Пікірлер
@suzaki7771
@suzaki7771 Күн бұрын
織田にはあんなにへーコラしてた後北条氏が秀吉には反抗的だったのが何でなのか未だにわかりません。 勢力も拡大したしあの頃とは違う! みたいのがあったのですかねえ
@二見裕司-r6t
@二見裕司-r6t Күн бұрын
一の谷のくだりでは、漁師でなくて、猟師ですよね。
@suzaki7771
@suzaki7771 Күн бұрын
畠山家の行く末は全く知りませんでした。 畠山尾州家も能登畠山家も華族にはなれなかったようですね
@焼津まぐ朗
@焼津まぐ朗 2 күн бұрын
世に言う貴族(公家)って五摂家を筆頭とする堂上公家137家(江戸末期)のうち、96家が藤原朝臣を本姓としているんだよね。 更に藤原不比等の次男である房前を祖とする藤原北家が93家とその殆どを占めている。
@焼津まぐ朗
@焼津まぐ朗 2 күн бұрын
某架空歴史小説で正親町帝時代の朝廷の困窮っぷりを説明していた場面からの引用ですが、 正親町帝の即位した頃の朝廷の収入は、応仁・文明の乱以前の1割程度にまで落ち込んでいたとか。 帝の荘園まで横領されるような状況では、官位を売って銭を稼がねばどうにもならなっかったのですよね。
@時間無制限永遠
@時間無制限永遠 2 күн бұрын
➡➡ 9:43 あくまでも・・・建前・・やで。念のため。😬😬😬😬😬😬😬😬
@時間無制限永遠
@時間無制限永遠 2 күн бұрын
➡➡ 9:12 ~ 要するに・・・同じ・・・ニホンザルの子孫の序列化・・・ということやな。😁😁😁😁🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵🐵
@時間無制限永遠
@時間無制限永遠 2 күн бұрын
➡➡ 1:40 ようするに・・・ここやな。‼‼‼‼
@地獄龍-m7q
@地獄龍-m7q 3 күн бұрын
徳川家の内紛(勢力争い)があったのではないかと思います。 家康と信康が対立関係にあったのか? それとも、それぞれの家臣同士が対立関係にあったのか? その辺りはハッキリと分かりませんが、家康の正室は、長男の信康に肩入れしていたのでしょう。ですから、信康と一緒に始末されたのだと推測します。 ※織田信長が切腹を命じた書状は残ってません。 又、織田家の家臣の中で、信康の切腹事件に関することを書き残している家臣はいません。 それ故、江戸時代に書き記された信康の切腹に関することは信憑性書けます。 気の毒なのは、織田信長です。 全て彼が命じたことになってますから、、、。
@yoshiochristianwatanabe1854
@yoshiochristianwatanabe1854 3 күн бұрын
中山家のDNAと竹田恒泰氏のDNAに血縁関係が証明できればすり替えは無かったと言えるから是非証明して欲しい😸
@おだこれもと
@おだこれもと 4 күн бұрын
細川護熙までやるのかと
@ふじいひでつぐ
@ふじいひでつぐ 4 күн бұрын
いまも、つずき、じょうこうへいかに、あの、ごきしょうならば、おなりなさいましか😮もちろん😮😮かげのこいえがしただけ😮
@MrUMA-og4hn
@MrUMA-og4hn 4 күн бұрын
小田厚攻めのとこは違うみたいだがな・・・・・
@noritakaakamatsu9713
@noritakaakamatsu9713 6 күн бұрын
熊本の細川護煕氏の家系は?
@erSeikinTV
@erSeikinTV 7 күн бұрын
受験勉強のサポートとして使ってます、めちゃくちゃわかりやすい
@fuki_rekishi
@fuki_rekishi 6 күн бұрын
そう言っていただけると凄い励みになります!! 受験頑張ってください٩( 'ω' )و
@松本隆憲-z3r
@松本隆憲-z3r 7 күн бұрын
私の年代では、土方歳三は栗塚旭、沖田総司は島田順司ですね。但し、近藤勇は舟橋元が一緒に出ていたけれど影が薄い。
@星-r6n
@星-r6n 8 күн бұрын
要するに跡目相続が原因で始まったのね。
@takashikitasima6828
@takashikitasima6828 8 күн бұрын
観応の遊乱末期の直義は全く主体的に動いている痕跡がないので、亀田先生はこの頃から重病で本当に病死だったのだろうと推測してるね
@満足唯
@満足唯 8 күн бұрын
実家の近所が最期の地と知ってビックリ。こんど里帰りしたらお詣りしてこようかな。日本史を作った一人には違いないし。
@user-lw7hc6pr2w
@user-lw7hc6pr2w 8 күн бұрын
直義は何がしたくて何度も何度も南朝使ってまで再戦を?一回負けたあとずっと引退しとけば世は混乱しなかったのでは
@雷蔵-f3b
@雷蔵-f3b 9 күн бұрын
令和最新の解釈の太平記を大河で見たいな
@mzd787
@mzd787 9 күн бұрын
銀魂で知ったのもあるけど高杉晋作さんにはすごく魅力を感じています。機会があれば萩市にも行ってみたい なんかよくわからないけど高杉さんは日本を守りたいって思って頑張っていたんでしょうねありがとうございます🙂‍↕️
@fuki_rekishi
@fuki_rekishi 9 күн бұрын
ご視聴ありがとうございます!! 萩はいいところですので是非一度行ってみてください!!
@山崎孝行-n8u
@山崎孝行-n8u 9 күн бұрын
細川は管領は落ちたが分家は、熊本藩か……………本家より分家が生き残るね。斯波氏も目立つの分家だね。😔
@COLTM-bm4ge
@COLTM-bm4ge 9 күн бұрын
寅ちゃん😅
@ツッコミ老人
@ツッコミ老人 10 күн бұрын
二宮金次郎を見習って行動する人は立派だが、 「二宮金次郎を見習え」と言う人はクズ。 教育の場に立てるなんてのは後者の典型。
@fugufugu6649
@fugufugu6649 10 күн бұрын
なんだかんだあっても家格が凄いから残るんだよな
@jodasow
@jodasow 10 күн бұрын
西軍総大将に担がれた足利義視も西陣南帝への拝礼を拒み、山名宗全存命中からグダグダだったようですね。
@レイブラッド-h5k
@レイブラッド-h5k 10 күн бұрын
清盛様は重盛さんが亡くなって闇墜ちしたってイメージ
@パワーボム-z9e
@パワーボム-z9e 10 күн бұрын
解りやすい解説勉強になります。解説動画などで俯瞰で室町時代を知ると武家政権の過渡期であることが理解できます。こんなに頻繁に所領の拡大縮小を繰り返していたら現地の人々はたまったもんじゃないですね。一体だれが領主なのか、そうなると現地に根付いている守護代や代官が実権を握るのも当たり前の話。
@ボッキッキ厶ック
@ボッキッキ厶ック 11 күн бұрын
細川藤孝は傍系に養子で入ってよく家を盛りたてたよな。京都らしい。
@直重秋野
@直重秋野 11 күн бұрын
後北条氏の官僚制度は平時なら最良だったと思いますが、お家存亡の危機的状況では家臣の意見を大事にするあまり結論が出ず小田原評定を招いたので、氏政・氏直にとっては盲点だったと思います。
@seisei3797
@seisei3797 11 күн бұрын
これにより、家督は長子ってことになったんだよ
@seisei3797
@seisei3797 11 күн бұрын
5~6百年くらいじゃ  破壊してもよろしい  古都のクラスじゃないからな  東京も ぶっ壊してよい  たったの3~4百年 ぶっ壊せ
@seisei3797
@seisei3797 11 күн бұрын
現代日本は  税金に群がる 阿呆が多すぎて  発展ZERO
@名倉雅-y1q
@名倉雅-y1q 11 күн бұрын
歴史好きだが、この頃の流れは複雑過ぎて···· 頭が混乱する。
@theshowmustgoon5760
@theshowmustgoon5760 11 күн бұрын
某チャンネルで後北条氏を特集していて良く視聴していました。父、弟、息子ともに優秀、有能ながらも歯を食いしばり、関東に覇を唱えた二代目の北条氏綱が地味ながら凄いと思います。氏綱、幻庵兄弟も大河ドラマで放送しても良いですな。
@ykRC211V
@ykRC211V 12 күн бұрын
細川家もなんとか生き延びて、その末裔が総理大臣になるんだからわからん
@見届け人-t6m
@見届け人-t6m 12 күн бұрын
親父を追放して領土拡大したはいいが自身が広げた領土以上のツケを次世代に遺したオッサンですね(笑) 戦略眼は一流だけど先見性は三流以下。 信玄ほどの知名度はないけど坂東常陸の佐竹義重(鬼義重)の方を高く評価していいと思います。 太閤さんの小田原征伐まで後北条や伊達と争って義宣の代で五大将入り。関ケ原で西軍について常陸から出羽(秋田・山形)に転封も戊辰戦争で官軍について華族入りから現代においても秋田県知事を輩出する名家です。 まぁ県知事さんのお茶目は如何ともし難いが佐竹義重のせいには成らんでしょ(笑)
@人間失格-o2x
@人間失格-o2x 12 күн бұрын
ただ、細川管領家分家は大名になった→熊本藩主細川家
@wataken8527
@wataken8527 12 күн бұрын
こんなにワケが解らないのは記録保管所たる京都で焼討ちが繰り返された上(原因が解らなくなった)、記録者の公家や僧侶までが傍観者にすらなれずに地方へ逃亡した(発火と延焼の様子が解らなくなった)から、「戦争があった」としか記録できないせいじゃなかろうか。 応仁記は恨み節か嘆き節の羅列としか読めないし、各人の日記は推測でしかないからね。 責任者に責任が無い(当の責任者に責任感が無い、という意味でもない)上、軍権を握った者がその時の状況で行き当たりばったり行動を採るとこうなるって見本でしかないなぁ。 東山殿(義政公)に政治能力と混乱収拾の意思が無かった訳でもないって研究まで出ているから、ますます混乱する。
@初草原-y1s
@初草原-y1s 12 күн бұрын
渡来は藤原
@lkappsa6575
@lkappsa6575 12 күн бұрын
執事と管領の違いがよく分かってなかったけど、武衛家のプライドのために作ったわけね。
@デラロサデニーロ
@デラロサデニーロ 12 күн бұрын
今度は皇別摂家について解説して欲しいです。
@星-r6n
@星-r6n 12 күн бұрын
すごいハンサムボーイだったんだよね。
@daisuke5755
@daisuke5755 13 күн бұрын
話が浅すぎる。
@りゅうみずき
@りゅうみずき 14 күн бұрын
なんかの間違いで天下をとれちゃったアップグレード版上杉謙信
@Miki_Nanase
@Miki_Nanase 14 күн бұрын
17分でこれだけ過不足なく纏められてるのは素晴らしいです。 最後の管領が細川高国である、と言われてるのが「次期将軍の烏帽子親(加冠役・名付け親)」がこの時期の管領の主な仕事になったからですね。 管領の役割が縮小したのは6代義教期に奉行人制度が整えられ幕政実務から管領家が手を引くことになったからです。
@user.fg2ch1tu0shiri
@user.fg2ch1tu0shiri 14 күн бұрын
足利尊氏にとってラッキーだったのは存命中に武断派(高師直)と文治派(足利直義)の決着がついたところか。
@remiryasentyou
@remiryasentyou 14 күн бұрын
平胸盛って結構苦労人って言うか親と後白河天皇に振り回されてたんやな
@榊井京人
@榊井京人 14 күн бұрын
幕府自体がアレだったので管領とかホントにポっと出落ちで「覚える価値ある?」くらいのモンでしたが、結構辿れるんですねぇ。