徐福の渡来を助けたのは誰⁉ 平原廣澤で王になった徐福⁉

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IRISの神社YELL

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Күн бұрын

Пікірлер: 55
@mayumi3300
@mayumi3300 3 ай бұрын
本当に素晴らしい動画 ありがとうございます♪ 選民思想であったかどうかは、 その後の日本の歩みをみたら 分かりますね。 和を尊び 精神性を重んじ、 自然とともに生きて来た先人たちの 歴史のひとつの結び目に 徐福がいます。 戦いに負けた徐福が、 勝者の始皇帝から 2度も援助をもらって、 人々が穏やかに過ごす 日本列島に辿り着いたことは なんとも愉快です。 安曇族の考察も鋭いですね。 わたしも徐福の渡来には、 それ以前から 大陸と日本を行き来していた 海人族の協力の元、 やって来たのだと思います。 長江を拠点にしていたのですね。 これはひとつの大いなる妄想ですが、 長江上流、古蜀の地に、 三星堆遺跡がありますね。 夏や殷ができる以前から 集落があった とても古い遺跡です。 素晴らしい青銅器が 沢山出土していて有名ですが、 この青銅器の数々、 内陸から出たのに 海洋民族の雰囲気が満載です。 ポリネシアやマオリ、 アステカ・インカ、 更には縄文の香りが漂います。 おそらく、 日本列島にいた縄文人と 元を同じくする人たちです。 時代は少なくとも、 5000年くらい前から始まります。 7300年前の鬼界カルデラの噴火により、 各地へ散っていった 九州地方の縄文人の末裔であったとしても おかしくないですよね。 長江下流は もっと古い遺跡が出ています。 下流から遡り、 上流に大きな集落を 作っていったと思われます。 長江周辺は 黄河文明より更に古く、 半島では出土しない ジャポニカ米🌾も出ています。 長江流域と日本列島は かなり古い時代から 往復していた人たちが いたと思われます。 三星堆遺跡にいた人が 黄河へ移動し、 夏や殷を建てた可能性もあります。 そして、 三星堆の人たちは 古羌と呼ばれる チベット族らの祖となりますが、 その子孫たちは、 【イ族】と言われています。 雲南省を始め、 ラオス・ミャンマー・ ベトナム・タイなどに住む 少数民族です。 言語や風習は 日本と多くの共通点が見られます。 そして、この【イ族】の旧族名は 【夷族・倭族】と言うのです。 《倭人》ですね。 海を自由に往復していた 古代の海人族たちに国境はなく、 広い範囲で集落を作っていたと想像します。 永い年月を経て、 他の多くの部族と重なり、融合し、 先分かれしていった倭人ですが、 元は同じ人たちであったと 想像しています。 三星堆遺跡から出た 【青銅神樹】は 青銅製の【扶桑樹】です。 3階層になっている幹の各層に 3枝ずつが張り出しており、 それぞれの枝に1羽、 全部で9羽の霊鳥が留まっています。 枝先には果実がなり、 樹の下層には頭を下に向けた 1頭の龍が這っています。 遥かいにしえの倭人たちが、 東の海の向こうにみた 故郷の風景であったと 想像してしまいます。 何千年も前から、 日本列島は【扶桑国】であり、 ずっと語り継がれて来たのだろうと 妄想しています。 東へ東へ 太陽の昇る地へ…☀
@irisyell6626
@irisyell6626 3 ай бұрын
素晴らしいです! ありがとうございます😊 感謝です! 時空を飛び越えます。 どうぞ皆様に読んでもらえますように。
@古屋公夫-s9s
@古屋公夫-s9s 2 ай бұрын
徐福が我が国に来たことは間違いありません。  徐福は紀元前荷45年に生まれ180年に66歳で崩御して八女市の童男山古墳一号墳に葬られました。  徐福の子の福永は紀元前198年に生まれ155年に44歳で亡くなり八女市の童男山古墳三号墳に葬られました。  徐福の孫の福萬は紀元前157年に生まれ113年に44歳で亡くなり八女市の童男山12号古墳に葬られました。
@mayumi3300
@mayumi3300 2 ай бұрын
@古屋公夫-s9s さま コメント、ありがとうございます♪ 確かに徐福は渡来し、 九州北部に集落を築いたと思います 出雲口伝では 吉野ケ里遺跡だと言われていますが、 周囲の縄文系の姫を娶り、 その支配区域も どんどん広がっていったと思っています。 筑紫国一ノ宮 【高良玉垂宮】は 徐福族の神社ですね。 ただ、童男山古墳群は 6世紀の築造と言われますので、 時代が離れすぎです。 徐福の子孫たちの墓であれば、 納得です。 徐福の時代は、紀元前、 まだ古墳を造る時代では なかったと思います。 出雲族で言うと、 その時代は風葬です。 神籬に入れ、 乾燥された遺骨が、 山頂付近の磐座の元に 埋められます。 徐福族がどのような墓を 王族に造っていたか 定かではありませんが、 もし、出雲族と同じように 風葬であれば、 【英彦山】に葬られたのでは… と思っています。 【英彦山神宮】のご祭神は 【正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命】 神話において、 いくつもある徐福の名の ひとつと思っています。
@サイノカミ
@サイノカミ 3 ай бұрын
徐福が約2千人の海童たちを引き連れて前219年頃島根県石見海岸に渡来した。高照姫と結婚して五十猛が生まれて間もなく陰謀が発覚し斉国へ帰った。この史実は「スサノオ尊(徐福)」の降臨神話に変えられて今に伝わる。従って島根県には徐福伝説は残っていないが、日本に置ける徐福研究には欠かせない重要な出来ごとです。
@irisyell6626
@irisyell6626 3 ай бұрын
出雲口伝に残されていますね。 代々かたくなに守られてきた意義ある口伝です。 ご視聴ありがとうございます😊
@ひきがえる-e8i
@ひきがえる-e8i 3 ай бұрын
「徐福」に関する、素晴らしい動画をありがとうございます。 「徐福」の一行は、「阿曇族」の協力により、日本各地に計画的に入植できたのではないでしょうか。 「八幡宇佐宮御託宣集」に「志賀明神」を「方士」との記載があり、その「方士」を「徐福」の子孫が 名乗っていたとすれば、「志賀島」から「漢委奴國王」の印が出土したことに頷けます。
@irisyell6626
@irisyell6626 3 ай бұрын
八幡宇佐宮御託宣集にそんな記載があったのですね。 ありがとうございます😊嬉しいです🌸
@UmaShikao
@UmaShikao 3 ай бұрын
素晴らしい動画をありがとうございます。
@irisyell6626
@irisyell6626 3 ай бұрын
こちらこそ、ご視聴ありがとうございます😊
@Peco-yq1hs
@Peco-yq1hs 2 ай бұрын
有難うございます、とても楽しかったです!そして、いつも最後に切なくなって泣いてしまいます…😭 コメント欄もとても勉強になります。各地に伝承が残されているのですね😊 大きく見ると、徐福は私達のご先祖様。ご先祖様に感謝🙏細かく見ると、出雲族の長をあやめた一族かも…複雑です😓 いつも神社YELLさんの動画をワクワク✨️しながら見て、切なくなって涙目で終わる…。素敵な動画を有難うございます。感謝します🥰
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
まさに歴史ロマンですね!ありがとうございます😊嬉しいです🌸😊
@castleman4502
@castleman4502 2 ай бұрын
毎回テーマが被りますね😊 徐福は面白いですね。
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
そうですね😊 いいタイミング!面白いですね🌸
@橋詰学-o4e
@橋詰学-o4e 2 ай бұрын
徐福が来る数百年前から稲作やってる九州北部に五穀の種を持ってくる徐福ってかわいいですね。最先端の技術と道具を持って来てるのに志賀島に定住とかも控えめな性格で好感度大です。
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
可愛いですね💛 そしてコメント優しいです🌸ありがとうございます。素敵です!
@佐藤秀-w4m
@佐藤秀-w4m 2 ай бұрын
別の説ではホアカリを先遣隊として送りこんで出雲王家につけ入る隙を伺っていたとも😅旧約聖書にはモーセの一団がパレスチナに侵攻する前に斥候を出している😅春秋戦国時代の斉の王ならば、それなりの作戦参謀がいたでしょう😂
@PiCA-pyan
@PiCA-pyan 3 ай бұрын
こんばんは🐱💞 概要欄の著書の著者の御名前につきまして 勝山は正しくは 亀山かと思われます🙇✨ 今 読んでいる本なので気がつきました🐱✨ 初めてコメントいたします🐱 最近大ファンになりまして 毎回楽しく拝見致しております🐱🍎
@irisyell6626
@irisyell6626 3 ай бұрын
そうです。 ご指摘ありがとうございます。 概要欄で訂正させていただきす。 助かりました😊
@嶋岡香保里
@嶋岡香保里 3 ай бұрын
こんばんわ😊 コメント欄も大変勉強になります❤実家の本棚を久しぶりにさわるとサンセイタン遺跡?の遺物が日本にも紹介されていて、そういえば私展示会に行き図録も購入していた事を思い出しました。もう何年も前です。まさか、当時は縄文人がアカホヤ大噴火で大陸に逃れその土地で生活を始めまた時がたち様々な要因で日本に戻って来るなんて考えも出来ないことでした😅 偶然は偶然でなく必然なのかもしれませんね🫶動画の優しい雰囲気が大好きです。今回もありがとうございました。コメント欄の方もありがとうございます🙇
@irisyell6626
@irisyell6626 3 ай бұрын
ご視聴、コメントありがとうございます😊嬉しいです🌸
@mayumi3300
@mayumi3300 2 ай бұрын
@@嶋岡香保里 さま コメントお読みいただき、 ありがとうございます♪ 三星堆遺跡の出土品を 実際に見られたのですね。 羨ましいです。 溢れんばかりの 豊かな表現力は、 どこか縄文人の感性と 通じるものがありますね。 おっしゃるように、 全ては偶然ではなく、 必然なのだと思います。💟
@サブカル庁長官
@サブカル庁長官 2 ай бұрын
最新科学技術を伴った考古学の研究が必要ですね
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
徐々に解明されるでしょうね。ありがとうございます😊
@佐藤秀-w4m
@佐藤秀-w4m 2 ай бұрын
因みにインドのドラビダ人と出雲の末裔人には共通のDNAがあるそうです😅最近の歴史学会では出雲口伝を読んでその検証も行う研究者もいます😅73世竹内宿禰氏は現在の天皇家は126代で終わると言っています😅つまり古代史の真相が表に出て来る時代なのでしょう🙏
@user-8107-d2s
@user-8107-d2s 2 ай бұрын
徐福は出雲族のツートップを○した(指示した)人ですよね。そして大陸に戻り(逃げて)また名前を変えてやって来た
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
こんにちは。出雲の伝承ではそう伝えられていますね💦
@こたやまさん
@こたやまさん Ай бұрын
@@irisyell6626 出雲族の2topを殺めた人なのに、徐福のどこが平和主義者と言えるのでしょうか?(出雲口伝を真実とすれば、ですけど) それとも、この徐福のやり方が実はウソの可能性もあるということですか?
@drk671FUJIsun
@drk671FUJIsun 2 ай бұрын
古代中国では社稷(しゃしょく)のことをスサノオと呼んだらしい。(要確認)まだ、不確かです。 (ウイキペディアによると) 「社稷(しゃしょく)は、社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称。 古代中国、周代の封建社会においては、土地とそこから収穫される作物が封建諸侯国の基礎であると考えられており、村ごとに社と稷(土地神と穀物神)を祀っていた。周が滅んで秦漢帝国が発生すると、天子(皇帝)が国家行事として社稷祭祀を行うようになり、やがて社稷は国家・国体そのものを意味するようになった」とある。 (仮説) (1)つまり、スサノオは徐福ではなく、もっと偉い人。すなわち、始皇帝を指すのではないか? 古事記でスサノオは根の国を守っている神ですね。始皇帝は兵馬俑にて根の国を今も守っています。 (2)つまり、古事記の根の国は兵馬俑をさす。 (3)そして、古事記編纂者らは藤原不比等らは兵馬俑のことを言い伝えられていた。 辻褄が会うのではないでしょうか? 兵馬俑の最近の調査については下記をご参考に くろの【都市伝説】 兵馬俑は本物の人だった…最新研究で判明した古代中国のヤバい謎…始皇帝の真の野望とは【都市伝説 古代遺物】
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
兵馬俑は本物の人だったようですね。X線で明らかになってますね。 仮説。なるほどです。 徐福伝説が日本の各地に残っていますね。 でも 徐福が渡来してのは確かですね。 徐福伝説が日本の各地に残っています。 徐福がスサノオとして替えられたのでなければ、 徐福は始皇帝を崇めて人々にそれを伝えていた。 でも 始皇帝は徐福の国を滅ぼした人ですから、ないかな。 スサノオは根の国を守っていますが、子も生むいます。 誓約です。 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、他4神 しかしアマテルの生んだ宗を感じます。 徐福がスサノオならありです。 始皇帝がスサノオならないです。 始皇帝の渡来伝説は残っていません。 そして、私は思います。 徐福は、優しいですよ。 タカテルヒメを妻し、表面上は、大和のやり方にしたがった。 ただ生まれながらの常識が違うので、出雲族とはかみ合わなかった。 始皇帝ならそれは、なかったと思います。 日本人をみな、奴隷にして、出雲族や出雲神話など残らなかったと思います。 今の日本は存在しなかったと思います。 徐福は、日本に魅せられた。 九州でも豪族の娘と相思相愛になったと聞きます。悲しい別れの物語ですけどね。 私たちの主たる祖先は、縄文人と出雲族、徐福族だと思います。 徐福は頭がよく、始皇帝を丸め込んだ。 ただ、それだけで崇拝はなかったと思います。 最後に 徐福は、策略家で、全てを愛に包む日本には必要な血でしたね。 と私は、思っています。 藤原家もそれを悟り、うまく記紀に書き入れていると思っています。 ありがとうございます😊嬉しいです🌸
@drk671FUJIsun
@drk671FUJIsun 2 ай бұрын
@@irisyell6626 様 渡来したのは徐福です。徐福は人です。王でもありません。始皇帝は社稷です。王です。国家そのものです。徐福が社稷として国家の中心に据えられる資格がありますか? 一方、スサノオは神話の中に登場する人物で、神です。根の国を守っています。日本は天照がいて守っています。根の国はどこにありますか?地中ですね。地下世界ですね。徐福が神となって地下世界を守る力がありますか? 記紀は脚色しています。架空の話をくっつけてデフォルメしています。神武東征が史実ではありません。記紀の中の神々の行動は神話の世界の話なので、作者の自由です。神と人が結婚したり、子供を作ったり、人なのか、神なのか作者のやりたい放題です。 頭の中が混乱してしまいましたか?ごめんなさい。
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
全然混乱してしていませんよ。 その通りです。 おかしいな。返信したと思いますが・・・・・・朝6時ぐらいに 届いてない? まっいいか。 徐福は日本人ですね。 だって私たちより先輩だもの。 地下世界!ユートピアかも😊 いつもありがとうございます😊嬉しいです🌸 もし返信届いていなかったらすみません💦
@drk671FUJIsun
@drk671FUJIsun 2 ай бұрын
@@irisyell6626 様 始皇帝の時代はすごい時代だったんですね。単なる権力者(王様)ではなく、神様であったのだから、焚書坑儒だろうが何でもできた。全宇宙が始皇帝の私有物といっていい。始皇帝のたった一つの願いから徐福は倭国へ行き、そこから日本が生まれた。徐福から800年後のことである。 記紀は天武天皇の時代ですよね。大和の国は日本と国名を改め、大君(おおきみ)は天皇と名前をかえ、中国大陸の社稷の神々(始皇帝を含む)はスサノオとして地の神とし封印し、日本は日の元の神、天照神を最高神として祀った。中国大陸で起こった全ての国(秦、漢、魏、そして、隋、唐)から独立し、朝貢をやめた。 国内では出雲族との融和を目的として出雲大社(杵築大社)を建立し、祟りが起きないように鎮めた。つまり、記紀の作成の目的は、外交的には日本国の完全な独立、国内的には、中国大陸生まれの社稷の神々を完全に封印し、国内の最高神天照大神を中心とした世界感へ完全に脱皮させ、多民族国家を融和させることが目的だったのではないだろうか?
@winlaurels244
@winlaurels244 2 ай бұрын
佐賀県福岡県にある徐福上陸地大川市周辺でとれる魚の呼び名が……… 『斉魚』 徐福の出身地『斉』の魚と書くんですが、 読み方はなんと『エツ』 徐福を載せた安曇族の母国、呉を滅ぼした憎き『越』の名前をつけるんなんて… 後世忘れないように残したのかなぁ…? それとも滅ぼされた越人が後から来て、上書きされたのか…? 呉の太伯の末裔の松野連系図も気になります!
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
興味深いコメントをありがとうございます。 越と呉の土地にはもともと入れ墨をした漁労民たちが住んでいました。越人です。 越人は稲作に漁労(半農半漁)、高床式住居の文化を持っていました。 さらに呉、越は水軍をもち航海に長け、銅の精製技術をもちました。 もとは同じ民族だったようです。 能登半島には安曇由来の地名が多く、鹿島町、志賀町など鹿のつく名前が点在しています。この辺りは「越」です。。古くは「古志」ですが。安曇族は広く影響しています。 恐らく、このエツをさしているのではないでしょうか。 コメントありがとうございます😊嬉しいです🌸
@佐藤秀-w4m
@佐藤秀-w4m 2 ай бұрын
古事記、日本書紀より具体的で信憑性が高い😂高すぎる😅
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
ありがとうございます😊 嬉しい🌸嬉しすぎます🌸
@森岩光
@森岩光 3 ай бұрын
イザナギ(徐福)の 国生み(侵略、制圧)
@irisyell6626
@irisyell6626 3 ай бұрын
ご視聴ありがとうございます😊
@佐藤秀-w4m
@佐藤秀-w4m 2 ай бұрын
徐福と始皇帝は😅同じ「嬴氏」なので親族か始皇帝の子供だった可能性を否定出来ない🤔
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
教えてくださいね😊嬉しいです🌸
@吉川英明-u2s
@吉川英明-u2s 2 ай бұрын
高志の国、福岡、福井、福島、越の故郷は北陸にありました。
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
百越のもとはどこでしょうね😊 ありがとうございます😊
@Rockin-Jiro
@Rockin-Jiro 2 ай бұрын
「秦」の時代の話しなのに「中国」という表現に違和感を感じました 昔から、中華思想はあったのだろうと思いますが 「清」の時代まで「中国」と国など、どこにもなかったと思っています その時代、中華統一を果たした「秦」という国があったのだと・・・
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
シナと中国どちらを使おうかと迷いましたが、今の時代、みなさんに、わかりやすいように中国にさせていただきました。 コメントありがとうございます😊嬉しいです🌸
@古屋公夫-s9s
@古屋公夫-s9s 2 ай бұрын
徐福が我が国に来たことは間違いありません。  徐福は紀元前245年に生まれ180年に64歳で亡くなり八女市の童男山古墳一号墳に葬られました。  徐福の子の福永は紀元前198年に生まれ15五年に44歳で亡くなり八女市の童男山古墳三号墳に葬られました。  徐福の孫の福萬は紀元前176年に生まれ137年に40歳で亡くなり八女市の童男山古墳ニ号墳に葬られました。
@irisyell6626
@irisyell6626 2 ай бұрын
ありがとうございます😊
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