹消されたという可能性もありそう。
@user-scorpioak
@user-scorpioak Жыл бұрын
今回も楽しい動画をありがとうございました。 キングダム繋がりだと、太子丹を遼東まで追ったのは李信ではありませんでしたっけ?
@m袖
@m袖 Жыл бұрын
Thanks!
@c-history
@c-history Жыл бұрын
いつもご支援いただき、本当にありがとうございます!! ご厚意、励みになりまくりですッ!!!
@山田稜-x5v
@山田稜-x5v Жыл бұрын
忘れられがちなもう一つの燕「南燕」 投稿お疲れ様です
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
地下からの歴史修正(20世紀の各種出土品から) ・国名は、「燕」ではなく、「郾」(匽) ・燕昭王=「郾王職」、燕恵王=「郾王戎人」、燕武成王=「郾王讙」、燕孝王=「郾王遇」、燕王喜=「郾王喜」 ・昭王が5カ国同盟で斉を攻めたのが壷に書かれた文章で確認できます。「唯郾王職、踐祚承祀、厇幾三十、東會盟國、命日壬午、克邦毀城、滅郊之獲。」
@user-Gifu_no_Zoukinya_san
@user-Gifu_no_Zoukinya_san Жыл бұрын
なるほど。 北方異民族との抗争に明け暮れていた分、騎兵、鉄製武器、軍制などの軍事分野では先進的ではあったんですね。 同様の理由で、優秀な人材を積極的に登用する気風もあったと。 楽毅を使いこなして斉などの豊かな地域を獲得できていれば、ワンチャンあったのかもしれませんね。 でも、異民族との抗争があったからこそ野蛮な異民族との対比で、自分たちこそが正統な周の文化を受け継ぐものだという自意識が強かったのかもしれませんし、だからこそ積極的な拡張主義や法家思想にも傾倒できなかったのかもしれません。 そうこうしてるうちに法家の化け物であった秦が手の付けられない強国となり、蹂躙されるのを待つばかりとなってしまった、と。
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu Жыл бұрын
同じようにメソポタミア北にいたアッカド人が建てたアッシリア帝国も、騎馬遊牧民との戦いから騎馬技術を体得し、まるで騎馬遊牧民かと見間違えるほど(資料によっては馬の品種改良すらしていたとか)の馬の使い手でした。
@ソクラテスくん
@ソクラテスくん Жыл бұрын
平安時代後期〜鎌倉時代の武士、コサック、フサリア、ヘタイロイやエクイテスみたいに、遊牧民の戦術と技術で軍事力強化に成功した例がありますね。
@mocchi2643
@mocchi2643 Жыл бұрын
最初は河南にも燕国があったので、河南にあった燕を「南燕」、河北にあったこちらの燕を「北燕」としていた。因みに南燕国の国姓は「姞」だったので、こちらの燕の国姓も「姞」ではないかという説もある。
@hayate9136
@hayate9136 Жыл бұрын
15:39ここすき あばばばばっばばばっばっばー
@湯-n5v
@湯-n5v Жыл бұрын
3:23 「非情に貴重な記録」確かにそうかも知れないがもうちょっとこう手心を……
@なめ茸-n5e
@なめ茸-n5e Жыл бұрын
昭王と楽毅が出た時のビッグウェーブに乗り遅れてしまったのが燕の運の尽きでしたね...
@hirosat5269
@hirosat5269 Жыл бұрын
3:01 北京(燕の首都薊)あたりまで山戎が来ていたとすれば、斉桓公の国境を越えて見送りさせたったお→じゃあここを国境にするお!っていう話は、燕が領土をほとんど失って斉にもらうしかない状況だった可能性がワンチャン。
@公束
@公束 11 ай бұрын
関羽張飛のトレードマークが長柄武器という辺りも出身地との親和性が高かったと言えなくもない。
@ざっぱごう
@ざっぱごう Жыл бұрын
子之の乱は、「伝説を真に受けて、禅譲などするやつがあるかっ」という感じだったのかな
@mukutinausagi
@mukutinausagi Жыл бұрын
辺境地のを獲得しても、費用がかかりすぎて経営がうまくいかなかたった、というパターンにならなかったのが凄いですね
@user-et6vx6gz4b
@user-et6vx6gz4b Жыл бұрын
燕は非常に面白い国です。 こんなに詳しく教えて下さり感謝です。 趙と並ぶ北方の雄ですが、異民族の習俗を取り入れて強兵を目指した趙とは異なり 中華的な周の礼制を復古させて国家の権威を高めたところに面白さがあります。 古の大国の権威を踏襲するやり方は、欧州でローマ帝国の威光を借りてドイツ人が神聖ローマ帝国を建てたり、東欧でルーマニア(ローマニア・ローマ人の国の意味)が建国されたのと似ています。 もしかしたら異民族が漢化した最初期の例かもしれません。 そうすると燕侯克の血統が守られたかは非常に疑わしいけれど、李世民が周辺諸部族に推戴された様に尊重されていたとしたら 非常に格式の高い国といえます。 そもそもなぜ燕という鳥の名前が国名に採用されたのか? ツバメをトーテムとする部族が居住する地域が周の侵攻を受けて功臣の召侯の長子に与えられたのだろうか? 興味が尽きないところです。 面白いなあ鳥人間中国史チャンネル!!
@奈良岡昭宏
@奈良岡昭宏 Жыл бұрын
いいえ、今年の実写映画ナンバーワンは、トランスフォーマー・ビースト覚醒です(個人の見解)! それは置いといて。三国志演義とかでも燕人・張飛と言われていますね。
@気まぐれ天使-u7w
@気まぐれ天使-u7w Жыл бұрын
日本の東北地方も阿弖流為が出てくるまで殆ど文献に有りませんね
@ヨーク公リチャードプランタジネット
@ヨーク公リチャードプランタジネット Жыл бұрын
やっぱ辺境国家は中原に打って出て覇を唱えるより、周辺国ぶちのめして版図拡大する方がやり易いんだなぁ 呉王夫差が酷評されるわけだ
@u-lala-good-go
@u-lala-good-go Жыл бұрын
ああ、本当に面白いっ!
@sutesute2790
@sutesute2790 Жыл бұрын
昭王が10年長生きして楽毅により斉を完全に併合できていたらなぁ
@momotarou724
@momotarou724 Жыл бұрын
1:01 ラース・フォン・トリアーの「キングダム」は26年越しに三部作目の「エクソダス」が公開し しかもあの中華統一の方の「キングダム運命の炎」と公開日が一緒という…… 因みにトリアーの方の「キングダム」は全三部作合計"15時間"の中国の歴史に負けず劣らずの超大長編映画だから 皆見よう(私は見た)
@shou-sho
@shou-sho Жыл бұрын
島袋光年先生の「ヤバイ」が素材に使われてるの笑う  公開されたの一昨日なんだけど
@劉文叔-c4s
@劉文叔-c4s Жыл бұрын
燕王カイって息子が王になってるのに諡号ないんだよね… やはり昭王は禅譲事件に思う所があったんだろうな
@MUSASI40
@MUSASI40 Жыл бұрын
与えられても霊とか幽になったと思う。
@なしなしなし-y8q
@なしなしなし-y8q Жыл бұрын
キングダムシリーズ復活ありがとうございます。本日、キングダム3を再度見て来ましたが、やはり心を撃たれる作品ですね~~(^^♪
@茶聖
@茶聖 Жыл бұрын
なるほど。徳治主義が国是の燕だからこそ斉制圧後に楽毅を王にしようとしたのだな。登用した家臣の功績をしっかりと認め、同格の王に即位させようとした昭王はとても大きな器の人物だったのだな
@めそ-h2d
@めそ-h2d Жыл бұрын
楽毅や荊軻ロマン溢れる人材がいた弱小国と見なされ侮られながら九百年も存続出来た燕好き
@nao-kf3xz
@nao-kf3xz Жыл бұрын
西周の正統性にとらわれず、満洲と沿海州の異民族もまとめ上げた帝国に成れれば、ワンチャンあったのかな
@剣崎ちゃんねる
@剣崎ちゃんねる Жыл бұрын
まあ楽毅が斉を滅ぼしていたら秦をも上回る最強国になっていたかもしれない。
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
5カ国が手を引いたら、残り2城も落とせなくなるんで、やっぱり弱小国なんだと思います。
@マッチ-x1y
@マッチ-x1y Жыл бұрын
間抜けな親と子を持ってしまった昭王。本当に気の毒である。
@石塚大吾-s2g
@石塚大吾-s2g Жыл бұрын
昭王が長生きしていたらなぁ😂
@coldexp7189
@coldexp7189 Жыл бұрын
@@マッチ-x1y 子の方は……もしかしたら、禅譲事件という前例の所為で力と名声を持つ臣下を恐れても、仕方ない気がする。 結局、力を持った将軍に殺されるらしいけどw
@公孫無恥
@公孫無恥 Жыл бұрын
管子の中で斉や楚と並んで天下の隠王とされているから財政面でのポテンシャルは高かったと思います。
@小鳥遊瑤
@小鳥遊瑤 Жыл бұрын
ラース・フォン・トリアー監督好きなので、いつ出てくるかドキドキしてたから嬉しい~
@user-vv2pk6yw4l
@user-vv2pk6yw4l Жыл бұрын
楽毅一人を輩出しただけでも十分歴史に名を残す国だからヘーキヘーキ
@スナフキン-f2k
@スナフキン-f2k Жыл бұрын
中国のドラマ、キングダム戦国の七雄でも子之の乱をとりあげてました。王になれなかった嫡子が可哀想
@フルサン-p7l
@フルサン-p7l Жыл бұрын
昭王がもう少し長生きしていれば秦・楚・燕の三国時代になったかも・・・しれませんね。
@yuka-youtube
@yuka-youtube Жыл бұрын
燕史。王が禅譲し、魔理沙が国王になり国が栄えた。メモメモ。
@濱本貴寛
@濱本貴寛 Жыл бұрын
荘公「(東)周恵王の13年丁巳、私が燕の君主となって27年の年…我が国は山戎の侵入を防ぎきれず斉に救援を頼んだ。 そして斉軍は、見事に山戎を撃退した…その後の事」 ……… 荘公「斉に救援を頼んで本当に良かった、実に頼もしい事です」 桓公「何の、山戎を孤竹まで追撃し徹底的に叩きましたからな。 もしもまた山戎に攻撃されたら、直ぐに駆けつけますぞ」 荘公「お気遣いありがとうございます」 そして… 桓公「おっと何時の間にか、国境を越えてしまいましたな」 荘公「あっ…」 桓公「さて…」 管仲「我が君、諸侯を国境を越えて見送り出来るのは天子のみとされております」 桓公「じゃが、現に国境を越えてしまっている。 どうすべきだ?」 管仲「ならば、此処を斉と燕の国境にすれば宜しいかと…これなら問題有りませぬ」 桓公「燕を救援して、しかも領土を割譲せよと申すか?」 管仲「天下の覇者たらんとお望みなら、些細な事に拘らず度量の大きさを示すべきです」 桓公「分かった、そちの言う通りだ」 …………… 桓公「お待たせいたした、此処を斉と燕の新たな国境といたそう」 荘公「えっ、良いのですか?」 桓公「これならお互いに、国法を破らずに済みますな」 荘公「確かに」
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
燕では、郡都制(郡県制。県級を都と称する)による中央集権化が図られてます。郡は、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東の5郡があり、武官が「守」を務めました。都は、少なくとも25ヶ所の名前が知られており、「令」が統治しました。 ただし、封建領主も残されており、例えば、樂毅は昌国君に封じられてます。
@needDAI
@needDAI Жыл бұрын
資料は少ないけどいぶし銀という感じ。でも昭王と楽毅のコンビで大分爆アド貰ってる感じ。
@たどころこうじ-n6j
@たどころこうじ-n6j Жыл бұрын
4:31 アンダーワールドかな?
@うにいくら
@うにいくら Жыл бұрын
コメント欄も有識者が集まっていて読んでて楽しいです
@ks5643
@ks5643 Жыл бұрын
斉が燕を占領したのが後のドラマのきっかけで、その際完全に燕を支配してしまえば斉が天下を取っていた可能性もあると思いますが。 個人的には斉が好きなのですが、ファンは少ないようですね。
@qoamb410
@qoamb410 Жыл бұрын
安史の乱の首謀者の史思明が、今の北京を「燕京」と言っていましたね。多分、春秋戦国時代の「燕」が由来なんだと思いますね。また、朝鮮半島の王朝は北京へ派遣する使節を「燕行使」と言っていた様ですので、古くから「燕」の力が朝鮮半島まで及んでいたとする話しは、的を得ていると思います。お話し面白かったです。「映画 キングダム 運命の炎」の盛り上がり、期待したいですね。
@fredcheng2736
@fredcheng2736 Жыл бұрын
燕国和箕子朝鲜相邻,击败箕子朝鲜使它衰落,
@琛-s2d
@琛-s2d 9 ай бұрын
燕国很长一段时间湮灭无闻,和燕国公室参与周天子政治斗争有关,还有之后气候变冷带来的蛮族入侵的影响。 不过有趣的是,近几十年北京地区和满洲地区出土了很多燕国青铜器,填补了很多历史空白。虽然燕国在大陆势力弱小(乐毅那次只是昙花一现),但在辽东、朝鲜半岛征伐开拓很多。可以说,《史记》和《尚书》中对箕子朝鲜的记载相当可信,当然,韩国人肯定无法接受😂
@matha2384
@matha2384 Жыл бұрын
キングダムで燕っていうとオルドといい激辛といい、楽毅以外は噛ませのイメージ
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
劇辛は、当時としてはかなり知られた法家・兵家です。元は趙人で、武霊王が死んだ後に燕昭王に招かれました。漢代には、「劇子」9編が残されてたようです。
@matha2384
@matha2384 Жыл бұрын
@@intelljp 有識者助かる 作中でも一応勉強熱心なところが描写されてたのでそこから来てたのかもしれないですね
@シングルコイル-c7n
@シングルコイル-c7n Жыл бұрын
禅譲という名の簒奪😢 楽毅は偉大だけど、俺は田単が好き♥デンタンデンタンデンターン♪
@武闘派のび太
@武闘派のび太 Жыл бұрын
以前楽毅の動画も拝見したが、やはり昭王が楽毅を重んじた時代が唯一の黄金時代であったと言えよう。
@ドラゴンツッチー
@ドラゴンツッチー Жыл бұрын
燕の記録が残ってないのは、やはり北方の異民族との戦いや北方の地の開拓に力を注いでいたため、中原地域に関わる事がほぼなかったからな気がします…。(たいていの場合は自力で異民族と戦えたのだろう。) 早い段階から鉄製武器を揃えていた(交流した遊牧民から鉄製品作成の技術をけっこう早い段階で取り入れられたのだろうか)のもあって、軍事力だけで言えば他の戦国七雄の国々と戦えたんでしょうが、内政面でけっこう混乱があったため、その力を十分に発揮できなかったんじゃないかと思います。(魏や韓と違い、新規開拓地も十分あるし、潜在力は結構あったと思う。)内政面で混乱がけっこう起きたのは、やはり国の正統性が西周時代に封建された周王室とも血の縁があるというものだったために、どうしても復古主義的な迷走があって、新時代に適した改革をうまくできなかったからだと思うます。 そういや、燕って西周時代初期からかなり長い期間存続している国ですが、これって最古級じゃ…。(西周時代初期に生まれ、戦国時代末期以降に滅んだ国が燕以外思いつかない…。)
@ケンケン-b3r
@ケンケン-b3r Жыл бұрын
そもそも記録が残っていることがスゴいのよ💦 司馬遷ですら、100年後の人ですもん。 「史記」が偉大なのよ‼️
@nix-oh1tv
@nix-oh1tv Жыл бұрын
相変わらず地下すごいなあ
@丘吾子
@丘吾子 Жыл бұрын
燕くらいの土地になると、王族は置いておいて一般人・一般貴族はほぼツングース系だったのかもしれませんね。だからこそ周の儀礼に拘ったのかも。 我々は中原の民であって、野蛮人ではないと主張するために。 ただ金文資料によると、孔子が憧れた最高の徳治国家・周こそが野蛮な首狩り祭祀国家だったんですけども・・・。
@fince2006
@fince2006 Жыл бұрын
どうしても、天竜八部を思い出していかん。
@TAIKI1942katayose
@TAIKI1942katayose Жыл бұрын
隗より始めよ の国ですね✨
@伝説の麻婆豆腐
@伝説の麻婆豆腐 Жыл бұрын
斉を滅ぼしていたらなあ・・・ キングダムの時代では、暗殺が無かったら、存在感が無いままだな。サンキュー丹、フォーエバー丹 キングダムでもそれなりに、話数を用意して貰えるはず
@kayakugohan350
@kayakugohan350 Жыл бұрын
始皇帝暗殺のときに出てきた秦舞陽が秦開の孫だと後に知って驚いた 言われてみれば確かに燕の太子丹が荊軻に紹介した人物だったなと
@fredcheng2736
@fredcheng2736 Жыл бұрын
秦开还击败了箕子朝鲜。
@満千子服部
@満千子服部 Жыл бұрын
風しゅうしゅうとして易水寒しや、燕人張飛とか有名な割に燕のこと知らなかったです。ありがとうございました。
@カプリチョーソ
@カプリチョーソ Жыл бұрын
いつも楽しい動画ありがとうございます。 「地下からの新発見!地下からの新発見!地下からの新発見!地下からの新発見!」でした??過去動画を思い出した♪ 「地下からの新発見!」最強!! 妄想・チン説の余地、大弾圧の時代が来た!!!
@noriaki4927
@noriaki4927 Жыл бұрын
春秋戦国時代は辺境の都市国家でも 世界帝国元朝(フビライハン)に、首都👍その後明&清&人民共和国と途切れはしたがほぼ首都の地位を締めている。地政学上重要地域。北方民族への防衛拠点もあるけどね…司馬遷が後の時代を識ることができたら、詳細に調査し直すだろう。
@harigane4773
@harigane4773 Жыл бұрын
春秋時代には北方、東方進出するにも国力足りなかったけど、戦国期にはなんとか遼東遼西を手に入れたが、そこそこの国力を得るころには超大国が膨れ上がっていたわけか…。日本でいうところの伊達政宗や島津っぽい。中央集権化できなかったところも含めて。 楚の郢が実は単に「都」って意味だと聞いたときに、「じゃあ燕の薊のそうなんじゃないの?」って思ったけど、どこにもそういう言及ないってことは普通に地名なのか…。
@shou-sho
@shou-sho Жыл бұрын
"薊"はアザミのことですね。牧草地だったんでしょう。
@heiho_ita
@heiho_ita Жыл бұрын
今の北京や天津あたりだから場所はいいのかなと思う🤔
@チョコレート大魔神さん
@チョコレート大魔神さん Жыл бұрын
いやーまあ微妙ですよね。当時は長江流域中原が豊かでしたし冬とかはめちゃ寒そう
@jodasow
@jodasow Жыл бұрын
金朝から中ソ対立時代までは、脅威となる勢力への対抗軍事力を集中させたい場所が燕あたりであり続けたんですよね。 しかも辺境に最強軍団をおいておくと、そいつらが謀反する脅威の方が大きくなる。 という理由で800年以上も首都だったんじゃないかなあ。 乾燥地帯なので、今の北京は水の確保が大変らしいですね。
@shou-sho
@shou-sho Жыл бұрын
いいのかの内容によりますが、北京のあたりって後漢時代ですら流刑地扱いなんですよね。 札束積まないとわざわざ行きたいと思う人はいないんじゃないかな。(だから郭槐みたいな話になる)
@seattleslew2332
@seattleslew2332 Жыл бұрын
戦国時代に禅譲を行っていたとは 時代に合わないことをすると侵攻を受けるのは様式美
@tyourea
@tyourea Жыл бұрын
北部は、寒冷地だから牧畜にしろ麦・稲作にしろ育ちにくいから人口増えないね。 地理的に不利。
@laozionoff
@laozionoff Жыл бұрын
山海経には燕に属すると書いてあります。燕の文献が出土すれば弥生時代の日本のこともわかるかもしれません。秦の万里の長城は残っていませんが、燕の万里の長城はつい最近まで残っていたはず。
@renngekisouhei8303
@renngekisouhei8303 Жыл бұрын
まってた
@yuzuki_himazin
@yuzuki_himazin Жыл бұрын
燕で思い出したけど「魚夫の利」って何時ごろの話なんでしょうか?
@new_handmade
@new_handmade Жыл бұрын
燕が来る所まで燕國だったのでは、詰まり中華全土に遠征したかった。 しかし呆気無く亡くなる。え〜ん。(´Д⊂グスン
@ムッシュビーン
@ムッシュビーン Жыл бұрын
ハイライトは昭王と楽毅だけのイメージ
@intelljp
@intelljp Жыл бұрын
産業は、南部が農業で、北部は牧畜業でした。農具は、戦国中期頃には鉄器に移行してます。鉄器生産は官営で、主要武器は鉄器でした。官営で陶器生産も行われおり、北方民族の影響で皮革業も発達してました。 北方辺境に位置しますが、中原にはない商品が豊富で商業も盛んでした。燕明刀と呼ばれる刀状の貨幣が鋳造されてます(斉も刀銭)。
@kousuke1976a
@kousuke1976a Жыл бұрын
バコ族とかあきらかにやられ役の部族名が出てくる国ですねw
@seattleslew2332
@seattleslew2332 Жыл бұрын
19:15 「まことにありがとうごぎいました」の元ネタがわからん
@miracle3739
@miracle3739 Жыл бұрын
今でも北京は燕。
@沙流汰彦
@沙流汰彦 Жыл бұрын
燕の土地には『山海関』が後に作られるような要衝の地でありまた東側の交易を独占できた土地だったのだろう😊
@阿骨打努爾哈赤
@阿骨打努爾哈赤 Жыл бұрын
王莽の禅譲は簒奪に近いけれども燕の禅譲はどうだったのだろう。王自身がノリノリだったら息子の燕昭王は可哀想だけど。
@藤晶-w3e
@藤晶-w3e Жыл бұрын
記録残すこと 大切
@ikojiku
@ikojiku Жыл бұрын
理想は理想であって、君主からしたら禅譲って特権の放棄だからな 他の君主たちからしたら、コラさんの父親みたいな見られ方になるわな
@一景-y4d
@一景-y4d Жыл бұрын
燕というと「燕人張飛」が思い浮かびますねえ
@葉月とーや
@葉月とーや Жыл бұрын
張飛「燕人(えんひと)張飛、これにあり!俺と燕について語りたい奴はいるか!」
@ルレックス
@ルレックス Жыл бұрын
こうやって見ると、中原から遠く離れすぎているから記録に残らないだけで、経済活動や領土拡大などはやっているんですね やっぱり裏庭付きの国って強いんですなぁ…
@覇王花-r9u
@覇王花-r9u Жыл бұрын
ラース・フォン・トリアーとかいう好きなんだけど人にはお勧め出来ない監督w 昔は楽毅と荊軻、あとは張飛の燕人名乗りぐらいしか知らなかったなぁ。
@bwjbb475
@bwjbb475 Жыл бұрын
こんばんは。そっちのキングダム持ってきたら折角劇場版キングダム3応援&ビッグウェーブに乗せてください企画が台無し~ww 改めて今日は燕ですか。よく知らねえなあと思ったらやっぱりよく分かってない国だったのね。でもいつもの地下からの資料先輩にはいつもお世話になりますw 私の中では燕と言えば昭王と楽毅、郭隗、荊軻くらいしかパッと思い浮かばないです。すみません。 燕はそれなりに頑張ったんだろうけどやっぱ中央からは遠すぎた。斉を併呑できていればなあ。まあIFは言ってはイケないな。きりがなくなるから。
@COSF101
@COSF101 Жыл бұрын
蚩尤のこと、解説ちてほしい😅
@shou-sho
@shou-sho Жыл бұрын
楽毅はたまたま文献に残っただけで、燕の全盛期はじゃなくて前4世紀かもしれませんね。 例えば前4世紀は武陽城(32.89㎢)が都だったんだけど、これ前漢の長安城(34.12㎢)の広さに匹敵するんですよね。 逆に楽毅時代の薊城(7.89㎢)は七雄としてはちょっと物足りない。 もちろん都の規模が国力の全てではないけど。 ※ 他の七雄は最大が斉・臨淄の18.37㎢、最小は秦・雍城の11.09㎢。 (統一秦の咸陽は別格の170.45㎢)
@冬貴-p6l
@冬貴-p6l Жыл бұрын
それでも、後世における北京の礎を築いたことは、評価しても良いと思う。
@佐藤りょうすけ-d6j
@佐藤りょうすけ-d6j Жыл бұрын
キングダムでもオルドが出てきてるくらいでマジで謎過ぎる国だもんなぁw ちなみに斉も結構キングダムだと謎だよねぇ 斉王が秦に来て実質同盟を結んだくらいでほぼ何も分からんw 他の国が濃すぎるのもあると思うけどねw
@世祖武烈皇帝赫連勃勃
@世祖武烈皇帝赫連勃勃 Жыл бұрын
黒竜江と吉林まで領土拡大してたらもうちょっと長生き出来てそう
@圭田村-o4f
@圭田村-o4f Жыл бұрын
やはり刺客荊軻と太子姫丹のイメージが強い。
@いけ-m1q
@いけ-m1q Жыл бұрын
5分台の四世紀後半は、紀元前?
@nnsansa
@nnsansa Жыл бұрын
楽毅がいる時以外は大体ボロボロに負けてる印象。 長平の大敗を喫した趙に攻め込んだら廉頗にボコられて首都迄包囲されたのは草も生えない。
@yuka-youtube
@yuka-youtube Жыл бұрын
寒すぎて食べ物がろくになかったのかも。三国志11-14やると、北東は邪魔・・・誰かに委任して放置クマ🐻
@わんしーじー
@わんしーじー Жыл бұрын
燕と言われて真っ先に思い浮かぶのは明の燕王
備中高松城の戦い 歴史家 磯田 道史氏が徹底解説
52:07
おかやま観光コンベンション協会【公式】
Рет қаралды 560 М.
BAYGUYSTAN | 1 СЕРИЯ | bayGUYS
36:55
bayGUYS
Рет қаралды 1,9 МЛН
The Hittites I Docu-Drama
2:02:45
Tolga Örnek
Рет қаралды 1,5 МЛН
BAYGUYSTAN | 1 СЕРИЯ | bayGUYS
36:55
bayGUYS
Рет қаралды 1,9 МЛН