【中国史】後漢の祖「光武帝」はナゼ「名君」と呼ばれるのか?【ゆっくり歴史解説】

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試験に出る三国志

試験に出る三国志

Күн бұрын

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@mocchi2643
@mocchi2643 Жыл бұрын
兄を殺した仇の一人である朱鮪についても降伏を受け入れた上で将軍に任命し、侯にも封じている。但し仇のもう一人で朱鮪と行動を共にしていた李軼については許す気が無かったようで、朱鮪とまだ敵対していた頃に篭絡した上で李軼から送られてきた手紙を公開することで朱鮪の手で殺させている。
@KOUMEI_NO_WANADA
@KOUMEI_NO_WANADA Жыл бұрын
しっかりと政治家らしいダークな面もあるという
@meeaam4368
@meeaam4368 11 ай бұрын
李軼の場合は完全な裏切りだからね。 裏切り者まで許す気は無いという事なのかね。
@うちは未来
@うちは未来 Ай бұрын
@@mocchi2643 離間策
@丸越満太
@丸越満太 Жыл бұрын
学生時代に十八史略を読んだ時、光武帝ってスーパー超人で非の打ち所が無くて、五帝レベルで現実味が無い様に感じたんですよね。 そして、「糟糠之妻」の故事を聞いて初めて「俗っぽい考え方もするんだ」と思った思い出があり、今…こうやってKZbinでお話聞けるのは凄く嬉しいです。
@shou-r6m
@shou-r6m Жыл бұрын
光武帝という名前がまずかっこいい
@KOUMEI_NO_WANADA
@KOUMEI_NO_WANADA Жыл бұрын
ほんとそれ
@羅号光祐
@羅号光祐 2 ай бұрын
身も蓋もないことを言えば諱(いみな)ですから。 要は死後に生前の業績や行いを顧みて名付けるものですから名君は良い諱になります。そして良い諱は日本人の感覚でも格好いい感じになります。 諱は「文」が最高で「武」もそれに次ぐ良さだそうな。「光」は良い意味で付けてるのか、武帝と付ける人が多いから区別で付けてるだけか不明。 悪い諱も存在して、業績がまずくて死後に遠慮なく批判される状態だと、宦官に振り回された前漢の「霊帝」みたいな悪い諱を付けられます。
@tomohiro19880307
@tomohiro19880307 Жыл бұрын
いつも楽しく拝見しています^ ^ 光武帝のことはあまり知らなかったので、詳しく知れてとても面白かったです(*゚∀゚*)b 特に統治後の君臣の関係は、正に理想の関係ですね(*´꒳`*)
@KOUMEI_NO_WANADA
@KOUMEI_NO_WANADA Жыл бұрын
まだまだ三国志以外の年代はそれほど詳しいわけではないのですが、これからも自分の勉強も兼ねてこういった動画も出せて行ければいいなと思ってます!(`・ω・´)
@tawaten4244
@tawaten4244 Жыл бұрын
現代でも言えることだけど 世情に沿った政策を考えて実行するのは情報とセンスだと思いますよね。 だからといって整理した仕分け事項や基本的な政治力がおざなりになっているかというとそんなことはなく 基本を抑えて世情に沿った政治もこなす 言うのは簡単だけどそれを実現できているとは凄いの一言。 国を治めるべく生まれた君主と言っても過言ではないとんでもない人物ですな😂
@shion-akechi
@shion-akechi Жыл бұрын
もし仮に劉邦・劉秀・劉備のトリオ漫才があったら、下ネタボケの劉邦とダジャレボケの劉秀をもて余す(非力な)ツッコミ劉備になりそうですね。
@muzza4094
@muzza4094 Ай бұрын
前後漢三傑というトリオ名は… あかん、俺ネーミングセンスないっすわ😂
@ryuki_k139
@ryuki_k139 Жыл бұрын
劉秀自身、すごく有能なのだけど戦乱の中家族を何人も失っていて調べると実はイメージよりかなり 苦労している。また失敗しない人なんていないだろうが人事でも時々でかい失敗をしているという。 劉秀本人や馮異辺りは基本的に人に嫌われなさそうだけど劉秀陣営の人物って結構色々な遠征先からの 寄せ集めだったり元賊・元官軍だったりするので意外と仲が悪い者同士もいたりする。 特に人事などでのでかい失敗は事面や物資面で功績があった彭寵、そして鄧奉に関してかな。 ちなみに雲台二十八将に序せられる2位の呉漢、11位の蓋延、18位の王梁は一応彭寵の部下だった。 まあ部下に当たる呉漢の方が彭寵らを劉秀陣営に引きずり込んだのだが。  彭寵は更始帝に太守に任命されたので言ってしまえば別に劉秀の部下とも言えない難しい立場の所へ 上役として朱浮という能力は有るがちょっと問題を起こしやすい人物を送ってしまった。 (何しろ彭寵が叛旗を翻した際、彭寵の妻や部下も朱浮に反感持っていて誰も止めなかったというくらい) そして後に呉漢が率いる兵が劉秀らにとっても地元と言っていい南陽郡でまで略奪を働いた事で 同郷の人で親戚でもあった鄧奉らを裏切らせる結果になってしまった。
@うちは未来
@うちは未来 Ай бұрын
吳漢はちょっと酷しいの武將だ
@太田信之-s6p
@太田信之-s6p 11 ай бұрын
文武両道にして人格者の真の完璧超人。 でも春画好きでダジャレ好きw 凄い人で愛嬌もあるとか魅力的過ぎです👍
@アイーン四郎
@アイーン四郎 Жыл бұрын
曹操を越える人物が劉秀に間違いなし これだけ凄い功績でも地味な方とは歴史の奥深さ
@KOUMEI_NO_WANADA
@KOUMEI_NO_WANADA Жыл бұрын
ドカンと漫画とかで人気が出ればまた印象も変わりそうですよね
@キジトラ-b7q
@キジトラ-b7q Жыл бұрын
動画を拝見した印象では、「戦も出来るアウグストゥス」ですね。時代も近いですし。しかし、負けてからの再起が上手くて女好きとか、劉秀も劉備も劉邦の血筋なんだなぁと。
@KazukiY-n5l
@KazukiY-n5l Жыл бұрын
アウグストゥスとアグリッパを足して割らない、あるいは専制君主となったカエサルと言っても良いかもしれない。 光武帝も豪族と対立したが、カエサルも元老院と対立した。どちらも有力者とは対立したが、民衆には優しく、時として敵対者にも寛容だった点も似ている。
@山田太郎-q4o9j
@山田太郎-q4o9j 6 ай бұрын
敵側の外交官が訪ねてきた時にラフな格好で出迎えて、 あまりにも無防備なので相手方が 『私が刺客だったらどうするのですか』 と聞いたら 「あなたは刺す客ではなく説く客だろう?」 と言い返して唖然とさせたエピソード大好き。
@Aただあき
@Aただあき Жыл бұрын
「志有る者は事竟に成る」 この言葉を胸に受験勉強をした私は中国史の中では光武帝が一番好きだった。 あまりにも褒め過ぎに反発もあろうが、光武帝が歴代王朝創始者の中でも、もっとも穏やかで優しい性格であったことは間違いなかろう。 女性から見れば郭皇后を廃して、陰麗華に代えたことに釈然としないかもしれないが、郭皇后とは政略結婚だった上、将来、呂太后と同じ誤りをしでかす恐れがあった。叔父が反乱を起こした事実もあった。 また、陰一族は慎み深い一族で、郭皇后の廃皇太子劉彊と陰麗華の長男劉荘(後の明帝)の異母兄弟は、仲が良すぎて群臣から「仲が良すぎます」と諫言される程であったという。 寵を失った正妻と嫡男がどのような運命を辿るか、歴史好きな人なら皆、知っていると思う。 築山御前と信康がどうなったか? やはり光武帝は穏やかで優しい。 「雲台二十八将」の中では耿純が最も好きである。ググればその人柄がわかる。私は穏やかで優しい人が好きなのである。
@KazukiY-n5l
@KazukiY-n5l Жыл бұрын
光武帝は1人で前漢の高祖と文帝、あるいは宋の太祖(趙匡胤)と太宗(趙匡義)の役割を成し遂げ、息子の明帝は1人で前漢の景帝と武帝の役割を成し遂げた。 この親子二人は極めて優秀だったし、四代の和帝までは小さな問題こそあれど大過なく治っていた。 和帝以降は若死にばかりだったし、八代の順帝が宦官と外戚を蔓延らせたことが後漢終焉の決定打となったね。 せめて和帝がもう20年長生きするか、前漢の宣帝みたいな中興の名君が出てれば司馬光が述べた様に後漢朝は中国における天皇家の様になっていたかもしれない。
@中村毅彦-d4e
@中村毅彦-d4e Жыл бұрын
「金吾」。司馬遼太郎「関ケ原」(旧版)から入ると、裏切った小早川勢に掛かる大谷勢将士があげる 「人非人!」 の声が聞こえる...
@光幸神野
@光幸神野 6 ай бұрын
やはり皇帝になってから粛清など血生臭いことをしてないのが、名君評価だと思います。後継者問題もちゃんと蹴りをつけたし ただ、光武帝が皇后に恵まれていたのも大きいかな
@7727punnyan
@7727punnyan Жыл бұрын
「寄らば大樹の陰」という言葉があるがこれは光武帝と馮異の逸話からで、最近使われる意味とはちょっと違うのな。出来たら雲台二十八将をまとめてやって欲しいです。僕の推しは断然馮異です。
@武闘派のび太
@武闘派のび太 Жыл бұрын
一番乗り。漢を再興した男劉秀。彼もまた乱世を潜り抜けたにもかかわらず始皇帝、劉邦、そして統一すらできなかった曹操よりマイナーなのは何故だろう。彼こそ千年、否、二千年に一人の風雲児と評するのは買い被りだろうか。
@KOUMEI_NO_WANADA
@KOUMEI_NO_WANADA Жыл бұрын
何かしら人間的な魅力にもなる大きな欠陥があるとまた話は違ったりしたのかも('ω')
@イシイマチコ
@イシイマチコ Жыл бұрын
前漢の劉邦(武帝)の劇的な建国に比べると劉秀(光武帝)は地味なんですかね、個人的武勇は勝っているように思いますが。 200年以上王朝を継続できる制度を構築する手腕は凄いですし、現代の政治家も見習ってほしいですね。
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu Жыл бұрын
同じ(前漢の)武帝にしても、匈奴を本気で叩き潰そうとしたものの、結局果たせませんでしたね。
@盛川勝
@盛川勝 Жыл бұрын
地味というよりは、王莽軍、樊崇軍(赤眉軍)を撃破した後は消化試合だからというのがデカイかな 後半劉秀軍をある程度苦しめたのは、益州の公孫述と、かき乱した涼州の隗囂の2人くらいだし、江南の諸勢力は弱かった それでも趙の李牧や楚の項燕みたいに大破して領土奪還とかじゃなく、遠征軍の将軍を暗殺成功して多少打撃与えた程度ですからねぇ…
@f5o-q4e
@f5o-q4e Жыл бұрын
劉邦には項羽というキャラ激強のライバルがいたのも理由かもしれないですねぇ
@イシイマチコ
@イシイマチコ Жыл бұрын
@@f5o-q4e それは確実にあると思います、立場的には劉秀(光武帝)が項羽ですけどね。
@hontounosorairo
@hontounosorairo Жыл бұрын
「名言製造機」と言われる劉秀だけど、それにも勝る数々のダジャレやジョークも発していたんだろうなって思うと、なんだかホッコリするな で、居並ぶ名臣達もみんなツッコミが上手かったりしてね
@KOUMEI_NO_WANADA
@KOUMEI_NO_WANADA Жыл бұрын
やっぱり円滑なコミュニケーションを行えるってことの重要度ってめちゃくちゃ高いんだろうなぁ
@ギャンブル依存性無職
@ギャンブル依存性無職 Жыл бұрын
もし彼が少年漫画の主人公だったなら生き別れの双子の兄弟、闇武帝が出てきただろうな
@KOUMEI_NO_WANADA
@KOUMEI_NO_WANADA Жыл бұрын
バオウ・ザケルガ
@盛川勝
@盛川勝 Жыл бұрын
職につくなら執金吾、嫁を取るなら陰麗華と歌った時、確か劉秀20歳で陰麗華が7歳とかそんな時だったんだよね。 前田利家と並んでロリコン界の英雄なんですよねwwww リアルなろう系主人公とも言われてる 南陽劉氏出身で、荘園もそこそこ持ってる豪族だからそこまで貧乏でもないけど、兄貴の劉伯升が地元のチンピラとか盗賊とかと仲良く、金をばら撒いてたとか家計が大分やばかったみたいな話は聞くね ただそのおかげで緑林軍の幹部になれたってのはあるけど 劉伯升自体、緑林軍最強の猛将なんで、腕っぷしと金払いの良さでチンピラどもの顔役にはなってた模様 劉秀の本当の凄さは、成り上がり皇帝にありがちの疑心暗鬼に囚われ、粛清の道を歩まなかった事だと思う。 成り上がりの皇帝や王はごまんといるけど、疑心暗鬼に囚われなかった者はどれほど居るか……
@matukawatositane
@matukawatositane Жыл бұрын
しかし後漢は名君と言われる光武帝以降、君主権が決して強くない…どころか功臣一族からくる外戚や宦官の跋扈が起こったのだろうか?
@KOUMEI_NO_WANADA
@KOUMEI_NO_WANADA Жыл бұрын
君主権力はどれだけ長く国政を管轄し、功績を積み上げてきたかに比例するものですし、不運という他無いのかもしれない(´・ω・`)
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
挙兵して全国統一の段階に至る:各地方の豪族に高度に依存し、功績が最も際立っている雲台二十八将の出身は一般的に高い。さらに後世には数百年にわたって強力な門閥となった。 称帝前期:「度田検戸」を推進し、地方の田産と戸籍を照合しようとしたが、この仁政であるべき政策はかえって空前の大反対を招いた。中央から地方に派遣された役人はほとんど何の役にも立たなかったか、劉秀本人もよく知っている偽报、権力癒着の現象が現れた。最終的に青、徐、幽、冀四州の「兵長」、「大姓」の反乱に発展した。 称帝後期:比較的温和な鎮圧戦略であり、最も代表的なのは他の州郡に転居した「兵長」と「大姓」を赦免し、彼らに田産奨励を与えることである。しかし、検地はほとんど行われなくなった。これは事実上、地方の豪族の台頭を助長している。 死後:地方豪族の台頭がもたらしたのは外戚の台頭であり、外戚は皇帝を制御して朝政を握り始め、皇帝は逆に宦官を任用して外戚を反制し、2つの勢力の権利闘争は漢王朝の宮廷政治を徹底的に破壊した。漢桓帝漢霊帝の時代になって、皇帝が私欲を満たすために官職の公開売買を始めたとき、地方の大姓の政治権力は事実上完全に合法化されていた。黄巾の乱が勃発すると、朝廷は各地で軍隊を募集して反乱を鎮圧することを許可した。これは地方の軍事力も合法化され公開化されたことを意味する。
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
光武帝劉秀時代は功臣と世家大族の膨張を放任していたと言うべきで、開国功臣の鄧晨の妻は劉秀の姉で、来歙の母は光武帝の祖姑母で、伏波将軍馬援の娘は明帝皇后、梁統と梁商の2人は90年後の子孫に直接「傑出人物」が現れた--大将軍梁冀,この大将軍梁冀が後漢の宮廷政治にもたらした破壊は空前の大きさで、これまでの所有権者、外戚を合わせても大きかった。彼の政権時代の後漢皇帝:漢順帝(115年-144年9月20日)→漢沖帝(143年-145年2月15日、在位期間148日)→漢質帝(138年-146年7月26日、在位期間1年)→漢桓帝。宦官集団は皇帝が彼のような外戚を負かすために急速に台頭したのだ。後漢帝国全体では、20年近くの間、中央政府はほとんど完全に停止していた。
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
もちろん、漢霊帝が地方の豪族に官職の売買を開放したのは、後漢の財政が崩壊し、皇帝である自分が享楽する金がなかったからだ。財政崩壊の原因は、本質的には豪族、外戚、宦官が土地を独占しすぎ、後漢の税基を破壊したからだ。これは全く不可解な悪性循環になっている。 外戚勢力が強すぎる→宦官集団を支えて闘争し、ついでに宦官を仲介人として利用して皇帝本人のために民間の富を略奪する→地方豪族と宦官が結託し、官職を購入すること、あるいは、皇帝に少しへそくりを与え、朝廷に入ったり地方州郡の長官に合法的に就任したり→もともと混乱して堕落していた政治がさらに腐敗し、より多くの農民が土地を失った。 その中で、外戚問題はほとんどの中原王朝を悩ませて約700年になる。宦官問題は中原王朝の1500年以上を悩ませる問題である。土地問題、あるいは土地を基礎とする資産問題は、共産主義、民主主義、資本主義、封建主義、奴隷制社会であれ、人類文明が誕生して数千年来、解決できなかった問題である。
@KazukiY-n5l
@KazukiY-n5l Жыл бұрын
申屠剛・鍾離意・朱浮、いずれの伝においても光武帝が法を厳格に適用したことが記載されているけど、光武帝は自身が天に選ばれたと信じていたとか、批判したら笞刑されたとか、それによって良民が処刑されたというような逸話は書かれてないよ。 自分も光武帝が聖人だとか柔和なばかりの人だとは思わないけど、史書に書かれてないことを恰も実際に書かれてるようにコメントするのは違うと思うな。 朱浮の諫言(細かな失態で地方官を更迭するな)については、他の群臣の賛同もあって、光武帝は採用してる。もう一つの諫言(独裁せずにもっと家臣に権力を与えよ)については採用しなかったけど。 申屠剛の伝では中央・地方の官吏は光武帝自らが選び、厳格に法を適用され、時として罪を犯した尚書ら近臣が御前に引き摺り出されたり、鞭打たれたが誰も諌めず、申屠剛のみが運用が厳格過ぎる(儒教の価値観では士大夫階級に恥をかかせたり、法を厳格に運用するのは推奨されないので)と強く諫言したが用いられなかったとある。 あくまで罪を犯したらその様な処置をされたのであって、批判したからそうされたのではないし、朱浮の例を見ても分かる通り諫言を許さないような君主ではなかった。
@shou-sho
@shou-sho Жыл бұрын
これ僕のことですね。多謝。 まず前提として、KZbinのコメント欄に納めるためあえて意訳してるし、別の個所の文章も挟んでます。 出典載せたので気になったら自分で読んでねということです。ちゃんと書くと文量が大変なことになるので(汗 まあ動画を見て、光武帝が厳罰主義だったという事実を知ってもらう必要を(勝手に)感じたということです。 で、「光武帝は自身が天に選ばれたと信じていた」 これは封禅を行ったことを指しています。 本人が自信家であったことは間違いないですね。 「批判したら笞刑された」 桓譚が図讖を批判したら殺されかけたことは有名ですね。 どこまでが批判でどこからが罪なのでしょう? 私にはわかりません。 「良民が処刑された」 これは鍾離意伝の下記の一説から 「吏の良人を殺すこと、踵を継ぎて絶えず。」 実のところ、郭皇后を捨てた&宋弘伝のエピソード(糟糠の妻)の合わせ技の方がよっぽど面白いけど外しました。 本当にこいつはクソ野郎だな!としかならんので(笑) (ほら長くなった)
@KazukiY-n5l
@KazukiY-n5l Жыл бұрын
@@shou-sho まずはご丁寧なお返事ありがとうございます。 封禅を行ったから自信家であり、天に選ばれていたと信じていたと仰せですが、光武帝の様々な発言や遺言を読めば、先に封禅を行った始皇帝や武帝と同じ様な自信家と解釈するのは些か違和感がありますね。 光武帝は自身の正統性に不安があったのか、その正統性を補強できるような預言書を躍起になって集めています(ちなみに前漢の宣帝も光武帝と同じく民間から皇帝となりましたが、自身の正統性に不安を感じていたのか、やはり瑞兆を探し求めています)。封禅を行った動機も自信の表れとは真逆の理由と解釈する方が自然に思えますね。 桓譚についてですが、光武帝が預言書を即位の正統性の根拠としている以上、それを朝廷で公に批判するということは「貴方は正統な君主ではない」と誹謗していることになります。 現代の民主主義国家なら批判に過ぎませんが、当時においては皇帝を誹謗することはそれだけで罪に当たりますし、正統性を批判したとなれば、大逆罪を適用されてもおかしくないことです。光武帝は桓譚が謝罪したら許しており、彼の著作にも手出ししませんでした。当時においては、これはむしろかなり寛容な例と言えます。 鍾離意の件については後漢書の原文で明帝即位より前の記述を一通り読みましたが、見間違いでなければ仰せの様な記述は見当たりませんでした。もしよろしければ出典箇所をご教示いただけると幸いです。 郭皇后については皇后を廃された理由として、彼女が産んだ子供と他の子供を平等に扱うことが出来なかったと明記されています。多くの中国史好きが理解していない点ですが、皇后は単なる正妻というだけでなく明確に職責を持つ立場です。また、廃后された後も本人は洛陽で安寧な暮らしをしており、一族も寵遇されましたしね。
@月友
@月友 Жыл бұрын
次は建世帝劉盆子とその祖先の劉章をやってもらい。 この劉盆子の祖である劉章(朱虚侯で有名。前漢初期の皇族)の存在が後漢末期になって曹操が絡んでくるから。(済南相時代) これが判ると青州黄巾が何故強いのかが薄っすらと見えてくる。(青州黄巾参加者は赤眉の末裔) 更に劉章の弟らが呉楚七国の乱に賛同したりと漢帝国を揺さぶるんですよ。この劉章の弟の一人劉将閭の末裔が劉繇。 ぶっちゃけ劉章は面白いよ。20歳の時に酒宴の席で呂氏一門を斬るような豪胆な人ですから。
@エーラン
@エーラン Жыл бұрын
得意なこと : 君主
@KOUMEI_NO_WANADA
@KOUMEI_NO_WANADA Жыл бұрын
まさしく
@ローラン-j4q
@ローラン-j4q 11 ай бұрын
カエサルとアウグストゥスとかの傑出した英傑達と比べてみたい!
@ヴラド魔王
@ヴラド魔王 Жыл бұрын
現在の。 大陸の大国の。 国家主席として。 本当に現れてほしい。 人物です! 今の主席とは真逆だ。
@かんれ-c8j
@かんれ-c8j Жыл бұрын
独裁政治でも公明正大な、善良な人物なら、上手くいく。最悪なのは権力欲旺盛なだけの、無能がトップに立つと悲惨な結果に(;_;)。
@ziii4000
@ziii4000 8 ай бұрын
門限破って家に入れてもらえなかった皇帝とか前代未聞だろうな
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
光武帝自身は豪族出身で、建国と統一の過程も豪族に依存していた。後漢は建国初期から深刻な土地兼併現象が存在した中国史上まれな政権である。中後期に入ると地方の豪族の実力は深刻に膨張し始め、地方の豪族荘園には“部曲”のような私人的武装が現れ、最終的には三国、両晋、南北朝の数百年の大乱世の基礎となった。
@KOUMEI_NO_WANADA
@KOUMEI_NO_WANADA Жыл бұрын
三国志では孫呉がモロにそういう影響受けてるって感じがしますよね。
@shou-sho
@shou-sho Жыл бұрын
『呉志』の中に具体的な記述があります。 張昭の子張承伝 「山住民族中の不穏な勢力を討ち平らげて、精鋭兵一万五千人をその配下に編入した。のちには ~ 部局五千人をあずかった。」 計2万人が張承の私的な兵士になっています。孫呉が滅亡した時の兵数が23万ですからいかに大きいかがわかります。 陸遜伝 「嘉禾五年(236)、~ 異民族の首領であった梅頣たちが ~ 陸遜のもとに身を寄せてきた。陸遜は、"財貨を傾けて"、そうした者たちを手厚くもてなした。」 これは俸給が国家(孫権)からではなく陸遜個人から出ているという証拠です。
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
@@shou-sho 東呉のこの軍事制度は「授兵制」と呼ばれ、あるいはより現代的には「世襲領兵制」と呼ばれ、江東大族に自分の部曲を世襲継承することを許可し、それに関連する土地制度は「復客制」と呼ばれ、つまり大族の家の雇農、佃客の課税を免除し、同時に一部の屯田農民と編戸農民を世家大族に任せて管理している。
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
@@shou-sho 世襲領兵制については、関連する出土品が多く、最も代表的なのは1991年に中国長沙の鄂鋼飲料工場1号墓から出土した「将軍孫粼錯金銀銅弩機」、湖北省江陵から出土した「黄武元年弩」、鄂州東呉煉瓦室墓から出土した「将軍孫隣弩」、武漢市洪山から出土した「将軍鄭貴弩」、南京市から出土した「王勇弩」は、基本的には世襲兵権を持つ大族のリーダーと将軍が自ら鋳造して部隊を装備したもので、いずれも使用者や鋳造者、所有者の銘文や情報を残している。これらの武器が個人的に贈与できることを証明する文字証拠がある(漢代に弓弩を個人的に所蔵したのは死罪)。「王勇弩」の所有者である「士王勇」は「征北朱将軍」(朱然)の私兵だ。「黄武元年弩」は「董嵩」という校尉が自分の私兵「陳奴」に贈ったもので、その後「謝挙」という別の私兵に転贈じた
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
@@shou-sho truth.bahamut.com.tw/s01/201711/f317807700b4e818a85cc83113e6ebb8.JPG?w=1000 現在出土した孫呉弩の銘文には、生産単位や監督官の情報はほとんど残されておらず、製造した職人の名前(弩牙の「牙師」の陳香、「臂師」の畲李)だけでなく、使用者の名前(校尉董嵩士陳奴、都尉董嵩士謝挙)も特別に書かれている。これは蜀漢弩と曹魏弩にはほとんど見られない特徴である。特に鋳造単位や主管単位ではなく、兵器の所有者の身分を強調している。対照的に、蜀漢の弩は基本的に兵器鋳造の主管単位である監督官-製造者まですべて記録されている。弩機の重量とポンド数も特別に表示され、部品の生産ロットは製造者の名前から見ることができる。
@漫画掘り掘り研究者
@漫画掘り掘り研究者 9 күн бұрын
簡単に言うと劉邦、蕭何、張良、韓信を全て合わせた人間
@うちは未来
@うちは未来 Ай бұрын
‘’樂此不疲‘’の由来
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
「国は常に弱さで滅び、ただ漢は強さで滅びる」。実際、後漢の土地問題は前漢よりも深刻だ。光武帝と後漢の土地制度による土地合併、豪族の人口隠匿、深刻な脱税問題は最終的に中央の弱さと地方の経済力の強さを招いた。土地の併合が濃密で大量に失地する段階に発展すると、黄巾の乱が勃発し、朝廷は各地方と州刺史が軍隊を募集して農民反乱を平定することを許可し、各州各郡の豪族と軍閥の時代となった。
@KazukiY-n5l
@KazukiY-n5l Жыл бұрын
後漢も前漢も掌握人口は殆ど同一。なんなら、後の隋や唐より多い。後漢政府が把握している墾田地は前漢より多かったし、鉄の生産量でも大きく上回っている。 そもそも後漢が豪族による人口隠匿に苦しんだのなら、同程度の前漢やそれを下回る隋や唐をどう説明するのか。
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
@@KazukiY-n5l 北朝、隋、唐は「均田制」と「三長制」を採用しているが、その中で「三長制」には日本語WIKIが存在し、比較的理解しやすい地方豪族の人口隠匿と土地併合を抑制する政策である。「均田制」については極めて複雑な話題であり、東アジア古代全体の土地制度に深い影響を与えている(日本の班田制が誕生してから崩壊するまでもかなり類似した過程であり、「仁政であるべきだ」、「土地の兼併を抑制すべきだった」という制度が、百年以上の時間を経て拘束力を失った模範である)。 北朝から隋、唐、武周に至るまで、各王朝の実行政策には少しの違いがあるが、本質的には「土地とその関連生産要素の再分配」である。総じて言えば、最初の北朝の実行構想は「豪族の土地を直接分割したり直接分配したりすること」のではなく、「豪族の支配下にある雇農を自耕農に転換する」というものだった。「租庸調制」はその上で税基を確立し、人口を徹底的に調査した後、穀物や布を徴収したり、政府のために服役したりすることを主とする税制である。
@junkaisavoy1020
@junkaisavoy1020 Жыл бұрын
@@KazukiY-n5l 『漢書・地理志』には漢平帝元始二年(西暦2)の人口と戸籍のまとめ数字しか記載されておらず、その他のほとんどは人口史専門家による試算である。前漢のAD 2年の明確な数字の人口:户:12233062、口:59594978。 対照的に、後漢の統計回数と統計数はより詳細である: 漢光武帝建武中元二年(57年)4279634戸21007820人 漢明帝永平十八年(75年)5860573戸34125021人 漢章帝章和二年(88年)7456784戸43356367人 漢和帝元興元年(105年)9237112世帯53256229人 漢安帝延光四年(125年)9647838戸48690789人 漢順帝永和三年(138年)10780000戸53869588人 漢順帝永和五年(140年)9698630戸49150220人 漢順帝建康元年(144年)9946919戸49730550人 漢沖帝永嘉元年(145年)9937680戸49524183人、一説にはこの年は10677401戸、56366856人 漢質帝本初元年(146年)9348227戸47566772人 漢桓帝永寿三年(157年)10677960戸、56486856人 最も率直で単純な数字から見ると、後漢のピーク時代の人口規模は前漢より少ない。しかし、人口史学者は「後漢の実際の人口数は本当に前漢より少ないのか」について深刻な論争があり、王育民教授が土地などの生産要素に基づいて提供した実際の人口は約6500万前後で、つまり、約900万人の豪族隠匿人口が出現した。 (ほとんどの隠匿された人口は度田制が始まってから最も反乱が深刻な青州、徐州、幽州、冀州であるべきであり、これらの地帯は百年後にも黄巾軍反乱の発祥地となった。豪族の土地合併による失地農民の数はこれらの地帯が最も多いに違いない)。 そして後漢の人口分布は実際には前漢よりずっと大きい。中国南方地帯の人口は倍増し、全国の4割にのぼった。人口が500万人を超えるのは、豫、荊、揚、益四州である。荊益両州の人口はいずれも倍増し、揚州の人口も4分の1増加した。南方の人口が増加すると同時に、北方のほとんどの郡国の人口が減少した。 なぜ900万前後の人口推計誤差があるのかというと、主な核心的な原因は前漢後漢の開墾農地の規模、亩当たりの生産量の差が大きすぎることだ。前漢初期に誤って与えられた農業データは、1亩当たりの生産量が1石、後漢の時期になると、非常に奇妙な特高生産量農地の亩産量が現れた:百石、一般的な高生産量農地の亩産量は10石、平均亩産量は3石。農業生産量の増加を実現するには、より精細な耕作を行う必要があり、一方では農業技術の進歩のおかげで、一方では必然的に労働力のより集中が必要である。
@shou-sho
@shou-sho Жыл бұрын
性格がひねくれてるので、こんなに名君推しされたら暗黒面を紹介するしかないですね(笑) 劉秀は己が天に選ばれたと信じているので、人事や裁判も自分が絶対に正しいと思っています。 批判した者はむち打たれるので誰も批判できませんでした。(申屠剛伝) また酷吏を重用し、過酷であればあるほど良しとしたので良民ですら殺害されました。(朱浮・鍾離意伝) よく劉秀は粛清をしなかったので名君、などと言われますがこれも違います。 度田事件では不正を行った太守を十数名まとめて処刑しています。(建武16年) この度田事件の反発で大反乱が発生するのですが、鎮圧するため取った対応がまたエゲつないのです。  「反乱軍の首一つ持ってくれば5人までの罪は不問にする」 よくこれだけ邪悪なことを思いつくものですね(笑) 結論彼は決して聖人君子ではなく戦場でライバルを滅ぼして勝ち抜いた建国者なのです。
@KOUMEI_NO_WANADA
@KOUMEI_NO_WANADA Жыл бұрын
こういう話を聞きたいまである( 勉強することが多くて大変です(笑)
@shou-sho
@shou-sho Жыл бұрын
劉秀は僕の中でも間違いなく名君だし名将です。 ただし上記のエピソードはただ名君と聞いて多くの人がもつ人物像とは違いますね。 歴史は切り取り方で違った姿になるよということで取りあげてみました
@wheel-k9h
@wheel-k9h Жыл бұрын
そうそう、これこれ。こういう話を聞きたかったw
@歳三-g4l
@歳三-g4l Жыл бұрын
自分は、既得権益の排除で反乱が起きることは、予測してたんだろうと考えてます。その上で、反乱者達が二度と纏まれないように、裏切りを唆す計略を仕組んだ。一人を生贄にしてみんな助かったけど、周りの人間は誰も信用出来ない。こういう状況を作り出して、反乱の芽を摘むことは常人には思いつかないですよね。奴隷解放みたいな聖人的思考と、悪魔的な策謀を使う二面性が、光武帝の魅力だと思ってます。
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