新田氏という名の足利一門

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太田うしいち

太田うしいち

2 жыл бұрын

歴史好きでも新田氏は足利氏ライバルと考える人が多いと思います…
しかし、近年の研究で新田氏は足利一門である、と明確に言えるレベルになってきております
今回はそんな話を簡易的にしようと思います
参考文献
呉座勇一編『南朝研究の最前線』洋泉社
関口崇史編『征夷大将軍研究の最前線』洋泉社
田中大喜『新田一族の中世』吉川弘文館
谷口雄太『<武家の王>足利氏』吉川弘文館
音源
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Пікірлер: 259
@juliuscaesar6771
@juliuscaesar6771 2 жыл бұрын
0:12ここまでは「皆」知っていることである、が歴オタ目線過ぎてわろた
@takagi_4745
@takagi_4745 2 жыл бұрын
コメント欄、一門=家臣だと思ってる人多すぎない?
@user-bj7og7nm6w
@user-bj7og7nm6w 2 жыл бұрын
田中先生の「足利氏と新田氏」を読むと「そもそも『足利一門』というカテゴリはいつから認知されるようになったのか?」というところから分からなくなってくる……。 逃げ上手の若君は若君と義貞が見事にすれ違いばかりで活動範囲重ならないので、出てくるとしたら義興からかもしれませんね。
@akihikoishitani4728
@akihikoishitani4728 Жыл бұрын
奈良時代の史料では、新田駅と足利駅が東山道の駅家として確認されますね。両駅は隣接していただけでなく、双方から武蔵府中に通じていて(京葉線の市川塩浜と南船橋みたいな感じ?)、この道は坂東武者にとって室町時代の途中まで重要な街道だったようです。
@ikai-nu
@ikai-nu Жыл бұрын
絶対にありのままに事実を書かなければならない という厳粛なルールがあったわけでもないなら、作者が読者にもっと読ませたいという欲を刺激するために話を盛っちゃうのは書物の宿命よね
@papapandoki3862
@papapandoki3862 2 жыл бұрын
新田が足利一門だったのはよいとして、同時代人の間で「新田義貞は本来尊氏の家来筋の癖に、主君に弓引きやがった」という感覚がどこまであったのかが気になる。
@toshis3972
@toshis3972 2 жыл бұрын
新田氏も山名氏も足利幕府の攻略対象であるのは変わらないんだよね。そう思えば新田一族ってまとめで見ても良いかもw しかし無位無官・貧乏御家人(ここは山名氏でも触れられましたがチト疑わしいかも)・足利一族の末端というハンデを負っているのに南北朝では一時期足利家のライバルと言っていい地位までのし上がったのが不思議ですね。新田義貞も相当な器の持ち主だったのでしょうかね?戦国中期に現れる一代で勢力を拡張させ風のように去っていく梟雄みたいですね 細川頼之解説の続き楽しみです。と、言うより細川頼之の生涯の方が足利義満より興味深そうで。本編終わったら頼之メインの話を見てみたいですね
@user-zw8vp4un6e
@user-zw8vp4un6e 2 жыл бұрын
確かに足利が特別というイメージが強いですね。そのための新田氏か。はぇー。頭のいい人がいたもんだ。それを読み解いた先生もスゲー。
@user-ww9qf8je2e
@user-ww9qf8je2e 2 жыл бұрын
鎌倉時代の御家人は皆そのように思われていましたね。新田氏は足利一門の一氏族であると。 現に新田義貞の義は元服時に足利一門の当主足利高義から諱の義を貰っていますからね。 新田氏が独立した氏族との認識は太平記の影響が大きいですね。 太平記は物語の流れとして南朝にも源氏の嫡流である新田氏が居るという事にしたのでしょうね。
@beowulf05201
@beowulf05201 2 жыл бұрын
戦った敵を讃え高めると言うのは、「その偉大な敵に勝った俺ってスゲー」っていう最たる自己礼賛。
@toshis3972
@toshis3972 2 жыл бұрын
日本じゃ薩摩、世界的に見たら英国がその論調大好きですよねw どちらも政略的にはやたら老練なくせにいざ実戦だと脳筋な所も似ていますね
@sepa3435
@sepa3435 2 жыл бұрын
おっと、日光権現様の悪口はそこまでだ!w
@user-mq6fb8on4u
@user-mq6fb8on4u 2 жыл бұрын
権現様を敗北させた武田信玄スゲーだな 信玄がヘッポコだとそれに負けた権現様って…事になる まあ歴史的勝者なのに三方原での勝利者は実は徳川だったと後世の口を塞ごうとしなかった度量は大したものだ
@jodasow
@jodasow 2 жыл бұрын
徳川史観というけど、徳川はそんなに計画的組織的なプロパガンダはやってないと思うのよね。 その代わり「公方様の御世があるのはうちの親父や兄貴が苦労したからなんだよね」という面倒くさい爺さんが暇を持て余してブロガーみたいな真似を始めた。
@user-zl1vj6fz1m
@user-zl1vj6fz1m Жыл бұрын
@@user-mq6fb8on4u 権現様に勝った信玄スゲー→強い信玄と対等に渡り合った上杉謙信スゲー
@user-lp5wj4vo8p
@user-lp5wj4vo8p 2 жыл бұрын
新田が足利一門だと、鎌倉攻略で総大将が義貞じゃなくて義詮なこと、正成が義貞を片付けて尊氏と講和しようと言い出したこと全部説明できるのよね。 義詮が総大将なのは主君の子だから当然だし、義貞を片付けるのも尊氏を裏切った彼に責任をとらせるのが一番穏当だ。
@taka4469
@taka4469 2 жыл бұрын
昔、「力関係から鎌倉時代を通して新田氏は足利氏の分家だと思われていた~~」 (だけど対等格ですって事をそこでは言いたかったんだっけ?) といったのをどっかで見たことがあったんですが、 いろいろ歴史の認識って変わってきてるんだなぁ~
@user-hl7qt6xy2n
@user-hl7qt6xy2n 2 жыл бұрын
太平記が後醍醐天皇崩御までを南朝方の児嶋法師が書いたとすると、新田と足利を並立する一族にすることで桃井氏みたいに棟梁に背いた一族では無いとしたかったとも考えられる。
@discovery-defender
@discovery-defender 2 жыл бұрын
う~ん。そうだとすると、新田義貞が鎌倉を攻めた時、なぜ足利義詮を大将として担いだかが腑に落ちますね。足利義詮が主筋ならば、当然そうなりますからね。
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x Жыл бұрын
単に新田勢だけでは小勢過ぎて鎌倉陥落出来ないので、足利の力を借りたのでしょう。 足利も貸すのなら千寿王を担げ!という条件を出し新田がそれを呑んだって事でしょ?
@tsujishouko
@tsujishouko 2 жыл бұрын
箱根での戦いで弟の直義が義貞にボロ負けしたのに、尊氏の出陣で形勢逆転、返り忠により足利方の大勝利の理由が分かったような。
@Sugiura_Kenji
@Sugiura_Kenji 2 жыл бұрын
鎌倉幕府打倒の「元弘の乱」(1331年6月~1333年7月)の中の「鎌倉攻略」(1333年5月)では、足利家からは 千寿王(:尊氏の嫡男、後の室町幕府第2代将軍:足利義詮)が、新田家からは新田義貞が参加し、同じ軍勢の中で "協力して" 戦っている。この時、千寿王(足利義詮)が名目上の総大将、新田義貞はその下、となっている。 この時、千寿王(足利義詮)は 2歳10か月、手勢 僅か 二百。一方、新田義貞は32歳、数万の兵を率いていた。で、幼い千寿王(足利義詮)の方が総大将。新田義貞は、その部下。 足利家と新田家の格の違いが表れている。
@renendo6121
@renendo6121 2 жыл бұрын
あー、だから徳川家康も、新田氏にちなんだ名字にしたのか。
@sunami808
@sunami808 2 жыл бұрын
大昔の戸籍ではxx縣士族でマル一文字家紋を持つ身として帰省中に息子とこの動画見させていただきました。ありがとうございました
@hirohilo1692
@hirohilo1692 Жыл бұрын
鎌倉幕府を倒した時、足利尊氏が六波羅探題を、新田義貞が本拠鎌倉を落としたのに尊氏の方が上ってのはずっと不思議に思ってたけど納得できた。
@user-tq4qo4kl4p
@user-tq4qo4kl4p Жыл бұрын
確かに! ワタクシも、京都の朝廷にとって、 六波羅探題の方が直接的脅威だったのだ! って思い込んでいました!
@jgda3
@jgda3 2 жыл бұрын
徳川家康が新田氏の末裔を称したのも、足利一門ということを誇示したかったのではなかろうかと。
@user-ry3du7we4k
@user-ry3du7we4k 2 жыл бұрын
征夷大将軍になるには河内源氏の中でも、頼朝、足利を輩出した義家系に連なる必要がある。そうなると、前時代の覇者で主流が滅びた足利を名乗るわけにはいかないから新田に系図をつなげたんじゃないかと思う。
@qzp01467
@qzp01467 2 жыл бұрын
徳川家というか、松平家が領有していた三河の国主、三河守を朝廷から拝領するには河内源氏の血統が必要だったらしいです。家系図を改竄して新田の子孫だと源氏を名乗ったのは征夷大将軍に成るためではないです。
@user-ry3du7we4k
@user-ry3du7we4k 2 жыл бұрын
@@qzp01467 家康の祖父の代には新田流源氏を名乗っていたらしいから、家康が三河守を拝するのに、どこの馬の骨では都合が悪いので、その伝承を引っ張り出してきたのは間違いない。ただ、家康自身、そんな話は信用していなかったようで、その後は藤原家康を名乗ったりしている。要するになんでもよかったのだ。このへんは信長や秀吉にも共通している。  だから、後年、再び清和源氏を詐称した時は、明らかに征夷大将軍任命が目的であり、源氏を名乗った=将軍拝領狙いはあながち間違いではないよ
@matukawatositane
@matukawatositane 2 жыл бұрын
義貞は新田氏を足利一門から脱却して飛躍させようとしたのかなぁ?
@user-gz3uv5pt2c
@user-gz3uv5pt2c 2 жыл бұрын
今回の話とは違いますが、ある動画サイト(ちゃん〇るく〇〇で『幕府』徳川政権のみであり、 鎌倉及び室町は幕府では無いと言っていましたが、実際は如何なんでしょうか。 (徳川時代の【親藩・譜代・外様の区別も明治の学者が設定したとも聞いています)
@user-ts1kp3tb5o
@user-ts1kp3tb5o Жыл бұрын
新田氏ならぬ戦国末期から幕末の岩松氏をその内取り扱って欲しいです。
@user-gu3mh5mc6k
@user-gu3mh5mc6k 2 жыл бұрын
源義国の長男、義重が新田荘開墾で新田義重に、次男、義康が足利荘相続で足利善康になったのが通説だと遠い記憶にあります。
@user-or1xf3qp3u
@user-or1xf3qp3u 2 жыл бұрын
よって次男(足利)が嫡流と書いてある本がありますよね、義康は京都の戦乱(平治の乱?)にも名前が見えますので、その頃から新田より有名だったのでは?
@utorur1301
@utorur1301 2 жыл бұрын
新田荘の開墾は源義国です ですから源義国の墓所は新田にあります また当時、足利荘の領有権は藤原姓足利氏にあり、源氏は藤原姓足利氏から婚姻関係で一部を分けて貰っていただけです 源平合戦で藤原姓足利氏が平氏に組して没落し、源氏が足利荘を奪ったのです
@sassyappo8173
@sassyappo8173 2 жыл бұрын
その通り。新田も足利も源氏の一族であった。源平合戦の時代に、源頼朝が源氏一族の集合を呼び掛けた時、足利家は直ぐ馳せ参じたのに対し、新田家は、戦いの様子を観て、直ぐには、源頼朝に馳せ参ぜず、遅れて参戦した。そのせいで、戦後、足利家は鎌倉幕府の重鎮として幕府の中心の御家人となる一方、新田家は、無役の御家人で鎌倉幕府内で働かせて貰えず、上州の田舎の自領でくすぶっていた。ただ、新田家にしてみれば、先祖は河内源氏の流れを汲む源家の長男なので新田家が源家の本流の意識があり足利家は、次男なので傍流との認識であったと思う。また、源頼朝に対しては、源氏内でのライバルと見ていたものと思われる。だから、頼朝の集合号令に直ぐ呼応する事なく、暫く、高みの見物をして遅れて参戦しても、平気だったのではないか。 ただ、時代が下って、鎌倉幕府打倒の際、当主の源義貞(新田義貞)が戦死したのに対し、足利家が勝利したので、残った新田一族は、足利家の庇護の下に組み込まれたものと考えられる。その新田一族は、岩松氏と名字を変えて江戸末期まで続いた。明治期になって、新田氏に戻して、貴族とし扱われた。
@akirauz6520
@akirauz6520 2 жыл бұрын
日本は、分家したら苗字が変わるけど 中国みたいに分家しても苗字が、変わらなかったら 藤原氏と源氏と平氏ばかりになりそう
@user-pc5to3ou3o
@user-pc5to3ou3o 2 жыл бұрын
@@akirauz6520 姓と苗字の違い、、
@MRN5069
@MRN5069 2 жыл бұрын
そういや私の知ってる人にもいましたね、 『新田源氏の末裔なのにニ引両の紋(足利一族の家紋)を用いている』人。 あれもそういうことなのか…。
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x Жыл бұрын
足利の軍門に降った証に大中黒から切り替えただけでしょ? 足利に忠節を誓った赤松一族は自らの家紋に二引き両を足してたしね。
@as_of
@as_of 2 жыл бұрын
私も武家の王を読んでいる最中で、丁度半分読み終わったところです。 現代から史料を確認する上で、如何に室町幕府が家格を高め維持することに努めたかはわかってきましたが、 支配者側としては当時どのようにマインドを植え付けていったんでしょうか? 儀礼を重んじたりすることによる間接的な方法なのか、 より具体的に口伝等で将軍や幕臣に伝えられたりしたのか・・・ また当事者(特に将軍)は、どのくらい意識して行動していたのか・・・ この辺りがわかることで、個人的には義輝の評価も変わりそうな気がします。
@user-km9jy7oi3b
@user-km9jy7oi3b 15 күн бұрын
同じく谷口雄太先生の「中世足利氏の権威と血統」では、儀礼を通じて足利の機種性を浸透させたのだろうとはまとめられてたけど、具体的な検討まではされてなかった
@user-ih2we4ud3e
@user-ih2we4ud3e 2 жыл бұрын
三職までは幕府滅亡の最期まで厳密に分けられてるけど、相伴衆は戦国乱世のせいでけっこうバラバラに与えられてる感じ。 それでも官位や守護国(一門含め)を考えると三職家の次に位置する四家(相伴衆)の筆頭は一色じゃなく山名本家っぽいよなぁとは思う。 なお、御一家云々の「足利御三家」とやらはちょっと飛躍しすぎな気もする。
@user-bp5nx6lb4t
@user-bp5nx6lb4t 2 жыл бұрын
そもそも頼朝ですら清和源氏嫡流というのは後付けらしいし足利が源氏嫡流も後付けでもおかしくない
@jodasow
@jodasow 2 жыл бұрын
平安末期は家の概念が形成途上でしたからね。右大将家というのも頼朝一代を指しており、室町時代の京兆家とか武衛家のような代々の家という観念ではなかったようですね。
@shinwatanabe6122
@shinwatanabe6122 9 ай бұрын
源氏全体の棟梁って認めさせたの頼朝、足利将軍家ぐらいじゃないかな、頼義でも義家でも他の有力源氏の上に立ってたかというと違うかな。
@HighBridge-dl6ks
@HighBridge-dl6ks Жыл бұрын
歴史上の人物評価や事実認識等は、研究者によって異なってくる点は実に興味深いです。歴史探訪の妙を伝承してくれて有り難うございます。聞きながら大河ドラマ「太平記」での根津甚八さんが新田義貞役で醸し出された奥深い味わいが懐かしく思い出されました。
@user-eb6os3li4u
@user-eb6os3li4u Жыл бұрын
ショーケンこと萩原健一さんが途中降板されましたね。
@sikiboo4725
@sikiboo4725 2 жыл бұрын
三国志でいうと正史か演義かって考え方でいいのかな? 確かに興味をもつことに関しては 演義のほうが良いのは確かに
@utorur1301
@utorur1301 2 жыл бұрын
水争いの時に父系が足利氏である新田一族の岩松氏を北条氏は「新田岩松」と記しています また新田政義が失脚した時、鎌倉幕府は新田氏の惣領権を世良田、岩松の二家に預けました したがって鎌倉幕府の御家人としては新田氏と足利氏ははっきりと区別されています
@user-dr6kr3oj6s
@user-dr6kr3oj6s 2 жыл бұрын
これは新田が惣領であった根拠にはなりそうですね ところで大内氏はこのとき以前から新田惣領家から離れているように見えること 岩松家も新田惣領家から離れているように見えませんか 新田氏が惣領家にしては一族の統制がとれていないと思える 新田氏が弱小氏族で、大内氏、岩松氏などと惣領制を組まずそれぞれで動いていたと考えていた
@user-jh3dg8tq9u
@user-jh3dg8tq9u 2 жыл бұрын
岩松家祖は、足利義氏の長兄、足利義純。義純の子二人が新田義兼の娘である新田尼の 所領岩松郷を相続して岩松を名乗る家で、義純は白拍子の子だったので、新田義兼に育て られ、新田尼を娶るんだ。そして、その後、離縁して畠山家に嫁いだが宗家である夫に先立 たれ北条の娘を娶り、婿入りしたので、畠山家は平姓から源姓畠山家となり、足利一門とな る。当然、岩松は義純の男系子孫で、足利一門です。新田義兼が足利義兼の子を育て、 領地を与えるくらいですから、新田は足利一門なんです。 なぜ、源義国が源義重の新田荘にいたのかは、嫡男源義康(足利)は京に住まい、家人である 高・南などの奉行に足利荘の統治を任せていたからです。 新田荘は新しい領地として古来の 土豪達を統治して、なりたった新領ですので、源義国はこれに、あたる必要があり、、決して長子 の源義重に養われていたわけではありません。後に隠居してから義重に与えたものです。 だから、新田義兼は当主である足利義兼の子である義純を育てたのです。 足利直義が足利家 当主の尊氏の長子である直冬を育てたようにです。 つまり、源義康(足利)が源義国の嫡子として、京において源家宗家の源義朝や為朝等と藤原南家 の熱田神宮家を通して、藤原北家(摂関家)や後白河天皇の一族に仕えていたのです。 「以仁王」は後白河天皇の子ですが、伊勢平家の力が強く、天皇になれなかった人で、伊勢平家 が安徳天皇を連れだし遷都を試みたので、平家討伐の令を出したのです。「以仁王」は伊勢平家 に捉えれれ殺されますが、後に、これに答えた源家一族により、滅ぼされ、鎌倉幕府が開かれる のです。 伊勢平氏とは坂東平氏の宗家である平国香からの別れで、嫡子系は鎌倉荘を源義家に献上し て家臣となった熊谷氏で、ここから嫡流の高力家、庶家の北条家が分かれます。足利尊氏に従 い、三河に移転したのが高力家であり、武蔵国熊谷に残ったのが根岸家です。(寛政重修諸家 譜より) 当時の足利荘には藤原北家流の藤姓足利氏もいました。この藤姓足利氏は後に、鎌倉幕府軍 である足利義兼に制圧され、源姓足利家に取り込まれます。それゆえの、「蛭子姫伝説」です。 源義国の二人の孫達、足利の源義兼、新田の源義兼が足利、新田を姓としたのは、足利義兼・ 新田義兼の時からだと、思っています。これは、先代となる足利義康、新田義重などの名が古文 書から見つからないからです。 この頃、河内国石川荘の源義兼は、石川を姓としたのでしょう。
@user-hx3vr6sj1t
@user-hx3vr6sj1t Жыл бұрын
足利一門の分家は斯波家以外みんな足利を名乗らないながらも、吉良、一色、細川とと御家人扱いされてたけど、 ここらへんの分家もそれぞれその分家の中で総領権があったりするんですかね。 例えば吉良家は自身の分家である今川家に総領権があれば、足利一門の新田氏が新田氏の総領であることと矛盾しなさそうですが。
@user-sl8fs5fp1k
@user-sl8fs5fp1k 2 жыл бұрын
12:51 牛沢鳥山堀口加古♪足利幕府♪(某所のジングル)
@user-ik9qy1sc1j
@user-ik9qy1sc1j 2 жыл бұрын
個人的には、新田義貞公は好きですね。新田義貞公というと、「稲村ガ崎の徒歩伝説」がありますね。自民で同僚だった人間が、「俺が俺が」という出世欲が、強い人が、民主党に鞍替えして、党首の座に就くのと似ていますね。
@EXAKTA6667
@EXAKTA6667 2 жыл бұрын
源姓 足利市の最初の屋敷 樺先八幡宮の土地は 今では辺鄙だけれど 当時は街道2本の合流点。 国道293と 佐野の彦間に抜ける道が 今でもある=通れる=益子焼人芸国宝の個人博物館に出る。鑁阿寺(屋敷を寺にした)は足利学校の隣に有る。
@kurokuroneko3196
@kurokuroneko3196 2 жыл бұрын
源義康を祖とする「源姓足利氏」以前に、俵藤太こと藤原秀郷の流れをくむ「藤姓足利氏」がもともと足利庄に勢力を張っていたようなのですが、その人達はその後どうなったのでしょう?
@user-eq2se8qb4i
@user-eq2se8qb4i 2 жыл бұрын
頼朝に滅ぼされました
@user-zb7zv6qy4y
@user-zb7zv6qy4y 2 жыл бұрын
最後の当主が足利義兼に殺害され嫡流は途絶えたようです。 子孫の中には田沼意次がいますね。
@user-ht1bb4jp3v
@user-ht1bb4jp3v 2 жыл бұрын
長子筋の新田と次子筋の足利という通説通りのことを信じていました。新田が足利一門であれば、家格は元から足利氏>新田氏となりますね。
@naoki080808
@naoki080808 2 жыл бұрын
でも義重は摂関家の荘園を継いでるし、初代の時点で足利の下だったかどうか?
@user-bp5nx6lb4t
@user-bp5nx6lb4t 2 жыл бұрын
弟の義康が早逝して甥を後見してたらしいがこの時点で足利一門をまとめてたのは義重かね
@elrd1032
@elrd1032 5 ай бұрын
もう一度南北朝時代の大河ドラマ出てこないかな
@wowvov123
@wowvov123 2 жыл бұрын
鎌倉時代の新田氏は江戸時代の岩国吉川氏みたいな感じだったのかなあ。
@beowulf05201
@beowulf05201 2 жыл бұрын
大内義興が足利義稙を奉じて、将軍職に再任させる大功を立てても管領代どまり。 家格秩序の厳しさは幕府が終焉するまで続いてたもんだ。 江戸幕府でも高家として引き継ぐが。
@wilhelmkaiser215
@wilhelmkaiser215 2 жыл бұрын
面白かった。「足利一門」は義康の父である義国を祖とする一門とされていたのだろうか。 新田が後から足利一門になった説のように別だった家門が後から同じ一門とされる例が他にもあるのか気になった。
@user-km9jy7oi3b
@user-km9jy7oi3b 15 күн бұрын
例えば源頼範(鎌倉殿の13人に出てきた蒲殿)裔の吉見氏は足利の分家ではないけど、室町時代には細川氏や山名氏(通説では新田系とされてるけど動画でも言ってるように新田含め足利扱い)とかと同じように足利一門扱いされてる これは、頼朝との連続性を強調するために、足利(新田含む)である義国系に加えて、頼朝の父である義朝系も足利一門扱いしたということだと指摘されてる あと、室町後期には、入名字と言って、足利一門でもなんでもないひとに足利一門の名字を与えて足利一門扱いにするということが特に寵愛を受けた側近に対してなされ始めた これは幕府の求心力を保持するための苦肉の策でもあるんだけど、結果として足利一門の貴種性を毀損して幕府の寿命を縮めたとする見方もある 超有名どころだと肥後細川氏も、これまでは和泉守護細川氏の系統だとされてきたけど、近年の研究で宇多源氏佐々木流が入名字で細川を名乗り始めた(足利どころか清和源氏ですらない)のの子孫だと判明してる
@user-rq3ox9jo1v
@user-rq3ox9jo1v 10 ай бұрын
もともと足利に勢力をはり本拠としていた義国が本拠地を弟につがせ兄といっしょにでていって新田になったわけだから足利氏が本家筋ですもんね。また足利氏は義兼という頼朝の従兄弟であり義兄弟であり側近つとめた人物もでてますからさはつきますよねぇ。新田に縁のある私も残念ですがしかたないのかな。
@john_andaman3498
@john_andaman3498 Жыл бұрын
逃げ若の最新回まで読んでから見返すと、師冬の名が出てきた時に鳥肌...というか吹雪いた
@ku8687
@ku8687 Жыл бұрын
尊氏が京六波羅を攻めて嫡子千寿王を大将に一門をつけて鎌倉を攻める。その中に新田氏がいました。というのが正しいのかもしれませんね。 いつから足利一門というのについては、鎌倉期ではないかと思います。平安期では一族で嫡流という考えは見られませんでした。嫡子相続ではなく兄弟分配でした。 源満仲の長男は源頼光、源頼信は三男でしたがその後頼義、義家そして頼朝へと続く過去を知っているから嫡流と思っているだけと思っています。 足利氏は当初下野では、藤原姓足利氏もおり、現地ではなく京北面の武士で都会暮らしをしており、新田氏は在地で開拓範囲を広げていたのでお互い違う領域で協力し合っていたのではないかと思います。 鎌倉幕府創設で片方は御門葉と認められ、片方は公式の場で源姓を名乗れなくなりそこで足利一門となったのではないかと考えています。 源義国を祖とする清和源氏足利流ではないのでしょうか。
@user-Usokusai
@user-Usokusai 2 жыл бұрын
もし新田氏が最初から足利一門であれば、足利氏の初代は実質的に源義国と考えたほうがいいのだろうか?
@brothers12121
@brothers12121 2 жыл бұрын
新田一門と足利一門が仲が悪かったみたいですね。渡良瀬川を境にして新田氏と足利氏の戦いの時に、足利一門の家紋を塗り潰して、新田大中黒にして、旗印を奪って再利用したと伝えられています。ちなみに新田義貞は後醍醐天皇に当てがわれた京都の女子に入れ込んで戦に出立するのを遅れたとの逸話もあり、最後も残念な最後でしたので、ある意味、人間味のある武将だったのだと思います。
@CrowNecoYah
@CrowNecoYah 2 жыл бұрын
そういえば現代でも自民党が清和会(かつての福田派)政権になってから、しきりに福田のライバルだった田中角栄が持ち上げられていたことがありましたね
@user-cx6jo1mq8s
@user-cx6jo1mq8s 2 жыл бұрын
① 元々足利が本家で新田が分家 この場合、最も古い足利の分家となる ② 新田が本家で足利が分家だが途中で逆転した  ③ 新田は足利と対等の同族だったが、足利の一門に組み入れられてしまった  この中のどれかだろうね
@user-io5fo5xb3q
@user-io5fo5xb3q 2 жыл бұрын
たぶん、②
@user-jh3dg8tq9u
@user-jh3dg8tq9u 2 жыл бұрын
足利義兼が源義康(足利)の養子でありながら、嫡子となった謎について 着手してみると 、足利家が鎌倉時代に、頼朝系を相続できる源氏の嫡流であったことが、わかりますよ。 これが、源義家の正紋は五七桐紋で、戦紋が二つ引き両紋であるが、新田は一つ引両紋で あることの答えです。 平安末期には、源義兼を名乗る河内源氏は三人いました。 源義家の嫡子、 で三男の 義親・為義系に一人、 義家の四男義国系にも 二人の源義兼(足利義兼・新田義兼) がいます。 これで、三人ですが、もう一人います。  もう一人は、源義家の六男義時(石川) 系の源義兼です。 同時期に複数人ですから、混乱します。 これで、四人ですが、源氏の嫡流である源頼朝の父義朝の弟、爲朝の末子が、義康(足利) の養子で、嫡子となっていれば、この源義兼は足利義兼と同一人物となるので、実は三人 なのです。 ゆえに、源頼朝と源義兼(足利)は従兄弟となり、北条政子・時子姉妹を正室とする 義兄弟で もあるので、鎌倉の頼朝三代が無い鎌倉期には、足利義兼が源氏嫡流となるのです。 新田義兼は義国系で、一方、足利義兼の実の父は河内源氏の嫡流系の源為義であり、 足利義兼が義国系の義康の嫡子となります。  つまり、足利義兼は、義康(足利)と熱田神宮 家の娘が養子として、京で育てた、人物。 足利義兼は、源義康(足利)と正室の養子で嫡子。 (京の摂関家)に通じ、しかも、源頼朝の従兄弟である人物。 つまり、源家嫡流で頼朝の父義朝と足利義兼の養父義康(足利)は、藤原南家系 熱田神宮家の娘(姉妹)を正室として、京で暮らした義兄弟。 ゆえに、源義国の嫡子は次男義康となり、源義重(新田)は長男だが、庶家(足利一門) なんですよ。 細川家(足利義兼の長兄義清系)や岩松・畠山家(足利義氏の長兄義純系)、 斯波家(足利頼氏の長兄家氏系)みたいな長男系の足利一門です。
@user-pc5to3ou3o
@user-pc5to3ou3o 2 жыл бұрын
2はない。1か3だな
@noritadanishio8813
@noritadanishio8813 21 күн бұрын
大河ドラマの太平記の新田義貞は、忸怩たる思いを常に抱えた冴えない武将として描かれている。そのイメージが強い。
@user-pb3ux7sg
@user-pb3ux7sg 2 жыл бұрын
歴史に疎く、中世は源平合戦くらいしか知らない私にとっては、新田氏は「足利と近い源氏一門」という認識でした。
@EXAKTA6667
@EXAKTA6667 2 жыл бұрын
そうか 兄弟 より母親の出自で決まる上下って事なんだな もともと 兄の新田が 弟の足利と 渡良瀬川 挟んで 住んでる 世良田辺りは 砂地が地下にあって水田にならない と聞いた 利根川と渡良瀬川の間の土地 太田の一部は渡良瀬川の扇状地の端 宝泉 の地名があり 地酒がある
@tora99deko11
@tora99deko11 2 жыл бұрын
頼山陽の日本外史では新田氏は源義家の長男、足利氏は次男の家柄と言ってたのじゃないかな🎵、あまりあてにならないかも知れないが
@user-wo9oy8vb2r
@user-wo9oy8vb2r 2 жыл бұрын
そもそも「一門」って同族集団って感じの意味ですが、時代に拠って何処までを含むのかが変わって来ていますよね。現代では血縁に関係無く師を同じくする一団を差す事が多いですが。 ただこの時代、足利氏とそこから分家した吉良、斯波、畠山、細川、一色などは「足利一門」と言い切れますが、新田は足利から分かれて居ないので、「足利と同族」と言っても「足利一門」とするのには違和感があります。
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x 2 жыл бұрын
仰る通り❕
@user-km9jy7oi3b
@user-km9jy7oi3b 15 күн бұрын
いや、新田支流の山名も足利一門扱いされてるし、新田義貞自身も南朝方からすら足利一門とされてる(動画でも言ってる)から、新田は足利一門に含まれるとするのが通説となってる、って話やろ? うろ覚えやけど新田は足利一門であるとする通説の礎となった「中世足利氏の権威と血統」って研究(足利の絶対的な貴種性の確立時期と足利一門の範囲についての研究)では、足利一門を列挙した室町時代の一次史料が引用されてて、そこには明白に新田が足利一門として挙げられてたし
@ts-fr7wv
@ts-fr7wv 2 жыл бұрын
うちは、新田氏の遠い遠い末裔だと家系図にあるけど、ヘタレだと親が話してた… その後、九州に下って… 途中でなにかの褒美に拝領した刀を船から落として… そのまま出奔した、と。 はずかし〜 その後、どうしたか肥後藩に召し抱えられたとか。 そう残ってる… とか…
@user-hc8pl4is7v
@user-hc8pl4is7v Жыл бұрын
同じ一族だったってのは知ってるんだけどさ、どうしてこうなったって感じだったんですね。兄弟だったってのはのは有るな、御先祖様が、足利荘と新田荘に兄弟が別れて住んで、それぞれの地名を姓にってのは物の本で見たんだが、源氏ってのは、一族間で争うのがお好みの様だね。
@user-zi4ff8rj6o
@user-zi4ff8rj6o 2 жыл бұрын
そもそも頼朝と同じ河内源氏ってだけで嫡流なんてどうにでもなるからどっちでもいいし 歴史資料だってどうにでもできるからそれが真実かどうかはどうでもいい でも起こった事象だけを見れば一門だと考えて問題ないと思う 一門でないのなら千寿王を新田に預けること自体が時期的に怪しいと思う また新田も一門でなく一家として足利に並び立つ存在なら千寿王を残して京都に発つかねぇ 一門というか足利の影響下にあったと考えた方が理解しやすい
@user-wc2kv9hj2e
@user-wc2kv9hj2e 2 жыл бұрын
太平記が正史三国志ではなく、三国志演義みたいなもので、一般にはそっちのほうが受けちゃって、そっちのほうが後世の一般人に、史実のように思われちゃったと思えばよいのかな。
@KY-hr9sq
@KY-hr9sq Жыл бұрын
元を正せば兄の家だったのに、頼朝にいっちょ噛みした義兼と様子見した義重の差で最終的には弟の家の一門になるというのはなんというか…と思ったら義重のころから足利一門だったのかもしれんのか…
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x Жыл бұрын
それは先ずないでしょう。
@user-lw6gn7uu8r
@user-lw6gn7uu8r Жыл бұрын
太平記においては足利尊氏は源頼朝で新田義貞は源(木曽)義仲ってことか!!
@user-mz8fg1st3p
@user-mz8fg1st3p 16 күн бұрын
北条を滅ぼした意味では義経っても言える。弟ではないけどね。
@user-mz8fg1st3p
@user-mz8fg1st3p 16 күн бұрын
義仲に近いのはむしろ、尊氏なんだよな。負けなかった義仲。
@user-ii3xl8kw4j
@user-ii3xl8kw4j 2 жыл бұрын
逆に新田義貞の苦境がわかる。新田義貞はまあ良く頑張った気がする。足利が正室の子孫で嫡流と言われているが、始祖である源義国は長男である新田の庄を新田の始祖の新田義重と作り新田生で義国は死んでいる。庶子と言われながら新田は大中黒で一本、足利は二つ引きで2本。新田が上とも言える。当時から、正室がどっち?で、どっちが嫡流になるか?わからない。とも言える。後世からすると成功した方が嫡流だろう。でも足利尊氏だって北条の正室の子じゃなく上杉の娘の庶子の子。新田義貞当時は義政など先祖の失敗により苦境にたち、親戚である足利に助けて貰い足利一門扱いなんだろう。それとそもそも論は違う気がする。by新田郡元鳥之村住人より
@user-jh3dg8tq9u
@user-jh3dg8tq9u 2 жыл бұрын
足利義兼が源義康(足利)の養子でありながら、嫡子となった謎について 着手してみると 、足利家が鎌倉時代に、頼朝系を相続できる源氏の嫡流であったことが、わかりますよ。 これが、源義家の正紋は五七桐紋で、戦紋が二つ引き両紋であるが、新田は一つ引両紋で あることの答えです。  現彦根城には前九年の役で源義家の、阿部氏討伐時の陣旗が展示されています。江戸時代 に彦根藩士となっていた新田一門の家が家宝として引き継がれた物を彦根藩主に献上した ものだそうです。「二つ引き両紋」が染められた陣旗です。「八幡大菩薩」の下は二つ引きです。 ネット画像で確認できます。 「二つ引両」の間を染めて「一つ引両」に変えたのは新田本家だったようです。 さらに、 平安末期には、源義兼を名乗る河内源氏は三人いました。 源義家の嫡子、 で 三男の 義親・為義系に一人、 義家の四男義国系にも二人の源義兼(足利義兼・新田義兼) がいます。 これで、三人ですが、もう一人います。  もう一人は、源義家の六男義時(石川) 系の源義兼です。 同時期に複数人ですから、混乱します。 これで、四人ですが、源氏の嫡流である源頼朝の父義朝の弟、爲朝の末子が、義康(足利) の養子で、嫡子となっていれば、この源義兼は足利義兼と同一人物となるので、実は三人 なのです。 ゆえに、源頼朝と源義兼(足利)は従兄弟となり、北条政子・時子姉妹を正室とする 義兄弟で もあるので、鎌倉の頼朝三代が無い鎌倉期には、足利義兼が源氏嫡流となるのです。 新田義兼は義国系で、一方、足利義兼の実の父は河内源氏の嫡流系の源為義であり、 足利義兼が義国系の義康の嫡子となります。  つまり、足利義兼は、義康(足利)と熱田神宮 家の娘が養子として、京で育てた、人物。 足利義兼は、源義康(足利)と正室の養子で嫡子。 (京の摂関家)に通じ、しかも、源頼朝の従兄弟である人物。 (今川了俊の「灘太平」記よ」) つまり、源家嫡流で頼朝の父義朝と足利義兼の養父義康(足利)は、藤原南家系 熱田神宮家の娘(姉妹)を正室として、京で暮らした義兄弟。 ゆえに、源義国の嫡子は次男義康となり、源義重(新田)は長男だが、庶家(足利一門) なんですよ。 細川家(足利義兼の長兄義清系)や岩松・畠山家(足利義氏の長兄義純系)、 斯波家(足利頼氏の長兄家氏系)みたいな長男系の足利一門です。 また、源義康(足利)は保元の乱の前に京にて病死。ために保元の乱には源義兼(足利)は 参陣していません。そして後に、源義兼(足利)・山名・里見等は、平家討伐の令旨を発した 「以仁王」の生母「八条院」に、頼朝と共に仕えていて親交もあり、伊豆の源頼朝軍にいち早 く京から参陣したことも、鎌倉御家人となった山名・里見等と新田本家との、運命の分かれ目 で、足利家が御家人第一の家格となった理由です。足利の源家は頼朝の従兄弟で義兄弟の 家だったのです。 なお、石川義兼と一族は河内国石川荘で、平家軍に滅ぼされました。
@hideyukigotou8532
@hideyukigotou8532 2 жыл бұрын
ま〜同列と思われるのは新田義重は、足利義康の異母兄だからじゃないのかな? 太平記以外の時代資料だと鎌倉期の新田義重の段階で既に足利氏一門として扱われているから、新田氏は成立当初より一貫して足利氏を宗家として表記されているよね🤔 ま〜頼朝挙兵時に足利や山名が早々に帰参したのに新田が日和見をして頼朝の不興をかったのと足利は北条に接近して姻戚関係を結んだのもあって両者の幕府内での差もあったんじゃないのかな?でも、八幡太郎義家の血筋に近いのは新田氏だけどね。 だから、太平記はライバルとして書いたんでしょう。
@user-yl3wo2hs8y
@user-yl3wo2hs8y 2 жыл бұрын
@AZ1974 義康はあの若さで保元の乱で功を建てる前に陸奥守、蔵人になってる 義家のようにヘマをしなければ頼義以来の受領の最終到達点の一つである伊予守まで上がっただろう
@matupui
@matupui Жыл бұрын
新田義貞の弟、脇屋義助は一門に入る?ウチの亡くなった父方のおばあちゃんが脇屋の末女だったので気になります。
@tailsub3068
@tailsub3068 2 жыл бұрын
新田が長兄だから嫡流だって言ってる人は、里見や山名も新田より長兄だから新田は里見や山名の庶流と考えているのだろうか? その辺りも含めて、新田が足利より上と思っている人は、新田と足利しか見えてないんだろうな… 加えて、新田と足利の話に徳川の話は直接関係ないのに結び付けてる人も、 時代が違う話を短絡的に結びつけてると思わないのだろうか? 概要欄の書籍一冊でも読んでみればいいのに… この話題は歴史好きの情弱判別のリトマス紙のようだw
@user-yl3wo2hs8y
@user-yl3wo2hs8y Жыл бұрын
そもそも義康と義重の差が歴然過ぎてね 当時の没落してた河内源氏で久しぶりであの若さで受領、蔵人にもなってる しかも陸奥守だし 嫡男が居なくて弟が継承して兄の地位を超える事はあるけど庶兄はどれだけ長寿しようと嫡男に勝てない例だと思う
@tailsub3068
@tailsub3068 Жыл бұрын
@@user-yl3wo2hs8y コピペ文バラまいててご苦労様ですけど、 平安末期の時点では、侍身分の立ち位置は摂関家やその他の有力公家・寺社の下で荘園管理をしている程度なので、 義康と義重一代の差の話を殊更に注目しても、 さほど意味ないかな。 平安末期から鎌倉期に武家が成立していく過程で、足利は頼朝や北条に近づく事で家格を高められたことに対して、 新田は凋落していった事が本質かな。
@user-km9jy7oi3b
@user-km9jy7oi3b 15 күн бұрын
@@tailsub3068ほんこれ 足利と新田の二項軸で捉えるということ自体が「太平記史観」の束縛に縛られてて、新田は足利一門であるというのは、そもそもそういう理解自体からの脱却を意味してるってのこそがこの動画の趣旨やのに
@user-pp1nl6bp6u
@user-pp1nl6bp6u 14 күн бұрын
あれ?新田氏の家祖と足利氏の家祖は兄弟で新田氏の家祖が兄だったけど、早々と頼朝に味方したし後に北条氏とも婚姻関係結んでいたので高い家格だった足利氏とちがい、なかなか味方しなかった鎌倉幕府時代の新田氏の格が下がったんじゃなかったかと思ったら、その辺もきちんと説明されてた。
@user-km9jy7oi3b
@user-km9jy7oi3b 15 күн бұрын
コメ欄、谷口先生のいう「太平記史観」の影響に視野が狭められてて動画で言ってることすら理解してない人がめちゃ多くてゲンナリする
@weakoctopus9419
@weakoctopus9419 2 жыл бұрын
そも、新田義重さんが(足利の祖)義康さんの兄というのは正しいのか誤りなのか? いろいろギモンはありますが、ともかく南北朝の動乱はハナっから足利の内部抗争だったという事ですねっ。(笑)
@user-xf8de5cm3x
@user-xf8de5cm3x 2 жыл бұрын
源義家の4男義国が足利、新田両家の祖先。義国の長子義重が新田始祖となり次子義康が足利氏の祖となった
@user-ld4vw6yo6j
@user-ld4vw6yo6j 2 жыл бұрын
三男じゃなかったかなぁ?
@user-rs7gv6ly9s
@user-rs7gv6ly9s 2 жыл бұрын
新田と足利はお隣なので同族の勢力争いしてたと思っていた。
@naoki080808
@naoki080808 2 жыл бұрын
源氏の嫡流って何やねん?笑。源氏の棟梁とか、源氏の嫡流とか、その言葉自体いつから使われているのか気になります
@manekineko0912
@manekineko0912 2 жыл бұрын
源氏長者ならもうちょいしっかりしてそうw
@user-km9jy7oi3b
@user-km9jy7oi3b 15 күн бұрын
これかなり重要で、そもそも源氏嫡流という概念自体後世(鎌倉後半〜室町)に造られたもの
@user-pu7tk5rv1c
@user-pu7tk5rv1c 2 жыл бұрын
でもそれだと源義国嫡流として本領を継承していたのは新田義重ではなかったということになりますよね?
@user-cf4sn2cj8n
@user-cf4sn2cj8n 2 жыл бұрын
新田氏の不遇の根本的な理由は源頼朝への貢献度が足利氏と比べて著しく低かった事が大きいですね。 今回の話題は鎌倉末期~南北朝時代の足利氏と新田氏の関係ですし。
@user-pu7tk5rv1c
@user-pu7tk5rv1c 2 жыл бұрын
@@user-cf4sn2cj8n 新田宗家自体はどう考えていたのか… 自分のイメージは江戸期の越前松平家(結城秀康の遺品関係の殆どは津山藩が継承=宗家、石高や幕府内での家格は越前藩が親藩筆頭格で上)をイメージしているのですが
@kaburayaoo
@kaburayaoo 2 жыл бұрын
ソースが太平記だけってマジか… 源氏の嫡流の話は、元冦以降に宮将軍が源氏になっているらしいので無理があるのではと…
@hirohilo1692
@hirohilo1692 15 күн бұрын
父義国から本来の領地継承してるし新田氏が惣領なのでは?足利氏は新規開拓の足利荘の管理だけの分家で先に「源」から「足利」に名乗り変えてるし。鎌倉幕府成立時に頼朝に味方するのが遅れたり義仲と仲良かったりで頼朝に嫌われて徐々に落ちぶれて同族の足利氏の援助を受け立場が逆転したんだと思う。 ただ同族ではあっても足利荘はあくまで義国から貰ったものだから別家と見るのが妥当だと思う。新田義貞は家名復活乾坤一擲の思いで立ち回ったんだと推察する。
@user-uz3fg4ux1x
@user-uz3fg4ux1x 2 жыл бұрын
太平記で新田を同族としてしまうと観応の擾乱と合わせて足利一門は内紛ばかりのイメージになりますしね、実際そうだったんでしょうが。 一門扱いになった時期はさっぱりです。義国の跡目を継いだのが義重なのか義康なのか今となっては良くわからないでしょうから。
@user-jh3dg8tq9u
@user-jh3dg8tq9u 2 жыл бұрын
足利義兼が源義康(足利)の養子でありながら、嫡子となった謎について 着手してみると 、足利家が鎌倉時代に、頼朝系を相続できる源氏の嫡流であったことが、わかりますよ。 これが、源義家の正紋は五七桐紋で、戦紋が二つ引き両紋であるが、新田は一つ引両紋で あることの答えです。 平安末期には、源義兼を名乗る河内源氏は三人いました。 源義家の嫡子、 で三男の 義親・為義系に一人、 義家の四男義国系にも 二人の源義兼(足利義兼・新田義兼) がいます。 これで、三人ですが、もう一人います。  もう一人は、源義家の六男義時(石川) 系の源義兼です。 同時期に複数人ですから、混乱します。 これで、四人ですが、源氏の嫡流である源頼朝の父義朝の弟、爲朝の末子が、義康(足利) の養子で、嫡子となっていれば、この源義兼は足利義兼と同一人物となるので、実は三人 なのです。 ゆえに、源頼朝と源義兼(足利)は従兄弟となり、北条政子・時子姉妹を正室とする 義兄弟で もあるので、鎌倉の頼朝三代が無い鎌倉期には、足利義兼が源氏嫡流となるのです。 新田義兼は義国系で、一方、足利義兼の実の父は河内源氏の嫡流系の源為義であり、 足利義兼が義国系の義康の嫡子となります。  つまり、足利義兼は、義康(足利)と熱田神宮 家の娘が養子として、京で育てた、人物。 足利義兼は、源義康(足利)と正室の養子で嫡子。 (京の摂関家)に通じ、しかも、源頼朝の従兄弟である人物。 つまり、源家嫡流で頼朝の父義朝と足利義兼の養父義康(足利)は、藤原南家系 熱田神宮家の娘(姉妹)を正室として、京で暮らした義兄弟。 ゆえに、源義国の嫡子は次男義康となり、源義重(新田)は長男だが、庶家(足利一門) なんですよ。 細川家(足利義兼の長兄義清系)や岩松・畠山家(足利義氏の長兄義純系)、 斯波家(足利頼氏の長兄家氏系)みたいな長男系の足利一門です。
@juliuscaesar6771
@juliuscaesar6771 Жыл бұрын
新田は足利一門の中でどのくらいのランクだったんだろな 斯波吉良よりは下だろうが…
@user-dv1zu9mg4y
@user-dv1zu9mg4y 7 ай бұрын
鎌倉侵攻軍の実質的な大将となったのが本当だったら 一門の中では最上位なのでは?
@user-higaimoso24
@user-higaimoso24 2 ай бұрын
細かい所で申し訳ないですが、「田中大喜(ひろき)」さんですね😅
@Glorious-Flottte
@Glorious-Flottte 2 жыл бұрын
そもそも頼朝が一族を警戒して粛清祭りとかせずに、源氏の嫡流がちゃんと生き残っていれば北条氏とかいう「執事」が成り上がることなんてなかったような。(まあ、北条時宗達が元寇を防いだからそれはそれでいいんだけども)
@user-yl3wo2hs8y
@user-yl3wo2hs8y Жыл бұрын
いや実朝自身が源氏に跡を継がせる気がなく皇族将軍で行くつもりで既に決まっていたんだけどね 実朝暗殺後有力御家人が上奏文を送り予定通り迎えようとしたら後鳥羽が拒否したから摂家将軍で妥協せざるを得なかっただけで 実朝暗殺後の源氏一族粛清は間違いなく公暁の二の舞を避けるためだし
@benikoji3
@benikoji3 2 жыл бұрын
太平記において義貞と尊氏をライバル関係として描くための設定として「氏」ごとライバルっぽく表現したってことかいな? 新田民だけど太平記も読んでない不届きモノですが(笑) 興味深く読ませていただきました。 義貞と尊氏の因縁にちなんで(?)、地元の太田高校と足利高校では対抗戦という運動会的催しがあったのですが、足利高校は共学になるそうで今後が危ぶまれます(笑)
@user-gg9do4zo7r
@user-gg9do4zo7r 2 жыл бұрын
私も「元太高生(太田高校生)」ですが、「『新田(太田)は足利の分校』的な立場になる…??」などと、つまらぬことを思ってしまいました。 旧制中学校創設自体に、新田氏と足利氏は全く関係ないのですが、「南北朝以来の戦い」に由来した「太田高校と足利高校との対抗戦」の発足だっただけに、考えてしまいました。
@user-in2jy7ov6n
@user-in2jy7ov6n 2 жыл бұрын
世間からは新田氏は足利一門と思われていたが、新田氏は自分は足利氏と並び立つライバルと考えていたのでは? 新田氏の分家は本家みたいなプライド無くて足利氏側に付いて一門に入ってたんじゃないかな。
@sidepawnpicker
@sidepawnpicker 2 жыл бұрын
新田義貞が足利一門であり尊氏の家来ならば何故両者は敵対したのでしょうか? 一番知りたかった部分が聞けなかったので今回は正直モヤモヤしてしまいます
@user-mr3bb8ur8x
@user-mr3bb8ur8x 2 жыл бұрын
一門だけど、後醍醐に頼りにされ 主家より上に(武家の頭領)なる可能性が出てきた。 (後醍醐のだした)目の前のニンジンに義貞の目が眩んだ。 て、事じゃないの。
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x Жыл бұрын
まあ、新しい説唱えんことには歴史学者も食いっぱぐれますからね。 あなたの言われる通り突っ込み所満載ですよね。
@user-tb4or3pp3g
@user-tb4or3pp3g 2 жыл бұрын
鳥山明は新田で足利なのか
@kazsteinkreis8570
@kazsteinkreis8570 2 жыл бұрын
あの辺り(尾張・三河)は新田や足利一族の所領がたくさんあったので、鳥山先生の家が新田の一族であった可能性は高そうですね。
@as_of
@as_of 2 жыл бұрын
他の人のコメント見ていて、一部、足利一門と源氏嫡流の話をごっちゃにされてる方がいますね。 あと、足利尊氏の兄で嫡男の『足利高「義」』の存在が抜けている方も・・・ この辺りの整理がつくようになったあたり、 ライト層の私も少しは知識がついてきたのかもしれないw(なんて嘘〜♪)
@user-jo6wg8ue6y
@user-jo6wg8ue6y Жыл бұрын
まず此れは足利と新田の力関係から見直さなければなりません😮足利と新田の祖は言わずとしれた源義国で血筋で言えば兄の血筋が新田で弟の血筋が足利ですが何故か義国の所領足利莊を引き継いだのは足利でありまた足利義兼の頃には源頼朝や北条氏との付き合いの深さから新田との力の差は明確な者となり更に足利は北条氏と長きに渡り血縁関係にあり鎌倉時代末ごろには膨大な所領を有していましたこうした事から新田は足利の一門扱いされていた者とおもわれますつまり力関係と鎌倉時代末の地位の違いです
@tailsub3068
@tailsub3068 11 ай бұрын
足利と新田だけの関係性だけなら、お互いの力関係の推移のみで考えられますが、 この話は新田系の他の一族も足利一門として扱われている点も考慮する必要があります。 新田本家の凋落に引きづられなかった山名や里見も足利一門となっている点も含めて考察している谷口雄太先生の関連論文や書籍をお勧めします。
@user-ry3du7we4k
@user-ry3du7we4k 2 жыл бұрын
源義国の長男の家系の新田の家紋がおおなかぐろ・ひとつびき、次男足利系の家紋がにびき。鎌倉時代の身の処し方で運命が分かれた。 新田って、足利から代々嫁をもらってたんだよね
@user-yl3wo2hs8y
@user-yl3wo2hs8y Жыл бұрын
義康と義重の扱いの差が極めて大きい そもそも保元の乱前にあの若さで受領で陸奥守、蔵人にもなっており、義家みたいにヘマをしなければあのまま行けば頼義以来の受領の最終到達点の一つである伊予守になってただろう
@user-yl3wo2hs8y
@user-yl3wo2hs8y Жыл бұрын
庶兄の義重どれだけ長寿しようと庶兄は庶兄 義兼の復活がなかったらというifはあるけど現実に義兼は北条に接近し、足利を復活させた 義重の時点で嫡流の2人に及ばない地位というのを確定させちゃってるからね
@ukelelewww8427
@ukelelewww8427 2 жыл бұрын
確か太平記の幕府軍の軍勢数十万とか。
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x Жыл бұрын
軍勢盛り盛りは太平記だけじゃないよ。 源平合戦然り戦国時代然り。
@user-fz7fh5fw8k
@user-fz7fh5fw8k 2 жыл бұрын
新田が足利一族だとしても、新田が建武親政(そして南朝)で一貫し高評価してるのも事実。佐々木道誉や結城宗広も同系統
@user-ti1ft9fg4u
@user-ti1ft9fg4u 2 жыл бұрын
新田さん一族は無断出家の人から完全没落したのかと思ってましたがもしかして初代の義重さんの頃からそこまで大事に扱われてなかったのかな🤔
@user-gh8ui2jo4o
@user-gh8ui2jo4o 5 ай бұрын
新田氏から先祖が名字を1333年に頂きました🙄
@mattsong3975
@mattsong3975 Жыл бұрын
足利一門(新田系を含めて)において、鎌倉幕府のなかで、御家人になつたのは、どこの家なのでしようか。足利家、新田家は当然ですけど、それ以外では?
@user-km9jy7oi3b
@user-km9jy7oi3b 15 күн бұрын
斯波(鎌倉時代は足利を称してた)とかも足利宗家とは別の独立した御家人として扱われてた そんな感じで新田含め足利一門内ですら尊氏-義詮-義満系の権威は高くなかったから、室町初期にはその権威を高めるため相当な努力が払われたらしい
@yellowpowder2064
@yellowpowder2064 2 жыл бұрын
信長も秀吉も平氏なんですか
@maro3564
@maro3564 2 жыл бұрын
本来、惣領は新田。足利が新田の一族ではないかと思われます。ただ昔から、本家より分家の方が栄えるってよくあります。分家でも栄えたらそちらが嫡流になるでしょう。
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x 2 жыл бұрын
織田や松平もそうですね。
@user-sn5yg4zg4p
@user-sn5yg4zg4p 2 жыл бұрын
新田は出自から考えれば足利一門に含まれるのかな? 家祖は足利家祖の兄やけど、下野源氏一門とするのが正しくない?
@user-km9jy7oi3b
@user-km9jy7oi3b 15 күн бұрын
違うんだって 「足利一門」という概念自体が室町時代にとても重要な意味合いを有すのよ そしてその観点から新田を考えると、太平記的な足利と新田はライバルであるみたいな歴史観が意味を為さないって話
@beforeafter3258
@beforeafter3258 2 ай бұрын
息子と違って武家の実情に疎い親父の著作物か…コイツの無茶振りで結城親朝は北朝に寝返ったんだよなぁ
@user-oi4so4zo1g
@user-oi4so4zo1g 2 жыл бұрын
武田とか小笠原、南部みたいな感じやろ?甲斐源氏に例えると
@user-km9jy7oi3b
@user-km9jy7oi3b 15 күн бұрын
うーん、いや、間違ってるって訳じゃないんやけど、足利一門か否かは室町時代にめーーーーーーーっちゃ重要な概念になった(詳しくは「中世足利氏の権威と血統」を参照)から、そう簡単に例えば甲斐源氏の各流と比べられるものではないと思う
@Miki_Nanase
@Miki_Nanase 2 жыл бұрын
〇〇一門って当時の認識論を問う、と言うことでイイんでしょうかね? 今「武家の王」を読んでいる途中なんで。 まあ、細川や仁木が足利ならその前に分枝してても足利でよかろ?ちゅうのは、 義国流で一大繫栄してるのが足利だから、という相対的価値?になるんですよね。 このへんが喉奥に小骨がひっかかる感じがするわけですよ(笑)
@zaya3074
@zaya3074 Жыл бұрын
新田一族が足利一門であるならば、なぜ家康があえて 新田の庶流と名乗ったのか理解できない。これが、 家康が戦国の世を終わらせる為に取った、高度に政治的な ブランディング戦略だったと捉えるならば、新田と足利は同格 か、新田>足利でないと効果がなく、その当時の時世が収まっ ていないと考えるのだが・・・どうだろう!?
@user-yl3wo2hs8y
@user-yl3wo2hs8y Жыл бұрын
義康と義重の扱いの差 そもそも保元の乱前にあの若さで受領で陸奥守、蔵人にもなっており、義家みたいにヘマをしなければあのまま行けば頼義以来の受領の最終到達点の一つである伊予守になってただろう
@zaya3074
@zaya3074 Жыл бұрын
当方、その時代の歴史背景知識が乏しく、よく理解できなくて申し訳ない。 御返信頂き大変恐縮なのだが、疑問の(問いかけ)に対する御意見(答え)になってない気がするのは気のせい・・・?
@Morning-mist_galaxical
@Morning-mist_galaxical 11 ай бұрын
ヒント 家康が幕府を開いた当時足利氏は関係者が皆生きており僭称不可能。
@cobakatsu8628
@cobakatsu8628 2 жыл бұрын
僕の母親の実家は,清和源氏足利氏の分家でした.当初,新田氏と思っていたようでしたが,家系図を直したら,足利氏でした.僕が生まれた時に,実家のおばあちゃんが牛若丸の雛人形を送ってくれたそうです.
@pleasure5458
@pleasure5458 2 жыл бұрын
近代でも足利一門多いですからね~(^-^) 足利一門と言うより、 清和源氏、八幡太郎義家公の新田、足利、徳川、等々ですからね~ 足利は、2代目から通字の『義』をつかいますし、 徳川は、通字を『家』を使うので、通字の意味を理解してないのかな? 言い方変えれば、 『八幡太郎義家』一門であって、新田、足利には、意味が無いのかも?しれませんけど👍
@user-ht1bb4jp3v
@user-ht1bb4jp3v 2 жыл бұрын
通字は変化することもあるので。例えば伊勢盛時の父は盛定なので備中伊勢氏は盛の字を使う様ですが、後北条氏は北条氏綱から主君の今川氏親の氏を拝領してそれを通字としています。しかし、これは執権北条氏の通字ではありません。
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x 2 жыл бұрын
@@user-ht1bb4jp3v 伊勢盛時が『盛』を使うのは父、盛定からの偏諱で間違いないのですが元々伊勢氏は平氏の流れなので平氏の通字『盛』を意図的に使用してると思われます。
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x 2 жыл бұрын
@@user-ht1bb4jp3v 後北条氏の『氏』も今川の『氏』も鎌倉・古河・堀越公方家の通字『氏』からのいただきですね。
@user-tn3jm5kn5w
@user-tn3jm5kn5w Жыл бұрын
義康じゃなくて義国が足利の祖だったってこと?
@user-ud2iz1qq3b
@user-ud2iz1qq3b 2 жыл бұрын
一族内のライバルだと認識してて「え?世間ではそんな認識なの?」とビックリしたわ。 増鏡は読んだ事あるけど、太平記は無いからかな。
@user-gy3hj5bc5t
@user-gy3hj5bc5t 2 жыл бұрын
歴史好きじゃない人はほぼ勘違いしてるでしょうね(笑) 歴史が好きな人はちゃんと調べたりして学んでるから、知ってて当たり前だけど、それで知らなかったり勘違いしてたら、 それは自称歴史好きって事になるからね(笑)
@user-ej6ln3ec9f
@user-ej6ln3ec9f 2 жыл бұрын
典型的な勝者の歴史観でしょう。頼朝に臣従するのが遅れた為足利氏の下風に立つ事に生った新田氏、若し逆の立場で在れば足利氏が新田氏の一門と呼ばれて居たでしょう。
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x 2 жыл бұрын
仰る通りです!
@user-yl3wo2hs8y
@user-yl3wo2hs8y 2 жыл бұрын
義重と義康の時点で対等じゃない 保元の乱前に義康は既に蔵人になり陸奥守になってる
@user-ej6ln3ec9f
@user-ej6ln3ec9f 2 жыл бұрын
@@user-yl3wo2hs8y 義康は若くして亡くなったので幼い足利義兼は伯父である義重の軍事的庇護を受けて居たとWikipediaに書いて有りますが。
@user-yl3wo2hs8y
@user-yl3wo2hs8y 2 жыл бұрын
@@user-ej6ln3ec9f いや保元の乱の前にあの若さで受領になり、しかも陸奥守になってるのを無視してはいけない 当時の落ちぶれてた河内源氏じゃ受領になるだけで凄まじい出世と言ってもいい 頼義、頼清や義家と比べてみればどれだけ若いか分かるでしょ 義家みたいに失敗してなければ頼清以来、河内源氏で受領での最上位の伊予守になれる位置にいたのが義康 で?義重は?
@user-yl3wo2hs8y
@user-yl3wo2hs8y 2 жыл бұрын
まぁ義康の早死からの復活に関しては確かに頼朝への接近が大きいし、確かにそれが無ければ立場が逆だった可能性は高いけどね
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