【ゆっくり解説】邪馬台国シリーズ 前漢時代の馬王堆漢墓の帛書地図が衛星写真並みの精度だった!やはり伊都国は糸島市じゃなかった⁉

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歴史妄想探訪

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Күн бұрын

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@メイ-z1y
@メイ-z1y 2 жыл бұрын
この論争は永遠の謎で終わってしまうのかな。確かにロマンを感じるけど、はっきりした答えが出る事を期待しています。私も九州のどこかだろうと思っている一人です。毎回、本当に詳しく調べられている事に感心しています。素晴らしいです。
@khiwatashi1965
@khiwatashi1965 4 жыл бұрын
おもしろかったし、説得力ある
@キャラバン1210
@キャラバン1210 4 жыл бұрын
これからも頑張ってください。応援しています。古墳めぐりは面白そうですね。
@mecom3450
@mecom3450 Жыл бұрын
邪馬台国四国説を主張するANYAチャンネルでは、伊都国を行橋に比定しています。 行橋の研究者で不弥国に比定する方もおられますが、糸島市と争いたくないので少し配慮していると推察しています。 旅程は全体に東南へ進んでいますから、四国説が合理的だと自分も考えます。
@user-bh9bc8rl7d
@user-bh9bc8rl7d 4 жыл бұрын
登録者一万人おめでとうございます、うp主さんの妄想&深掘り考察ホント興味深いです。 古代史は好きだけど学はない→けど聞くのは好き→最近は特に古代日本に関心がある……ってタイプのリスナーなので、今後も古代日本史の謎をうp主さんの視点でこれからも沢山こねくりまわして頂けると嬉しいです。
@keniti0624
@keniti0624 4 жыл бұрын
初めまして! 興味深く見ています。 このチャネルがきっかけで歴史が楽しくなりました。 動画も楽しいですが皆さんのコメントも同じくらい楽しいです。 これからも歴史を楽しみにしています。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 楽しんでいただけて何よりです^_^ 今後も頑張って妄想しますのでよろしくお願いします。
@sunsetjan.2545
@sunsetjan.2545 Жыл бұрын
素晴らしいます。驚きです。
@京子関根-f4e
@京子関根-f4e 4 жыл бұрын
一万人おめでとうございます。 古墳巡りツアー興味あります✨
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ありがとうございます。 人数いれば是非やりたいですね^_^
@強力キャノンボーラー
@強力キャノンボーラー 4 жыл бұрын
一万人登録おめでとうございます。知らない資料を沢山紹介してくださるのでいつも勉強になります。 馬王堆というとんでもない遺跡があったとは古代中国恐るべしです。
@kouichinishida6712
@kouichinishida6712 4 жыл бұрын
1万人おめでとうございます。歴史ロマンの好きな人が1万人いるって事ですよね。TV地上波の視聴数と違い、本当に1万人の人達がほぼ同時にこのコンテンツを見てるってすごい事ですよね。TVは付けっ放しで集中して見てない人が多そうだけど、チャンネル登録する人達は、好きで見ている人達だもんね。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ありがとうございます。 私自身驚いています^^; 歴史好きな方たくさん来ていただき嬉しい限りです^_^
@デュワーズコークハイ
@デュワーズコークハイ 4 жыл бұрын
おもろい飛躍もすごいこれが歴史の醍醐味だよな
@齋藤たかこ-u8i
@齋藤たかこ-u8i 4 жыл бұрын
倭人伝に書かれた壱岐、対馬とその後の道程と思しき地域に土地勘のある人のコメを読ませていただくのは楽しみです。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
色んな歴史好きの方が来ていただいてるので、ぜひコメも見てください^_^
@vegatraveler3560
@vegatraveler3560 2 жыл бұрын
私も、ポイントは伊都国だと思います。魏志倭人を正確に読むと、伊都国は、吉野ヶ里遺跡だと思っています。 そして、奴国は古代の佐賀の海岸の集落(みやき町)、不弥国が、古代の佐賀の海の港(久留米)、そして水行20日で投馬国が奄美大島、そこから水行10日で邪馬台国(沖縄本島)の北端、そして邪馬台国の島の中を1月歩いて(はだし?)、極南界の奴国=那覇=女王の居するところま到達すると考えています。
@sakurasae7
@sakurasae7 4 жыл бұрын
糸島市在住ですが古墳はすごく多いですが邪馬台国とは関係ないと思います。 邪馬台国は抜きにしても遺跡や珍しい刀なども発見されているので歴史ロマンは感じてます。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 近々糸島に寄らせていただきます^_^
@axxx300
@axxx300 4 жыл бұрын
元糸島郡前原町民です。糸島は筑紫文化圏、唐津から厳木は肥前国文化圏で、別の国だと思っています。 もちろん、糸島が筑紫文化圏として重要な地域なのは間違いありません。 時代が違いますが、九大糸島キャンパスから出た巨大製鉄高炉群に興味があります。時代的には白村江時代ですね。
@izumiyaroqji
@izumiyaroqji 3 жыл бұрын
怡土地区の三雲と井原の王様、平原の女王の存在はすごいですよね☆
@隆一西
@隆一西 Жыл бұрын
糸島は地元の佐世保から車で2時間以内で行けるので、平原、井原ヤリ溝、三雲南小路の各遺跡をはじめ、周辺の古墳巡りをして癒やされましたが、まだまだ行けてない遺跡ありますんで魅力あふれる地域ですね( ・ิω・ิ)✨
@ルル-j3e
@ルル-j3e 3 жыл бұрын
利蒼の妻の話ってもしかしたらぬ~べ~に出てきた話かな 邪馬台国シリーズや新しい天智天皇の話も楽しみにしてるし応援してます!
@pomubou
@pomubou 4 жыл бұрын
古墳めぐり楽しそうです! 以前このチャンネルで卑弥呼の墓説が出てた古墳とは呼べない古墳(?)とかに何人か集まって行けたら、いろんな意味で難易度高くて面白そう……笑 古墳じゃなくてもマイナーな史跡だったり、一体なんなのか殆ど解明されてないようなオカルトホイホイみたいな場所でもうp主さんやコメント欄にいらっしゃる方々とと一緒なら楽しそうです でも現実的にはやるなら関西やギリ福岡辺りでしょうかね
@Uni-c9u
@Uni-c9u 4 жыл бұрын
登録者一万人おめでとうございます! これからも興味深い考察楽しみにしてます!
@正直ポチ
@正直ポチ 4 жыл бұрын
おめでとう ございます!
@tigers342
@tigers342 3 жыл бұрын
糸島市は、怡土郡(いと)・志摩郡(しま)が一つの行政区画になったものです。半島側が志摩郡で、内陸側(一部海にも接している)が怡土郡です。怡土郡では多くの遺跡が見つかっています。また、金印が見つかった志賀島は博多湾の対岸にあります。 糸島市の西隣は唐津市ですが、唐津市には松浦川という大きな川があります。
@megadoitu1
@megadoitu1 4 жыл бұрын
電話も無い時代、行き成り来た魏の使者に、慌てて女王卑弥呼に合わせる理由はない 卑弥呼に伝えに行くと後を付けられるから 九州を一回りさせている間に邪馬台国は卑弥呼とともに会議をしたんじゃないかな? っていうか卑弥呼本人に直接面会はしてないのでは?
@toshiakitsuyama9045
@toshiakitsuyama9045 3 жыл бұрын
8分23秒の末盧国をもう少し東に行くと北九州市に篠崎八幡神社があり、ここを末盧国だと比定すると東南側を見ると苅田・行橋があります。ここを西の方へ登ってゆくと「みやこ」という場所がある。それに関門海峡は宗像の水軍ならば通れる操船術があったと考えられます。
@osamakeiko
@osamakeiko 3 жыл бұрын
唐津から糸島に歩くのは当時ムリです。海岸線は断崖絶壁ですから。
@甲斐周作
@甲斐周作 4 жыл бұрын
熊本のほぼ真ん中に「御船町」というところがある。 町名の由来は昔天皇が舟でお着きになった場所としてその地名が付いたそうな。 現在は、河口まで直線距離でも20~30kmはありそうだ。 1000年も経てばそりゃ海岸線も大きく変わるよね。
@metabo850mm
@metabo850mm 4 жыл бұрын
川岸だった可能性もありますね。
@toshirouhorino
@toshirouhorino Жыл бұрын
最高に優れた内容だ。 松浦川から厳木川沿いに歩き、小峠を越えて、佐賀平野に向かったというのは大正解だね。 行先は吉野ヶ里でもいいが、其の100里手前の大和町川上がもっと良い。そこはカワカミノタケルの砦があったところ。
@freeformn2
@freeformn2 4 жыл бұрын
個人的には邪馬台国編が終わったら欠史八代とかの事をやって欲しいです…!
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 欠史八代とは切手も切れませんので、少しずつですが、制作にかかっています^_^ 今後もよろしくお願いします🙇‍♂️
@瑠璃秦
@瑠璃秦 4 жыл бұрын
蛭子についての考察も聞いてみたいです
@metrokumaichi
@metrokumaichi 3 жыл бұрын
面白かったです!確かに最初は方位ズレとるやないかい!思いつつも糸島市・伊都国の名前の響きの近さで一緒かなと納得しちゃってたとこあります。
@mimi-hm2ez
@mimi-hm2ez 4 жыл бұрын
昔から疑問だったんですが、魏志倭人伝は古代中国語で書かれた書物なのに、伊都(古代中国の発音)→糸(現代日本語の発音)と、「音の類似性」に引きずられている感があります。吉野ケ里遺跡の一帯に、例えば今は消えた古地名や、現存するけど目立たない小字名などに「イト」に類似した地名があれば面白いですね。
@masarug2616
@masarug2616 4 жыл бұрын
古墳めぐりツアー行きたい!!是非!
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
リクエストありがとうございます^_^ 行きたいですねー^_^ 人が集まるなら是非やってみたいですね^_^
@hiroshim9441
@hiroshim9441 4 жыл бұрын
素晴らしい。私も伊都国=糸島には懐疑的でした。 ただ、邪馬台国は熊本北部ではなく宮崎方面だったのではないかと思ってはいますが。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 宮崎ですかーいいですね^_^ 大きな環濠が出れば決定でしょうね^ ^
@nubo520
@nubo520 4 жыл бұрын
この馬王堆漢墓は発掘当時「長沙漢墓」と言われて連日TVや新聞で騒がれていたことを覚えています。たしか当時の新聞の切り抜きもあったかな? TVではこの婦人のミイラの腕の部分を押して皮膚に弾力があるのを見せていました。
@ぼるぞいぼるぞい
@ぼるぞいぼるぞい 4 жыл бұрын
一万人おめでとうございます。巌木川(厳木川)は正しくはきゅうらぎ川と言います。細かくてすいません。 実は吉野ケ里にはまだ発掘されていない場所がたくさんあります。たしか去年、吉野ケ里遺跡すぐ隣の日吉神社一帯の発掘が決まったとニュースになってたので今後に期待です。 2022年から開始のはずです。地元の知り合いはほかにも発掘してほしい場所があるけど土地の権利とかもあるのかな?ねって話してたのを思い出しました。 日吉神社自体が吉野ケ里遺跡とのなんらかのつながりがあるのかわかりませんが、祭祀を行ってた場所のだったことがわかれば面白いことになりそうと個人的に思ってます。今後の発掘に期待ですね。 あともう一つ気になるのが当時の有明海の水位です。吉野ケ里は海に近かったのかも。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます^_^ 吉野ヶ里は今では海まで20キロくらいありますが、当時は4キロくらいだったみたいですね^ ^ 伊都国は船の積み荷をチェックする国だったので、海が近いのはもってこいです^_^
@高橋邦雄-z2u
@高橋邦雄-z2u Жыл бұрын
魏志倭人伝の動画の中でも評価しています。 今だに方角間違えたりコジェ島から楽浪郡の距離を525キロといってる説があります 北緯34.8度で532キロ7000里です
@MrAirrium
@MrAirrium 4 жыл бұрын
楽しく拝見させていただいています。私も邪馬壱国熊本説に賛同します。ただ伊都国、奴国、不弥国は怡土郡、那珂郡、宇美だったのではと思います。 その後、南へ宝満川、筑後川を水行し、投馬国(旧妻郡=八女市)へ、さらに有明海を南下し、玉名辺りで上陸し陸行一月で邪馬壱国と見ています。 松浦郡から怡土郡までの方角の問題がクリア出来ればこれが一番しっくりくるんですけどね。
@獅子舞-x5l
@獅子舞-x5l 4 жыл бұрын
現代の地図に当てはめているとワケわからなくなる 糸島は半島でなはなく島だったし 博多 有明の海岸線は今よりずっと山に近く水田敵地は限られていたはず‥‥
@かるいし-l4p
@かるいし-l4p 4 жыл бұрын
糸島って“島”は当時島だったとしても“糸”は南部の怡土郡で島にはあたりません。
@metabo850mm
@metabo850mm 4 жыл бұрын
水田適地は平野だけではなく、川沿いに、帯状に広がっていたのではないでしょうか。
@EA-nf1zo
@EA-nf1zo 3 жыл бұрын
末盧国から松浦川沿いに南東に向かい、峠を越えて小城の郡へ行くと弥生時代の土生遺跡(国史跡)があり、 青銅器の生産設備跡や大陸との交流を思わせる銅鉇鋳型が出土しております。8:30の地図では当時は海の側ですね。 唐津の菜畑遺跡から土生遺跡まで、今の道路なら35キロ。吉野ヶ里までは55キロ。当時だったらまだ増えるでしょうね。 與止日女神社あたりも何かありそうですが、まだ発掘するまでの開発工事もありませんので、藪の中です。
@mousou
@mousou 3 жыл бұрын
来年、吉野ヶ里の北側の発掘調査が再開されるようです。 視聴者さんに教えていたのですが、吉野ヶ里の北側に日吉宮という神社があり、その近辺から女性のお墓が見つかっているようです。 佐賀県には必ず古代の謎を解く何かが埋まっていると信じてます^ ^
@EA-nf1zo
@EA-nf1zo 3 жыл бұрын
すぐそばが北の墳丘墓でそこと同じ位の岡ですからね。 何か新発見があると良いですね。
@mimi-hm2ez
@mimi-hm2ez 4 жыл бұрын
当時は文化大革命の最中でいろんな文化財が破壊されたけど、この夫人のミイラはあまりにも貴重な大発見だということで、特例扱いで研究が許されたと以前ニュースで聞きました。
@sunsun2181
@sunsun2181 Жыл бұрын
「遺跡がないから」??? はあ、これだけたっぷり遺跡があります。伊都国は、糸島市周辺で、皇室の故郷です。 宇木汲田遺跡。吉武高木遺跡 。須玖岡本遺跡。三雲南小路遺跡。井原鑓溝遺跡。平原遺跡。 面白いテーマなので、もうちょっときちんと調べてから、動画にされたほうがいいと思います。がんばってください。
@よごれ-f6e
@よごれ-f6e 3 жыл бұрын
唐津から唐津線で吉野ケ里手前の小城市の辺りに「厳木(きゅうらぎ)」という地域があるんですよね。 「厳」は古代中国では「イツ」と発音するらしいです。 コロナで遠出できませんが、収まったらちょっと行ってみたいと思います。
@uetotesshu
@uetotesshu Жыл бұрын
厳にイツという音が有るんですね。伊都をイトと読むのに疑問を持っています。イツが正しいのでは無いかと。伊都がイツで有れば伊都=糸島の説得力が半減します。
@yukizokin
@yukizokin 3 жыл бұрын
刺史の如くあり、だけでもなかなか見事な考察だとおもうけど、さらっと流しますね。名前がない理由にもなってる。
@Fields_of_gold
@Fields_of_gold 3 жыл бұрын
自分の領地の正確な地図は、作る目的があるので時間と労力をかければ作成できる。 50gの着物も時間と労力をかければ現代でも作成可能。作る目的がなければ作る職人がいなのは当然かな。 方位磁石が普及し始めた時代だが、労力と時間は相当なものと推測する。 遠い異国の山林ばかりの未開の土地でまともな地図を作る目的があるとは思えない。 可能性を度外視するなら、邪馬台国にギリシャやローマの建築が存在することも可能になるかも。
@metabo850mm
@metabo850mm 4 жыл бұрын
道路ではなく水路が主要な交通路だった時代の地理は、地図よりも水路図が正確だったのでしょうね。 方角を教えてくれたのは雪を頂く山。九州では何だったのでしょうね?
@doryuji
@doryuji 4 жыл бұрын
現代の我々以上に当時の人々にとって方角は死活問題だろうから、方角を間違えているという前提で自分の推したい説に繋げる考察は何だかなぁと思う。 だからこの動画のような説は真偽は僕なんかには考えの及ぶものではないけど、見応えがあって良い。
@tarou1172000
@tarou1172000 4 жыл бұрын
goodボタン一回しか押せないのが残念
@7しょう-k3l
@7しょう-k3l 3 жыл бұрын
皆さんの考えている詳細比定地(例 宇佐、山門など)をアンケートで知りたい。 できればその根拠もざっくりでもいいから聞きたい。
@wajin5695
@wajin5695 11 ай бұрын
方位がいくら正確でも、2点間の方位が向かい合わないと、方向は示せないはず。倭人伝の里数は、77m短里だと何故かデジタルマップに合致しますが、これは実測したと結果でしょう。一寸千里法で測ると、77m短里に必然的になります。  上陸港を呼子(末廬國)とすると、真東に井原・吉武・岡本が概ね一列に並び、500里・100里・100里となります。岳ノ辻と呼子の南北距離と、可也山の角度から測量できます。道も東南・東南・東ともとれます。伊都國に直接入港すると不審船扱いされるため、呼子で様子を伺う他、徒歩で書状を持参しVIP対応の根回しをした説も聞きます。240126
@ht3687
@ht3687 4 жыл бұрын
吉野ヶ里キター!
@tetsuhirohirakawa8654
@tetsuhirohirakawa8654 3 жыл бұрын
中原と陸続きで中原王朝が何度も遠征するなど活動領域にしていたところは測量が繰り返され、正確に地形図として把握されていたはずです。指南車という道具も知られている。星の観察に基づいた緯度の知識もあり、星の角度から滞在地の緯度と帯方郡からの距離や方角が分かったはずです。1万2千余里は概数の足し算で算出されたものではありませんよ。 列島に入った途端に方角がずれていたり、不弥国以降が距離表現でなくなったりしている点は、列島が中原と陸続きでないため、中原王朝がその測量技術を継続的には勿論一度も駆使できなかったことや、不弥国以降が列島勢力と陳寿によって意図的に誤魔化されたと判断できることで説明できるよ。従ってその点ひとつで近畿説を全否定してかかるのは間違えていますよ。帯方郡から狗邪韓国までの距離をベースにして一里が何メートルになるか正確に算出できるのですが、九州説はこの簡単な計算もしていないよね。自分勝手に決めてしまっている。兎に角、九州説は距離も方角も無茶苦茶ですよ。
@名無しの権兵衛-t5s
@名無しの権兵衛-t5s 4 жыл бұрын
疑問にあるのが、大月氏(アフガニスタン)と邪馬台国の距離がほぼ同じなのに、長安からイラクまでの距離が邪馬台国や大月氏よりも近いというコトです。 当時の魏は曹真派と司馬懿派と派閥が2つに割れており、曹真がクシャン朝を帰順させ、司馬懿が邪馬台国を朝貢させてます。そして、魏書が書かれたのが西晋の時代です。 建国の父である、司馬懿の功績を盛る為にあやふやにした可能性もあります。 当時、呉が存在していて呉が日本を征服しようとして大艦隊を送り込んでますが失敗してます。呉にわざと、あやふやな情報を与えて国力を弱らす策略を仕掛けたというのも考えられます。
@イチエフ
@イチエフ 4 жыл бұрын
呉は台湾に人狩りをして、失敗してます。 後漢末の混乱で人口が1/10に減り、最終的に黄巾の乱で滅びました。魏呉蜀はそのような小人口の世界で出現した国です。呉など兵力が足らないため人狩りをしてます。 魏が最終的に勝利しましたが、遊牧民の支援を受けたため、また国が滅びる原因となりました。
@名無しの権兵衛-t5s
@名無しの権兵衛-t5s 4 жыл бұрын
@@イチエフ様 三国ともそのような状況を理解していて、魏は朝鮮・満州・西域方面、蜀は雲南・ビルマ方面、呉は台湾・ベトナム方面へ勢力を伸ばしています。 三国の中でも水上戦力に優れた呉でさえ南西諸島にさえたどり着けないコトを考えると古代中国の航海術は同時代のローマやインドに比べて遅れていたと思います。
@00925187
@00925187 3 жыл бұрын
かなり遅い返信で申し分けない 呉が日本を征服しようとしたという記録はありません 西晋によって書かれた記録なので、事実かどうかは疑わしいところですが、孫権 が夷州、亶州を軍人に探させようとして失敗したとあるだけでのことで この夷州、亶州というのは東海にあるとされた幻の島などのことで、西王母、東 王父などの神仙、魑魅魍魎と同じく想像上の伝説でしかなく、特定の島や国を指しているわけではありません 日本人はよく徐福伝説関連で沖縄や日本列島を指していると我田引水的に誤解し ますが、それは誤りです 日本との交流が多岐にわたった隋の時代でさえ区別がついてなかったのですから 呉の人たちは漁民も多く、ある程度航海術に長けていたので、どこに何があるの か、ないのかはおおまかには理解していたと思いますが、洛陽や長安にいた人たちにとっては西の流砂と同じく東の海というのは恐ろしい場所に過ぎないのです それゆえ情報が曖昧かつオカルト的になりやすいのだと思います それから呉にわざと曖昧な情報を与えたとありますが、三国志がまとめられた時に は既に呉は滅亡しており、朝貢当時に呉に向けて喧伝するのならともかく、史書でそうするのは意味はないと思います 呉討伐は三国志の著者の恩人で上司が最高責任者なので、詳しい情報が入って なかたっとはさすがに思えませんし それゆえに著者が、洛陽から見て東南にある呉の背後から朝貢してきたことを記録に遺すために、意図的にフィリピンあたりから朝貢したように見せかけたとしか考えようがないわけですね(著者の忖度か、命令か、司馬一族側による公式見解が原因なのかは不明) 何せ、著者は女王国のある場所までの帯方郡軍人の記録を見て書いているわけですからね 方向を間違えるはずがないというのなら、同じ理由で実見記録を見間違えるはずものないわけです
@名無しの権兵衛-t5s
@名無しの権兵衛-t5s 3 жыл бұрын
@@00925187さん 朝貢当時も宣伝したのだと思われます。三国では随一の水上戦力を誇る呉を脅すには呉が到達できなかった日本列島・琉球諸島・フィリピン諸島等から朝貢に来たと宣伝すれば、水上戦力を差し向けて探検し制服し呉は挟み撃ちにされます。 史書なので、こういうコトをしました。ありました。的なコトを書いてるんじゃないんですかね?真実と嘘が玉石混合な史書ですが。
@axxx300
@axxx300 4 жыл бұрын
佐賀県小城市は小城市遺跡地図を見たほうがいいでしょう。小城市市街地周辺がほぼ全部遺跡です。 また、佐賀市大和町は惣座遺跡がありますが、その後も肥前国庁や国分寺など肥前国の中心でした。 厳木を経由する佐賀ルートなら、このあたりが伊都国候補だと思っています
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 私も、小城辺りにあって欲しくて、小城の遺跡は全て資料に目を通しましたが、大陸の要人が留まるほどの遺跡が見つかっていないんですよね^^;
@ひなたさくら-u5i
@ひなたさくら-u5i 4 жыл бұрын
方位、方角は古代でも正確に出してる筈ですよ。占星術は、現在では卜(うらない)の方になってますが、元々は、方位、方角などを知るための天文学。 天文学は星をみますし、星の動きや月の動き、太陽の動きで方位や距離を測っていたのではないかと、例えば、北極星を基準にして方角を決めているとかね。 あと、伊都国と邪馬台国は同じ連合王国に属していて仲が良かった。伊都国が肥前、邪馬台国が肥後で同じ火国。前回の動画を参考にして、邪馬台国の火の巫女が滅亡し、残党が伊都国に必死に落ちてきたとなれば、整合性は取れる気はしますし、あとは、伝承や伝説は元になった話があった説から紐解いていくかですね。この魏の役人は魏のどの時代に来たのだろうっていうのも、曹丕の時か司馬炎に禅譲するかしないかの時期でも変わってくるだろうし。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 ですよね^_^ 説に自信が持てましたw
@ken_kuma3kuma816
@ken_kuma3kuma816 4 жыл бұрын
安徳台遺跡も掘り下げてほしいです!
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 安徳台遺跡は奴国の一部と言われている集落跡ですし、一度この辺りの遺跡をすべてMapに落とし込んで、国の範囲がどの程度だったのかも検証してみようとは考えています(^^) そこから何か見えてくるかもです(^^)
@keikichi925
@keikichi925 3 жыл бұрын
日中国交正常化記念中国出土文物展で馬王堆墓からの遺物が来てましたね。発見されてわりとすぐでした。
@shulenjp
@shulenjp 4 жыл бұрын
今回もありがとうございます。楽しく拝見させていただきました。僭越ながら主様の意見に追加しますと吉野ヶ里近辺で水田跡がほぼ発見されない件、環壕集落であった点、そこより南は有明海が干上がりきっておらず湿地帯であった可能性がある点、周囲の国々の監視役としての立地的観点から、まさに防衛都市の役割を十分に満たしており、素晴らしい見解だと感じます。私も伊都国は糸島、太宰府、吉野ヶ里以外はないだろうなと思います。
@shulenjp
@shulenjp 4 жыл бұрын
ただし、この意見の弱い点はやはり唐津ですら草木覆い茂る状態であった頃に果たして厳木あたりを外国施設団を通せる状況だったのか?に尽きると思います。私は糸島という意見で倭人伝に「東南陸行五百里到伊都國」と思いっきり書かれている状態で、古事記に伊斗村、日本書紀に伊都県主、続日本紀に怡土城、倭名抄に怡土郡と記載される糸島を崩すのは画期的な発見がないと厳しく感じております。糸島が弱い点は方角もさることながら地理。ここにあって周辺国が怖がるか?と確かに感じます。地理でいうと吉野ヶ里は最高立地だと思います。私はこの辺は適当に考えてしまっており、往路は末羅目指して、糸島に直接。復路は海流が逆になるので糸島から唐津経由で海流に乗って壱岐に行っただけじゃないかと思っています。理由はその方が楽だからというのみで唐津は補給港だったのではないか、だから末羅のみ役職記載がないのではないかと思っています。
@ぽぽぽ-i2o
@ぽぽぽ-i2o 4 жыл бұрын
上海語や広東語は古代中国語の特徴を強く残しています。上海語等の発音であれば歴史書間の地名の繋がりがより見えてくるのでは(・・?
@wan6347
@wan6347 5 ай бұрын
伊都国はもしかしたら北九州市小倉北区の到津(いとうず)かも知れません。
@iwasaki128
@iwasaki128 3 жыл бұрын
目の付け所が素晴らしい。登録させて頂きました。 私は邪馬台国が当時の日本の最大最強国と考えるのは間違いだと思っています。
@mousou
@mousou 3 жыл бұрын
ありがとうございます😊
@巌流島男
@巌流島男 4 жыл бұрын
倭国は周里なので1000里67.5km。松浦まで500里、宗像まで1000里です。宗像には昔、松浦の地名がありました。末盧国は宗像です。
@絡繰結糸
@絡繰結糸 3 жыл бұрын
6:20で言ってる糸島の場所変じゃ無い? 気のせいか
@吉弘金田
@吉弘金田 4 жыл бұрын
旧松浦郡というのは唐津市から五島列島までの大きな郡で末廬国も大国で場所は記載したが、上陸地点は二万戸の奴国海岸(博多湾)で、陸行○里は現在の今津辺りが起点だと妄想します。元寇も初め松浦郡に到着しましたが上陸は博多湾でしたから。 伊都国は後世の事も踏まえ大宰府周辺。邪馬壹国まで宝満川を下れば行ける要地だったと妄想します。 奴国二万戸は福岡市西区・南区一帯、不彌国は宇美町一帯、伊都国は筑紫野市一帯。因みに伊都国から大宰府を抜ければ不彌国に至ります。 飯塚方面から邪馬壹国に抜ける場合、伊都国が関所的役割も果たせます。北の国の監視もできます。 筑紫平野は邪馬壹国七万戸。
@kamicop1234
@kamicop1234 Жыл бұрын
糸島はええところよ 背振があるから台風に強いし海山の幸に恵まれてるし 博多にも近い 古代から栄えてる理由
@ザソフトめんズ
@ザソフトめんズ Жыл бұрын
個人的な意見ですが、もし近畿説で二朝説と仮定した場合は「ニギハヤヒ政権」→「神武政権」になるのかなぁ。
@ダッシュバグ
@ダッシュバグ 4 жыл бұрын
ちょっと今更ながら、うぽつです。今回も興味深い内容であると共に、実に解り易かったです。 次の目標達成時のイベントとかコラボならば、他に顔出し声出ししてない ゆっくり解説の人とコラボとかで良いのでは ないでしょうか? 浸透襲撃さんとか、れーしチャンネルさんとか、梅玉2chさんとか、いおた さんとか……今の内に誼を通じておいて(^ ^
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ありがとうございます。 確かにそう言うご意見も頂いていますね^_^ 歴史系のゆっくりさんとのコラボも考えてみます。
@usedsynapse
@usedsynapse 4 жыл бұрын
視聴者から各地の歴史ネタ募集して考察するとかね
@音無-k5w
@音無-k5w 4 жыл бұрын
KZbinの中でも邪馬台国機内説、四国説、北陸説などを主張する人がいるし、九州でも複数の地とする人たちがいます。 面と向かったらケンカになると思うので、最初に自説となる根拠資料を交換して、後は相手の説を論破するメールで戦う。 メールは一日一回のみで2週間ぐらいかけたものを動画で紹介するのはどうかな。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 いいですね^_^ 何チームかに分かれて論破合戦とか楽しそうですね^_^
@リリアン天運
@リリアン天運 4 жыл бұрын
うぴ主がそれやれば。 機内説目線考察動画 四国説目線考察動画 北陸目線考察動画 目線なりきり動画も面白いのでは
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
@@リリアン天運 さん 私の手には負えない気がしますが(^^;;
@リリアン天運
@リリアン天運 4 жыл бұрын
@@mousou うぴ主チャンスですよ。(笑)コッソリ(再生数伸びるよw)その地域説の方々がねw
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
@@リリアン天運 さんwww
@may23k68
@may23k68 11 ай бұрын
災害で壊滅、長期間使えなくなったかもしれん。伊都国の機能を移転したかもしれませんね。
@ヌーク-z3g
@ヌーク-z3g 3 жыл бұрын
この辺りの海岸線はシンプルに北上してないので、南下してると錯覚したのかもと自分は思っています。実際に海岸線をドライブしてもその様な感じになります。
@toshirouhorino
@toshirouhorino Жыл бұрын
今回発掘の吉野ヶ里の石棺蓋には、夜空の星座が正しく刻まれていたそうだ。 古代人の命を繋いだ星座の知識はハンパではない。東南陸行到る伊都国を、間違えて北東の糸島に進んだなど、ありえないこと。 昨夜のNHK特番は、其のことをやんわり指摘したのだろうね。
@tucker_skebevich
@tucker_skebevich 11 ай бұрын
一大卒は卑弥呼の弟じゃないかな。で、彼の名前は、難升米。
@annetapu5202
@annetapu5202 4 жыл бұрын
倭国の使者が意図的に遠回りしたって説を唱えている人はネットで居たな
@mikihisadao
@mikihisadao 4 жыл бұрын
中国の墳墓。よく調べましたね! 多くの人が伊都国の候補としている、三雲・平原遺跡、糸島歴史博物館に行って。すんなり受け入れられました。 日向峠の方角(東南)を意識して、大柱、木棺が配されています。逆に、ここが末盧国の中心と考えると太宰府、筑紫野辺りが 伊都国ってことになるけど。素直に読むと、唐津からR203号ルートでしょうか。小城~佐賀市大和町の辺り。
@SeanOKZ
@SeanOKZ 9 ай бұрын
私もそのルートであっていると思います。 旅程最後の2か国の日数と方位表記は、遠方の大国を装うための、小手先のでっち上げでしょうね。 となると有明海沿岸からちょっと内陸に進んだあたり、例えば山鹿とかが邪馬台国・・・。 そして、10Km隣の菊池あたりのクニと小競り合いしていたとか・・・。 現実は随分しょぼいものだったが、古代中国人にも現代日本人にも、現実よりもはるかに大げさなストーリーが必要だったということではないでしょうか。 大体この時代のクニとは1つの河川の中流域にある平地・舌状台地くらいにある、現在の〇〇町くらいだと思うんですよね。現代日本人、とくに大和説の方々の世界観が近代的すぎるような気がしてます。
@miredmire
@miredmire 4 жыл бұрын
【使者が同行し測量】  測量した前提なら、それも言える。似たものに四国説がありますね。  確かに当時も、地球の丸さつまり緯度を影の長さで識ることは出来ていた様ですので、南中時の影の長さを日付正確に測り日付を付けて持ち帰れば、大陸側の同一日付の同じ影の長さの地点と同じ緯度にあることは判ります。無論、北極星を見付け、その高さの角度でも確認できますが、北極星も変遷がありどの程度の符号度で天文観測が実現出来たのかと、実際に行なったのかが判りませんよね。測量数値ならもう少し数値の刻みが細かくても良い様な気がしますし、測ったのなら、南北の距離くらいは大枠の位置くらいは想定できる ものではないでしょうか?  面白い考えなので、候補には加えますけど。 【伊都国】  地名の存在は当てになりませんが、伊都は、糸島の糸、金印の委奴、怡土も在ります。また、壱岐もも福岡市西区に壱岐の地名は今も存在します。偶々後世にこの地名が宛てがわれたのなら候補から外れますが、特定の名称が複数近くに遺る場合はまんざら無くもないかもかも程度には思うんだよね。だから自分は候補には残します。
@daccm538
@daccm538 4 жыл бұрын
毎度楽しみに動画を拝見してます。都市伝説系の動画も見ていますよ。 さて、馬王堆漢墓で発見された絹の軽い織物を現代で作れないのと同様に、当時の地図に関する知識・技術が450年後には失われていた可能性が微レ存(無理矢理w)。 450年くらいで失われた技術の一例としては、日本の刀工なども挙げられるでしょうか。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
いつもご視聴ありがとうございます。 他の方からも同じコメントをいただきましたので、同じ内容の返信になってしまいますが、ご容赦ください。 そう言ったご意見も出るかとは思いましたが、難しくなるので動画では省略しましたが、 三国時代,特に魏時代には,劉徽という人が解説書をつけた 『九章算術』や,以下のような多くの数学教科書が出 版されています。 祖冲之が円周率(π)の値を 3.1415926 と 3.1415927 の間にあると,小数点以下 7 桁まで求めたのもこの時代です。 1)『九章算術』(もともと 9 章からなる数学の教科書) 『海島算経(重差理論)』という測量専門書は,『九章算術』の 10 章目に劉徽がつけたもの。 2)『孫子算経』 3)『夏侯陽算経』 4)『張邱建算経』 5)『五曹算経』 6)『綴術(ていじゅつ)』 7)『五経算術』 このうち,測量者必携は 1)と 6)になります。 なお,『九章算術』解説の最後の章(10 章:重差法)を独立 して1冊にしたのが,『海島算経』で,これらは日本 では江戸時代末まで教科書として使われていました。 この事から技術が失われていたというのは無いかと思われます^_^
@yosiyukimk2ysyk
@yosiyukimk2ysyk 4 жыл бұрын
一万人おめでとうございます🎶 方角の間違えなんてあり得ない。 そもそも航海するのに方角の把握は死活問題。 ホメーロスを信じてトロイアを発見したシュリーマンにうp主はなるか?
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ありがとうございます^_^ 距離は測り方で変わりますが、方角は変えようがないですからね^_^
@ポンズ-d2o
@ポンズ-d2o 4 жыл бұрын
学者さんの遺構調査、文献調査だけでなく そのほかに気候(食料・環境)とか人物のプロファイリングしたらおもしろいかも 昔の人と今の人もそれほど違いがない気がします 相手が金持ちだとおもえば、自分だって金はある様に見せかけて金物つける様に 自分の国をでかく見せるために、わざと記述した 最初の部分だけ正確なのは、そこに土地勘があるためで、その周辺に住んでる人間 古墳は今の感覚ではお墓だけれども、当時は再生の装置見たいに考えるのが正しいのかも なので、優秀な人間の亡骸を遠くから箸墓へ持ってくるって事もありうるのかも 銅鐸は飾り物でなく、楽器だと思うし、銅剣は重くて振り回せないし、鳥居って銅鐸つるすのに丁度いいし。 信仰形態は今とは違うのかも、勾玉・銅鏡・剣って組み合わせへんだよね・・・ ってここの動画見てると、妄想が~湧いてくるのが楽しい!
@kenn8438
@kenn8438 3 жыл бұрын
面白い妄想ありがとうございます。 ではこちらも別の妄想を。 まず魏志倭人伝の一里は周の約80メートルで計算します。 壱岐の島から唐津は 又渡一海千餘里 至末盧國 から見ると距離が近くその後の方角が合わないので自分は距離重視で二見が浦辺りまで行ってしまいます。地名より行程重視ですね。そうするとその後の 東南陸行五百里 が吉武高木遺跡周辺になり、東南至奴国百里 が須玖岡本遺跡周辺になります。二万余戸にも対応できますね。東行至不彌國百里 は宇美町あたりになりますが家が千余有る は少ないのでどこでもいいと思われます。
@大城よろ
@大城よろ 4 жыл бұрын
宮崎康平氏の道をうp主が実際歩く企画をw あの本どっかいっちまったんだよなぁ・・・幻の邪馬台国・・・
@naminori_jhonnio
@naminori_jhonnio 4 жыл бұрын
んー、ご指摘のイト国の場所は福岡市のかなり東側ですね。そのエリアは西暦250年頃には大和朝廷の勢力範囲なんですよね。福岡市に西暦250年頃の前方後円墳があるんで。 前方後円墳が出来た時期は幅があるんで微妙ですけど。古墳の名前は那珂八幡古墳です。 私はイト国は糸島市の方がスッキリするかもです。
@toshirouhorino
@toshirouhorino Жыл бұрын
6:30 :本当ならもう少し西側に遺跡が出てくれるとありがたいんだが、今のところ吉野ヶ里しか・・ あるぜよ、吉野ヶ里の西側百余里に、カワカミノタケルの砦跡で古代の役所が有ったとされる川上の「大願寺遺構」「七が瀬遺跡」。 ここが推定伊都国。七が瀬遺跡の発掘に着手したばかりだけどね。
@kwvivy5361
@kwvivy5361 4 жыл бұрын
歴史妄想チャンネル?w1万人突破おめでとうございます。 関東在住なのでイベントものに参加はできなさそうですが、古墳めぐりとかいかがでしょう。 別件ですが、以前吉野ヶ里遺跡の奥に隠れた遺跡があると言ってませんでしたっけ? 引き続き、検証(妄想?)の結果を楽しみに待っております。
@陽介黒田-u1w
@陽介黒田-u1w 4 жыл бұрын
吉野ケ里の地元の者です。現在公園化されている吉野ケ里歴史公園は遺跡全体の一部にすぎません。発掘調査が終わって取り壊された場所、そもそも発掘調査すらされなかった場所もかなり残っていると思われます。 また、吉野ケ里から少し北西のお隣神埼市の日ノ隈山山麓でも地面を掘れば土器のかけらが出てくるという日ノ隈地域の人たちの噂もあります。実際にどれくらいの規模の遺跡なのか、吉野ケ里周辺地域の本格的な調査が実施されてないので、ほとんど把握されていないと思われます。 吉野ケ里の保存が決定される直前まで、佐賀県は吉野ケ里地域一帯に工業団地を開発し、県外から企業誘致することを計画していました。吉野ケ里遺跡が発見に至ったのも、この工業団地開発のための部分的な調査の実施したことがきっかけでした。しかし、いまだにこの地域の大規模開発を諦めきれないらしく、何かにつけて開発しようとしています。 私は考古学の専門家ではありませんが、まだ未調査の場所に現在の吉野ケ里に匹敵するような遺跡が埋まってる可能性は十分にあると思います。
@kwvivy5361
@kwvivy5361 4 жыл бұрын
@@陽介黒田-u1w さん、ご意見ありがとうございます。 地元の方からのお話が聞けて嬉しいです。 お金のかかる話なので難しい面もあるかも分かりませんが、 開発も大事だと思いますが、せめて発掘調査はやってほしいですよね。 大事なものが埋まっているかも知れないと思うと、なんかモヤモヤします。
@toshirouhorino
@toshirouhorino Жыл бұрын
特置一大率 、 皆臨津捜露・・・此処の津は説明なく登場していますので、直近前段の「末盧の港津」に懸かっています。そして郡使入港の度、一大率閣下は手下を引き連れ、得意満面で末盧の津へ降臨して(天降って)いたことを描写しています。 丗有王 皆統屬女王國・・・此処の王には「世に有りし」が直接かかっています。更に、女王国も説明なく登場していますが、これはのちに詳述されて正体判明します。このように陳寿は「前懸かり、直接懸かり、後懸かり」を操って、文脈に立体感と時間差を与え、古代人の躍動感に満ちた生きざまを書き残しているのです。
@nurechin
@nurechin 4 жыл бұрын
個人的に一大率は役職名ではなく軍隊のことだと思います 「於國中有如刺史」は一大率が中国にある刺史のような役割であるという説明 もしくは中国の刺史のような役職もあるよという説明ではないかと思います それはそうと「文書」という文字が出てくるということは文書のやり取りがあったと思うのですが当時の文書が全く発見(公表?)されないのはどうしてなのでしょう
@MASAKISI0827
@MASAKISI0827 4 жыл бұрын
うーん、伊都国の前に末盧国の比定が重要になるけど、一大国(壱岐)から「一海をわたること千余里で末廬国」の 距離が短里計算で正しい前提だと唐津=末盧国ではどうしても近すぎるという問題が、、距離的にだけなら宗像あたりが一応合う。 弥生~古墳時代くらいまでは宗像地域は狭い入り江になっていて現在のJR鹿児島本線あたりまで外海から船で入って来れたと思う。
@MASAKISI0827
@MASAKISI0827 4 жыл бұрын
ただ末盧国=宗像だと仮定すると東南陸行500里が伊都国で現在の田川or飯塚あたりが推定可能だけど動画考察にもあるように外海から 古遠賀湾を 船で遡れば田川or飯塚まで直接行けた可能性もあるので末盧国=宗像を経由する必然性が??となる。。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 確かに仰るように千里の距離がバラバラ過ぎて、短里だ長里だと論争が尽きないところではありますね(^^; 狗邪韓国までの7000里が約700キロで千里100キロ、狗邪韓国から対馬まで約150キロ、対馬から壱岐まで約75キロで、末盧に限らずバラバラすぎます(^^; 私の見解は、以前の動画でお話していますが、他の漢の歴史書なども目を通してみて、どうも陸路と海路では同じ千里でも距離が違うと感じました。 陸路ではこの当時に方眼法なども出てきて精度は増してきていましたが、海路については船の速さを一定にしない限り距離は正確には測れなかったと思われるので、海路は一日かかる距離を千里、二日かかれば二千里と現したと考えています。 一日千里を走る馬で有名な赤兎馬も、実際は千里を走ったわけではなく、たくさん走るという意味だったみたいですし、万里千里は今の我々と違う使いかたをしていたんじゃないでしょうかね(^^)
@MASAKISI0827
@MASAKISI0827 4 жыл бұрын
@@mousou なるほど、、ご返信拝読してたしかに当時の中国の天文学&測量学が相当に信頼できるとしても海路距離はほんとうに正確なんだろうか、、と疑問湧いてきました(^^;  ただでさえ複雑で速い対馬海流の海路距離を正確に測定なんて可能だったんでしょうか、、やはり邪馬台国論争のスタート地点(前提)として 魏志倭人伝記述の方位&距離、一里何メートル問題を解決する必要がありますね。測量学の観点から専門家による検証はされてきているのだとは思いますがまだ結論は出てないんでしょうね。。邪馬台国関連動画、今後も楽しみにしてます!
@宮井益夫
@宮井益夫 3 жыл бұрын
吉野ヶ里が伊都国というのは無理があるように思います。漢の時代から地図が正確で方角にも間違いないはずとのことですが、これは 十分測量が出来た漢の中の地図であって、人の伝え話や訪問するだけで正確な地図が作れるわけありません。 末盧国に行くのに、いきなり首都の唐津に着くというのも変です。 私は一大国から最短の波戸岬海岸に受け入れ そこから陸路東南に向けて唐津を通り糸島にある伊都国に向かったと思います。距離にして50Kmくらいですから短里の500里に近いと思います。舟で帰りの事を考えると流れの早い対馬海流(海流速度約6km/時、舟速度約3ノット=6km/時)ですので、帰りは舟をもっと西へまわしてから 出発したでしょう。 糸島にある遺跡群はやはり、この地が伊都国であった事を示していると思います。もしかすると那珂川西岸も伊都国だったのかもしれません。
@bullitt2509
@bullitt2509 2 жыл бұрын
宮崎県の西都国(さいとこく)から、さが消えていとこくかな?
@野次馬-g2e
@野次馬-g2e 4 жыл бұрын
コノ墓から出て来た文書で私が1番興奮したのは(リアルタイムで観たのでは無いですが)孫氏の兵法書ですね、コレによって二人の孫氏の存在がほぼ確定した、 地図の精度はどうでしょうか?漢王朝はこの後赤眉の乱を経て後漢の成立の後黄巾の乱と混乱して人口も激減技術が失われたって説も唱えられるけど、しかし遥か彼方へ旅をする人、ましてや魏の高官、海側から呉を牽制する可能性も考えていただろうから位置はしっかり確認したと思うけど、
@ドラゴンツッチー
@ドラゴンツッチー 4 жыл бұрын
前漢・新・後漢へと至る戦乱や混乱、また後漢末~三国時代(いわゆる三国志時代)における戦乱や混乱、飢饉などの中で正確な方角を知る方法を知っている人たちが全滅し、技術がロストテクノロジー化した可能性もありますが…。(特に三国志時代には漢民族が全滅するんじゃないかという勢いで中華で死者が大量発生した。)まあ、いくら何でも太陽が昇る方角がだいたい東というのはある程度の知識を持っている人なら知っているはずでしょうし、邪馬台国に行った使者の役人はそれくらいの知識を持っている人のはずですから、南を東と間違えるのはさすがにないとは思います。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
いつもご視聴ありがとうございます。 そう言ったご意見も出るかとは思いましたが、難しくなるので、動画では省略しましたが、 三国時代,特に魏時代には,劉徽が解説書をつけた 『九章算術』や,以下のような多くの数学教科書が出 版されています。 祖冲之が円周率(π)の値を 3.1415926 と 3.1415927 の間にあると,小数点以下 7 桁まで求めたのもこの時代です。 1)『九章算術』(もともと 9 章からなる数学の教科書) 『海島算経(重差理論)』という測量専門書は,『九章算術』の 10 章目に劉徽がつけたもの。 2)『孫子算経』 3)『夏侯陽算経』 4)『張邱建算経』 5)『五曹算経』 6)『綴術(ていじゅつ)』 7)『五経算術』 このうち,測量者必携は 1)と 6)になります。 なお,『九章算術』解説の最後の章(10 章:重差法)を独立 して1冊にしたのが,『海島算経』で,これらは日本 では江戸時代末まで教科書として使われていました。 この事から戦乱で技術が〜というのは無いかと思われます^_^
@ドラゴンツッチー
@ドラゴンツッチー 4 жыл бұрын
@@mousou そんな専門書が漢代からあったんですか…。知りませんでした。その『海島算経』とかは伊能忠敬が基礎教養として読んでいそうですね。
@shomasuda4675
@shomasuda4675 4 жыл бұрын
10000人おめでとうございます! イベント…イオンあたりのイベントホールを借りてオフ会しかないっすね(笑)
@tatsuyak7485
@tatsuyak7485 4 жыл бұрын
動画楽しませていただいています。これからも無理せず続けていただけたら嬉しいです。絶対見ます。 子供の時から歴史好きで、詳しくないですが、三国志や、安土桃山、日本のルーツ、神話、邪馬台にも興味があり色々調べたりしてます。 うぷ主の動画はまさに欲しかった、観たかった動画です。ありがとうございます。 また、皆さんのコメントもこの動画の魅力だと思います。意見交換が活発で。 うぷ主は嫌かも知れませんが、コメント炎上するのも動画のテーマ的にありかなーと思いますw(ただの煽り、罵り合いはイラナイ) たぶん人間の歴史なんて、蓋を開けたら本当はめちゃくちゃ単純で「なんだ、そんなことだったのか」みたいな拍子抜けするようなものだと思います。タイムマシンで過去に戻って自分の目で見たいけど、真実が分からないからイイ。 (きっとガッカリする。。。) 次の動画も楽しみに待っております。
@hirosehirose8568
@hirosehirose8568 4 жыл бұрын
昔から治めていた場所とある意味中国人が誰もいかないであろう場所とを同じように比較するのはちょっと違うかなと思いました。でも一つの考え方としてはとても興味がありますね。いろいろと考えられて楽しいです。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。
@yhira2010
@yhira2010 4 жыл бұрын
有如刺史のニュアンスの説明、説得力を感じました。(それが男弟であったかどうかまではコメ主には断定する力はありませんが。)それよりも、その後の「王遣使」以下の部分が気になってしようがなくなってしまいました。ググってみると、この部分、諸説ふんぷんですね。私見の思い付きで、次のように読みました。有如刺史までが倭国の内政体制、その次からは倭と魏の外交、通信使往来関係の叙述と解釈して=>①倭国から魏に向かう往来の説明:「王遣使~帯方郡」で一文=倭国王(このころすでに魏は皇帝制なので魏王ではありえないので)は使いを差し向け魏の帝都と帯方郡に参詣させている。(韓国も倭国も魏の属国位置にあり、よって、参詣の対象である上位組織は魏本国とその直轄の帯方郡で、韓国は参詣の対象にない)、②次に魏から倭国への往来について:「諸韓国~」以下はこれ全体が一文として、主語「諸韓国及(び帯方)郡」は倭国をして「(魏皇帝から倭国への使者の)来港地すべて(皆)で港に来て(臨)使者の船が港に出入する際の安全な水路を捜し露わにさ(使)せ(つまり水先案内をさせたという意味ではないかと)、文書と贈賜之物(遺賜の二字が贈賜の意味に上から下への下し物のニュアンスを込めた語と解釈)を伝送せし(使)め、女王に参詣さ(使)せ、差錯を得ざらし(使)む=手違いや間違いが起こりえないようにさせている。(以上、素人爺の戯言。)ともかく、邪馬台国関係は、物証がないままに、中国史書の読み方争いか下手をすると宗教論争なので、その所在がどうとかには触れるつもりはありません。あくまでも素人北京語カラオケオタクが中国語の自習の一環での興味本位のコメントです。よって、例えば、この時代に、郡と使と二字が続いたときに「郡使」以外の読みが成り立つのかどうかなど、全く知りませんので、悪しからず。長文での書き込みになりました。ご寛恕のほど。)
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 素晴らしい考察だと思います。 私は中国語はわからないので、ネットで翻訳しながらです^^;
@村山秀輝-o4n
@村山秀輝-o4n 4 жыл бұрын
一万人登録おめでとうございます。 自分は、心霊の話も好きなのでこのチャンネルでたまにやってはいかがですか? 地図のあってる間違ってるは、根本的な話が変わってくるから、地図に間違いないは重要だと思います。
@Fields_of_gold
@Fields_of_gold 3 жыл бұрын
「草木が茂って歩くときに前の人が見えない」という状況は、けもの道のイメージかな。歩数はけもの道でも数えることは出来るが、方角は相当難しい。何故なら目印にするものを見つけにくい。目印が無ければ自分がきた方向を見渡せないので、道が直線で無い限り方角は解らないと思う。ましてや日中の太陽で方角を知るのは、初見の土地では困難だと思う。距離は切りのいい単位にしてる可能性はあるが、目安程度の価値はあると思う。倭国内の方角は相当怪しいと思う。
@鈴木らいか
@鈴木らいか 4 жыл бұрын
ミイラの写真ググったけど、ホルマリン漬けだか土左衛門みたいにブクブクになってて、まるで生きてるようって表現は流石にないと思いました。 なんか絹織物の話の剣も他にも古代中国で兵馬俑の製造技術が時代が新しくなるとクオリティが劣化してるとかメッキ加工された刀剣とかやたらロストテクノロジー多すぎて古代中国関連で現代でも無理という枕詞がつく技術って胡散臭くて仕方ないんですよね…
@7しょう-k3l
@7しょう-k3l 3 жыл бұрын
連投すいません。 一大卒は卑弥呼の側に居た弟より卑弥呼を女王に仕立てたその他の親族、一族の長の可能性が高いのでは? 現代の2Fのようなやり手の爺。
@セカイK1
@セカイK1 4 жыл бұрын
伊都国は糸島市南東部です 魏志倭人伝の描写を当てはめると 濱山海居・・・呼子付近に上陸 草木茂盛 行不見前人・・・東松浦半島内南下  好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之・・・二丈付近の海岸沿いに東へ 呼子付近に上陸して東松浦半島内を南下、唐津市付近から海岸沿いに東へ 呼子付近から伊都GC付近までが40km(500里)なのでこの間が末盧国 伊都GC付近から東が伊都国です そこから8km(100里)で糸島峠、糸島峠から東が奴国 更に8km(100里)で小笠木峠、小笠木峠から先が不弥国 呼子付近は天然の良港で大型の中国船が接岸できた、長期間停泊するにも波が穏やかで安心なので名護屋浦付近に魏使達は入港した。 魏志倭人伝では帯方郡の海岸から出発して次の国の海岸に着くと至るとしている なので対馬国や一大国の半周分(400里×2+300里×2)も行程距離として算入する必要がある これを入れると伊都国と奴国との境付近で12000里で女王国に到着している事が分かる。
@mousou
@mousou 4 жыл бұрын
ご視聴ありがとうございます。 動画にもありましたが、呼子から東南は海が入り込んで道がないかと^^; 回り込んだら500里どころじゃ糸島には行けないすよ^^;
@セカイK1
@セカイK1 4 жыл бұрын
呼子から東松浦半島内を唐津市方面へ南下 唐津市街地付近から東へ 合わせて東南ですよ 距離も1里80mとすれば丁度糸島市南東部が伊都国です 地図で確かめてみてください 奴国は福岡市周辺、不弥国は那珂川市方面です。 呼子付近から末盧国と伊都国の国境と考えられる伊都国GCまでが40km(500里)です。
@まる-k7c
@まる-k7c 3 жыл бұрын
方角よりも、距離が問題ですよ。魏の時代の一里と唐の時代の一里と隋の時代の一里は違うのですよ。王朝によって距離が変わるのです。魏の時代の一里は学問的には正確にわかっておりません。困ったもんだ!!
@mousou
@mousou 3 жыл бұрын
確かに一里の定義が曖昧ですよね😅 ただ、魏志韓伝などを見ても韓は方4000里とあり、短里じゃないと半島では収まらなくなりますから、やはり短里(約75m)で落ち着きそですけどね😅
@takosu4512
@takosu4512 4 жыл бұрын
おめでとうこざいます。この動画の質ならば当然ですね。これからも楽しみにしています。結局邪馬台国よりこの伊都国がどこかなのかが?一番の疑問ですね。素直に読むとどうしても伊都国には港があるように読めるし、日中の往来に利便性を考えると九州北部の港のどこか?になるのですが、それだと記述と噛み合わないんですよね。男弟の可能性はよく考えるのですが、これも素直に読むと伊都国王とは別に伊都国に駐在しているし、私自身は卑弥呼の存在は軽いと思っているのでその点でその男弟の存在もまた軽いのでは?と考えるので、やはりちょっと違うかな?共立する神輿は、いつの時代も軽いと相場が決まっているので。伊都国の前に出てくる使大倭監之は巻向を彷彿させるのですが? 欠史八代に大倭の諡号が付く人がいるのは、もともと官命なのか?と疑ったり、何度読んでも倭人伝は興味がつきません。
@ch.8194
@ch.8194 4 жыл бұрын
王を男とするからなんかおかしくなる。大和朝廷が来て討伐した土蜘蛛の首領は皆女だったでしょう。筑紫王朝連合の代表首領は皆女系だったのですよ。シャーマン的な考え方ですが、この時の王である首領たちは神の声が聞こえる巫女でもないといけませんでした。ですので、男は格が低いんですよ。その王たちの側近には男でも良かったんでしょうけど…過去の古代のクニの神頼みを侮っては読み違えますよ。力によって統治したのではなく、神の声が統治していたのです、古代日本は。特に卑弥呼がいた辺りの大きな集落は。みんな、水も恐れるし夜だって恐れるし。理解出来ない事象は神が起こしているもので、神を鎮めるために神の声を聞くことができる巫女が格が高くなったのです。今の常識は1ほども通用しません。神の声を聞いた巫女の言葉をみんなが鵜呑みにするから。そうやって緩やかに統治していたのですから
@takosu4512
@takosu4512 4 жыл бұрын
@@ch.8194 おっしゃることはよくわかります。何か誤解があるのか?私が言っているのは一大率が卑弥呼のそばで仕える男弟の可能性についてで、これは伊都国王が女王であっても否定はしません。むしろ女性首長・呪術統治のシステムについていけない連中が東征して大和朝廷につながったのかと? 箸墓古墳などまさに巫女の死をあらわしているわけで。呪術も倭人は骨で、卑弥呼は鏡で?巻向は桃で?呪術も宗派があるようで、その中でも卑弥呼は中国に頼るあたりが異質に感じます。女性首長・呪術社会の倭国に中国をよく知る統治システムを持ち込み、服属するところから徐々に飲み込んでいった頭脳派な一族がいたのでは?と素人ながらいろいろと妄想するところです。まあ素人の思い込みですから笑ってききながしてくださいな。
@nulla1237
@nulla1237 4 жыл бұрын
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