【ゆっくり日本史解説】邪馬台国はどこにあったのか。

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れーしch【歴史】

れーしch【歴史】

Күн бұрын

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@kabogame3909
@kabogame3909 Жыл бұрын
欠史八代実在するという考えでで好きになりました。動画投稿これからも頑張ってください。
@tomoyuki36
@tomoyuki36 3 жыл бұрын
大変面白かったです。神話って事実を美化させた伝言ゲームだと思うので国譲りや東征など点になっている神話を繋げていくとさらに面白そう。周りに日本史好きはいますがこの時代について酒飲みながら語られる友人がいないのでこれからも楽しみにしています。
@玉井次郎
@玉井次郎 3 жыл бұрын
20年以上前に亡くなった父が、趣味で邪馬台国の研究をやっていて、しきりと邪馬台国は、山門郡にあったはず、と言っていたのを覚えています。
@waitingbirdpurechild5789
@waitingbirdpurechild5789 2 жыл бұрын
私も山門郡の女山(ゾヤマ)が卑弥呼の墓ではないか⁈と…睨んでます✨😏
@りむっっち
@りむっっち Жыл бұрын
私は元山門郡に住んでいます
@rakujin
@rakujin Жыл бұрын
残念ながら、 山門が邪馬壹國でない決定的な証拠は、山門には三世紀に水銀辰砂鉱山遺跡が無いのです。
@okayamanzo5685
@okayamanzo5685 3 жыл бұрын
ありがとうございます!
@behsan41
@behsan41 3 жыл бұрын
いろんな説があって、それぞれ謎やロマンを感じられるところが、人を惹き付ける所以だと思います。 ある意味、真実は謎のままのほうが楽しいのかな?なんて思ったりもします。
@saon9169
@saon9169 3 жыл бұрын
いわゆる欠史八代は業績が書かれてないから存在してないと言われるけれども、各地の豪族と婚姻関係を結び、それによって(戦争によらず)勢力を拡大していったのが最大の業績なのだと思います。
@田中太郎-h3f4o
@田中太郎-h3f4o 4 жыл бұрын
福岡県みやま市(旧山門郡)周辺には、やたらと女とか姫とか妻とかがつく地名があります。八女市とか女山(女王山)とか姫御前とか。それと、投馬国(つまこく)は、宮崎ではなく地名から推測して、八女市周辺だと思う。その辺りに、三潴(みづま)、上妻(こうづま)、下妻(しもつま)、朝妻(あさづま)という地名があるので。
@鶴正和
@鶴正和 3 жыл бұрын
興味無いご考察だと思います。 地元民ながらの考察として、近所に前津という地名があります。津の字は海岸線、もしくは湿地帯ひ付けられる地名であるとすれば、行運時間に影響があったかもしれないと思います。女山有力説を精査しているところです
@トミヤマ-c6r
@トミヤマ-c6r 3 жыл бұрын
畿内の古い地名には実はヤマダイ郷なんて地名が複数ありますけどね。 特に奈良のヤマダイ郷は神功皇后の母の出生地、葛城高額郷のすぐ近所にあったりしますよ。
@yamada19591112
@yamada19591112 2 жыл бұрын
とむままま
@yamada19591112
@yamada19591112 2 жыл бұрын
@yamada19591112
@yamada19591112 2 жыл бұрын
@渋谷陽介-i8b
@渋谷陽介-i8b 3 жыл бұрын
そして、邪馬台国の九州説も畿内説も江戸時代の新井白石が唱えた説だったという事実
@イップスした草ヴァーさん
@イップスした草ヴァーさん 3 жыл бұрын
新井〜!
@zzz27record
@zzz27record 4 жыл бұрын
四国説の動画をどこかで発見したけど、面白かった。そういう説と説の否定しあいが見てみたい。
@hrybn114
@hrybn114 4 жыл бұрын
邪馬台国九州説、いいと思います。 人がそれぞれ考察することで、研究が進むことになります。 近畿説を主張する人たちはそれなりに根拠があるからこそ主張しているわけですし、それもいいと思います。
@manokachan6983
@manokachan6983 3 жыл бұрын
畿内説の有力な証拠がでて 畿内説で終わりじゃなかった?
@ayabe9036
@ayabe9036 3 жыл бұрын
近畿の国の人「邪馬台国?ああ、あの九州の田舎の蛮族の小国の集まりか」てな可能性が。 そのくらい発掘される遺跡の規模が違うでしょ?
@taikyu-bb1oz
@taikyu-bb1oz 3 жыл бұрын
@@manokachan6983 これだー!みたいな有力な証拠なんて出てきてましたっけ?着実な考古学の成果で編年が変わってきていて、邪馬台国の時代と纏向の時代が被っていることが分かったので、規模や出土品の広域性を考えると畿内しかないんじゃないかって話ですよね。この動画にもありますが。
@Baisuhakeito
@Baisuhakeito 3 жыл бұрын
@dream sui そうすると魏志倭人伝の内容の南と東の方角ミスだけでは、方位問題などが解決しないんだよね。 つじつまを合わせるなら、倭国大乱が起きた後に、纏向の宮殿が出来た。なので、畿内から武器などが出ない。と言うのは、当然である。しかし、そうすると鉄器が出てる九州と越後の方から何故畿内に来たのか?と疑問がある。あと、「女王國から東に1,000里ほど海を渡ればまた倭種の国がある」というこれを纏向遺跡を女王国とするなら東に行っても海は伊勢湾、太平洋ということになる。これが方位を90度まげてるので北ということなら琵琶湖を北上ということになるが纏向遺跡から見て北に伊都国ないし、他の国も越後で分権との整合性取れず、そのほかの距離感がおかしくなる。 そして、邪馬台国をヤマトコクとしても、畿内なら、それだけの地域を納める大和朝廷が狗奴国1国に魏の後ろ盾が要るほどだったのかという問題などが上げられる。 物的証拠という銅鏡もあちこちから出土して贈られたと思われる奴の個数超えてる。 九州なら、皇紀などがまぁ狂う。脆弱になった国家の連合での邪馬台国と狗奴国1国なら後ろ盾が欲しいのもウィンウィンで分かる。位置的にも短里説と日程と総距離からしても九州にあった。宮崎派も墓群あるしと言うのも分かる。 四国説も個人的には好きだし円墳もあるし、一応東に纏向遺跡あるけど位置関係がどっちにしても合わないのが問題。 なので、ど素人が見ても、どの説も一長一短だし、納得まで行くとなると...2王朝説か皇紀を捻じ曲げるかなどしないと同一の国ではないと思ってしまう
@犯罪係数299.9
@犯罪係数299.9 2 жыл бұрын
@dream sui 卑弥呼をヒミコとは当時呼ばないのに日の巫女はなかなか苦しくない?現代の言葉遊び感が否めない。 結局どの説の論者も確証バイアスに脳を腐らせてるから説の欠陥に目をつぶって主張したい事を主張してるだけになってんだよね。こうなったらマジで動かぬ証拠でも発掘されない限りは絶対に決着はしないよなぁ…
@torapeziumintheorion
@torapeziumintheorion 3 жыл бұрын
神武東征は日向から大和への婿入りだと言う説がありまして、しっくりきます。 九州王朝と大和王朝は別々に存在した、という本も読みましたが説得力ありました。
@sunsun2181
@sunsun2181 8 ай бұрын
いや、伊都国女王は神武天皇の母で、一種の九州王朝みたいなもの。でも、神武天皇は引っ越しするんで大和にいく。もとの一族は同じ。
@たこ217
@たこ217 5 ай бұрын
@@sunsun2181大物主の一族に婿入りしたという意味じゃない?
@せるじい
@せるじい 4 жыл бұрын
うぷ主のお陰でジャンプで新しく始まった逃げ上手の内容が分かりやすくなって感謝してます
@nekozame_history_fan
@nekozame_history_fan 4 жыл бұрын
10年の間に断続的に調べて分かったことがあります。何人かの研究者が自分の地元こそが邪馬台国であると訴えているのです。この論争に便乗し、地域おこしをしようという動きがあると思います。郷土史家の地元愛おそるべし! といいたいところですが、その過程で古墳や遺跡の保全に関する取り組みが進めば、歴史マニアとしては満足です。
@愛知のヨッシー
@愛知のヨッシー 4 жыл бұрын
四国説もあるけど、それは取り上げないの?
@luci_hiko
@luci_hiko 3 жыл бұрын
@@愛知のヨッシー 四国山上説ね。高地性集落があったのは確かだけど、ちょっと弱いよね。徳島はソロモンの秘宝説とか、神秘県だなー。
@パグ13
@パグ13 4 жыл бұрын
おととし、ダンワラ古墳という場所(佐賀市と別府市の中間ぐらい)から発掘されたらしい鉄鏡が、曹操の墓から見つかったものとほぼ同じ、というニュースと聞いて、歴史のつながり、曹操と卑弥呼のつながりを感じて、すごくうれしくなった三国志ファンで邪馬台国北九州派の私です。(もちろん関係あるかはわかりませんが・・・。)
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
ダンワラ古墳、面白いですね。30mほどの円墳ですが、下部が竪穴式石室で上部に横穴式石室。件の鏡は下側の石室で発見されたそうで。古墳自体は、形式から古墳時代中期以降のものと見られるので、鏡は製造から150年以上後になって副葬品になった模様です。 というわけで卑弥呼の墓とするには少々無理がありますが、日田の勢力が直接か間接かはわかりませんが中国と交流があった証拠でしょうね。
@松本淳-i7n
@松本淳-i7n 4 жыл бұрын
@@toshiyam2853 ?
@葛葉恨之介-z1x
@葛葉恨之介-z1x 3 жыл бұрын
「鉄」鏡 そんなものが出土しているのですね
@tigerion9275
@tigerion9275 Жыл бұрын
@@toshiyam2853 古墳の形式による年代否定を信頼してないわ もう少し科学的な否定方法を述べてくんないかな
@yt9960
@yt9960 3 жыл бұрын
色々な説を取り上げながら解説してあり凄く説得力があります。邪馬台国の場所納得です。私の中には 大和が発展するのは九州の後だろうという先入観があるので、それを打ち砕いてくれる動画を次回期待しています。
@tfujisaki72jp
@tfujisaki72jp 4 жыл бұрын
出土品や地層分析が進んで、この謎が解明してほしいですね。
@渡邉毅-o1z
@渡邉毅-o1z 3 жыл бұрын
九州人の私としては、とても嬉しい内容の動画でした。 なお動画内にも紹介された、松浦国に住んでいます。
@丸山康平-l2f
@丸山康平-l2f 3 жыл бұрын
物凄くレベルの高い室町主が 数人いるけど、ゆっくり歴史解説では れーしchがとにかく好きだな 不眠症民(一説では800万人)ワイ氏 長いゆっくりのおかげでなんとか 日々平穏無事に過ごせてる希ガス 室町6部作も5〜6回完走してる 日本古代史シリーズもオリエント史も 大好こ。
@イップスした草ヴァーさん
@イップスした草ヴァーさん 3 жыл бұрын
ハッハッハッハッハ!足利殿ぉぉ
@user-qh5ve9yh1f
@user-qh5ve9yh1f 4 жыл бұрын
ものすごい教養のあるまんじゅう達だな...
@かまぼこボッコボコ-b8r
@かまぼこボッコボコ-b8r 4 жыл бұрын
何故か特定の分野に特化した知識があるよね
@take4283
@take4283 3 жыл бұрын
出土品 鉄から見ると 近畿説 銅鏡からみると 九州説 どちらにしても 夢がひろがるねー
@YO-high
@YO-high 3 жыл бұрын
動画お疲れ様です。 なかなか説得力があり、大変面白かったです。だいたい歴史家さんたちの話が説得力に欠けるのが問題なんですよね。 狗奴国が熊襲国かと言われていますが、熊襲国とは「球磨」「曽於」の両国のことですね。狗奴→球磨かと。 今後も期待しております。
@google2501
@google2501 3 жыл бұрын
自分は狗奴国が最重要な国だと思っています。狗奴国の場所が特定出来れば北に邪馬台国があるわけで、邪馬台国を探すより早いかと。 以前熊本に行き山鹿、菊池、阿蘇と巡ったのですが、菊池や阿蘇は米が有名らしく何より田園風景と特に水が素晴らしいですね。ここを押さえていたら国力もかなりあったでしょう、邪馬台国連合と一国で戦えるんですから。 自分は方保田東原遺跡が狗奴国だと思っていましたが、もし球磨地方だとするとかなり南になり、もしかすると阿蘇くらいまでは邪馬台国の範囲だった可能性もある事になりますね。
@月曜曰
@月曜曰 2 жыл бұрын
この動画おもしろくて定期的に見てしまう
@nobusumi4
@nobusumi4 4 жыл бұрын
紀元前3世紀ではなくて紀元後3世紀なのではないかな.
@galehoward6488
@galehoward6488 3 жыл бұрын
24:35 ね。紀元前はおかしいね。三国時代は西暦200年代だからね。
@sunsun2181
@sunsun2181 8 ай бұрын
おっしゃるとおりで、動画の説明間違いだと思います。
@done-s
@done-s 3 жыл бұрын
逆に絶対に無かったと思われる場所を挙げてくれ。
@manta0368
@manta0368 3 жыл бұрын
説明がうまい。 邪馬台国に関してはいろんな動画がアップされてるけど、この動画が背景も含めて一番納得できた。 やっぱり九州北部の邪馬台国と近畿の大和朝廷が同時に存在してた説が一番しっくりくる。 欠史八代のところは良く知らなかったから勉強になりました。
@guttya-zj3np6ci5r
@guttya-zj3np6ci5r 8 ай бұрын
古代史ファンとしていつも楽しく拝見させて頂いております。 気になったのですが、末羅国は現在の松浦市では無く旧松浦郡だと思います。現在は松浦市と糸島市の間には伊万里市と唐津市があり接していませんが、江戸時代には旧松浦郡と旧怡土郡は接しており、唐津市までが旧松浦郡です。魏の使者が唐津市呼子町あたりに着いたと考えれば末羅国と伊都国の位置関係は記述通りで正しいです。また唐津と壱岐は近く、現在もフェリーが運航されています。
@浩之-c3w
@浩之-c3w 2 жыл бұрын
いつも楽しく見させていただいてます。北九州という表現を北部九州に変更された方が良いと思います。
@okayamanzo5685
@okayamanzo5685 3 жыл бұрын
大変興味深い内容でした.
@あほ拳コッチー
@あほ拳コッチー 4 жыл бұрын
吉野ヶ里遺跡がなぜ世紀の大発見だったかと言うと、魏志倭人伝の記述に限りなく近い遺構だったからだ。近畿や四国で同様の遺跡が今のところ発見されていない以上は、九州説が有力だと思う。
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
佐賀県の吉野ヶ里遺跡(40万平米)は、今の路線で整備する初期に行ったことがありますが大好きです。素晴らしい。大阪府の池上・曽根遺跡(25万平米)、奈良県の唐古・鍵遺跡(42万平米)、纏向遺跡(300万平米)も魅力的ですよ
@トミヤマ-c6r
@トミヤマ-c6r 3 жыл бұрын
邪馬台国の記述に近いのではなく倭人伝の内容に近いだけですよ。 しかも吉野ヶ里の復元には鍵唐古からの出土資料も使用されたりしますからね。 そもそも考古的には邪馬台国七万戸とある以上は、北部九州で収まるとはとても考えられないのです。
@暢宗元
@暢宗元 Жыл бұрын
日吉神社跡の石棺の開封時が楽しみですね
@toisaa
@toisaa 3 жыл бұрын
1里って4kmくらいじゃないの?と思い調べてみると、 これがまた魏志倭人伝における「一里問題」なるものがあり・・。 昔の事を知るのは、ひとつひとつ難しいのですね。
@kakasiyamadano1010
@kakasiyamadano1010 2 жыл бұрын
邪馬台国をヤマタイ国やヤマイ国と読んでいる限り永遠に謎のまま。
@valjeanmiyabi4808
@valjeanmiyabi4808 4 жыл бұрын
出雲王権はどのような立ち位置になるんでしょう ヤマト王権が出雲王権を吸収し、邪馬台国を併合し 景行天皇の時代に熊襲征伐をしたということかな
@かるいし-l4p
@かるいし-l4p 4 жыл бұрын
わざわざ国譲りなんて話を残すあたり、大和の権力の正当性を示したかったように思えますね。
@双極性障害患者の日常
@双極性障害患者の日常 3 жыл бұрын
面白かったです‼️分かりやすかった。続き期待してます
@ケンピ芋-y6v
@ケンピ芋-y6v 3 жыл бұрын
九州説で進めたときに、大和朝廷の敵でもある大和の豪族、葛城氏などと交流があったのかなと妄想してみる
@擬音祭
@擬音祭 4 жыл бұрын
絶対間違いないのは、魏志倭人伝を書いた人は畿内には行っていないということ。 書いてある現地人の風習が確実に北九州の出土物に合致する。
@pocapamas
@pocapamas 4 жыл бұрын
ですねー。 それもそのはず、九州邪馬台国と同時期に存在していた大和王権の遺跡を 奈良説の人々は邪馬台国だと言い張っているのだから。
@擬音祭
@擬音祭 4 жыл бұрын
@@pocapamas 畿内説の学者達の主張は、とても学問とは思えないです。まるで政治のようです。 「学者の世界では畿内説が有力」なんてことになってしまっているようですが、 この問題で「学者」とは「立場と利害に縛られ研究と発表が自由にできない人たち」と 読み替えれらえると思います。 その主張は「魏志倭人伝に書かれた『卑弥呼』はどこにいたか」を 「魏志倭人伝の時代に日本最大の都市はどこにあったか」にすり替えたものばかり。
@pocapamas
@pocapamas 4 жыл бұрын
@@擬音祭 まさに、まさに、おっしゃる通りですね!
@トミヤマ-c6r
@トミヤマ-c6r 3 жыл бұрын
絶対とは言えないですね。そもそも九州には弥生時代の丹山がないのに無理がありますよ。
@NT-iv9os
@NT-iv9os 4 жыл бұрын
インドネシア?と思ってしまいましたが、そういう事なのですね! 九州に「ヤマト」と呼ばれる地域があった事も勉強になりました。 なんだか、あの三国志の時代と確かに繋がっていたと思うとロマンを感じます!😆
@spica1jp
@spica1jp 2 жыл бұрын
邪馬台国論争の動画に興味がありますが、複雑過ぎて・・・最近見た動画CTcvrZlWvjcは、わりと受け入れやすいと思うのですが、如何でしょうか?
@damchanwr125r3
@damchanwr125r3 3 жыл бұрын
九州の他の地名がほぼ同定されているのにヤマト、ヤマタイはモヤモヤしてるのは不思議な感じがします。 山門郡が古代からの地名ならここかな?と思いますが、活火山が近くにあった方が女王国らしいので、雲仙、阿蘇、霧島、桜島の付近でヤマト、ヤマタイの地名が残る所でしょうか。 陸行30日は糸島から1日10km×30日=300kmくらいののんびりペースなら鹿児島宮崎あたりにありますかね。
@ペンタゴンチャートの魔道師
@ペンタゴンチャートの魔道師 4 жыл бұрын
昔と今とで地形も変わってるので 当時の地図を使って解説した方がよくないですかね?博多ですら今と現行の頃でも結構変わってるらしいですからね
@小林義和絵画ちゃんねる
@小林義和絵画ちゃんねる 3 жыл бұрын
すごいわかりやすい解説。 地図や図説などとても整理されていて… 理解しやすかった。 自分は今までは邪馬台国=ヤマト国かなぁと思ってましたが、かなりいろんな視点から丁寧に解説してくれて、九州説もありだなぁと感じられました。 気になる点とすれば、欠史八代の長寿すぎる点と時代のズレがないか⁇ あとは魏志倭人伝には邪馬台国ではなく台の字が別な字なので、どう読むべきなのかなのか? くらいでしょうか…ヤマイ国が正しいという学者も多いみたいですが…
@gridlight319
@gridlight319 3 жыл бұрын
1912年以降中国と呼ばれる古代ヒナの記録(魏志倭人伝?)によれば、古代日本では、春分と秋分に年齢が1年増えると数えていたそうです。だから古代年齢は現代のおよそ半分です。 台与と書いてトヨと読みます。台はトです。
@影月-x4d
@影月-x4d 2 жыл бұрын
@@gridlight319 9ヶ月後に返信失礼します。昔、日本(倭国)は100を一年間とする記述もありますよ。後、シナ呼びはあまりよくないと思いますよ
@1717-t7k
@1717-t7k Жыл бұрын
@@影月-x4d昔は中国じゃ無くて支那なんだから支那が正しいんじゃないの?貴方が倭国と言ってる様にね。なんなら倭国と日本は一緒だけど、中国と支那は別物だからね。
@kkwolf1777
@kkwolf1777 4 жыл бұрын
山田の大蛇が邪馬台国の軍だと考えると出雲で猛威を振るうには九州、近畿どちらも当てはまるな
@aquadrop8356
@aquadrop8356 3 жыл бұрын
山田の大蛇?数年前の九州北部豪雨でテレビに朝倉の山田って地名映ってたよね、、寺の古文書に三百年前にも同様の記述があるとの事。山田の大蛇とは古来から何度も被害にあってきた大水害の言い伝え?
@MrEssi123
@MrEssi123 3 жыл бұрын
平成の市町村合併で山門郡も大和町もなくなっちゃったんだよなぁ
@葛葉恨之介-z1x
@葛葉恨之介-z1x 3 жыл бұрын
え、そうなの? 地名は文化遺産なのに野蛮な人もいるもんですね
@よしだけんご-o1s
@よしだけんご-o1s 2 жыл бұрын
山門郡は無くなったけど、大和町は残ってますよ(福岡県柳川市大和町)٩(ˊᗜˋ*)و
@kenohzu5518
@kenohzu5518 2 жыл бұрын
くまもん県民からすると、吉野ケ里やみやまは如何にも筑後平野で米作ってる感じで大規模勢力の拠点なのはわかる そこから山鹿市は間に結構山があるのがねえ…山鹿なだけに…
@mt0kysyk
@mt0kysyk 4 жыл бұрын
正直、休日比に古墳 巡りを剃るのも面白いかもと思い始めました〜
@freedomfighting309
@freedomfighting309 3 жыл бұрын
「計其道里,當在會稽、東冶之東。」の意味することは、 「邪馬壹国に行って北極星を見た(高度を測った)ことがあるという人の話では、邪馬壹での北極星の高度(水平線からの仰角)は、會稽東冶と同じだ、と言ってる。」という意味。
@霧生満
@霧生満 4 жыл бұрын
素人考えだけど、魏の使者を案内する倭国側が自分達の土地を大きく見せるように案内した可能性は無いかな? 迂回してみたり、同じところを通ってみたり。
@Allin20m
@Allin20m 4 жыл бұрын
大きく見せるためというより、「攻められたらやだなあ」ってことで場所をわかりにくくしたのかも。
@kyosyotakasima5881
@kyosyotakasima5881 4 жыл бұрын
魏の使者は伊都国までしか行ってない様子なので・・・
@らがざ
@らがざ 4 жыл бұрын
もちろん、今と道なんて整備されてないから、土砂崩れだったり、台風だったり、色々考えられますね! 孫権が台湾と日本に遠征した時に台風で逃げ帰った記録あるしwww
@アカバケン-n9c
@アカバケン-n9c 4 жыл бұрын
私が読んだ説だと、一行が通る村々では歓待の宴会が数日かけて開かれるので、到着に一月もかかった、というのがあるよ。
@megadoitu1
@megadoitu1 4 жыл бұрын
お疲れさまです。 当時の外交は山族や、追いはぎが当たり前の時代で 生還率は50%と聞いたことがあります。 倭人伝という記述があることは生還できたということでしょうから 私なら倭人が住んでいた南海朝鮮の倭人に倭国の情報を聞いて帰っちゃうな?(笑)
@オスカル-g4q
@オスカル-g4q 4 жыл бұрын
霊夢達が喋る度ぽよぽよ動いてて可愛い笑 (個人的に邪馬台国の場所は大陸に近い九州を推します)
@shou-sho
@shou-sho 4 жыл бұрын
一万二千里は理念上の数字という説もありますよね。 夏侯淵の遠征で大月氏国からの朝貢が始まったので、司馬懿の公孫淵討伐で朝貢が始まった邪馬台国の距離はそれ以上にする必要があった。 洛陽~大月氏国の距離が16,000里、洛陽~帯方郡が5,000里だから、帯方郡~邪馬台国は12,000里に設定されただけという。 九州説の弱点は、(今のところ)決め手となる候補地がないことですね。吉野ヶ里遺跡や平原遺跡(弥生時代)、権現塚古墳(5世紀)などは時代が合わなくて可能性は低いけど、小規模国家の連合体という説もありますね。
@かるいし-l4p
@かるいし-l4p 4 жыл бұрын
水行1日千里で帯方郡から狗邪韓国までが7日七千里、狗邪韓国から対馬が1日千里、対馬から壹岐が1日千里、壹岐から末廬国​まで1日千里。残りの陸行が二千里。 これでいいんだよ。
@愛知のヨッシー
@愛知のヨッシー 4 жыл бұрын
距離を考えて、道筋と、周りの説明が ごちゃごちゃたから!わかりにくしているのかな?
@pocapamas
@pocapamas 4 жыл бұрын
理論上の数字と言われますが ソウル、プサン、対馬、壱岐、唐津 分かっている比定地を並べると、それぞれの間の距離の比率(7:1:1:1)は大まかに合っていますので 残りの二千里で奈良には飛ばないことは自明です。
@Dust_of_Mount_Taishan
@Dust_of_Mount_Taishan 4 жыл бұрын
自分のことだけでなく、社会全ての記録を残そうとする。 「歴史」というものを作ったヘロドトスや司馬遷ってまじで特異点その物だよな
@せるじい
@せるじい 4 жыл бұрын
司馬遷は歴史を残す事で徳を重視した世の中になる願いが込められてるから正確無比かと言われると怪しいけどな ヨーロッパの歴史が血も涙もない歴史の繰り返しで救いがないけどアジアはわりと国民を思いやったとかの記述が多い 実際はどうだったかはわからんが
@jodasow
@jodasow 4 жыл бұрын
春秋や竹書紀年もあったから特異点ではないのではないか
@東村山ポンポコ左衛門ゴム長
@東村山ポンポコ左衛門ゴム長 3 жыл бұрын
邪馬台国九州説、大和王朝島根発生説を推しています。 島根で発生して近畿に移った説ですね。
@KeiOnpu
@KeiOnpu 4 жыл бұрын
魏志倭人伝の距離は使者が手柄を多くするために、遠めに報告したという説もあるようです。 「一日千里を走る馬」みたいな表現をする国なので、距離を疑って考えてみてもいいかなと思います。
@001hanuman
@001hanuman 4 жыл бұрын
過大に誇張することはあっても過小に言うことはないだろうから、九州北部に上陸した後に近畿までレンジを伸ばすのは無理があると思うわ。
@加藤勉-g5p
@加藤勉-g5p 3 жыл бұрын
千里を魏晋朝短里で計算すると、約76kmになります。 だとすると、現実的な表現ですね。
@yellowmagicnagasaki2537
@yellowmagicnagasaki2537 4 жыл бұрын
邪馬台国九州説を支持します。 私も筑紫平野南部~熊本平野北部辺りと思います。 また魏志倭人伝中、水行10日の下り部分はその起点が帯方郡かと考えます。つまり、帯方郡から南水行10日(水行1日当り千里)で末盧国。そこから陸行1ヶ月、残り二千里余で邪馬台国かと。 女王国より以北は戸数、道里は略載を得るがその他の国は遠くて書けないとある。 よって、戸数、道里が無い国は帯方郡が起点の旅行日数。 乱文、すいません。
@yo2trader539
@yo2trader539 4 жыл бұрын
@@エンヴェルパシャ 邪馬台国の戸数が女王支配の30か国内で最大級との倭人伝の記述に信憑性があるのであれば、筑紫平野が最も論理的な候補だと思いますけどね。 衛星写真を見れば分かると思うが、海岸線が現在と多少変わっても筑後川流域にある筑紫平野の水田面積は当時では最大級。 長く使われた吉野ヶ里もそうだが、古墳時代に筑紫を支配した磐井一族も筑後川流域に本拠を置いてた。(防御と稲作の観点から前方は川、後方は山という地形。)
@user-Thunderbird2
@user-Thunderbird2 2 жыл бұрын
ハナからヘタレ炸裂💥で好感がもてる。 センシティブな問題なんだから、 やはり低姿勢で物言うのが適切。
@田中太郎-h3f4o
@田中太郎-h3f4o 3 жыл бұрын
旧山門郡の女山付近を発掘すると、恐らく吉野ヶ里遺跡に匹敵する遺跡が出てくる可能性が高いと思われます。
@takashiumeda6276
@takashiumeda6276 3 жыл бұрын
「周髀算経」による、一里=76mを取り入れているのは素晴らしいです。 ただし、最も大切な事に触れていません。 魏志倭人伝に「邪馬台国」とは記載されていません。 「邪馬壹国」が正しく、「邪馬臺国」ではありません。 「壹(壱)」は「臺(台)」音も意味も全く違う字です。 また、水行十日陸行一月は、出発点の帯方郡から邪馬壹国までの一万二千里の行程を表したもので、水上移動部分が十日、陸上部分が一月と読めば何の矛盾もありません。  ※参照 古田武彦著「邪馬台国はなかった」「邪馬壹国の論理」「邪馬一国への道標」「邪馬一国の証明」 聖徳太子のモデルと思われる、他利思北狐(たりしほこ)が活躍した九州王朝に思いを馳せて。
@sanfuji8462
@sanfuji8462 3 жыл бұрын
メルカトル図法で方向調べるのが間違いの元なんじゃないかなぁ。
@タカハシ-s4r
@タカハシ-s4r 4 жыл бұрын
近畿説が主流だといいますが、学問で主流てどれだけ価値があるのでしょうか? コペルニクスの例など歴史的に主流派が間違っていことはあります。 特に日本の学界は、人事権の関係で直系の教授の説には異議を唱えられないと聞きます。 そんなまともに学問ができない環境での主流てどれだけ価値があるのでしょうか? (個人的には九州説の方が納得ができるという立場です)
@かるいし-l4p
@かるいし-l4p 4 жыл бұрын
主流派経済学(リフレ派)もめちゃくちゃだもんな。日本の経済を破壊してきたのはリフレ派。
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
畿内を圧倒するだけの遺構が北九州から発見されれば主流は逆転します。北九州でも地道な発掘調査は進められていますから逆転の可能性がないではありません 現状、北九州の旗色が悪いのは、質量ともに畿内に圧倒されているからに過ぎません
@pocapamas
@pocapamas 4 жыл бұрын
@@toshiyam2853 奈良で見つかるのは大和王権の遺跡ですな。 邪馬台国とは違う。 長浜浩明先生の著書、日本の誕生を読みましょう! 完全に奈良説は論破されております。
@丸山康平-l2f
@丸山康平-l2f 3 жыл бұрын
東方無知民で ゆっくり饅頭偏愛のワイ ここの使い主が最高の印象 チルノ土器職人とか好こすぐる
@ダビドフ-u9b
@ダビドフ-u9b 3 жыл бұрын
邪馬台国の主な収入源は水銀らしく 太古に水銀採掘できるのが四国ぐらいかと
@2ytku723kp
@2ytku723kp 4 жыл бұрын
本当粘土板でも金文でもそれこそ木板でもいいから『文字』が残ってればなあ… まぁそれ考えると邪馬台国なり最初期の大和朝廷の頃の日本は文字が無くても何とかなる程度の文明(国家なり都市の形成)だったって事なのかも。所有権なり縄張り争いでいざこざはあっても古代中国みたく数万人単位以上での大規模な会戦・大戦はまだ無かったんだと思う
@よしだけんご-o1s
@よしだけんご-o1s 2 жыл бұрын
女山が有る、みやま市瀬高町に住んでいます。やたらと「卑弥呼の里」を主張していて気になってたけど、動画を見たらナルホド!納得!こういう由緒があったのですね(^^♪ 勉強になりました。ありがとうございました!
@panda688
@panda688 4 жыл бұрын
邪馬台国は連合国家を作るという選択をする程度には早めに内戦を切り上げなければならないという意識があったと思う。 近畿説だと邪馬台国のスケールが大きくなりすぎて、そうゆう切迫感を作り出す外敵を想定できないんですよね。 確かタイミング的には魏の遼東遠征の時だから魏の東方への野心の感じて機先を制したという考え方もなくはないだろうけど。
@なこだめ
@なこだめ 4 жыл бұрын
中国、四国、近畿、それらに強大な勢力があって、対抗する為にまとまる必要があった。 強大な敵に対する後ろ盾が欲しくて朝貢を行った。 たしかにありそうな話ですし、九州から近畿に跨がる大勢力があったというよりも個人的には納得できます
@panda688
@panda688 4 жыл бұрын
@@なこだめ 人間のやることは何時でもどこでも大して変わらないとは言いすぎかもしれないけれど、同様の事例は枚挙にいとまが無いですから。 逆に軍事的、外交的に合理的視点を除外して人類史を語るという事は「昔の人は馬鹿だから」といっているのと等しいと思います。
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
切迫感というのは興味深い視点ですが、戦国時代に南蛮人を脅威とみなす風潮が強かったかと言われると、そこも疑問です。小が大に併合されていくのは歴史の必然ではないかと 畿内勢力が北九州を欲する動機は交易参加・鉄資源の独占という説明で十分でしょう。九州の勢力が畿内を欲するのも新たな支配地としての価値があります 卑弥呼の時代より前が大規模な戦乱の時代だったのは、中国側文献で記述され、日本の発掘調査により、初めに瀬戸内一帯、ついで瀬戸内に加え東海や北陸まで痕跡が確認されてます
@panda688
@panda688 4 жыл бұрын
@@toshiyam2853 秀吉が禁教令をだしてキリシタン大名を改易しても大事にならない程度には切迫感があったと思います。 戦国時代を終わらせたのは単純に儲からなくなったからだと思います。武力闘争の経費が高騰しすぎて割に合わなくなっただけ。 世界史的には長期にわたる戦争が終わる理由といえば、①もっとヤバい奴が来る!②そんな金はない!&士卒もくたくた・・・ですよ。 九州と畿内が政治的に対立した状態で大陸に畿内から使者を送るって地理条件から言って針の穴を通すような話ですし、大和として全国を統治する程度には合理的判断が出来るのであればそのリソースを別の事に振り分けると思います。 統治する者とされる者との合意が無ければ上手く作動しないと思います。明白か暗黙かは別として。
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
@@panda688 >九州と畿内が政治的に対立した状態で大陸に畿内から使者を送るって地理条件から言って針の穴を通すような話 そうですねえ。想定される戦乱地帯の推移からみて、BC50頃から地域ブロックを超えた内乱が生起し、AD200頃までには畿内と北九州の併合なり提携なり連合なりが、吉備を加えて成立していたと思います。それが成立していれば畿内からの使者派遣は問題ないでしょう。そもそも北九州から畿内への進出の気配が濃厚です。AD200以降の瀬戸内は平和です。卑弥呼の頃はAD240年前後ですから良い時代だったかと >統治する者とされる者との合意 畿内サイドの利益としては、やはり対外交易へのアクセスですよね。特に鉄資源は是非とも欲しい。北九州サイドからみると南九州の脅威、半島進出への援軍期待、あるいは半島交易の際、日本側提供物資の畿内からの供出でしょうか。よくわかりません 問題となりうるのは北九州(本家)と畿内(分家)のパワーバランスくらいです。直後にあたる古墳時代初期から畿内優位は明白ですが、卑弥呼の時点では、なあなあだったのも知れません(完全な妄想ですが)
@noselfidentityelementparticle
@noselfidentityelementparticle 3 жыл бұрын
ユーチューブに邪馬台国は四国に有った説をグーグルアースを使って展開していましたが、信憑性を感じました。
@elelsse
@elelsse 3 жыл бұрын
水行10日陸行1月 という部分の解釈は and が正解です。これはある九州派の方のブログの中でこの件を知り合いの中国人に尋ねてみた所、そのように言われたという事です。or の場合は違った表記方法になるみたいです。
@elelsse
@elelsse 3 жыл бұрын
ご評価ありがとうございました。ですがもう一つ言わせてもらえば 水行~ の部分はやはり全て海路の事だと思います。河川を渡る場合などは全て陸行の内に入っていると考えられます。この辺りの解釈もできれば一度中国の方に尋ねてみてはいかがでしょうか?
@やまびこ-l3l
@やまびこ-l3l Жыл бұрын
楽浪郡と倭国とを結ぶ交易ルートは、半島内を、漢江と洛東江を使った、河川ルート。ただし、魏の使節団は、規模の大きな軍団であり、じようりく地点のマツラ国までは、すべてが、海行と記載されるべきでした。😊
@atropos-w3c
@atropos-w3c 11 ай бұрын
😅
@chartreux8673
@chartreux8673 2 жыл бұрын
中国語読めて中国の文献を魏志倭人伝以外も研究してて、同時代の他の資料からそれらに見られる歴史書の編纂の際に生まれがちな誤りから特徴まで精通してる中国の学者は確実と思われる記述とそうでない記述を分けた上でみんな九州北部説を推してるからね ついでに中国の変遷でも見られる似た例と照らし合わせると、東遷して近畿に朝廷を設立したって説への支持が多い
@official5649
@official5649 3 жыл бұрын
じゃまと読んでしまって大変申し訳ない気持ちですあひがとうございました
@つるつる茶瓶
@つるつる茶瓶 4 жыл бұрын
僕は旧山門郡であるみやま市在住です。昔から卑弥呼の里って聞いて育ったから、そうであって欲しいですね!ロマンしかないw
@yt9960
@yt9960 3 жыл бұрын
うらやましい。
@だんだんだん-u4f
@だんだんだん-u4f 4 жыл бұрын
もし邪馬台国の場所が確定したら飯食えなくなるからお互い本気出さない説
@せるじい
@せるじい 4 жыл бұрын
ただの観光地争いだしなぁ邪馬台国と現代にどう繋がるのかいまいちはっきりしないから本当に観光地としてのブランド価値しかない
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
考古学者は真面目に全力で調査してるぞ。で、あらかた結論が出てるので、いまさら論争なんかしない
@せるじい
@せるじい 4 жыл бұрын
@@toshiyam2853 学者は予算の取り合いだろ スポンサーにとって歴史の真実など毛ほどの興味がないのでどれもこれも邪馬台国と結びつけて話を大きくさせていく この先の結果がゴッドハンド事件になる
@だぶ-g4c
@だぶ-g4c 4 жыл бұрын
邪馬台国特定系youtuber として今回の動画は立派な活躍だと思います。
@ふちふち-c5m
@ふちふち-c5m 4 жыл бұрын
ジャンル分けが面白い
@あや-t2v9v
@あや-t2v9v 2 жыл бұрын
方角の問題は、言語学で解決できます。 当時の日本語にはすでに方言があり「西」を「ニシ」と呼ぶ人々がいる一方で、「北」を「ニシ」と呼ぶ地方もありました。日本国内での伝聞時に誤解が生じた場合、さらにそれを中国側から見て魏志倭人伝に記載しますので、東西南北全てごちゃごちゃになります。現在でも沖縄では北を「ニシ」と言います。
@freedomfighting309
@freedomfighting309 3 жыл бұрын
後漢、三国誌くらいの時代になると、当時の天文学者や測量学者らは、「真南への距離」 と「北極星の高度」の関係は、方程式は無理でも「表」の作成、利用はしていたと思う。
@トラにタヌキにカバさんよ
@トラにタヌキにカバさんよ 4 жыл бұрын
山門郡近くに八女市もありますしね~私も邪馬台国は山門にあったと思います。 あと熊本にも山都があります。
@成合光
@成合光 4 жыл бұрын
魏志倭人伝の記録に狗邪韓国(伽耶?)が女王国の北限と書いてありますね。そこから初めて海を渡り、、、
@knak8040
@knak8040 4 жыл бұрын
大和朝廷とは懐かしい言葉ですなあ、しかし年がばれますけど40年前位の小中の教科書では使われていましたが、今の教科書はヤマト王権になってますよ。自分は朝廷の呼称は唐の影響を受けた天智天皇以降かなと思うので、この時期はヤマト王権が良いと思います。(継体天皇以降と考える人もいます。)
@osamuarima1118
@osamuarima1118 2 жыл бұрын
国東半島の国東という文字が気になりますね。「国」ってどこの国?
@一ノ瀬ハル-n8z
@一ノ瀬ハル-n8z 4 жыл бұрын
『魏志』から大和朝廷成立までに西日本で何が起きたのか、歴史書に残されていないのが口惜しい。 『邪馬台国vs大和朝廷の大戦争があった』みたいな記録が見つかれば、九州説に拍車がかかるのかも……ロマンが止まらない。
@tigerion9275
@tigerion9275 Жыл бұрын
土蜘蛛征伐こそ、それなのでは? 邪馬台(筑紫)vs大和のファーストラウンドではなさそうだけどね。
@新海-f4k
@新海-f4k 2 жыл бұрын
16:20 ヤマトの人が来て王朝を作ったからヤマト王朝の可能性も… ヨークとニューヨークみたいに、出身地の名前を新天地につける事ってよくありますし
@qbdp
@qbdp 4 жыл бұрын
当時は出雲と伊勢で国取り合戦があったり、もののけ姫のアシタカのいた蝦夷とか、当時日本はたくさんの国とたくさんの統領がいたけど、その中でいち早く大陸文化を入手できた九州地方の豪族は必然と先進文明を手にしてた、つまり東京みたいな場所だったって事だとおもう。そこに都が在ることは、ある意味必然だと言える。
@yoshitez376
@yoshitez376 4 жыл бұрын
長浜浩明著「日本の誕生」の説を紹介します。 長浜は記紀の記述と大阪平野の発達史から神武東征を「河内潟の時代」であるとし、年紀二倍年説を採用して、神武即位が紀元前70年であるとしています。魏志倭人伝から卑弥呼の死は247~248年頃であり、邪馬台国東遷論も邪馬台国大和論も否定されるとしています。 取り急ぎ、紹介しておきます。
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
年紀二倍年説じたいに問題があると思います。ちゃんとしたカレンダーがないので、春に耕し秋に収穫することで年を数えたと記述されてるだけです。1年の概念は体感的・生理的なものなので、そこを崩すのは無理があります。
@pocapamas
@pocapamas 4 жыл бұрын
>そこを崩すのは無理があります 何言ってんの、だったら倭人は年の数え方を知らないなんてわざわざ記されないよ。 長浜浩明先生の本を読もう。
@河上雅夫
@河上雅夫 4 жыл бұрын
古代の年代論に詳しい安本美典さんによると、神武天皇が実在したとして、その活動時期は西暦280〜290年頃で、卑弥呼よりずっと後の時代です。この安本説を論破した説を見たことがありません。そうすると、畿内説の可能性はほとんどありません。
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
@@pocapamas 本格的なカレンダーの作り方を知らないという意味ですよ?
@pocapamas
@pocapamas 4 жыл бұрын
@@河上雅夫 是非、長浜浩明先生の動画や書籍をご覧になられてください!
@takahiroi5522
@takahiroi5522 4 жыл бұрын
岡田英弘「日本史の誕生」 日本には『もと王』があって、その臣下では関白というのが一番偉い。 当時関白だったのは山城守の信長であって、ある日、狩猟に出でかけたところ木の下に寝ている奴がある。 びっくりして飛び起きたところを捕まえて問い出すと、自分は『平秀吉』といって、『薩摩の国』の下男だという。 すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。 明王朝の資料を頼りに清王朝が編纂した明王朝正史の一部がこれ 大陸中央の人間にとって辺境日本などテキトーに書けば十分 魏志倭人伝から邪馬台国の位置を見極めるなんて無理
@ふちふち-c5m
@ふちふち-c5m 4 жыл бұрын
しらなかった
@rerepopo663
@rerepopo663 4 жыл бұрын
九州に邪馬台国があったと仮定して、その場合卑弥呼が九州を独立国家して分離独立しようとして説あるよね。 この頃の中華大陸日本の地理をある程度把握してて、九州に外から色んな工作仕掛けてて 凄かった時代。
@shinzaemongolf6753
@shinzaemongolf6753 4 жыл бұрын
魏志倭人伝での邪馬台国の環濠集落の遺構が大和から見つかってからにしてもらおうか。
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
吉野ヶ里に匹敵する環濠集落の遺構なら大阪や奈良にもありますよ。むしろ北九州に巨大遺跡がない点をどうにかして下さい。喜んで手のひら返しますから
@shinzaemongolf6753
@shinzaemongolf6753 4 жыл бұрын
@@toshiyam2853 そうなの?では、質問変えるけど、北部九州からはその当時の中国の品物がかなりの数発掘されてるけど、大和の纏向からはほとんど見つからない。普通に考えればその当時の大和は中国と交易がなかった、つまり、冊封体制になかったと考えられると思うけど、そこどうなん? さらに巻向からは岡山や北陸、関東からの土器などはたくさん見つかるけど、九州のものも殆ど見つからない。九州が大和の勢力圏でなかったことがかんがえられないか?ここも説明よろしく。 それに纏向遺跡は環濠集落ではなく邪馬台国の様子とは違うけど、そこんとこの説明もよろぴくぴく
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
@@shinzaemongolf6753 対中関係で言えば外交的安定くらいで品物の搬入はあまり無かったように見えますね。畿内が間違いなく欲したのは半島南部の鉄です。公孫氏滅亡で半島北部~中部の覇者となった魏との関係は重要でしょう
@shinzaemongolf6753
@shinzaemongolf6753 4 жыл бұрын
@@toshiyam2853 北部九州と畿内が対立してて、劣勢の北部九州が魏と同盟(冊封体制に入った)結んだって言うのも考えられない? そうであれば、景行天皇とヤマトタケルの九州征伐とも辻褄合うし。 歴史的にも北部九州は大陸や半島との貿易を独占できる地であり、何度も中央と対立した歴史がその後もあるしな。ましてや中央集権体制が貧弱な古代なら尚更。 中国や半島と同じく分裂と統一を繰り返していたとも考えられる。 古代からずっと統一した政権があったと考えるのも不自然よ。 付け加えると、当時の北部九州は吉野ヶ里の竪穴式住居が主流だけど、当時の畿内は掘立て式だし、穴掘って住む文化は北方系や韓国のオンドルとも共通する文化。
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
@@shinzaemongolf6753 それなりの文献が限られてるので妄想ベースで書き込みますが、おっしゃるとおり畿内と北九州の関係は長期間微妙だったと思いますよ。一方、半島情勢など対外関係での利害は一致、というか積極的に協力した方が双方得だったとも思います 弥生時代は基本的に北九州の存在感が突出してたわけですが、卑弥呼の時代の直後から始まる古墳時代では明らかに畿内が存在感で逆転している。細かいプロセスはわからないけれど突き放していった。対外的には統一政権の王を名乗っても支障のないくらい でもまあ、支配者層の元をたどれば三種の神器を尊ぶ同類でもあり、お互いの利益を尊重しあえば連携くらいはできたろうと。北九州は畿内の緩やかな覇権の重要な協力メンバーとでもいうか。強いて言えば豊臣政権の前田家のような。卑弥呼の時代はその段階の始まりかなと 卑弥呼の時代よりあとで劇的な覇権争いをした形跡はありませんが、記紀にのっとり最終的には武力でケジメをつけたとは思います。まあ私の脳内シナリオではそんな感じです。
@ulojjyu
@ulojjyu 4 жыл бұрын
まだ論文化はされてませんが、地名の比較を当時の発音で行った言語学的アプローチでは畿内の地名が比定されています。 動画内でも古代中国語の文書を現代日本語で発音比較していましたが、当時の倭人の発音を当時の中国語で当て字をしているはずで、両方とも当時の発音で比較しなければ意味がないという事です。 また、常々、記載された当時の人の常識や文書が編纂された目的に則って読むべきと考えてきましたが、最近早稲田大学の三国時代の研究者の解説(方万里という常識や、曹真と司馬懿の功績を釣り合わせる目的など)に触れ、私としては畿内であるという結論に達しました。 邪馬台国ははっきりしないことが多いのでロマンがありますね。
@かるいし-l4p
@かるいし-l4p 4 жыл бұрын
日本の当時の発音は機器を使ってせいぜい奈良時代までしかさかのぼれませんよ。ましてや邪馬台国が北部九州ならそこの発音使う必要がありますこれは実は今の日本語と直接直系で結べる発音系統ではないと考えられる(同じ日本であれ分岐した末端同士にあたる)ので北部九州の場合はそのようなそのような当時の日本(北部九州の)発音という比較はできませんよ。 畿内であれどういう推定音を取っているのか興味深いですね。この方法論だと北部九州の推定音の模索はかなりしんどいので同水準の比較にはならないと思いますね。
@ulojjyu
@ulojjyu 4 жыл бұрын
@@かるいし-l4p 私は言語学(その方は歴史言語学、比較言語学と言っていました)の素人であることは申し上げておきます。 その方は、独自に発音の対応規則を探し、復元していく(?)作業を行ったようです。 また、地方による方言も考慮しているとの事です。 査読された物ではないので正しいという保証がない事も理解していますが、その説明に自分の頭では納得したので。
@pocapamas
@pocapamas 4 жыл бұрын
魏志倭人伝はちゃんとソウル、プサン、対馬、壱岐、唐津、さらにその先の国の距離を明確に記しています。 三世紀の言語学だかなんだか知りませんが、そんなあやふやなもので、この明確な距離情報は覆りません。 奈良から出てくる遺物も明確に倭人伝の内容とは異なるものばかりです。
@ulojjyu
@ulojjyu 4 жыл бұрын
@@pocapamas 私のコメントの後半をご覧ください
@pocapamas
@pocapamas 4 жыл бұрын
@@ulojjyu はい。 ちなみに、youtubeで長浜浩明 邪馬台国で検索すると出てくる動画がおすすめです。
@ru945
@ru945 2 жыл бұрын
不勉強ゆえ伊都国の場所に議論があること自体知りませんでした。 糸島市には後の世に吉備真備が造った怡土城(いとじょう)なんてのもあるし、あの場所以外ないものだと思ってました。 復元された女王墓と副葬品をみてしまうと、もう、ここが邪馬台国でいいじゃん、とまで思いたくなってしまうほど魏志倭人伝の古代九州を感じる土地。また北部九州旅行したい!
@jsdf597
@jsdf597 3 жыл бұрын
う~ん…確かに距離的にはそうなのだが…そう考えるとのちに大和朝廷が栄えたのと九州が(いきなり)廃れたのが納得ならないんだよな。
@パグ13
@パグ13 4 жыл бұрын
私は近畿の人間ですが、邪馬台国は九州だと思います。ある学者さんの説で「北九州のいろんな国が場所までほぼ特定されているということは、もっと他に多くの国があったはず。それなのに北九州より東の国はほとんど記載されていない。もし邪馬台国が畿内なら、吉備国などは必ず記載されているのでは」と書かれていました。 三国志人気の一つである、邪馬台国の謎を紹介していただき、ありがとうございます。いずれ徐福の謎もお願いします。
@toshiyam2853
@toshiyam2853 4 жыл бұрын
倭人伝を素直に読むと帯方郡の使者は伊都国から先に進んでません。したがって、そこから先の記述が淡白でも変ではありません 邪馬台国を大和と仮定した場合、倭人伝の記述の順番から言えば、吉備に相当するのは投馬国となりますね。吉備には鞆の浦(とものうら)という古い港があります。ここが古くから港として開けていたのは瀬戸内全域の潮流が関係しており、必然です 投馬が吉備ならば、倭人伝に記載している戸数5万戸は余裕です。遺跡の面でも申し分ありません
@pocapamas
@pocapamas 4 жыл бұрын
倭人伝を素直に読むと、そこから奈良までの記述がほぼ無いのは、変オブ変です。
@xz6314
@xz6314 3 жыл бұрын
九州から近畿まで移動したのなら当時の大国だった出雲を完全に無視した形なのも違和感あるよね
@public529stage
@public529stage 2 жыл бұрын
一大卒とか伊都国とか日本史選択だったからめちゃくちゃ懐かしい…勉強したなぁ…
@まきさや-r2k
@まきさや-r2k 3 жыл бұрын
竹村公太郎氏がインフラの視点から考察したところ九州北部にピタリの場所があった、との事です。 ちなみにこれはまた別の話ですが、邪馬台国も卑弥呼も当時の魏が日本を下に見て賤しい漢字を宛がっただけで本来の読みや音はヤマト、ヒムカだとも言われています
@yutakayasunaga8054
@yutakayasunaga8054 4 жыл бұрын
帯方郡より一万二千里→不彌国(福岡県宇美町)一万里=残り二千里(152KM)→福岡県宇美町から152KMのところですね!北部九州以外は無いと思います
@河上雅夫
@河上雅夫 4 жыл бұрын
対馬の方400里と壱岐の方300里を計算に入れると、不弥国から600里しかないことになります。つまり邪馬台国は不弥国に隣接しているということです。
@yutakayasunaga8054
@yutakayasunaga8054 4 жыл бұрын
@@河上雅夫 ということは短里計算で46KMくらいですね・宇美町もしくは飯塚から46KMと言うことは山門ですかね!
@河上雅夫
@河上雅夫 3 жыл бұрын
@@yutakayasunaga8054 奴国が春日市周辺とすると不弥国が飯塚というのは遠すぎますね。不弥国は宇美町および太宰府周辺としたほうがよさそうです。
@yutakayasunaga8054
@yutakayasunaga8054 3 жыл бұрын
@@河上雅夫 そう思います !
@taka204
@taka204 Жыл бұрын
魏志倭人伝の水行10日、陸行1月は帯方郡から邪馬台国までという説があるらしいです。
@mogamiyoshihisa3526
@mogamiyoshihisa3526 3 жыл бұрын
曹操の墓を発掘した中国人学者が邪馬台国は九州にあると断言してますね。曹操の墓と九州で共通した出土品があるようで。
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 3 жыл бұрын
“金銀錯嵌珠龍文鐵鏡”と西高穴2號墓の出土品。現在の考古学的結論は、2つの出土品は共通品でありません
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 3 жыл бұрын
2009年西高穴2号墓(曹操高陵)の出土遗物は"九寸金错铁镜",2016年西朱村M1曹魏大型墓葬(魏明帝郭皇后墓)の出土遺物は七寸以下の金错铁镜,大分県日田市日高町から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の直径は21.1cm,漢王朝で9寸くらい。日本で出土されたこの鉄鏡の規格は,漢王朝の皇帝の御物(一尺二寸金銀錯鏡)より小さい,皇后の規格(七寸金错鏡)より大きい。これに基づいて、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の所有者の身元は皇帝と皇后の間にあるの可能性は非常に高いです,魏の名将·壮侯曹休(七寸铁镜,金銀错はありません)より高い,基本的には漢魏朝の公爵と诸侯と王のみ。倹約を提唱する魏武王曹操の墓葬から出土した鏡(九寸金错)よりも豪華です,おそらく贅沢が好きな曹叡の時代に倭王に贈られました
@大石直人-j3x
@大石直人-j3x Жыл бұрын
@@junkaisavoy1020 し
@nekozame_history_fan
@nekozame_history_fan 4 жыл бұрын
有明の学者曰く「昔、運河があったから水行20日で有明海まで来れる。つまり邪馬台国連合は有明海沿岸の国々だったのだ!」。とかいう感じの説を小耳にはさんだことがあります。
@yo2trader539
@yo2trader539 4 жыл бұрын
倭人伝には各国の戸数が記述されてます。当時の大家族制では1戸が何名に相当するのか分かりませんが、倭人伝を素直に解釈すれば邪馬台国は最も人口が多い地域になります。つまり最も水田面積が広かった場所に存在してたと考えられます。九州北部の前提であれば、筑後川流域になるんじゃないでしょうか?ちなみに、後世の北部九州を統括した筑紫君、磐井の乱の一族のお墓は八女市。筑後川は水運・外堀、後方は山岳地帯なので外敵から守りやすい地形とも言えます。
@nekozame_history_fan
@nekozame_history_fan 4 жыл бұрын
@@yo2trader539 実際の地形と遺跡の発掘と地域の伝承と魏志倭人伝の記述、地理学や考古学、民俗学に歴史学といろんな分析方法がありますよね。筑後川流域に邪馬台国があった場合は後の火の国の勢力、筑紫の国の勢力が関係してそうですね。
@天照大御神-n7v
@天照大御神-n7v 3 жыл бұрын
@@yo2trader539 全く同意見。
@天照大御神-n7v
@天照大御神-n7v 3 жыл бұрын
@@yo2trader539 全く同意見。多くの意見を総合してみると、邪馬台国(卑弥呼)は、筑後川流域にあったと言ことになるようです。
@makim7639
@makim7639 4 жыл бұрын
近畿住民ですが、九州説の方が有力だと思います。
@Amichans
@Amichans 3 жыл бұрын
関西在住ですが近畿より九州のほうが大和政権以前の雰囲気は感じますね@_@
@rerepopo663
@rerepopo663 4 жыл бұрын
この時代の中華は文字と記録で、世界でいち早く正確に情報を後世に残す術を確立してるし ホント凄いよね。 勿論天下分け目の戦国時代してる時に、海の向こうの日本にべったり構ってる暇ないし そりゃ倭人の記録が途絶えるのは当然だけど、この辺りの100年の記録がほんと気になる。
@かるいし-l4p
@かるいし-l4p 4 жыл бұрын
いち早く?正確に?あくまで大中華思想でみた世界観だけど。 文字による記録なら中東やローマで紀元前からすでにあるし、唐の時代になっても西突厥の強大な国力を全く唐は理解していなかったが中東やローマの資料からはそれはわかっている。 正確ってのはどうかね。あくまで井の中の蛙的なことが世界の資料から見えてくる感じだが。
@conn4454
@conn4454 4 жыл бұрын
インドネシア説はたまげたなぁ・・・w
@adrian-o6t
@adrian-o6t 3 жыл бұрын
日本語の発音の変遷で研究してる学者もいますよね。古代から現代に続く発音を辿ると、ヤマタイ☞ヤマト。もしくは大陸から渡ってきた渡来人たちにそう聞こえたのか、そこら辺の細かい錯誤はあれど、両者は実は同じひとつのものだったのではないかと。洋楽の空耳なんかがわかりやすい例だと思います。まあ、学術的場所に空耳を持ち込むのは疑問を呈する人もいますが、色々な角度から説を検証するのは面白いですよね。
@monoris2008
@monoris2008 3 жыл бұрын
自分的には九州説が妥当と思うし、近畿説は大和朝廷と結びつけたいバイアスかかりすぎに感じるけど、正直邪馬台国論争は当分もういいかなって感じ。 みんな証拠不十分なことに対して憶測で物を言い過ぎてる。
@はひふへほが使えない
@はひふへほが使えない 2 жыл бұрын
私の考えとほとんど同じですね。 24:46の「紀元前3世紀」は正しくは「3世紀」ですね。
@cryptmind
@cryptmind 3 жыл бұрын
倍速にすると、霊夢や魔理沙が寒さで震えながら話してるように見える。 個人的には、日向→ヒムカ→卑弥呼で、関連あると思ってるんですけどね。
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